パスティス(二)
「私としては君を保護したいと考えてる。もちろん君の意思は考慮するが、残念ながら現状他に選択肢はないと思う」
「あんな人間以外と関わって……どうしようもないよ」
彼女は頭を抱えて俯いた。無理もないことだとは思うが、特にかける言葉はない。
私は新しい煙草を取り出して火をつけた。煙がゆらゆらと昇っていく。その様子をぼんやりと眺めていると、松戸が近付いてきて黙って灰皿を取り替えた。
「……私は、どうしたらいいの?」
「この前の霊長がこの世から消えるか、もしくは君への注意をなくすか。それがいつになるかわからないが、それまで『東京』が君を守る。だがそのためには、今までの生活を捨ててもらう必要がある。失うものは多いだろうが命を捨てるよりはいいだろう」
瀬名陽子は顔を上げ、視線で続きを促した。
「具体的な対策としては今の仕事を辞めて、住まいもこちらで指定した先へ移ってもらう」
「……そんな簡単に言われても、仕事もなしに生活していけるような貯金はないよ」
「それについてもこちらで不自由のないように保護をする。もちろん狙われている以上、いつでも自由に外出という訳にはいかないが、君を閉じ込めるようなこともしない。まあ、働かざるもの食うべからずで、こちらからも色々とお願いもすることになるわけだが……松戸」
声を掛けると、カウンター奥でノートパソコンを見ていた松戸が頷いた。彼はゆっくりこちらに歩み寄ると、瀬名の正面に立って軽く頭を下げる。
「え……なに、どういうこと?」
彼女は松戸を呼び寄せた意図がわからず困惑して私たちの顔を見比べている。
「驚くのも無理はないが、こう見えて松戸は『東京』の関係者だ」
「どうも、陽子ちゃん。そういう訳だから、改めてよろしくね」
そう言って笑顔を浮かべる松戸に対して瀬名は呆然としている。
まあ、日頃から通っているバーのマスターが、実は訳の分らない組織の一員でした。なんて言われても普通は信じられないだろう。
「グラス、なくなりそうだけど次はどうする?」
一方松戸はしてやったりの表情で機嫌良く瀬名に問いかける。
今の今まで深刻にしていた人間にかける言葉としてはどうかと思うが、こういった砕けた態度は松戸だからこそできることでもある。少なくとも私にはできない。
「……そういう訳だから、じゃないですよ」
瀬名はグラスに残っていた液体を流し込み、口を尖らせて恨みがましく言った。
「アラスカ、グリーンで」
酒は頼むのか。
というかその注文は酔う気か。やけ酒はやめてほしいところだが。
全く、彼女はタフなところがある。
了解、と苦笑しながらカクテルグラスを棚から取り出して氷を選ぶ松戸を横目に、瀬名に説明を続ける。
「君には松戸の下についてもらう。とは言っても、別にバーテンダーになってもらう訳じゃない。この店は半分松戸の趣味のようなもので、彼の本業は別にある。詳しい仕事内容については松戸からまた説明してもらうが、まず優先するべきは住居の問題からだ」
「ちょっと待って」
「なんだ」
松戸がシェイクする音が小気味よく店内に響く。
「バーテンダーやってみたい」
「は?」
今度は私が驚かされた。
シェイカーをふり終えた松戸が、瀬名の前に置かれたコリンズグラスを下げ、カクテルグラスを置く。シェイカーから注がれる美しい緑色の液体。
「グリーンアラスカ、お待たせしました。陽子ちゃん、僕の指導は厳しいよー。そんな思いつきくらいの気持ちじゃあ弟子はとれないね」
「いえ、ずっと前から興味あったんです。どうせならこの際そっちもやる!」
逞しいね本当、ちょっと羨ましいくらいに。私には無理だ。
「それは後で相談してくれ。話を戻していいか、住居についてだ。早速だが明日の午後、引越しをしてもらう」
「明日? それは早すぎるよ、少なくとも二週間はみないと。会社だって色々と手続きがあるし」
「悪いが、希望は聞けない。君の命に関わることだから」
「いや、そう言われても……人足りなくて普段から休めてないし、辞めたいって言ったって辞めさせてくれない会社だし」
そう言って溜め息を吐く彼女は、なんだか先ほど霊長について話していた時よりも深刻さが増しているような気がする。
「……大変なんだな」
同情の言葉を告げるべきかと思うくらいには、沁み入る嘆きだった。
「そうなのよ……過労で倒れた人も何人かいるし」
単なる愚痴になっているような。
「まあ、そういう会社都合も無視だ。私たちの方から話は通しておくから、取りあえず会社のことは置いてくれ」
「……なんで話なんて通せるの? 何の関係もないでしょ」
「通常はね。だが緊急時は別だ。そういう場合、『東京』は話を通すための力を持っている。信用できないかもしれないが、ここは私と松戸を信じてくれ。決して悪いようにはしないから」
命より大切な仕事でも立場でもないだろう、という言葉は口に出さずに飲み込んだ。
瀬名は一旦私から視線を外し、問いかけるように松戸を見た。彼はその意味を読み取って大きく頷いた。
「わかったわ。あんたはともかく、松戸さんはそう短い付き合いでもないし。ここで忠告を無視してまたあいつらに襲われても嫌だしね」
「そう言ってもらえると助かるよ」
今はまだ納得も信用もいらない。ただ、あいつらから少しでも彼女を遠ざけることができればそれでいい。
「これからよろしく頼む」
私が差し出した手を瀬名は一瞬きょとんとして見つめたが、すぐに笑顔を浮かべて握り返してくれた。
「こちらこそ」
改めて見ると、本当に綺麗な人だ。私でも見惚れる。
「さ、じゃあ話もまとまったみたいだし。藤崎、次は何にする?」
ダスターでカウンターを拭きながら松戸が次を促した。
「ああ……任せるよ。カクテルで、すっきりだけど軽過ぎないやつでお願い」
松戸はバックバーを見てちょっと考えていたが、よし、と呟いてカクテルグラスを手に取る。
「ところで、ちょっと今のうちに聞いておきたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「私、あんたのフルネームをまだ聞いてないんだけど」
ああ、そういえば。言ってなかった。
「藤崎……綾香」
「あや、か……?」
ほとんどの場合こういった種類の反応が返ってくるから、私はあまりフルネームを言いたくなかった。
「あなた、男だよね?」
「悪いが、女だ。その辺りについては、あまり突っ込まないでくれるとありがたい」
彼女は不思議そうな顔をしていたが、そっか、とだけ言うとグラスに口をつけた。
「聞かないのか?」
「んー? 聞いてほしくないんでしょ」
「ありがとう」
「……あ、だからか」
「ん?」
「昨日、私が女に手を出すことはない、って言ったでしょ」
「ああ、言ったよ」
「納得した」
「そうか」
お待たせー、と言って松戸が私の前のロックグラスを脇にどけ、カクテルグラスをコースターの上に置く。シェイカーから注がれるのは、透き通った青みを持った液体。
「ガルフストリーム。多分、気に入ってくれると思うよ」
取りあえず直近についての話はまとまった。
私一人では難しくとも、東京という組織を持ってすれば彼女を守ることも可能だろう。
おそらく明日以降、状況は大きく動くことになる。まずは守りを固め、然るべき対応をする。
だが、その前に。
「ところで瀬名。どうしても聞いておきたいことが一つあるんだが、いいか」
「なによ」
「そのパーカー、どこのブランドか教えてくれる?」
まあ、ずっと気になっていたんだ。