パスティス(一)
藤崎綾香
「しかし悪いね、稼ぎ時の土曜なのに」
カウンター越しにグラスを磨く松戸に謝る。
松戸とはもう五年以上の付き合いになる。基本的に他の客がいるときには必要以上に会話はしないので、こうして彼が入れてくれた酒を飲みながら話すことは滅多にない。
「別にいいよ。常連さんにはメール入れておいたし、これでご飯食べてるわけでもないし」
松戸は穏やかな笑みを浮かべて、今度はバックバーのボトルを上段から一本ずつ取り出して磨いていく。
「ゆっくり掃除もできるしね」
「他の客がいないときのここは最高」
「他のお客さんがいるときだって話しかけてくれていいんだよ」
「こっちが気になるんだよ」
彼は苦笑してそっか、と呟くとすっきりとした棚の埃をダスターでふき取り、ボトルを一つ一つゆっくりと戻し始めた。
「あんたも何か飲みなよ、ちゃんとお金払うから」
「お、いいね。じゃあせっかくだからね、遠慮なくいただこうかな」
「あんまり高いのは勘弁してよ」
松戸ももちろんお酒が好きだ。しかもとんでもなく強い。普段もよく客からおごられているのを見るが、どれだけ飲まされても酔っ払っている姿を見たことがない。
色とりどりのボトルを眺めていた松戸だったが、やがて「やっぱりこれかな」と言ってウイスキーのボトルを手に取った。
「好きだね、それ」
まあねー、と言って足元から取り出したショットグラスに琥珀色の液体を注ぐ。彼が選んだのはアードベックという、強烈な個性を持つシングルモルトウイスキーだ。かなり特徴的な香りを持ち、よく保健室の匂いに例えられる。ちなみに私は苦手だ。どこがおいしいのか理解できない。
「じゃあ、いただきます」
「ん、乾杯」
軽くグラスを合わせる。こんなにリラックスしているのは随分と久しぶりな気がする。
ちびちびと飲んできたが、もうすぐ一杯目を飲み終えてしまいそうだ。
次は何にしようかな、と考えているとドアを開けてグレーのロングパーカーを羽織った女性が入ってきた。
彼女は私の隣の席に腰掛ける。
「ふむ……随分早いんだな」
「どういうつもりよ。あんた私に何か大切な予定があったらどうしてたのよ」
「そのときはそのときだよ。無理に会って事情を説明する必要はないから」
その言葉に瀬名陽子はむっとした表情を浮かべたが、文句を口に出すことはなく、おしぼりと灰皿を持ってきた松戸にジンソニックを注文した。さすが、常連の一人だけあってお互い慣れてるな。
「態度がかなり気にくわないけど、まあいいわ。早速だけど、今までのことを私にもわかるように説明してもらいたいのだけど」
「うん。ただその前に、一つこちらから質問させてもらう。君は本当に彼らのことを何も知らないのか?」
「知らないわよ、あんな異常なやつら」
そう言ってポケットから煙草を取り出し、火をつける。銘柄はピアニッシモ。私と同じだ。
そしてどうでもいいが、パーカーがちょっとかわいい。
「その異常なやつらに傷一つつけられず、あっさりと退けた自分を異常だとは思わなかった?」
瀬名は答えない。最も聞きたくない返しだったろう。ちょっと意地の悪過ぎる言い方だったかと内心反省する。
彼女も自分でわかっているだろう。ただ巻き込まれただけのはずの自分が、群を抜いた異常者であることを。
「それについても聞くわ。繰り返すけど、私は本当に何も知らない。聞きたいことは三つよ」
彼女が指を立てると松戸がグラスを持ってきた。
彼女はグラスがカウンターに置かれると同時に手に取り、カクテルを一口飲んだ。白く美しい喉が上下に動く。
そして指に挟んでいた煙草を人差し指でとんとんと叩き、灰を灰皿に落とした。
「一つ、あいつらが何者か。二つ、あんたが何者か。三つ、不適合者ってどういう意味かわかる?」
私は四本目の煙草に火をつけた。
「順番に、端的に答えよう。一つ、奴らは霊長と呼ばれている。二つ、対して私たちは『東京』という組織を作って対抗している。三つ、不適合者というのが何を指すのかは私にもわからない」
「もっと詳しく」
カウンターで素知らぬ顔をしてグラスを拭いている松戸にラスティネイルと声をかけ、目の前の女性に向き直る。
真剣そのものといった表情で彼女は私を見ている。
私に評価されても仕方ないだろうが、しっかりした人だと思う。昨日のような事態に対してこうまでまともに反応できるというのは、一般人には非常に難しいことだろう。
まあ、忘れたふりをしたところで心の奥底の恐怖は消えやしないが。それならいっそ彼女のように正面から向き合った方が対処もできるかもしれない。
「霊長というのは、別に私たちが名付けたわけではない。奴らが自分でそう言ったのを聞いて、そのまま呼んでいるに過ぎない。そして残念ながら、正直なところ現時点では奴らについて詳しいことは何もわかっていない。ただ、霊長が人間と世界を歪める存在であり、害悪であることは間違いない。実数はわからないが奴らによって行方不明になり、殺害されている人間が実際にいるんだ。
思い出したくもないだろうが、昨夜は二体いただろう。私が相手にしていた奴と、君に襲い掛かった奴だ。私が相手にしていた奴を霊長という。君に襲い掛かった奴については、『人形』と呼んでいる。こちらは私たちが名付けた。人形は元は普通の人間だが、霊長によって体を弄りまわされ、何らかの方法で操られていると考えてもらっていい。その上に位置して人形を束ねているのが霊長だ。霊長は人形とは比べものにならないほど強い力を持っているようだが、そもそも人形が霊長の手駒であるように、霊長より上位の存在がいるという可能性も否定できない。
奴らがいつから、何を目的として行動しているかもわからない。情報がないんだ。ただ、『東京』が組織として活動を始めたのが五年前。それ以前から奴らが存在していることは間違いない。その頃にはもうあちこちで被害が出ていたからな」
瀬名陽子は黙って聞いている。
私は松戸が持ってきたグラスに口をつけ、続きを話す。
「『東京』の存在目的は明確だ。人形を消し、可能であれば霊長を消す。それだけだ。ここまでで何か質問は?」
「……そんなの、ありすぎて何を聞いたらいいかすらわからないわよ」
片方が話し、聞いている側は煙草を灰にしていく。お互いにカクテルで喉の渇きを癒し、話し手と聞き手が入れ代わりまた話す。その繰り返しだ。
なんだか私たちはどこか似ているなと思ったが、口には出さずにおく。そんなことを言ったら怒りだしそうだ。
「でもね、ただのコーヒー屋には正直理解しきれない話。わかってるとは思うけどね。それは実物を見たとしても、よ。けど、嫌だけどね、優先して私がどうしても聞いておかなきゃいけないことは一つ……あいつらは、私をそっとしといてくれると思う?」
私の返答を聞くまでもなく彼女はわかっているだろう。これは問い掛けというより、一種の願いだ。だが、相手はこちらの都合などおかまいなしの奴らだ。かわいそうだが。
「残念ながら、その可能性はないだろう。奴らとは何度もやりあってはいるが、霊長が無関係の人間に話しかけるなど初めて見た。これがどういうことか、想像はつくだろう?」
「あなたがそう言うなら、よっぽどのことなんでしょうね。つまり、私は特定の対象として認識されちゃった、と」
ため息しか出ないだろう。一般人の世界から、突然化け物と異能の世界に放り込まれたのだから。
だが、どんなに憐れんだところで彼女の状況には変わりがない。ならば、こちらはこちらで彼女を味方とし、共に戦うしかない。
私がてこずった人形をあっさり退けたのだ。むしろここで彼女に逃げられて敵対でもされたら、それは最悪「東京」の壊滅にも繋がりかねない。