Table turning 1
「たすけて……、助けて……ッ!」
喉が張り裂けるほどに上がった自分の声で、少女は目を覚ました。
全身から吹き出ている冷や汗は雨の中を歩いてきたかと見間違うほどで、地面にも足跡のように落ちた水が続いている。
「え?でも私は」
ここはどこなのだろうかと思い、少女は声に出さずまず自分の姿を確認した。
制服姿なのに靴は有らず、かさぶたと傷だらけの素足に、よれた学生カバンを抱えている。
そもそも彼女の最後の記憶は、部活動から帰ってすぐに風呂へ直行して、夕飯も食べずにパジャマ姿でベッドへと潜り込んだところで終わっているのだ。
にも関わらず、彼女の目の前に広がっているのは見知った自室ではない。どこまでも真っ暗な空と、足元だけご丁寧に照らされている細い石畳の道だけである。
「……」
だが少女は自分が記憶違いの格好であることを差し引いても、不思議と立っている今の空間が怖くはなかった。
むしろその逆で、まるで我が家にでも帰るような気分を抱きつつ彼女は前へと歩き出す。
(光が強くなってきてる?)
足元を照らす光は段々と輝きを増し、少女がたどり着いたのは古めかしい木と鉄が組まれた扉であった。
多少のためらいを見せたものの、少女は扉を開いて中を覗き込む。扉の先にあったのは雑貨屋、少しだけ風変わりでホコリの匂いが漂う小さな店だった。
「いらっしゃいませ」
開いた扉の後ろから低い男の声がして、少女は初めて我に返った気がした。
じわりじわりと恐怖がにじみ出てくるような感覚に体が強ばる。
のそりと扉の裏から姿を表した男は彼女をやすやすと見下ろせるほどに大きく、赤黒い髪と瞳がとても威圧的で、少女は息を呑んだ。
しかし目の前の男は強面で凄まじい存在感とは裏腹に、丁寧な動きで店の奥から一足の靴を持ってきてくれた。
「どうぞこれを」
「あ……、りがとう、ございます」
恐る恐る履いた靴はやや大きかった。それでも素足とは比べ物にならないほどマシである。
大きな男は少女を慣れた様子で店の一角にあるテーブル席へと案内をしてから、再び店の奥へと消えていった。
「キミ、裸足でここに来たの?」
「ひゃあっ!?」
真横から突然現れた白髪の青年と彼の持っていた生のクラゲに、少女は驚きのあまり飛び上がった。
「どうしました!?」
少女の声で慌てて戻ってきた大きな男の手には、ホカホカと湯気立つカップが握られており、遠心力に負けた茶色の液体は男の手へ豪快に飛びかかった。
「あっづ!!」
「あらら、ハンスだめじゃないか火傷するよ?」
悪びれもせずに青年が投げかけると、
「いったい誰のせいだと……! それに自分は」
「す、すみません! 私が大きな声を出したから……!」
「いや! 違うんですこれは! 貴方は何も悪くないので!」
少女と大きな男がペコペコとお互いに頭を下げあった。
いつの間にか青年は姿を消していたので、店の奥にでも入ったのだろうか。彼が手に持っていたクラゲは自力で中に浮いており、先ほどから少女の周囲をフワリフワリと彷徨いている。
(浮いてる……、クラゲが……?)
やや間を置いて落ち着きを取り戻した少女は、再び不安から口を閉じた。
こちらの心情を察したのか、大きな男は先ほどぶちまけたものとは違う新しいカップと飲み物を用意してから、静かに対面の席に着いた。
「ココアです。よければどうぞ」
「……はい」
促されるままカップを手にとり、冷ましながら口に流し入れる。
彼が用意してくれたのは、とても甘い優しい味のするココアだった。
「飲みながら聞いてください。自分は高峰透、この店の店主をしています。此処は、訪れ契約を結んだ方の願いを消す店です。そして、願いがなければこの場所に来ることはできません」
「ねがいを、消す……?」
少女は不安感だけでなく、さらに不信感を抱いた。テレビなどで見る、詐欺や霊感商法の特集を思い出したのである。
けれど立ち上がり逃げるに至らなかったのは、目の前の男――高峰――があまりにも真剣な表情で冗談のような話を始めたからだった。
「貴方は魔法使いというものを信じていますか?」
「え? それって、小説とかおとぎ話とか……」
「はい、その魔法使いです」
男は浮き遊んでいるクラゲをテーブルに誘導して、優しく撫でる。
およそ見た目からは想像できない雰囲気のギャップに、少女は思わず口元を緩めた。
「……。子供の頃は信じてました、魔法少女とか大好きでしたから」
いったいなぜこんな場所で、見ず知らずの大男と他愛もない会話をしているんだろうか。少女は顔の中心に熱を感じて、ごまかすように手をかけていたカップを焦り気味に傾ける。
あまりの熱さに舌を火傷するかと思いきや、ココアはちょうど良い熱さへと変化していた。数秒前まで冷まさなければ飲めなかったはずなのに、である。
「自分は、魔法使いです」
「は?」
思わず少女は素で言葉を返した。
それに対して高峰は何も言わず、店のカウンターから一枚の紙とペンを持って帰ってくる。
「どんな姿であれ店に来たということは、貴方は自分の客人です。つまり、貴方には消したい願いがあるはず」
「あの、願いっていうのは、……その、叶えるものではないんですか?」
「ええたしかに。願いとは常に無意識と自我に寄り添う、強い欲。すなわち願う者の心の核そのものです」
「じゃあそれを消すっていうのは……」
「それは――おや、今回はここまでのようです」
男の言葉が言い終わるやいなや、少女は強烈な眠気に襲われた。
まさか飲み物に薬でも混ぜられたのかとも思ったが、意識はそこでプッツリと途切れてしまう。