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  作者: サキスケ
10/18

困惑の朝

佐々木優介


 目覚めたら知らない部屋、知らないベッドにいた。

 ホテル、じゃない。ずいぶん生活感に溢れた部屋だ。このベッドがある部屋と隣の部屋はスライド式の戸で境界が作られている。隣の部屋はダイニングで、奥にもう一つ部屋が見える。低いダイニングテーブルの上にはベージュ色のマグカップが一つ、テレビのリモコンらしきもの、ペン、レシート、ジンのボトルが置かれている。その左奥に流し。流しの隣にはツードアの冷蔵庫があり、冷蔵庫の上には電子レンジが載っかっている。

 誰の家だろう。見れば腕時計は午前十時を示している。

 昨夜は飲みすぎたのか、それともあまり考えたくはないけれど、前回と同じ状況なのか。なんだか頭痛がする。でも、やっぱり飲みすぎとは違う気がする。

 昨日の夜は池袋を歩いていた、それだけしか覚えてない。

 飲んだとして、一軒目にどこに行ったのかまで記憶をなくしてしまうようなことは過去にない。もっとも、脳の機能に異常をきたすくらいに飲んだのならあり得るかもしれないが、そんなことになっていたらこんな普通の家のベッドではなくて、どこかの病院で目が覚めるだろう。

 何はともあれ、まずは目の前の状況に対処することが重要だと思う。さっきも視界には入ったのだけれど、なんとなく意識的にスルーしてしまった。いつまでも気付かない振りをしているわけにはいかない。

 ダイニングのカーペットの上には、見知らぬ女性が寝ている。取り合えず、目覚めたら突然隣に知らない女性、みたいな展開ではなくて良かったと心底思う。

 同じベッドで眠っていないのだから、何かあったって可能性は低いだろう、多分。

 どうしたものかと記憶をたどってみても、何も思い出せない。池袋を歩いていて、どこに行ったんだろう。

 そういえば、誰かに声をかけられたような気がする。誰に、何を言われたんだろう。記憶がないのはそこからだ。

 ぼんやり考えていると、女性が声をもらし、身体を起こしてぼんやりした表情でこちらを見た。

 綺麗な顔をしている人だ、肩まである髪はぼさぼさだが。なんと声をかければいいものかと考えていると、相手が先に口を開いた。

「おはよう。身体の具合はどう? だいぶましになったように見えるけど」

「おはようございます。身体は問題なさそうです」

 出来るだけ不自然にならないようにと平静を装って言葉を返したが、どうやら何かまずかったようだ。彼女は途端に不機嫌そうな顔になって言った。

「……なにそれ。そんな話し方じゃなかったよね」

 そう言われても、残念ながらどんな口調で話したのか。それどころか何を話したのかすらわからない。もちろん、どういう成り行きでこの部屋にいるのかもわからない。

「そう、ですか? 一応、いつもと変わらないつもりですけど。ところで、申し訳ないですけど一つ質問していいですか」

 気まずさでじっとりとした汗が出てきそうだ。でも、このまま黙っていても仕方ないだろう。ここはさっさとはっきりさせた方が後のためだ。

「どうぞ」

 嫌そうな表情を変えないまま溜め息を一つ吐いた女性に、少し躊躇しながら僕は尋ねた。

「本当に、本当に申し訳ないのですが、教えて下さい。先に言っておきますが、真面目な質問です」

 僕の背中の皮膚感覚以上にじとっとした視線がきている。ホント、お願いしますからもう、そんなに見ないで下さい。

「僕は何故ここにいるんでしょうか」

「はあ? 覚えてないの?」

 呆れと怒りを含んだ声色だった。まあ、どんな状況だったにせよ当然の反応だろうな、とは思う。初対面の女性の家のベッドで起きるなんてのは確実に異常事態なわけで、絶対に迷惑をかけている。

 そうだ、こんな高いところにいていい身分じゃない。ベッドから下りてダイニングまで行き、カーペットに正座する。

「本当にすみません。どこでどう会ったのか、全く覚えてないんです。池袋を歩いていたのは覚えているんですけど……でも、きっと大変なご迷惑をおかけしたと思います。謝ります」

 僕はそう言って頭を下げたが、何の言葉も返ってこない。頭を下げていては彼女がどんな表情をしているかもわからず、非常に気まずい。

「そんな謝られてもね……最初に言っておくけど、あなたは全くの素面だったから。それを踏まえて聞かせて? 他意はないからね。こういうことは、んー……少しでも正確に言うなら、酔ってもいないのに記憶を失うことはよくあるの?」

 思わず頭を上げた。

 頭上から問われた言葉は、二重のショックを与えてくれた。

 その一、昨夜は素面だった。

 その二、他人から記憶の剥落を指摘された。

「頻繁にではありませんが、正直時々あります。ただ、ごく最近に限って言えば少ないとは言い切れません。不自然に記憶がなくなっているということも、自覚があります」

 言葉を止める。今の話を聞いて女性は考え込んでいるようだ。自分でもおかしなことを言っているとは思うが、事実なのだから仕方ない。何か脳の病気かとも考えたが、仕事を言い訳にしてまだ病院には行ってない。

  彼女はしばらく黙って思案している様子だったが、やがてふと思いついたように言った。

「あなた、名前は」

「佐々木優介です」

 昨日は自分の名前すら名乗っていないんだろうか。

 記憶が全くないんじゃ何があったのかの推測すらできないのがもどかしい。 

「そう、佐々木くん、ね。その様子だと間違いなく私の名前も覚えてないだろうから先に言っとくけど、私の名前は瀬名陽子よ。改めてよろしく」

 瀬名陽子。言われたとおり、聞き覚えのない名前だ。彼女の言い方では自己紹介はされていたようだけど。

「あとね、これはあくまで私の想像でしかないんだけど、おそらく重要なことだから伝えておくよ。最終的な判断はあなたの好きにすればいいけど。いい? 今のところ私はそう考えているという話だからね」

 僕は頷いて彼女の言葉を待った。

「うん……どういう言葉が正しい表現になるのかわからないけれど、あなたは二重人格ってやつなのかもしれない」

 二重人格? 頭の中で、告げられた言葉を繰り返す。言葉の意味は、そのまま捉えるなら二つの人格があるってことなんだろう。それはつまり、僕以外の人格が存在してるってことだ。

 僕の記憶がないときに関して。

 はい、そうですかなんて簡単に納得できるような話じゃない。むしろ相当に気味の悪い話だ。ただ、これは先日たどり着いた結論を他人から肯定されたことになる。

 自分の中に得体の知れない誰かがいるという可能性を考えたものの、それが事実であったとしてどうやっても僕ではそいつに接触することができない。まさか送ったメールに返信があるなんてこともないだろう。

 だが、目の前の女性はそいつと会っている。しかも、家に泊めてまでいる。ここでしっかりとした情報をつかんでおかないと、ここ最近の異常について理解する機会は永遠に失われてしまうかもしれない。これはチャンスでもあるはずだ。

 僕はもう一度頭を下げた。

「お願いばかりで申し訳ありませんが、そのもう一つの人格について教えていただけませんか。情けない話ですが、残念ながら今のところ僕には瀬名さん以外に頼れる人がいません。それと、昨日何があったのかについても教えて下さい。お願いします」

 彼女は教えてほしいのはこっちよ、と溜め息まじりに呟いたが、わかる範囲だけねと言って立ち上がった。

「コーヒー飲む?」

「あ、はい、いただきます」

 瀬名さんはキッチンの戸棚からベージュ色の缶とポット、ペーパーフィルターを取り出した。缶には二本の脚で立つピンクの豚のイラストが描かれている。

 改めて部屋を見渡すと、テレビの上にも小さな豚の置物がある。ひょっとすると豚が好きなのかもしれない。その豚の置物の隣には、何故かサンタクロースの人形が体育座りをしている。

 やかんに水を入れ、火にかけながら彼女は話しだした。

「もう一人のあんたは藤崎って名乗ったわ。残念だけど、彼について詳しいことは知らない。前にもパスティスで見かけてはいたのだけど、まともに話したのは昨日が初めてだから」

 瀬名さんはテーブルの上に置いてあったタバコを手にとる。壁に立てかけてあった白い折りたたみ式のパイプ椅子をガス台の前に置き、換気扇をつけた。

「パスティスというのは?」

 彼女は質問に答える前にタバコに火をつけ、換気扇にむかって煙を吐き出す。

「それもわからないの? 池袋にあるバーだよ。私、昨日はそこに行こうとしてたんだけど、外から見た感じ混んでたから止めたんだよ。で、帰ろうと思って駅に引き返してたら藤崎と、藤崎を追いかける二人に出くわした。アレは何だったのか、どういうことが起きたのか、私にはわからない。目にしたことについては話せるけど、それが何だったのかまるで理解できてないから」

 タバコから立ち上る煙が換気扇に吸い込まれていく。

 追われていたということと先日の血のことを考えると、藤崎という名を持つもう一人の僕は間違いなく危険なことに関わっている。

「そいつらと争って、藤崎は怪我でもしたみたい。あんまり辛そうだったし、私も巻き込まれて何も知らないままっていうのは気に食わなかったから、うちに連れてきたのよ」

 瀬名さんは慣れた手つきでペーパーをポットにセットし、コーヒー豆を入れ、ポットをくるくると回しながらお湯を注ぐ。インスタントでも一向にかまわない僕とは違い、こだわりがあるようだ。

 漂ってきたコーヒーの香りにほっとして、真剣な話の途中にちょっと申し訳ないと思ったのだが、トイレの場所を聞いた。そこのドアの左、とこちらに顔だけ振り向きながら答える瀬名さん。わかりました、と言ってドアを開けると、

「そう言えば、あんたゲイなの?」と、突拍子もないことを言うのでとりあえず全力で否定しておいた。

 トイレには豚のイラストが描かれたカレンダーが貼ってあった。

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