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幻のスロー 〜疲れたくない投手〜

作者: 道端之小石

とある世界、そのとあるところ。

そこにひとりの夢破れた男がいた。


その男はプロ野球界のエースを目指していた。

しかしその夢が果たされることはなかった。

その男の野球人生は万年二軍で終わりを告げた。


理由はたくさんあったのだろう。

終わってから男はそのほとんどを理解した。

しかし全てがもう遅かった。


男は涙を流した。

その涙は悔しさと悲しさ、そして無念の感情に満たされていた。


その男は身長195センチの父と身長187センチの母、兄は身長197センチで妹は184センチという高身長の家系である。

しかしその男は身長177センチ。

幼少期から続く食わず嫌いによる栄養の偏りによってこのようなことになっている。

スタミナは人並み、センスも人並み、まさにうだつの上がらない人物であった。

そして引退の決定打となった肘の故障が起こる。

上手くなりたい、その一心でその男は様々な選手のフォームを取り入れようとした、しかしそのフォームは体に無理をかけるものであった上にそもそもその男には合ったものではなかった。


しかし男は諦めきれなかった。だが諦めざるを得なかった。故に自ら球団を辞める旨を伝えた、しかし男が持つとある技術のため男は引き止められた。


実のところその男は二軍の間に整体師やらアスレティックトレーナー、スポーツ栄養士と言った資格をなぜか取っており、途中から選手としてではなく裏方の人たちと仲良くなっていたのである。


その男にとっては、頼られればそれに応えるのが当然であり自分の技術が使えるのが楽しかっただけなのでそのようなつもりは一切なかったのだが。


そんな男を一軍の選手達はいつもユニフォームを着て嬉しそうに野球の話をする裏方と認識していた。

二軍の皆からは野球が大好きすぎる裏方という認識をされていた。


そんな彼が自分の体の調子に気づかなかったのは、他の人の体を気にし過ぎて自分の体を疎かにしていたためである。


彼は野球にしがみついた。裏方でも良いと自分の心に嘘をついた。

それでも諦めきれず世間話のついでに変化球を投げるコツなんかを聞いて回っていた。

しかし自分はどうせ投げれないのだからと二軍の選手に情報を流すばかりであったが。


そんな彼もいつかは結婚をする。結婚した相手は何の因果か高身長だった。身長183センチ。

ヒールを履かれると見下ろされる形になってしまう。その結果、告白してキスをする時、相手に屈んでもらうことになった原因である自分の身長の低さを呪い、自分の小さい頃の偏食を後悔することになった。


そしてその男と妻の間には子供が生まれた。

その名前は伊藤 要。いつも何かの中心にいて欲しい、集団の中心にいて欲しいと願われたその男の子がこの物語の主人公である。


伊藤(かなめ)が生まれてから8ヶ月後。

ちょうどこの頃になると首が座る。

父である伊藤純は本日も仕事を終え帰宅した。


「元気でちゅかー?お父さんでしゅよー」

「ちょっと、寝かせたばかりなんだから」


赤ちゃん言葉でスヤスヤと寝息を立てる愛しい息子に語りかける純を止めたのが彼の妻である伊藤美智だ。


「あぁ……ごめんよ。しかし可愛いなぁ」

「そうだけど昼間はワンワン泣いて大変なのよ?」


純がリビングの椅子に座ると美智が麦茶を純に渡す。

美智はその後作っておいた料理を電子レンジの中に入れて温め始めた。


「今日はちょっと遅かったね」

「そうなんだ、聞いてくれよ。今日あのトルネ選手に会ったんだ。英語を勉強して初めてよかったと感じたね」

「へぇー、トルネ選手ねぇ。サインは?」

「もちろんもらったよ、ジャーン」


純はカバンからサイン色紙を取り出す。

この夫婦は揃って野球が趣味である。

もちろん応援する球団は一緒だ。

美智が料理を待ってリビングに戻ってくる。


「要は将来何になるんだろうな」

「エースになったりしてね」

「……あの子が野球をやりたいって言ったら全力で応援するさ」


純は要に自分の夢を重ねた、しかし子供に夢を押し付けるのは違うと思い留まった。

『諦めきれないこの夢を子供に叶えてもらおうなんて筋違いだし意味がない、それにもう終わったことだ』と未練がましい考えを純は続けている。

もちろん美智は純がどのようなことを考えているかを知っている。

それでも『自分の心に正直になれば良いのに』とは言わないが。


美智は子供が生まれる前に純が買った諸々を見る。

子供服に子供用の靴、そしてグローブと野球のボール。

女の子が生まれたらどうするつもりだったのか知らないが純は『男の子だ!俺にはわかる!』と言って買っていた。


「当たってたわね」

「何が?」

「別になんでもない、強いて言うならケーキが食べたいな」

「じゃあ明日にでも買ってくるよ」



それから1年が経った。純の親バカは加速している。何をしてもこの子は天才だと言って笑う彼を見て美智は空を仰ぐとともに自分に向かう愛が全て子供に向かっているのを寂しく思った。

その一年後、第2子となる次男が生まれた。

この時ももちろん純は男物ばかりを買っている。

この男の子は伊藤司と名付けられた。

これは美智の命名だがこの時のエースピッチャーの名前からそのまま付けている。


それから3年経つと休日になれば純も美智も子供達とキャッチボールをしていた。

2人とも完璧に親バカになっていた。

司の方はまだゆっくりとした動きだが要はもう元気が有り余っているようだ。


この時にはもう純と美智はこの子達を選手にするという気持ちが強くなっていた。

要から『野球選手になる』などと言われては仕方ないことだが。


スポーツのエリート教育を受けること沢山。小学4年生になった頃、要は野球クラブに入る。

望んだのは勿論ピッチャーだが人数が多く、また体も出来上がっていないうち4年生では6年生の方が球速も早くスタミナもあるため登板することはできなかった。

普通なら無理をしたり駄々をこねるものだが、そこはエリート教育を受けているため地道にコントロールの練習と走り込みを続け、純に体のコンディションを整えてもらうという習慣を送り続けていた。


勿論家庭に出る話題は野球ばかり。

二年後、司も野球クラブに入ることになる、が志望したのはピッチャーではなくキャッチャー。

きっかけは純がキャッチャーを褒め称えるようなことを家庭で話していたことである。ちなみに純は未だにバカ親だが美智はバカ親から教育ママにクラスチェンジしている。


要は変化球をチェンジアップとシュート以外覚えていない。シュートは純が徹底的に故障しにくい投げ方を教えているのでむしろ負担が少ない変化球になっている。

要はクラブのエースになっていた。

機械のごとく精密すぎるコントロールと緩急を駆使してヒットを殆ど打たせないのだ。


そしてさらに1年後、中学校に入った要は部活、ではなくクラブに入っている。

部活で得るものがないという判断をして、さらに基礎技術を磨いていく。

しかし基礎技術では飽き足らない要は何か新しい技術を求めた。しかし反抗期。純には相談しにくい。

バカ親である純が『最近要が相談してこない、要に嫌われた……』と普段全く飲まない酒を飲み泣いていたのを見て『近づきたくない』と思ってしまうのも思春期ならばしょうがない。


そんな時テレビでジャイロボールという特集を見つけジャイロボールを取得しようと奮起する。

司に頼み回転がわかりやすいボールで始めた練習の1球目、要は衝撃を受ける。


「兄さん、ジャイロボールできてるよ?」

「へ?今のはストレートで……」


そう、今まで投げていたストレートはバックスピンがかかっておらずジャイロボールだったのだ。

すぐに純に問い詰めるとバックスピンはこれから教えるがゆっくり投げるようにと指示される。

ついでにマウンドに1秒でも長く立っていたい要は全ての球種のスピードをほぼ統一した、勿論遅い方に。


そんな要の持ち玉は、速くないのに浮き上がるようにノビてくるストレート、同じ速度だが弾丸のように真っ直ぐにノビるジャイロボール、ストンと落ちるジャイロボール、さらに遅いチェンジアップ、そしてストレートと同じ速度のシュートである。

要は全てを同じフォームで同じ軌道を描くように投げるので手元で変化するまで球種の見分けがつかない。


その結果、球が遅い上に明らかに手を抜いている投球であるが、疲れないのでより投球が精密になり球の見分けがつかないためにヒットを打たれる回数が減った。

結果としてより長くマウンドに立てるようになって要は満足した。


しかし中学校から高校に上がるまでに身長が急激に伸びる。要は今では185センチという高身長になっておりまだまだ身長は伸びるようで変わりつづける体の感覚によって要はボールのコントロールに苦労するようになっていた。

思い通りの投球ができず少しイラつく要は純にどうすればいいかを久しぶりに相談する。

力を抜きまくった投球を見た純はずっこけそうになった。

しかしそこにはしっかりと基礎を積み上げた影がチラリと見えた為、別にこのままでいいかと思い至った。

何より怪我をして欲しくないという思いが強いのだ。


また、高校生になった要はクラブでなく部活に入っている。理由は強豪校に入ったからである。

しかしそんな強豪校の中で選ばれ抜かれた投手達の中で1人だけ明らかに浮いている。

なぜなら全力投球を絶対しないから。

いつもコントロール練習をしており重心移動を基礎とした投球は体幹をしっかり使ったダブルスピンという投法なのだが、重心移動以上の力を殆ど使っていない為少しだらけているように見えるのだ。


だがフォームは綺麗だし紅白戦で結果を出した。

なので誰も文句は言えなかった。


しかしコントロールが乱れていた為、エースにはなれず補欠になっていた。

理由はそれだけではない。

要は力を抜きに抜きまくったとにかく疲れない投げ方をする。

投げたボールの最高速度は133キロ。

平均速度は121キロである。

周りが130キロ後半又は140キロ前半で投げるのに対して余りにも遅すぎるのだ。


監督にも『もう少し本気出したらどうなんだ?お前ならもっとできるんだろう?』と言われているが『いつだって本気です』と要は答えている。

確かに『どれだけ疲れないか』ということに本気である。

地区大会、県大会を順調に勝ち抜き甲子園の季節がやってきた。

ちなみに伊藤家、甲子園に全く興味がない。

見るのはいつもプロ野球ばかりだ。

なので要は全く甲子園のレベルを知らない。


要はワクワクしていた。

日差しが照りつける雲ひとつない快晴の日、甲子園が始まる。


高校一年の夏、甲子園。

要の入った高校は強豪校である為、当たり前のように出場する。先輩達は緊張に包まれているが要は平常運転だ。

そんな中監督が全員を集め作戦会議を始める。


「いいか、この試合は絶対に勝てる試合だ。この先連投が続く三年の投手陣は中継ぎか抑えで使っていく。中村!お前はうちのエースだ。決勝までちゃんと体力を残しておかないといけないから納得しろよ」

「してますよ」

「じゃあ……そうだな、一年の伊藤!」

「はい、なんですか?」

「なんですか?じゃない……お前先発で行け」

「あ、了解です」


第1回戦は絶対に勝てる試合、というわけで三年生の投手を温存したい監督の采配によって出場することが決定した。


選手達が走ってグラウンドに向かい整列する。

勿論伊藤は軽めに走っている。

これから投げるのにわざわざ疲れる必要はないのだ。


「「「「お願いします」」」」


挨拶を交わしなんやかんやあって守備につく者、ベンチに戻る者、バッターボックスに立つ者がいる。

そして伊藤はマウンドに立つ者である。


「プレイボール!」


審判が試合の始まりを告げる。

伊藤はキャッチャーの指示をみる。

一投目は落ちるジャイロ。指示通りに指示通りの場所に投げる。ボールは相手の振ったバットをすり抜けるように落ち、吸い込まれるようにキャッチャーが構えていたキャッチャーミットのど真ん中に収まった。

相手は首を傾げている。


二投目、浮き上がるようなストレート。

相手の振ったバットはボールの下をくぐり抜けた。

相手は首を傾げている。


第三投目、落ちないジャイロ。

相手は見逃しワンアウト。

相手は混乱している。


その後も要の投げる球をしっかり見切るものは出てこなかった。


結果、先発で9回まで投げ切って無失点。

ヒットも守備陣のエラーによるものでそれがなければノーヒットノーランだったであろう。


『体の疲れは大丈夫ですけど熱中症になりそう』とスポーツドリンクを飲みながらそう言った要に先輩たちは何も言えなかった。


第2開戦。先発はまたもや要。キャッチャーが出すサインが全てストレート系という謎の縛りで6回を投げ無失点。

ストレートが浮くのか真っ直ぐノビるのか落ちるのか判断できず遅い球なのに相手の打撃陣はボロボロ。

その後、交代した先輩のボールの速さに対応できない相手の選手たちは一度も点を取ることができなかった。

試合が終わった後先輩達から揉みくちゃにされつつ褒められる要は『次の試合は投げた後監督にかくまってもらおう』そう決めていた。


第3開戦。先発はまたもや要。一発だけ本気のストレートを投げてくれと頼まれた要はその願いを断った。本気で投げてコントロールできる自信がないからだ。


いつも通りのダラダラ投球を敢行。

チェンジアップだけ封印した投球だ。

相手が空振るたび電光掲示板には125キロの文字が浮かぶ。逆に125キロ以外全く浮かばない。

6回を投げ切って無失点。要は急いで監督に匿ってもらう。

125キロに慣れ切った相手のバッター達は先発達の投げる140キロに全く対応できず勝ち進む。


要は監督に匿ってもらった先にいた純と美智によって愛のある揉みくちゃを食らう。

髪型がボサボサになりつつも脱出したその先にいたのは勝利に酔いしれる先輩達。

要は逃れられない運命があることを思い知った。


第4回戦。要は先発で出場する。

これまで殆ど使わなかったシュートとチェンジアップが異常なほど効き要自身が驚いている。キャッチャーの先輩は苦笑いしている。

6回を投げて無失点でマウンドを降りる、そういう作戦だ。

5回を終えて、要としては不完全燃焼である為、本気で一投だけしてやろうかと考えていた。

要はマウンドに上がる前にキャッチャーに話しかける。


「先輩、最後の一投だけ本気で投げます」

「お、おう」

「コースだけ指定お願いします」


いつにも増して気迫を感じた先輩はそれを認めた。

1人目は落ちないジャイロボールの下面にバットを当ててフライになりアウト。

電光掲示板には126キロの文字が映し出される。

2人目はインハイに来たストレートを芯で捉えたはずだが何故かどん詰まりでファーストゴロ。

電光掲示板には132キロの文字が映し出される。


3人目。一投目は落ちるジャイロボールをストライクゾーンの下に向かって投げる。狙い通りストライクゾーンより下に沈んだボールはバットを回避する。

二投目はシュート、インローギリギリに曲がるよう狙う。ボール2つ分ほど曲がったボールはバットを回避する。


そして三投目。キャッチャーの先輩は何故かど真ん中に投球してくるよう指示を出してきた。

ベンチの監督が思わず立ち上がっている。


三投目。要はストライクゾーンよりさらに左側に向かって投球した。

いつもの速度で投げられた玉は明らかに要のシュートの変化量ではストライクゾーンに入ってこない。

しかしキャッチャーの先輩がワイルドピッチにならないよう急いで捕球に向かおうとした。


その瞬間ボールの軌道が変わる。

恐ろしいほどのキレと変化量でストライクゾーンのど真ん中にボールが吸い込まれる。

バッターはバットを振れず、キャッチャーはかろうじて球を捕球する。


一拍遅れた審判のアウトの声を背に要はマウンドを降りる。


「あー、疲れた。

やっぱ本気なんて出すもんじゃねー」


ベンチに戻ってから要はそう呟いた。

電光掲示板には125キロという文字が浮かんでいた。


無事いつも通りに勝ち進む。


その後は三年生の先輩方が投げるため要に出番はなかった。

甲子園が終わり要は純にあることを頼む。


「今のままじゃプロで通用しないと思う。だからどうにかしたいけど、どうしたらいい?」


要はプロ野球レベルの試合を期待していたがそんなレベルの選手はごくわずかなのだ。


その後、要は退部した。

次に彼が公式試合に現れるのは3年後になる。

それは球団の入団試験が終わった後の二軍同士による交流戦。

そこにバケモノのようなピッチャーが現れる。

噂によるとそのピッチャーは一人で9回を投げノーヒットノーランを成し遂げたらしい。

違う噂ではそのピッチャーの投げる玉はとても遅いのにバットに当たらないらしい。

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