人間以外たち
瀬名陽子
松戸さんに今後の話を聞くために身支度を整えて家を出て、電車を乗り継ぎパスティスへの道を歩いていた。
理由もわからないまま人間以外に狙われている現状。しかし藤崎が安全だというマンションにも引っ越したことだし、当面の安全は確保されたのだろうとのん気に考えていた。
それが、実際はどうだろう。
「ええっと、一つ確認したいんだけど、こんな真昼間に襲うなんてアリ?」
「誰か、昼間は安全だって言ったかい?」
私の目の前にはつい先日遭遇した人間以外が満面の笑みを浮かべて立ち塞がっていた。
「……誰にも言われてないけどさ」
「そう、単に君の考えが足りないだけ」
黙れと鼻息荒く言い放ちたいところではある。が、そんなこと言えるわけもない。こうなってしまった以上、いちいち指摘されるまでもなく私が甘かったに違いない。昼間は安全だと思い込んでいたのが間違いだった……これ、悪夢だと思いたいな。
「ほら、襲われるなら夜って相場が決まってるじゃない」
「生憎と誰かに作られたルールにしたがって動いてるわけじゃないからね」
ああ言えばこう言う。まあ、確かに人間以外が私たちの都合に従うなんて塵ほどにも思わないけど。
「で、御用件は? 私急いでるんだけどさ」
可能な限り平静を装いながら、どうしたらこの状況から逃げられるか考える。考えるしかない。私一人ではどうしようもないかもしれないけど。このままでは、間違いなくひどいことになる。
奴を睨みつけながら、じりじりと後ろに下がる。いつでも駆け出せるように体重を後ろに落としながら。
「そうだね。急いでるところ申し訳ないんだけど、とても大切な用事でね。君を迎えにきたんだ」
「私を迎えに? あいにくだけど、あんたに連れられてどこかに行く気はないわ」
「君は人間の中にいるべき存在じゃないんだよ」
私の言葉を無視して間髪入れずに答え、奴は笑っていた。当然の答えを前にして、そんなこともわからないのか、と嘲笑うように。顔が綺麗な分、本当に質が悪いと思う。きっと、こいつは女を騙す類いの男だ。
「人間世界以外のどこにいろってのよ」
こんな話でも時間稼ぎになるならいくらでも長引かせたいところだけど、時間を稼いだところで助けがくるのかわからない。テレパシーでも使えたらいいのに。ああもう、こういうときに限って藤崎は何をしてるんだ。これじゃ引越しなんて何の意味もないじゃないか。
「霊長の世界、かな」
私は思わず笑ってしまった。言うに事欠いて霊長の世界だなんて。そんなところに私の居場所があるわけない。
「残念だけど、君がどう思っているかは全く関係ない」
「こっちの都合も考えずそんなこと言う奴に、ついて行くわけがないでしょう。だいたい、私は人間なの。なんで人間が人間以外と一緒にいなきゃいけないの」
私の言葉を聞いて、霊長は笑みを深くした。だが表層の皮膚の動きとしては笑っていても、その奥にある目は笑っていない。あれは、笑ったふりをしているだけだ。愉快なことなんて、欠片もない。
「考えないようにしているのかもしれないけどね。あんなことをしておいてさ」
霊長は一旦そこで言葉を区切った。何を言うつもりかはわからなかったけれど不意に、その先の言葉を聞いてはいけない気がした。
そして、霊長は笑顔を捨て去った。
「瀬名陽子。まさか、まだ自分が人間だとか思ってる?」
その言葉は問答無用で深く、深く深く深く突き刺さった。
私はあれからずっと、何も考えないようにしていた。
その言葉について、はいそうですかと簡単に認めるわけにはいかない。
私はいたって普通の人間。ずっとそう思って過ごしてきた。
実際、今まで何も特別な事はなかった。
普通に進学して普通に恋愛をして、普通に内定をもらった。会社は過酷な労働環境だったが、一見そのあたりにある、普通の企業だった。
そんな私が、普通の人間であるわけがないと言われたって、理解できるわけがない。認められない。そう、認められない。認めるわけにはいかない。私は藤崎や松戸さんに守ってもらって、また普通の生活に戻るのだから。
だから、私はその想いを喉の奥から絞り出した。
「私は、ただの人間よ。いたって普通の」
「……強情だね。今までがどうだったかは知らないけど、これからも同じでいられるなんてないよ」
彼は一言一言を私に言い聞かせるようゆっくり区切って通告すると、ひたひたと近付いてくる。その声色に僅かに人間くさい苛立ちが含まれているように感じたのは、気のせいだろうか。
一刻も早くここから逃げなくてはいけないと思いながら、私は脚を動かすことができなかった。彼の瞳に魅入られたかのように目を逸らすこともできず、ただただ接近を許している。拒むことなんて出来ない。
と、そのとき不意に私を見ていた霊長の意識が脇に逸れた。私もつられてその視線の先、私の後方に振り返る。と、
「そんな簡単に、やらせるかっ!」
力強い声と共に、誰かが私の脇をすり抜け霊長に向かって行く。
「くらいやがれ!」
学生服の青年が右手を霊長に突き出すと、その掌につららのように尖った形状の氷が生まれた。彼は勢いそのまま霊長の顔面めがけて冷たい凶器を伸ばす。
青年の攻撃は霊長の顔に突き刺さるかと思われたが、氷の槍は霊長が眼前にかざした左手に阻まれると同時、触れた先から真っ二つにされた。
「くっ!」
青年が声を漏らす。彼は伸ばしていた右腕が伸びきる前に自分の方へと引き戻すと、左足で強く地面を蹴りつけて前方への勢いを殺し、大きく後ろに距離をとった。
突然の乱入者にも霊長は表情を変えることなく涼しい顔をしている。
「なんだい、君は」
学生服の青年は質問に答えることなく後手に私をかばい、じりじりと後退する。
「大丈夫か?」
「え? ええ……あなたは?」
突然出てこられても正直なところ私の方が反応しきれない。霊長から庇ってくれているあたり、「東京」の関係者だろうか。
「松戸から頼まれた。今はとにかくあんたを逃す!」
彼は私を振り返りもせず霊長を睨み付けている。
それは可能なことだろうか。彼には悪いのだが、彼一人が来てくれたところで目の前の凶悪な現実をどうにかできるようにはとても思えない。
「僕の質問に答えてほしいんだけどね」
油断こそしていないようだけど、霊長にはずいぶん余裕があるように見える。対して私を庇ってくれている男の子には余裕が全く感じられない。
よくわからないけど、さっきの攻撃は気合の入った一撃のように見えた。それをあっさり防がれたのだから、まず間違いなく実力差があるのだろう。
「逃すったって、どうやって?」
青年は黙って霊長を睨みつけたままだ。
「……特に考えなし?」
「黙ってろ」
……ああ、これはきっと考えなしだこの男の子。
どうやら、残念ながら状況はまだまだ変化なしのようだ。
私と霊長の間に男の子を挟んではいるが、それは奴が私にたどり着くまでの所要時間が多少増える程度の問題で、私が助かる可能性は今のところほとんど増えていない。おまけに、助かるとしても代わりにこの子が死ぬのであればその後の私の人生は間違いなく暗い。
「助けに来てくれたのはいいけど、その代わりにあなたが死ぬのは嫌」
「だから黙ってろって!」
……怒鳴ることないでしょう。
状況が大して好転していないのにも関わらず、彼が来てくれたことをちょっとは心強く思った。ただ、そのおかげで先ほどまでの緊張が切れてしまっていた。
どんな手品で攻撃を防いだのかわからないが、不意でもつかない限りきっと霊長の相手はできない。
私と青年が無意味な話をしている間にも霊長は距離を詰めてくる。
「邪魔だから」
その声が聞こえたとき、ゆっくりと近付いてきていたはずの霊長はいつの間にか私たちの目の前に立ち、左腕を青年の頭上に振り上げていた。
青年は驚きに目を見開き、まだ何の反応も見せない。
彼を傷付けようと振り下ろされる左腕が、やけに遅く見えた。
「――甘い」
しかしそれも予定のうちだったのか、いつの間にか右方から突進してきた長身の男が声とともに霊長の左腕を鋭く払う。
視界に赤い飛沫と「腕」がとぶ。
それを私が頭で理解するより早く、男の子は右手をアスファルトにつけ、地から生えてきた何本もの氷の槍が至近距離で霊長に放たれる。
先ほどは余裕で攻撃を防いだ霊長も不意の連撃には対応ができなかった。顔面に迫る槍をよけると同時に後退したものの、両脚と腹部を槍に貫かれ地に赤いものを流れさせている。
「おせえんだよ葉山」
長身の男に文句を言う男の子だったが、その口調とは裏腹に笑顔を見せ、響きにはどこか安心と喜びが混じっているようだった。どうやら背の高い男の人は葉山さんというらしい。
「生憎とお前ほど足が速いわけでもないからな。まあ、間に合ったのだから文句を言うな」
葉山さんは男の子に向かってなだめるような言葉をかけると、次いで私に振り向いた。
「瀬名さんですね? ここは私たちに任せ、一刻も早くパスティスに向かって下さい」
「……あなたたちは?」
「『東京』の者です。あなたを守るよう頼まれています」
彼はそれだけ言うと、再び霊長の方に向き直った。
「ヤロウ……」
そのやり取りの後に男の子から漏れた声は、苦々しい響きに満ちていた。
それもそのはず、たった今血をまき散らしかなりのダメージを受けたはずの霊長の身体には傷一つなく、葉山さんに吹き飛ばされた腕も何事もなかったかのようにそこにあった。
「痛かったよ」
微笑すら浮かべている。よく笑う奴だ、気持ち悪い。残念ながら、ちっとも痛かったように見えない。
霊長は感覚を確認するかのように腕をぐるぐると回している。
血が見えたときには希望を持ってしまったのだけど、こうまで何もなかったようにされてはどうしても勝目があるようには思えない。
「君たちはさあ、ちょっと面倒だ」
その台詞が聞こえた瞬間、なんだかとんでもなく悪いことが起きるような気がした。
奴はゆっくりと右腕を振り上げる。
悪い予感というのはだいたい当たる。それは「東京」の二人も同じだったようで、霊長が腕を振り下ろす寸前、それぞれが大きく左右に飛び退いていた。
つい今の今まで二人がいた空間が、一瞬裂けたように思えた。
目の前で起こったのは、見たことも考えたこともないこと。
おそらく、その切断面には何もなかった。
白でも黒でもない。ただ何の認識もできない箇所が目の前に現れ、瞬きする間もなく消えた。
「おいおい、あんなんどうやって防げばいいんだよ」
「受け止めることは不可能だ。逃げ回るしかない」
「マジありえねえよ!」
私を助けに来てくれた二人は怯えこそしていないものの、人間には認識することもできない種類の攻撃に動揺を隠しきれない。これが霊長と人間の差なのだとしたら、誰が来たとしても奴に勝つことはできない。
「人間がね、霊長に勝てるなんて思っちゃいけない。そんな簡単に物事が進むわけがないんだからね」
絶対の自信から繰り出される攻撃。
今度は何も見えなかった。
「ああぁああっ!」
再び飛び退いた男の子が、右脚からおびただしい量の血液をアスファルトにぶちまけてもがいていた。
「陸!」
「自分の心配をしたら?」
「く……」
霊長に格下扱いの言葉を投げつけられても、葉山さんは迂闊に動くことができず睨み付けるだけ。
……圧倒されてる。
腕を吹き飛ばしてもなかったことにされ、防ぐことができない攻撃を仕掛けられる。
そんなのに人が敵うわけがない。
「ちくしょう……」
陸と呼ばれた男の子は地に這い、恨みがましい声をもらしている。
しかし、苦痛に顔を歪めながらも切断面を凍結することでそれ以上の出血を防いでいた。
「そうだ……せっかくだからちょっと実験してみよう」
霊長はそう呟くとぱんぱんと、手を打ち鳴らした。その音が合図だったのか、空から一人の青年が降ってくる。
今までどこに隠れていたのか、言葉もなく霊長の隣に跪いた青年。彼は私と同じくらいの年齢で、霊長と同じように全身黒一色の格好だった。一般的な女の子より細いんじゃないかと思えるくらいに細身であり、脚が長い。街を歩いていればモデルかと思うようなスタイルだ。
一見なんら私たちと変わりがないように見えるがこの状況、やはり彼も人間以外なのだろう。
「ここに来て援軍か……」
「何言ってるんだい? こんなに差があるのに僕に援軍なんて必要ないじゃない。お遊びだよ」
冗談じゃない。私たちは、お遊びでいたぶられるのを良しとすることなんてできない。ただ、私がどれだけ憤ったところで何かできるはずもなく、葉山さんも陸くんも身動きひとつとれない。
「これはねえ、特別性なんだ。すごいんだよ、僕の力を大量に受けても器が壊れなかった。もっとも、中身は完全になくなっちゃって空っぽだけどね。それでも君たちの相手をするには十分なんじゃないかな。健闘してみせてよ」
霊長が葉山さんを指差すと、脇に控えた人形がすっと立ち上がった。俯いていてよく見えなかった顔がこちらに向けられる。
鼻筋が通っていて切れ長の目が特徴的だが、完全な無表情だ。
「人形如きでどうにかできると思うな」
葉山さんは人形に向けて改めて構えをとる。その姿には先ほどまでとは違い、素人目に見てもどっしりとした安定感と同時に研ぎ澄まされた緊張感を感じる。霊長ではなく、人形という相手を得たことで多少なりとも落ち着きを取り戻したのだろうか。
人形は人形で、特に構えるでもなく無表情のまますたすたと葉山さんに近付いていく。
先に仕掛けたのは葉山さんだった。
人形に向かって大きく踏み込み、顔面目掛けて掌を突き出す。
対して人形はそれに組合おうと手を伸ばす。が、それはかなわなかった。
葉山さんの掌底が人形の左腕に触れた瞬間、何かの爆発を超至近距離で受けたように人形の腕が爆ぜた。肉と赤が周囲に散る。
それでも人形は痛覚が麻痺させられているのか眉一つ動かさず、次々と繰り出される葉山さんの攻撃を的確にかわしていく。
しかも目を疑うべきは葉山さんの攻撃を受けて砕けたはずの左腕。派手に血をまき散らしていたのに既に出血が止まり、攻撃など初めからなかったかのような傷一つない綺麗な左腕を使って葉山さんの突きをさばいていく。
しかしそれは葉山さんにとっては想定していた範囲内の攻防であったようで、特に苛立ちも焦りも見せず淡々と追撃を続けているように見えた。
「やるな」
葉山さんが呟き、人形はタイミングを合わせて葉山さんの腕を大きく弾く。衝撃で葉山さんの態勢が僅かに崩れ、そこに生まれた隙をつき攻守が入れ替わる。
人形は怒涛の勢いで葉山さんに手刀を叩き込んでいくが、そこは先程の攻防を繰り返し見せられているようで、やはり人形の攻撃も葉山さんに当たることはなく避けられている。
やがて二人は同時に大きく後方に距離を取り、睨みあった。
「なかなかはしこい奴だ」
人形とは言ってもその力には差があるのだろう。葉山さんに最初ほどの余裕は感じられない。
つまりは、そういうことなのかと私は理解した。葉山さんの力は眼前の人形と比べて圧倒的な優劣はないのだ。
さらに言えば、陸くんは脚を負傷していて十分に戦えるような状態にない。
「なんだ、その程度なの。がっかりしたな」
後ろから見ていた霊長は、オモチャに飽きたかのように、さもつまらなさそうに言い放った。
「もう殺していい」
その言葉を合図として、人形の猛攻が始まった。
「なんだと?」
先ほどまでとは違い、葉山さんの声には明らかな焦りが含まれていた。
拮抗していた二人の戦いはあっという間に劣勢に傾いていく。
人形の繰り出す暴風のような連撃に、葉山さんは防戦一方になっていた。
「あのヤロウ……」
私のすぐ側に近付いてきていた陸くんは二人の攻防を苦々しく見ている。
「大丈夫?」
「あ? あんたは俺らより自分の心配をしろ。なんとかして逃げ出さねえとここで終いだぞ」
確かに言うとおりかもしれないけれど、痛々しい姿を目の前にして平然とはしていられない。
陸くんは葉山さんと組合っている人形に攻撃を仕掛けるタイミングを計っているようだが、あれだけ近距離で殴り合っているところに割っていくのは難しいようだ。
まだ大きな怪我こそ負っていないようだけど、葉山さんはところどころに裂傷を負っていた。
「ヤロウ……確かにただの人形じゃねえな」
「あれがめちゃくちゃ強いってこと?」
「強い。けど、単にそういう意味じゃねえ。あの人形は両手に仕掛けがあるな」
両手に仕掛け……? 彼の言っている意味がよくわからないが、闘いを続けている二人の様子を伺う。
「……あれ? もしかして葉山さんは右手しか使ってないの?」
私が理解できていないだけかもしれないが、葉山さんが相手の手を使った攻撃を弾いているのは右手だけだった。それ以外はなんとか躱しているようだけど、どう見ても不利だ。
「使えねえんだよ。俺だってそうだ、そんな都合よくできちゃいない」
「……あなたが氷を出せるのは右手限定ってこと?」
「あー、ちょっと違うけどまあそんな感じだ」
だからあんなやり辛そうに戦ってるのか。
「葉山だからまだ持ってんだ。俺だったらあっさりやられてる」
そんなこと言われても……仮に葉山さんが倒されたとして、その時は私たちの終わりだ。それをただ待っているだけしかできないの?
「……もうそろそろ時間なんだけどね?」
霊長の言葉は誰に向けられたものか。
それを理解しないうちに、人が走ってくる音と聞き覚えのある声がした。
「葉山さん!」
駆けつけてきたのは藤崎と、見知らぬ青年。
彼らは霊長と人形を確認すると、闘い続ける葉山さんと人形の間にあっさりと割り込んだ。葉山さんは計ったかのようにタイミングを合わせ、すっと後退する。
藤崎たちの力がどの程度なのか私にはわからないが、やはり二対一。手数で圧倒していく。
「吹き飛べ!」
藤崎の振るった力に押され、人形は霊長の隣まで後退した。
特に大きなダメージは受けていないかもしれないが、二人が来てくれたことで数の上では四対二。
これなら、なんとかなるかもしれない。