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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヨイマチ、ウミマチ、キミノマチ

作者: 睦月スバル

 夏の夕が滲み始める頃、僕は慣れ親しんだ故郷に辿り着いていた。

 寄せては返す波の音が耳に優しいこの場所は本州にあるとある県の小さな小さな離れ小島だ。

 と言っても本州とは頻繁に船が行き来しているし、沢山とは言えないもののちゃんと人も住んでいる。


 さて、ここからは少しばかり自分語りを。

 僕は藍野いろは。本州にある普通科の高校に通う青春盛りの高校二年生だ。将来の夢は特に無いし、浮いた話も無いが友人には恵まれたおかげでラトリアムを満喫出来ている。

 そんな僕が何故この島に帰って来たのかと言えば単純に夏の長期休暇に入ったからだ。それに両親から今年は必ず戻って来るようにと強く念押しされたから、というのもある。

 別に確執も無ければ家に帰るのも苦では無いのだけれど今年に限っていつに無く強い語尾で言うものだから少し驚いてしまった。


「にしても、やっぱり良いところだなぁ」


 夕暮れに海、渚鳥に潮騒。赤錆びた何かしらの鉄製部品に、絡まるように伸びるツタ。乙女座でも無いが心のセンチメンタルな部分が刺激される光景だ。

 友人に恵まれたとは言え何かとしがらみの多い日常で少しずつ汚れた心がスッと軽くなる。いっそ家に帰らずにここでしばらくぼぅっとしているのも良いかもしれない。


 そんな事を考えていると、視界に白いヒラヒラしたものが入り込んだ。何となく興味を惹かれてそのヒラヒラを視線で辿ると、それが白いワンピースである事が分かった。それと、ワンピースを着ている人物が僕の顔馴染みである事も。


「……あんこちゃん?」


 僕がそう問いかけると彼女はピクリと肩を震わせて、


「よ、ようこそ、私の島へ! 歓迎するぞよ、藍野いろは君!」


 少し変な口調で、尚且つ腕組みしながらそう応えた。


「何ソレ、変なの」


「いや、だってさ。暫く会えなかったじゃん? だから距離感がちょっと分からなくって。……いろは君、今年の春休みは帰って来なかったし、一年の夏休みは私の都合だけど会えなかったし」


 ぶぅ、とむくれる彼女はあんこちゃん。さっきも言った通り、僕の顔馴染みだ。因みにあんこというのは本名らしい。出会った当初、本人は嫌いだと言っていたがある時から急に好きになったと言っていたっけ。初対面で「甘そうな名前だね」、と言ったら「どっちかと言うと生臭くない?」と謎の返しをされたがそれはさて置き。


「にしても、あんこちゃんは変わらないね。時間が経てば少しでも黒い髪が生えるものだと思ってたけど」


「失敬な! 私のこれはモノホンの銀髪! おばあちゃんみたいに色素が抜けちゃった訳じゃないんだから!」


 モノホンなんて今日日聞かないなと思いつつ件の銀髪を見遣る。

 曰く、この島は今でこそ少なくなったものの海外から人が流れ着くような事が多くあったらしい。そんなこんなで混血が進み、偶にこのように思い出したかの様に昔の人の特性を持つ子供が産まれるのだとか。人それを隔世遺伝と呼ぶ。

 ともあれ彼女の銀髪は大層美しい。時折吹く潮風に揺れる髪は傷みを一切感じさせず、水面と同じ様に目が覚める様な綺麗な光を放っている。なんなら夜の闇の中でも彼女の髪は光って見えそうだ。


「それよりいろは君、もう直ぐ日が暮れちゃうよ。さっさと帰っておじさまとおばさまに元気な顔を見せて来なさいよ」


「……そうだね。そうしよう」


 僕は再度夕景を眺めると、久方ぶりの家路を歩き始めた。


♪ ♪ ♪


 家に帰ると父は「おう、お帰り」と歓迎をくれた。

 僕の実家は定食屋だ。近くで取れた新鮮な魚介類を調理して提供していて、観光のパンフレットにも小さく存在が載っているおかげでお客さんが絶える事は無い。

 ただその功罪とも言うべきか、家の付近は常にお腹の空く匂いがして空腹の折には腹が間抜けにぐぅと鳴る事がままあるからその点だけは困りものだ。


「母さんは?」


「ああ、母さんなら二階でいつもの作ってるだろうよ。こっちももう少しで閉店だからちょっと待ってな」


 との事なので二階に上がる。

 するとそこには案の定メガネをかけながらUVライトを照射している母の姿があった。


「ただいま、母さん」


「……」


 だんまりだった。どうやら今日も相当手元に集中しているらしい。

 現在母さんがやっているのはシーグラスの装飾品作りだ。この小島には結構ガラス片が流れ着く。そしてそういうガラス片は往々にして角が取れて一種独特な雰囲気を放つようになる。母はいつも そういったものを拾ってはレジンを使って綺麗な装飾品にして観光客に売っている。因みに売り場は一階の定食屋の一角だ。


「……よし」


 満足いったのか母はそう言うと大きく息を吐いた。それと同時に背後に立つ僕の存在に気付いた様で、


「あら、お帰り。意外と早かったわ……あ、よくよく見たらそこまで早く無かったわね。まぁ、良いわ。兎に角元気そうで良かった」


「まぁ、お陰様でね」


「それは重畳。今回のお祭りにも参加出来そうね」


「本当に母さんはお祭り好きだよね……」


 僕は少し引き気味に返事する。

 何を隠そうこの母、生粋のお祭り女なのである。

 この島では例年お盆の少し前辺りに『人魚祭』というお祭りが開催される。その内容は奇祭と名高い丸木村の『神樹祭』なんかとは異なり、普通に屋台が出て、踊りがあって、まぁ大体はそんな感じだ。人魚を祀ると言う点だけは他と違うところだが、ソレ以外は至って普通のお祭りと言って良い。


「そりゃあそうよ。私はずっとこっち住みだから。人魚様のお陰で此処は地震の余波を免れたりとか、漁業が低迷しないんだから」


「さ、さいで……」


 あまりの熱量に言葉尻が小さくなる。

 母は昔からこういうところがあった。信仰と言えば聞こえは良いが悪く言えば盲目的で、大叔母さんだったか、或いはひいおばあちゃんから伝え聞いたという人魚様伝説を後生大事に胸に刻んでいるのだ。

 地震に関してはきっとプレートの問題だし、漁業に関しては多分潮の流れの問題だろうから言っている事は結構的外れな様な気がするのだが、それを言えば額に角を生やすのが容易に想像出来たので言葉は唾液と共に飲み下す。


「さてと、そろそろ閉店時間も近いしご飯にしようかしらね」



♪ ♪ ♪



 夕食は簡素なものだった。白米にお麩と海藻の味噌汁に鯖の味噌煮。ただし、鯖の味噌煮は缶詰だ。愛すべき息子の帰省なのだからもう少し彩りがあってもバチは当たらないのでは無いかと思う。


「それで、いろは。学校はどうだ?」


 そうぶっきらぼうに尋ねたのは父さんだった。


「別になんとも無いよ。友人関係、勉強共につつがなく。……けど、やっぱり三年になったら受験もあるから、二年生は思いっきり遊ぼうって人と受験に向けて資格取るとか本当に色々でさ」


「受験……か」


 父さんは少し暗い顔をした。

 うちは決して絵に描いたような貧乏では無い。だが本州と比べてしまえば賃金の面では大きく劣るのも今では理解している。当時は気にしなかったが、高校に、それも本州に出したのは相当懐に堪えた事だろう。このまま大学となればどれだけの経済的負担が掛かるか分かったものでは無い。


「いろはは、行きたいか? ……その、大学とか」


「僕は……どうだろう。よく分からない。行きたい大学は無いけど、大学卒の方が広い目で見れば稼げるって言うし」


「あなた!」


 すると、母さんが怖い顔でそう口にした。怒りによってか深く刻まれた眉間の皺のせいか母さんが別人の様に見えた。


「先の話なんて、そんな事する意味無いじゃない!」


「そうは言っても、いろはの意思は重要だろう!!」


 バン、とテーブルが揺れて僅かに味噌汁が溢れる。何だか一人だけ取り残された気分だった。僕からすればこれからの進路の話。ただそれだけの筈なのに、二人だけもっと別な話をしているみたいに感じられる。


「それって高校を卒業したら直ぐに就職しろって話? それとも定食屋を継げ……とか?」


「いろは、それは……」


「あなたは黙ってて!!」


 先の台パンに対抗するかのようにピシャリと言い放つ。……母さんはこんなにもヒステリーな気質だっただろうか。

 脳裏に浮かぶのは優しい面持ちや装飾品を作るときの真剣な面持ち。少し厳しいところはあったけれどこんな風に怒鳴った事は今まで無かった筈だ。


「……いろは、俺は少し母さんと話すから少し外でも歩いて来い」


「あ、うん。……分かった」


 口に運んだ味噌煮の最後の一口は、何だか異様にしょっぱく感じられた。



♪ ♪ ♪



 控えめな電灯を頼りに家から海辺の方に少し歩くと寂れた教会が出て来る。今は全く機能していないこの場所だが、例に漏れずパンフレットに記載されており昼間にはそれなりに観光客で賑わっている。

 昼間の賑わいもそれはそれで良いものではあるのだが、夜になると昼とは違った一面が顔を覗かせる。

 蔦に飾られた教会の裏手にどっかりと腰を下ろすと、僕は空を見上げる。


「やっぱり良い夜空だ」


 この島は人が少ない。それに本州とは違ってゴミゴミしていない。きっと幾分か空気も綺麗な事だろう。磯臭いのが難点だが。

 そんな訳で天気の良い夜に夜空を見上げれば、金を出して室内で見るのと全く同じ星空が見られる。


「あ、いろは君! あれ見てアレ! 空に鳥が浮かんでるみたい!」


 その声に少し驚きつつも振り返ると、そこには案の定昼と変わらない姿のあんこちゃんが立っていた。

 ただあんこちゃんの神出鬼没は今に始まった事ではないと思い直してあんこちゃんの指差す方を見てみる。


「本当だ」


 そこには、瑠璃色の輝きがあった。星団、と言うやつだろうか。瑠璃色に光るそれらは見ようによっては確かに鳥の様にも見える。


「ところで、あんこちゃんはどうしてここに?」


「うーん、何となく? いろは君が居るかなぁって思ったら、本当に居た、みたいな?」


 イマイチ要領を得ない返答だった。

 けれどそんな事が些事に思える程に、闇の中の彼女は、美しかった。

 ほっそりとした白い輪郭も、すぅと通った鼻筋も、長く豊かな銀髪も、彼女を構成する何もかもが淡く光って見えた。

 人は愛しい人を月に例えるけれど、純粋に月を人型に切り取ったらこんな風になるんじゃないだろうか。そんな事を思う。


「それで、何か悩んでるみたいだったけど、どうかしたの?」


「僕の進路について、ちょっとね」


「いろは君は大学に行きたいの?」


「いや、それは自分にも分からないよ。けどさ、フツウの人はそうするんだろうなって。勿論高卒で働くのも、定食屋継ぐのでも良いと思ってるけどさ。どうにか大学行って、大卒になれば良い給料稼げれば両親の生活も楽になるんじゃないかなって」


「……そう」


 漏れ出たのは寂しげな声色だった。あんこちゃんはらしくも無く眉尻を下げていた。


「いろは君は、おじさまもおばさまも大好きなんだね」


「それは、まぁ、育てて貰った恩もあるし、それなりには」


「ううん、いろは君は大好きだよ。二人のこと、ずっと第一に考えてる。……ちょっと妬けちゃうな」


「妬けるって、それじゃあまるで僕に気があるみたいだ」


「うん、あるよ」


 極々自然にその言葉は発された。その真意を図りかねて彼女の面を見て……後悔する。

 彼女は、泣いていた。

 音も立てず、ただただ静かに。

 けれど僕には分からなかった。彼女が何故泣くのか。父さんの事にしろ、母さんの事にしろ、僕は何にも分からない。まるで僕だけが知り得ていない空白が存在しているかのようだ。


「ごめん、こんなつもりじゃ無かったんだ。今日はもう帰るね」


「あっ」


 引き止める間もなく闇の中に彼女は消えて行く。

 彼女の居なくなった教会は静寂が耳に痛かった。

 ああ、いっそ潮騒に浸かればこの漠然とした負の感情も、少しは鎮まってくれるだろうか。



♪ ♪ ♪



 寝起きは凡そ最悪だった。

 あれから家に帰っても気分が良くなる事は無く、寧ろ家に流れる険悪なムードのせいでより一層胸が塞いだ。多分仲直りとはならなかったのだろう。それに加えて生憎の大雨だ。テレビ曰く過去最大級の台風が日本に近付いているらしいのだが、その予報円がなんとこの島をまるっと 覆っておりどうやっても直撃コースとなっていた。

 本降りは明後日らしいが、このまま勢力を強めれば甚大な被害が予想される……との事だ。


『近隣住民からの通報で家屋から女児の遺体が発見されました。遺体は死後数週間が経過しており、死因は餓死と見られています。検察は――』


 ブツリとテレビの電源を切る。憂鬱な日には暗いニュースばかりが流れて尚更に気分が悪くなる。


「はぁ」


 だから溜め息が漏れ出るのも、きっと致し方の無い事なのだ。

 こういう時は気晴らしに外に出たいものだが、この雨では気晴らしにもならないだろう。風邪を引くのがオチだ。

 そんな中、ふと一冊の本に目が留まった。部屋の隅に追いやられたそれは随分と古い本のようで独特の埃の臭いがした。


「……『妖麗譚』?」


 読み方は『ようれいたん』……で合っているだろうか。発行年を見るに昭和時代に発行されたものらしい。頁を開くと『伏藪』? やら『鳴羅門火手怖』? やら何やら奇妙な章が沢山あった。

 そしてその中に、


「……『人魚』」


 人魚の章が、確かにあった。

 見たところ『妖麗譚』は妖怪に関する本のようだからある事自体に何らおかしなところはない。その筈なのにその章がある事に驚きを感じる自分がいた。

 その章を開くと先ず目に入るのは人魚とは似ても似つかない、デップリとしていて、ついでに頭の先から竿みたいなものが生えている魚の絵だった。名前は忘れたけれど、いつだったか父さんが調理していた覚えのある魚にも似ていた。確か深海魚だっただろうか。


「にしても、これが人魚……?」


 人要素が何処にもない、純度百パーセントの人魚とは恐れ入る。人はそれを魚と言うのだ。

 ただ、この人魚には二つ名のようなものがあるようなのだが劣化のせいかインクが潰れていて字が読み難い。辛うじて読めたのは『灯暗』の二文字だけ。字数的には四文字位だろうと思うのだが、やっぱり分からない。

 そのまま本を読み進めると驚くべき事が判明した。


 この『灯暗』何某とやらはこの島の信仰の対象である件の『人魚』そのものなのだと言う。


 何でも遠い昔に漁師が浜に打ち上げられた一匹の魚を醜いし食べられやしないだろうからと海に返したらしい。

 そうしたらその魚が鶴の恩返しと同じ要領で漁師の元に来たのだ。

 ただ、ここからが鶴の恩返しとの大きな違いで魚女……人魚は先に自分の素性を明かしてから『恩を一体何で報いよう』と漁師に問うた。そして漁師はこう答えたそうな。『なら、漁が万事問題無く出来るのが良い』と。

 当時のこの島はそれこそ外人がうっかりで流れ着いてしまう程に流れが奇妙で、尚且つ荒く、漁にならないような大時化が多かったそうなのだが……人魚がその願いを聞き届けて以来それが幾分か和らいだと言うのだ。

 ただ、物語はめでたしめでたしで お終い……とはならない。ある日また人魚は漁師の元を訪ねたそうな。そして……事もあろうに関係を迫ってきたらしい。

 人魚は元が魚とは言え美人であったため漁師はホイホイと釣られて、夜の海に消えて行ったとさ。そしてそれ以降漁師を見たものは無し。

 漁師が魚に釣られるとは何ともまぁ皮肉な話だ。

 因みにこの本の著者はこの伝承は実際にあった人身御供を物語にしたものではないかと考察していた。言い回しがまどろっこしくて敵わないが、要するに島民が美女を使って漁師を誘惑してそのまま人身御供に使ってしまったと言うのだ。ゾッとする。


「……人身、御供?」


 そこで、不意にカチリとパズルのピースがハマる音がした。

 祭り好きの母、人身御供の人魚祭り、先の事を話すなと言う発言、誘惑された漁師――

 今年の祭りは、僕が人身御供に捧げられるのではないか?

 有り得ない話だ。だが、そう考えるとどうだろう。

 母さんが帰って来いと強く言ったのは人身御供にする為。先の事を考える必要がないと言ったのは祭りの日に僕が死ぬから。父さんはそれを知っていて、苦悩していたのだとしたら。

 辻褄は、合いそうだ。


「いろは……何を読んでいるの?」


 背後から温度の感じられない声が聞こえた。油の切れたブリキのような動作で背後を向けば、そこには無表情の母が作業用の大型リューターを片手に立っていた。


「か、母さん……?」


 心臓がバクバクと鳴る。

 優しい母さんだった。その筈だ。だが、人身御供の事を考えるとどうしても嫌な想像が頭を過ってしまう。実は母さんは最初から僕を人柱にする為に育てたのではないかと。

 我ながらひどい疑心暗鬼だ。だが、そう理解していても尚否定し切れないタチの悪さが心を急速に蝕んでいく。


「ああ、それ読んだのね」


 手が、ゆっくりとこちら側に迫る。

 そこで限界が来た。

 僕は勢い良く起立すると本を片手に母さんを突き飛ばし、裸足のまま雨の降る外へと繰り出した。



♪ ♪ ♪



 篠突く雨を肩で切りながら僕の足は昨日も来た教会の裏に向かっていた。胸中はぐちゃぐちゃだった。母さんをただの被害妄想で突き飛ばしてしまった罪悪と、未だに拭えない疑念が胸の中でマーブルを描いている。


「……随分とずぶ濡れになっちゃったな」


 これだけの雨だ。傘もささずに走ればこうもなる。それに素足で走ったから足も泥塗れだ。こういうのを濡れ鼠と言うのだろうか。


「あ、本」


 そこで漸く本をそのまま持ってきてしまった事に気が付いた。本に水は文字通り致命的だ。古い本なら尚更。見てみれば案の定表紙の『妖麗譚』の字も判別出来なくなってしまっている。あまり高い本でなければ良いが、これが高価だったら目も当てられない。

 そんな事を考えながら雨で頭が冷えたのか普通の思考が蘇りつつある事を自覚する。

 全く馬鹿な真似をしたものだ。今時の日本で人身御供をする場所なんてある筈が無い。少し考えればわかる筈だ。昔ならまだしも今世は科学も進歩しているし、倫理もキチンと息衝いている。だからきっと大丈夫だろう。


「――いろは君?」


 だからきっと、違うのだ。

 僕の背後に立つ彼女は人魚でも島民が用意した釣り餌では無い筈なのだ。


「どうしたの? 風邪引いちゃうよ?」


 あんこちゃんは控えめに言って美人だ。そんなあんこちゃんに心配してもらえる僕は幸せ者だろう。けど、だからこそ怖い。

 あんこちゃんが、僕を殺すのではあるまいかと。

 おかしくはないだろうか。こんな誰も外出しないような大雨の中を傘をさした様子もなく現れるなんて。


「ほら、震えてるじゃん。駄目だよ、夏場でも雨なんだからあったかくしてないと。気化熱で冷えちゃうよ」


「……ねぇあんこちゃん。変な事聞いて良いかな」


「ん? 良いけど、何?」


「あんこちゃんってさ、人魚じゃないよね?」


 五秒。十秒。雨が地面を打つ音だけが満ちていく。彼女の声は鈴の音のようによく通る。雨音の中にあっても聞き取る自信はあった。

 だが、今は何も聞こえない。


「何で、何も言ってくれないのさ。それじゃあ、それじゃあまるで……あんこちゃんが 人魚みたいじゃないか」


「うん。そうだよ。……私、実は人魚なの。ゴメンね、黙ってて」


「っ!!」


 そんな言葉は聞きたく無かった!! 違うって、何言ってんのってそう言って僕の考えを否定して欲しかったのに!! なのに、どうして……こうも悪い方に話が進む!!


「何だよ、ソレ。皆グルだったのかよ……意味が、分からないよ」


「いろは君、落ち着いて。話を聞いて」


「どうせ僕を殺すんだろ!?」


「違うよ! 違うんだよいろは君! 私は、私はただ……」


 あんこが何か言う前に僕は逃げ出した。

 もう沢山だった。この大雨で本州への船は出ていないだろうし、ああもう。

 最悪だ。



♪ ♪ ♪



 あんこと呼ばれた少女は呆然と立ち尽くしていた。しばらくして動き出すと、ふといろはが手にしていた本がそのまま捨て置かれているのが見えた。

 雨のせいで本はボロボロになっていて、けれど慎重に頁を剥がすとほんの少し読める部分が残っていた。

 そしてその中に、人魚の講釈、解釈についても含まれていた。


「……何、これ」


 そこに書かれていたのは離れた島に脈々と受け継がれる悍ましい人身御供の儀式についての考察だった。成る程、本を出すような人物の論理は一見筋が通っているようにも見える。

 だが間違いだ。勘違いも甚だしい。しかし真偽が分からない状態でこれを読んでしまったら勘違いするのも分からなくは無い。

 とは言え、


「嫌われちゃっただろうな」


 人魚と呼ばれる少女はポツリとそんな台詞を溢した。



♪ ♪ ♪



 どれだけ走っただろうか。身体はとうに冷え切っていた。ただそれに反して頭と鼓動だけが異様な熱を持っていた。

 雨風を凌ぐ為に何処か屋根のある場所に行きたかったが下手を打てば殺されるかもしれないと考えると動きが鈍る。

 纏まらない思考のままフラフラと彷徨えば、気付けば港の方まで来てしまった。


「いろは!? どうしたんだその格好!」


 すると、土嚢を片手に持つ雨ガッパ姿の父さんが駆け寄って来た。


「父さん、どうしてここに?」


「明日が本降りになるから土嚢を積もうと思ってな。それよりどうしたんだ。靴も履かずにびしょ濡れで」


 ああ、そう言えば父さんは母さんに反対していたっけ。なら、安心だ。

 緊張の糸が切れて体から力が抜けてグラリとよろめく。


「いろは!?」

















 目を覚ましたら見慣れない天井があった。


「気が付いたか」


「えぇと、ここは……」


「俺の顔馴染みの漁師さんの家だ。ドロドロの状態のお前を上げてくれた聖人だから後でたっぷり感謝しとくんだぞ」


「……分かった」


 寝起きであまり回らない頭でそう返事する。


「あれ、服」


 そして、僕が今着ている服が濡れていない事に気が付いた。と言うか全くの別物だ。それに、何だか微妙に下半身がフリーダムな気もする。


「勿論、服も借り物だ。流石に下着は貸せないって事でノーパンだ」


「ま、まぁ、そうだろうね」


 思うところがないでは無いが、それは致し方の無い事だ。と言うか今こうして家に置いてくれている事に感謝した方が良いだろう。


「それで、何があった」


 すると父さんは真剣な面持ちでそう尋ねて来た。それに対してどう答えれば良いか答えに窮する。しかしその間に父さんは推理を終えたようで、


「母さんか?」


 僕は肩をビクッと震わせた。それが決め手となったのは言うまでもないだろう。

 父さんは「やっぱりそうかぁ」と頭を抱えた、


「母さんを、あんまり嫌ってやるなよ。あれでも母さんなりにいろはの事を想ってやってるんだから」


「僕の事を、想って?」


 何だか、僕は酷い勘違いをしているのでは無いかとここに来てそんな考えが頭に浮かんだ。


「この島は良い島だ。けど、昔はそうじゃ無かった。俺は本島から来た人間だから仔細は知らないが、もう引退した漁師や、とうに死んだその先代、先先代は皆 口を揃えてそう言ったらしい」


「そう、だね。昔は外国の人とかも偶に漂流して来たみたいだし」


「そうだ。曰く潮の流れの問題らしいけど、こっちも俺には分からん。分かるのはそれがどうなって今に至ったか。そんだけだ」


「それって『妖麗譚』の話?」と問うと、父さんは「知ってたのか」と少し驚いた風だった。


「全く信じ難い事だけどな、この島には本物の人魚がいるんだ。最初は俺も半信半疑だったけど祭りの夜に初めてその姿を見て、ハッキリ分かった。ありゃあ人間とは別の種族だってな」


「何で別の種族だって思ったの?」


「そりゃあ目の覚めるような銀髪で、夜でも光って見えるんだから別物だろうよ」


 そう言われるとそんな気もするが、けれどだからと言って別の種族とまで言ってしまうのはどうなのだろうか。


「まぁ、話を戻すがその人魚が潮の流れを人の都合の良いように変えちまったんだ。んで、その後に頑張ったからご褒美頂戴と……なんだ、そのしっぽりとな」


「人身御供じゃなかったの?」


「まさか」と父は返した。


「この話は誤解されやすいがマジでそのまんまの話なんだ。所謂、異類婚姻譚って奴だ。この島はそれを脈々と受け継いでる」


 異類……婚姻譚?

 少し待って欲しい。では、何だ。もしかして、


「父さんが本人の意思云々って言ってたのって」


「まぁ、その、あれだ。子供が人魚に見初められたからって必ずしもそうなる必要はないんじゃ無いかと思ってな。それに本体が本体だし。母さんは人魚ちゃんをすっかり気に入ってる上にあの気質だからお前が重荷に思うのも仕方ないけどな」


 ……。


「ただ、相手は人魚だ。お前がくっ付くってなれば当然大学には行けないし、島からも出られなくなる。最悪住処が水底になるなんて事もあり得る。だから、悔いのないように本人にしっかり決めて欲しくてな」


「そんな、急に言われても」


「急なのはこっちも承知だ。ただ、あの人魚ちゃんの先代……まぁ、母親か。それが春先辺りから体調崩してて、先日老衰で死んじまったらしい。だから今この島を守れんのは人魚ちゃんしか居なくなっちまったんだ」


 脳裏に過ぎるのは現在進行形で勢力を強めながら近付く過去最大級の台風。これもあんこちゃんのお母さんが死んでしまった弊害、なのだろうか。


「結局、今のこの島は人魚におんぶに抱っこなでな。台風に地震、津波や雷。その上に潮の流れや漁獲量まで全部丸っと守って貰ってんだ。足向けて寝られねぇよ」


「なら」


 どうして一言「そうしろ」と言わなかったのだろうか。そう問おうとして、


「息子の行先を心配しない親が居ると思うか?」


 先んじてそう言われた。


「お前はまだ青い、ガキだ。結婚なんて早いし、本人も納得してない。しかも嫁ぎ先は人じゃなくて人魚と来た。これは島の存亡以前の問題だ」


 でも、それでは今までの島とは決定的に違うものに……それこそ昔のように潮の流れが複雑な物になったり、天災が起きたり、或いは魚が獲れなくなってしまうのではないだろうか。

 父さんは僕が何を考えているのか「馬鹿野朗」と軽く頭に拳骨を降らせた。


「あのな、天災がおこるんじゃないかって心配してるのかも知れないけど、それは違うんだよ。どこもかしこも天災の可能性はある。俺からしてみれば此処だけ安全って状態の方がおかしいんだ。そりゃあ結婚すりゃあ漁師は喜ぶだろうよ。けど、しなけりゃしないで自然に戻るだけだ。それは本来、嘆くような事じゃ無い」


 そういうものなのだろうか。小骨が奥に引っかかったような感じがして何だかしっくりこない。結局危険に曝す結果に繋がるのなら、それは悪い事なのではないのか。

 それに何より……僕は彼女を傷付けてしまった。なのにこの場でどうのこうの言うのもおかしいように思った。


「うん? まだ何かあるのか?」


「実は……」


 僕は洗いざらい自分の悪行について吐露した。人柱にされると勘違いした事。突き放す事を言ってしまった事。諸々。すると父さんは今度こそ勢いのついた拳を思いっきり僕の頭上に降らせた。ゴチンと鈍い音が鳴り、視界に火花が散る。


「馬鹿野郎。確かにお前は俺からすればガキだが、自分でやらかした事に対して何も出来ない程ガキだとは思ってねぇよ。一々どうすれば良いか親に考えて貰わなくても良い位優秀なおつむはもう既に持ってるんだろうが。甘えんな」


 思いっきり正論で殴られた。けれど反感は湧かなかったし、寧ろ嬉しく感じた。だって僕自身がそんな風に思われているのだと初めて知ったから。


「何だよ、打たれたのにニヤニヤして。けどまぁ、ちょっとは良い顔つきになったか」


 やはりと言うか僕は笑っているらしかった。けれどそうしてばかりではいられない。僕にはやらないといけない事がある。


「……あんこちゃんに謝りに行くよ」


「居る場所に心当たりとかはあるのか?」


「ある……と、思う」


「こんな大雨だ。近くまで送って行こうか?」


 その提案に対して僕は首を横に振る。確かに魅力的な提案ではあるが送ってくれなくとも昔から島を駆けて来た自慢の二本の健脚がある。そこまで頼り切りになるつもりはない。


「それじゃあ、そんなお前にプレゼントだ」


 そう言うと父さんは一本の折り畳み傘を手渡してきた。


「これも例の聖人の?」


「聞いて驚け、俺の持ち物だ。こんな雨の中じゃ頼りないかもしれんが、あればきっと役に立つはずだ」


 手渡されたそれは父さんの言った通り少し頼りないように見えた。けれど、手のぬくもりが伝播したのか少しだけ暖かく、前進しようと言う気力を奮い立たせてくれるように思えた。


「行ってこい、俺の息子よ」


「行ってきます。父さん」



♪ ♪ ♪



 それから僕は折り畳み傘片手に暴風雨の中を走った。現実とは非情なものでやはりと言うか折り畳み程度では雨を凌げはしなかった。けれど、ここまで逃げて来た時とは異なり冷える体とは裏腹に胸には確かな熱が灯っていた。僕はその熱に身を任せるように前に前にと足を進める。

 打ち捨てられた、蔓の彩る教会へ。


「……はぁ、はぁ」


 現時刻は一体どれ程だろうか。この空模様では時刻もサッパリ見当もつかない。

通り抜ける最中に視界に入る商店は軒並みシャッターが下ろされ所によっては既に土嚢が積まれている。そんな中を、ただ無我夢中で走り抜ける。聖人から借りた服も多分絞れば水が滴る位に水を含んでいて、それがぴっちりと肌に張り付くものだから嫌になる。熱が奪われて、冷えて、けれど胸の熱だけは止めどなくて。

 そんな中遠くに教会が見えた。


「見えた……!」


 居る。直感的にそう思った。だってこの暗がりの中でもあそこだけ鈍く輝いて見えるのだから。だから僕はその光を目印にひた走った。



♪ ♪ ♪



 彼女は壁にもたれ掛かるような姿勢で座っていた。


「……いろは、君。どうしたの。そんなに濡れてまで戻ってきて。おばさまに何か言われたりした?」


 半ば酸欠状態の頭のせいであんこちゃんが何を言っているのか、その意味が良く分からなかった。ただ、僕は自分がやるべき事だけをずっと意識していた。


「あんこちゃん、僕は――」


「ううん。良いよ。そこから先は言わないで。私嫌われちゃってるだろうし。……普通に考えたら気持ち悪いもんね。ああ、台風に関しては安心して。お母さんみたいに上手くできる自信はないけど、この島はしっかり守るから」


「あんこちゃん――」


「ゴメンね。私の勝手で。人魚人魚って島の人たちは持て囃すけど、実物の私がただの魚な事、いろは君は知ってるもんね」


 言葉を紡ごうとする。けれど、届けられない。そこまでの距離が余りにも遠い。それ程の事をしてしまったのだ。僕は。


「いろは君が、あんこちゃん、あんこちゃんって呼んでくれたこと、本当に嬉しかったんだ。……その間だけ私は自分がただの魚だって事を忘れられたから」



「私の本当の名前――提灯暗(ちょうちんあん)(こう)、なの」



 風雨に打たれながら彼女はそう言う。目じりは赤らんでおり、顔に降りかかる雨ばかりが彼女を濡らしている訳ではない事を如実に物語っていた。


 ここで、ふと僕はあんこちゃんと初めて出会った日の事を思い出していた。僕は友達と浜で遊んでいた。けれどそれも退屈になって来て沖に出ようという事になって……僕だけが溺れた。友達は皆大人の人を呼びに行って、息が苦しくて。


『――落ち着いて』


 海の中で、そんな女の子の声が聞こえた。それから、僕はどういう訳か一人教会で目を覚ましたのだっけ。それで――あんこちゃんと出会った。

 あの日も確か綺麗な夕暮れで、彼女は薄っすらと光って見えた。それは今でもはっきりと覚えている。


『君が助けてくれたの?』


『う、うん。その通り』


『その、ありがとう』


 ぎこちない言葉の応酬。気恥ずかしかったのか、或いは距離感を掴みかねたのかどっちだったのかは忘れた。


『僕はいろは、藍野いろは。ねぇ、君の名前は?』


『私は……本名はちょっと嫌いかな。暗行なんて』


『あんこ? 甘そうな名前だね』


『……どっちかと言うと生臭くない?』


 それで……ああ、耳にまだ水が入っていたせいで名前を聞き間違えたんだ。


『……うん? あんこ?』


 思い返せばなんてことはない。「う」を聞き取れなかった僕のニアミスだった。


「私の本体は魚で、ここに居る私は発光する突起が変化した姿でしかないの」


 自虐的にあんこちゃんは続ける。その姿は、見ていられるようなものでは無かった。だから、僕は――


「いろは、君?」


「ゴメン」


 僕は震える肩を抱きしめた。


「勝手に殺されるんじゃないかって被害妄想で、傷付けて悲しませて、挙句に泣かせて……好意まで踏みにじって。だから、本当にゴメン」


「だ、ダメだよいろは君。私に近付いたら。私に近付いたら君は――」


「ゴメンで済む事じゃないってわかってる。だから、僕に出来る事なら何だってする。いや、させて欲しい!!」


 胸の熱のありったけを吐き出した。もう僕の内に言うべき言葉なんて残ってはいなかった。


「……何でもって。言ったよね?」


「僕に出来る限りなら、何でもする」


 そう言ってからふと、あんこちゃんが今までの悲壮な口調ではなくなっているような気がした。いやそれどころか、少し淫靡な響きすら伴っているような気さえした。


「ところでいろは君。台風が直撃しちゃったら、困るよね?」


 だから急な話題転換に付いていけなかった。あんこちゃんの問いかけに対して僕は反射的に「うん」と生返事を返す。


「ふーん。ふむふむ。成る程。それじゃあまた、明日の夕方にここで。ね」


 打ち付ける雨を気に止める様子もなくあんこちゃんは立ち上がると、歩き出した。

 きっとこれで良かったのだ。そんな安堵が胸中を満たす。

 その安堵故だろうか。雨音の中に鐘の音を聞いた気がした。



♪ ♪ ♪



 台風が直撃するはずだった今日は、いっそ拍子抜けするくらいの快晴の青空だった。昨日の台風の影は何処へやらだ。テレビ曰く急激に進路を変えて太平洋側に行ったらしい。本州方面に逸れればそれこそ甚大な被害が出ていたと専門家は言うが、それは無いだろう。きっとこれはあんこちゃんの仕業だろうから。

 さて、時は夕方近く。僕は家を出て教会の方に向かうべく海沿いの道を歩いていた。ふと空を見上げれば、彼女と出会った日と同じに夕が淡く滲んでいて、水面も落日の赤に染まっている。


「いろは君、知ってる? こういう時間の事を逢魔時って言うんだって」


 耳元でいきなりそんな事を囁かれビクリと肩が跳ねる。振り返ろうとすると、頬に白い指がツンと触れた。


「逢魔時は人が人ならざるものと出会ってしまう魔性の時間。ねぇ、いろは君。いろは君はこんな時間に外を出歩いて、一体どんな化生と出会いたいのかな?」


「僕は……そうだね。うん、提灯暗行に逢いたい、かな」


「そっか……それじゃあ、正直者のいろは君には提灯暗行ことあんこちゃんに逢う権利をあげようじゃあないか」


「何それ、おかしいの」


 僕がそう言うとどちらからともなくクスクスと笑みが零れた。


「にしても、教会に集まるんじゃなかったの?」


「いやぁ、何と言うか私の本体は当然ながら海にあるから……。行く方向も同じだから、さ」


 あんこちゃんはそこで言葉を区切ると大きく息を吸い込んだ。


「じゃあこれまでのフォーマットに則って。言うね。藍野いろは君。私は台風を逸らしました。とってもとっても頑張りました。ですので……ご褒美とか、くれたりしない?」


「えっとこれって……本にも書かれてた」


 その先を言おうとして「女の子の前でそんな事を言うのは無粋だよいろは君!」と叱られた。


「にしても、どうして僕だったの? 僕は特に何かした覚えもないんだけど。それどころか出会ったときといい昨日と言いずっとお世話になってた身だからちょっと恐れ多いと言うか……」


 物語ではとある漁師が鮟鱇を海に戻したことが恩返しの発端となる。なら、僕は一体あんこちゃんになにをしたと言うのだろうか。


「いろは君、君は実はとんでもない事をしてくれたんだぞぅ。……ほら、名前」


「名前?」


「そ、私嫌いだったんだ。提灯暗行って名前。そもそも種族名だし。それに……結局私の本質は鮟鱇あんこうで、ここに居る私は釣り餌でしかない。だからこの名前が大嫌いだった。だから、あんこって呼んでくれて、人間みたいだなって。そう思えたの」


「でもそれは……」


 耳の水が抜けなかった僕の聞き間違いでしかない。


「知ってるよ。けど、それでも嬉しかったの。……救われたの。それじゃあ、駄目?」


 ここで駄目と。無責任にもそう言えるだろうか。いや、言えるわけがない。それは救いの否定に他ならないから。だから僕は首を横に振る。


「だから、それが始まり。ちゃんと君は私を助けてるの。それで私はとっても頑張った。とすれば次に来るのは……ね?」


 水面が揺れた。次いで見えたのは落日を食いつぶすのではないかと思われるような巨大な黒い穴。いや……これはきっと口、なのだろう。


「沖に、出よっか」


 僕は迷わず頷きを返し、裸足のまま歩き出した彼女の手を掴んだ。あんこちゃん指は僅かに冷たくて、火照った体にジンと沁みる。


「夏だね」


「そうだね。……夏だ」


 言葉を交わす中、僕は確かに祝福の鐘の音を聞いた。


♪ ♪ ♪


 父さんは昔魚の図鑑を広げながらこんなことを言っていたっけ。

 この魚? ああ、この魚はチョウチンアンコウつってな。深海魚なんだ。名前の通り提灯みたいな釣り竿みたいなやつを光らせて、獲物が来たらパクっと食べちまうんだ。凄いだろ? それにこいつらの交尾ってのも物凄くてな。オスがメスにくっ付くとそのまま寄生して、そのまま一体化するんだ。んで、産卵の時期になるとまぁ色々とな。本当に海産物の交尾ってのはどいつもこいつも癖が凄い。うん? ああ、他にはタカアシガニとか、あとイカとかも癖が強いぞ。……ああ、ただ生きながらに体が一体になる心地ってんのはどんなものなんかねぇ。


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[良い点] なんと……こう来ましたか! これはすごいですね! すごいとしか言えません…… いやーすごい!
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