砕
藤崎綾香
「これからどうするつもりだい?」
松戸の声には優しさが含まれているような気がした。もちろん、私の気のせいだろうけれど。
「今の優介は人形としか認識されない。人形はどうあっても『東京』の狩りの対象になってしまう。だけど、誰が何と言おうと私以外がケリをつけるのは認めたくない。あんたにも、これだけは口を出してほしくない」
松戸は溜め息を吐いたらしかった。やはり、呆れられてしまった。
「別に言わないよ。僕たちに迷惑をかけなければ構わない」
「そう」
外はどしゃぶりの雨が降っている。
「ところで、瀬名陽子が姿を消したというのはもう聞いた?」
「そうか」
彼女に対して、私は何もできなかった。それは、残念だ。可愛らしい人だった。
「聞いてないみたいだね。あの子のことはなんて言えばいいかな、タイミングが悪かったね」
「タイミングの問題じゃない。違うでしょう」
松戸にしては珍しく、微妙な言い回しをする。タイミングなんて、そんな簡単な話じゃなかったはずだ。
「不適合者。彼女がそう呼ばれたのは覚えてるよね。君も身を持って理解させられただろうけど、彼女は人間じゃない。もちろん、人形でもない。霊長を一蹴したってね。君たちが束になってかかっても相手にならない敵を一蹴。それがどういうことを示しているか、ちょっと考えればわかるよね。彼女はね、元々霊長なんだよ。本人にその自覚はなかったけどね」
「……そうか。彼女は、私たちに守られるような存在じゃなかったってことか」
グラスに残ったウイスキーをあおる。喉の奥が焼けつくような感覚。目を閉じて、息を吐く。別に何かを考えているわけじゃない。何かが気に食わないわけでもない。ただなんとなく、悲しいような空しいような、そんな気持ちになっていただけだと思う。
「ねえ、綾香ちゃん。僕はね、力を持っているからって、その人が常に守る側にいなくちゃいけないってことはないと思うよ。だってね、そうじゃないと誰にも寄り掛かれない人が出てきちゃうじゃない。それは、不幸なことだからさ」
「……私に言ってるの?」
彼は答えずに曖昧な笑みを浮かべグラスを磨いている。
松戸以外に誰もいないのをいいことに、私はカウンターに突っ伏した。
入口の横にある窓に目をやる。たまに、傘をさした人が通り過ぎていく。人の多いこの街で、私は人を傷つけ、傷つけられ、悲しみを誰かにぶつけることが出来ず、ただ涙が出てくる。
涙は頬をつたい、カウンターに滴を残す。
優介は私を離れてどこかへ行ってしまった。
私は優介の体を借りたまま独りぼっちになってしまった。
これからどうすればいいのだろう。
優介は今どこにいるのだろう。何をしているのだろう。優介を見つけた時、何を話せばいいのだろう。
雨は、いつになれば止むのだろう。
優介に、ずっとずっと会いたかった。それがあんな形になってしまったのは、どうしてなんだろう。何が悪かったというのだろう。
「私が悪かったのかな」
呟いた言葉に返される答えはなく、ちょっと待ってみても返される言葉はなく。
「ねえ、私が悪かったの?」
多分松戸は私の後ろにいて、当然笑うでもなく恐らく困ることもなく、ただ変わらずグラスを拭いているのだろう。
「……答えてよ」
「強いて言えば運が悪かった」
「そんな慰めはいらない」
後ろで溜め息と、グラスをカウンターに置く音が聞こえた。
「……わかったよ。綾香ちゃん、全部君が悪い。今こういうことになったのは、全部君のせいだ」
「ありがと」
答えたらまた勢い良く涙が出てきた。
もう何も考えられない。後から後から涙は溢れてきて、とうとう嗚咽が漏れ始める。
肩に、松戸の手が置かれた。
私のせいで優介は離れてしまった。
どうしてこんなことになったんだろう。
私はただただ泣き続けた。
目が覚めた。
なんだか頭が痛いような。
「ああ、私寝ちゃったのか」
私はパスティスのカウンターで散々泣いたあげく寝てしまったようだった。
見れば松戸のものかわからないが、ファーのついたダウンジャケットを掛けられていた。
「起きたかい?」
私の声に気付いた松戸が奥から出てきた。
「ごめん、迷惑かけて」
心の底から申し訳ないと思って頭を下げると、松戸は少し驚いた表情を浮かべた後、すぐに笑った。
「なに、こっちは真剣に謝ってるのに」
「いや、そうだね。笑ってごめんよ。ただね」
松戸は言葉を切って目を逸らした。
「謝るなんて今更でしょう? 泣き場所くらい、いくらでも用意してあげるよ」
改めて泣き場所と言われ、私はそれ以上言い返せずに黙ってしまう。恥ずかしいことをした、という気持ちはある。同時に松戸が照れるなんて珍しいものを見たという気もした。
「あ、ちょっと待ってて」
松戸はそう言うとまた奥に姿を消した。
腕時計を見ると時刻は午前五時。もう電車は動いているはずだ。
カウンターに放り出してあった煙草を手に取り、火を点ける。
煙はゆらゆらと踊り、吸い込んだ煙草の味に、少し目が冴えた。
「お待たせ」
奥から姿を現した松戸はデミタスカップを持っていた。
それは私の目の前に置かれ、特有の香りが立ち上ってくる。松戸はカウンターの下の方から砂糖とスプーンを出してくれた。
「エスプレッソ?」
「そう、瀬名さんが珈琲詳しかったみたいでね。僕も以前から興味持ってたからさ、買っちゃった。教えてもらう間もなかったよ。ま、表メニューにするつもりはないけどね」
「そっか」
砂糖をたっぷりスプーン二杯ほど入れて、ぐるぐるかき混ぜ、一気に流し込む。
「お、通だね」
松戸がおどけて言う。
「違うよ、元々優介が詳しかったんだよ」
私も自然と笑って言うことができた。と思う。
「手は大丈夫そうだね」
松戸が見ているのはカップを持っている右手ではなく、義手になった左手だった。
私は答えずに手を開き、閉じ。その様子を見て松戸は小さく頷いた。
「『東京』は今後君に関知しない」
「わかった」
当然の処置だと思った。
「ただし、僕個人としては援助は惜しまない」
「え?」
「綾香ちゃんには『東京』を離れて、独自の目的のために動く部隊に入ってもらう」
「そんなのがあったのか?」
松戸とはもうそれなりに長い付き合いをしていたつもりだったし、「東京」についてはある程度把握しているつもりだったが、聞いたことがない。
「メンバーはまだ君しかいないけど」
私は口を開けて、呆気に取られて松戸を見た。
「問題ないね?」
面白がっているだけなのか、優しいのか、判断はつかないがどっちでもいいと思った。
「ありがとう」
「ふふん。ああ、まだ名前を決めていないんだけど、何か希望はあるかな?」
「そうか、なら……」
私の今の気持ちをずっと忘れないために。
「『砕』。砕くと書いて、『砕』」
「ふーん、なんで?」
「私は、優介と引き裂かれてしまった。今はただそれが憎くて憎くて仕方ない。だから、あの霊長には倍返しじゃ済まない。どこにいようが必ず見つけて、容赦なく打ち砕いてやる。殺し尽くしてやる」
「それはそれは、単純明快なネーミングだね。でもまあ、こういうことは単純な方がいいのかもしれないね」
椅子から立ち上がり、壁にかけてある自分のコートを手に取る。
「行くかい?」
「行くよ」
ドアを開ける。
雨は夜のうちに上がったようだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
この長さの物語を書いたのは初めての経験でした。
読み辛いところ、納得いかないところ等々、
沢山あったと思いますが、それにも関わらず
後書きを読んで下さっているのだとすれば、
なおのこと感謝です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。