断崖絶壁の窟
カンドルの窟に着いたのは、日が変わった真夜中の頃だった。
奈美がライカたちから逃げ出すことに失敗した後、すぐに目的地に向かって出発したのだった。
その際、女の足に合わせていては到着が遅くなるし、また妙なことを仕出かされては面倒だ、とライカが奈美を気絶させようと詰め寄ってきたのだが、奈美はこれに断固として拒否したので、どうにか気絶させられることは避けられた。意識のない間に男たちに何をされるか分かったものではないからだ。
だがその代わりに、奈美は本当にくたくたになるまで歩かされる羽目になった。途中、どうしても歩けなくなって、渋々ライカに二度ほど休憩を挟んでもらったのだが、それでももうしばらくまともに歩けないほどに疲れ果てていた。
(もう本当に、勘弁してよ……)
奈美がそう思ったとき、カンドルの窟の入り口が見えたのだった。恐ろしげなふくろうの声が鳴り響く山の中を草木につまずきながら歩いていて、周りの景色など見る余裕もなかったので、奈美は驚いた。
「うわ……何ここ……」
奈美は険しい崖の上に立っていた。ぐるりと半円に近い形で続く崖から恐る恐る顔を覗きこむと、遥か下に地面が見えた。崖の下の窪地には、ほとんど草や木は生えていない。どうやら、人の手で手入れされている場所のようだ。
「あれが俺たちの棲み処だ」
そう言って、ライカは窪地を指した。奈美が目を凝らすと、崖の壁の一部に、どうやら穴が開いているようだ。その穴は奥まで続いているらしい。
「……つまり、あなたたちのアジトに入るには、この崖を下りなきゃいけないの?」
奈美はライカに訊ねた。今では、少しくらいなら話せるほどに奈美のライカに対する恐怖感は少し薄れていた。というのもこの長旅を通して、ライカという男はどうやら、ただの野蛮な荒くれ者ではなさそうだと感じたからだった。暴力的な面もあるが、話し方や振る舞いに知性を感じたのだ。
ライカの方も、奈美がとりあえず逃げ出す様子もなく(もう足が棒で歩けないだの休ませてだの愚痴をこぼしてはいたが)素直に付いてきたので、初めほど辛くは当たらないようにしていた。ライカにとっての「辛くは当たらない」は、心臓を貫くような冷たい視線を浴びせない、ということだが。
「そうだ。窟の入り口は四方が崖で囲まれているからな」
ライカが事も無げにそう答えたので、思わず奈美はその場にへなへなと座り込んだ。
「まさか、私にこの崖を下りろっていうの? ロッククライミングなんかしたことないわよ」
「ろく……くらやみ?」
ライカとテスが不思議そうに奈美を見る。その時、ダンチョウが落ち着いた声で奈美を諭した。
「安心しなさい。ライカどのはおぬしに今すぐ、この崖を下りろとは言わないはず。……ですな、ライカどの?」
ダンチョウはライカに意味ありげな笑みを送ると、ライカもにやりと笑った。
「なんだ、分かっていたのか」
「え? え? どういうこと?」
二人のやり取りに、奈美は眉をひそめた。テスも分かっていないようで、首を傾げている。
「確かに、窟に入るには、通常はこの崖を下りなければならない。だが、実は入り口はもう一つあるんだ。この山を越えた向こう側にな」
ライカはそう言うと、窟の遥か上方にそびえる崖の方を指さした。
「あー、なるほど……あそこからっすか」
やっと理解したようで、テスが頷いた──何とも言えない顔で。
ひとり理解していない奈美は、ホッと胸を撫で下ろした。
「そうならそうと早く言ってよね。ああ、良かった。もう二度と崖から落ちるのは勘弁ですからね!」
だが、窟に入るのに崖を下りるより安全な方法は存在しないと知ったのは、もう半刻ほど後のこと、山を越えた時だった。
◇◇◇
山を越えた先で待ち構えていたのは、水平線だった。月明かりのおかげで奈美たちが立っている場所が断崖絶壁で、その先が海だとかろうじて分かる。
高い所が苦手な奈美は、崖の先をできる限り見ないようにしながら、ライカに文句を言った。
「ちょっと……どこに入り口があるっていうの?」
(もしかして……騙された?)
奈美がそう思った矢先、ライカが答えた。
「この下にある」
崖の端に立つライカが、人差し指を真下に向けた。それを見て、奈美は嫌な予感がした。
「この崖の下に穴が開いているのです。その穴が窟の裏の入り口というわけですな。まあ、この入り口は非常用で普段は滅多に使うことはないのだが」
ダンチョウがライカの横でしゃがみこむと、崖から身を乗り出してそう言った。海の様子を確認しているようだ。
「ふむ、波も荒くない。飛び降りても大丈夫のようですな」
「よし、行くか」
ライカが奈美の腕を掴むと、崖から飛び降りようとする。慌てて奈美が抵抗した。
「な、何する気なの!? まさか、ここから飛び降りようなんて思っちゃいないでしょうね!?」
「分かってるじゃないか」
「あんた……正気なの?」
「飛び降りないと窟に入れないんだ。仕方ない」
「仕方なくないわよ! この断崖絶壁から夜の海に飛び込むなんて、自殺する気? ああ……やっぱりサイコだわ!」
奈美は頭が痛くなってきた。自分とこの男たちの感覚が違いすぎるのだ。
「こんな所から飛び降りるくらいなら、さっきの山の中の崖を飛び降りる方が地面が見えるだけマシよ! ねえ、さっきの場所に戻りましょうよ」
「それはできない。夜更けで窟の中も静まっているとはいえ、表の入り口にはいつも見張り役の隊員が待機しているからな」
そうライカがきっぱりと言うと、奈美を指さした。
「その奇妙な恰好のまま、おまえを窟に連れて行けば大騒ぎになる。窟に着く前に言っただろ? だからこうやって、カンドルの仲間たちの誰にも見つからないように入る必要があるという訳だ」
「だからって、中に入る前に死んじゃったら元も子もないじゃない……」
「案ずるな。これくらいの高さから飛び降りたくらいじゃ、死なない」
「そりゃ、あんたたちみたいなバケモ……」
そこまで言って、奈美は慌てて口をつぐんだ。多少喋れるくらいの仲になったとはいえ、相手をバケモノ呼ばわりしたら、またいつ首に刃を当てられるか分かったものではない。
奈美が黙り込んだのを見て、ライカは奈美が観念したと思ったようだ。ライカがダンチョウとテスに向かって頷くと、二人は一言言い残して、崖から次々と飛び降りて行った。
「それでは一足お先に」
「あーあ、この季節の水浴びは嬉しくないんすけどねェ……」
奈美は慌ててしゃがみ込んだ。奈美が崖の下の海を覗いた瞬間、バシャーンという音と共に、激しい水しぶきが上がるのが見えた。まもなくダンチョウとテスが水面に浮かびあがり、崖の壁に向かって泳いできた。
それを見て、奈美はほっと胸を撫で下ろした。こんな連中の心配をする訳ではないが、目の前で自殺を目撃することにならなくて良かったと思ったのだ。
奈美が安堵したのもつかの間、ライカに腕をがしっと掴まれた。
「俺たちも行くぞ」
奈美が声を上げる前に、奈美は宙に身を投げ出していた。それはほんの半日前に体験した感覚と同じだった。違ったのは、落ちゆく先が地面ではなく、真っ暗な海だということだ。
奈美は海に落ちた。水面に激しく体がぶつかる。体に痛みを感じるかと思ったが、水の冷たさの方が奈美にとって衝撃だった。それは心臓が止まりそうになるほどで、体が言うことをきかない。奈美の体が水中にどんどん沈んでいく。
だが、奈美の腕を掴む者がいた──ライカだ。
「っぷはっっ」
奈美はライカに引っ張り上げられて、水面から顔を出した。息苦しさで必死に呼吸を繰り返していると、だんだん周りの状況が見えてきた。四方は真っ暗闇の海が広がっており、沖の反対方向に波に削られた岩壁がある。岩壁の一部には、かろうじて足の踏み場があるようで、そこにダンチョウとテスが立っていて、こちらを見ている。
(……信じらんない。本当に海に落ちたのね、私……)
そうそう体験できないようなことをこの一日の間に何度も経験していると、今の状況が現実なのか怪しくなってくるのも無理はない。
奈美が呆然としていると、すぐ横で同じように浮かんでいるライカに腕を引っ張られた。
「ぼさっとしてるな。陸に上がるぞ」
もはや文句の一つも言う元気のない奈美はされるがままに、ライカに引っ張られて岩壁へと泳いだ。岩壁の前は浅瀬になっていて、足が着いたところでライカは自分で岩に上がった。だが、奈美にはその気力もない。これまでの歩きの旅と寒さで体力が消耗し切っていたし、水を吸った服で体が重いのだ。
奈美が自力で陸に上がれる気配もないことに気づくと、ライカは面倒くさそうに溜息をついた。
「ったく、女ってやつは……。おい、ダンチョウ。手伝ってくれ」
ライカはダンチョウと呼び、奈美の肩をそれぞれ持った。自分の鉛のように重い体が男たちによって軽々と水中から引っ張りあげられるのを、奈美はただ黙って見ていた。
「ほらな、死ななかっただろう」
ライカは裾を握って水を絞りながら、そう言った。あまりにも淡々とした口調だったので、奈美はさすがに頭にきた。
「なんですってぇ……?」
(死ななかったって……たまたま死ななかっただけじゃない!)
奈美は恨みがましい目でライカを睨んだものの、当の本人は全く気付いていない。それどころか、蒼白の顔で息を切らしている奈美にこう言い放った。
「立て。女だからといって甘やかしてもらえると思ったら大間違いだぞ」
奈美だって、拉致されている身でご丁寧な待遇を期待しているわけではない。だが、この男のあまりにも人情味のない言葉に、奈美はこう思った──いつか絶対、復讐してやる、と。
奈美はやっとの思いで立ち上がると、ライカに付いて歩いた。後ろにテスとダンチョウが続く。
ライカは岩壁の細い踏み場をつたって進んだ。人ひとりが何とか歩けるだけの幅なので、奈美は海に落ちまいと必死の思いで岩壁に掴まりながらライカの後を追った。
そんな状況で、奈美はライカの進む先に、岩壁に大きな穴が開いていることに気付いた。どうやらあれが、窟内部に続く「もう一つの入り口」のようだ。
ようやく入り口にたどり着くと、奈美は岩の地面になだれ込んだ。地面はごつごつとして痛いが、地に足が着いているだけで充分だ。よくぞここまで命があったと、自分を褒めてやりたいくらいだ。
そんな奈美の気持ちを察したのか、ダンチョウが後ろから優しく声を掛けてくれた。
「おなごにとっては辛い道のりであったのに──よく頑張りましたな」
「だって……ついていかないと、この人が何するか分かったもんじゃないでしょ?」
奈美はライカを横目で見ながら、囁き声で答えた。それを聞いたダンチョウが、思わずくっくっと笑った。
「確かに」
シスイの手の内の者かもしれない女と自分の部下がひそひそと笑い合っているのを見て、ライカが眉をひそめて二人を睨んだ。
「おい、何を話してるんだ?」
「いや、何でもないですぞ」
「……まあ、いい」
ライカはむすっとした顔でそう言うと、くるりと踵を返した。
「ついてこい、女。とりあえず、おまえに入ってもらう部屋に案内してやる」
「ちょっと」
よろよろと立ち上がりながら、奈美はライカに向かって抗議した。
「女、って何よ。私にはちゃんと『平原 奈美』っていう名前があるんだからね」
「ヒラハラ……ナミ? 姿恰好が妙ちくりんなら、名も同じだな」
ライカが鼻で笑ったのを見て、奈美はカチンときた。
(いちいち、ムカつくヤロ―ね。……ライカにテスにダンチョウ? あんたたちの方がよっぽど変わった名前じゃない!)
「じゃあ、あなたの名前は? さぞかしご立派なお名前なんでしょうね」
皮肉を込めて訊いたのだが、ライカは真面目に答えた。
「カンナビ・ライカ。これが俺の名だ」
まっすぐ目を見据えて言われたので、奈美は何も言い返すことができなかった。逆に、きれいな名前だな──とさえ思ってしまったほどだ。
奈美が呆然としているので、すかさずテスが横から入ってきた。
「あっ、オレはテスって言います! んで、こっちがダンチョウさんっす!」
「以後お見知りおきを」
ダンチョウが丁寧に頭を下げてきたので、奈美も慌てて頭を下げた。これまでの旅のなかで彼らの名前は分かっていたが、改めて自己紹介されて気が悪くなるはずはない。
「テスに、ダンチョウさんね。よろしく」
(……って、私ったら、誘拐犯たちとなにやってんのかしら)
そう、自分はこのライカという男に脅されて、仕方なく付いてきただけだ。それなのに、彼らと仲良くなるなど、一体どういうつもりか。
(まあ、いいわ。なるようになれ、よ。もしかしたら逃げ出すチャンスができるかもしれないし、この人たちと仲良くしておいて損はないでしょ)
「ナミ」
奈美が頭の中でもくろんでいると、突然自分の名前が聞こえたので、奈美はドキッとした。ライカがこちらを見ている。
「な、なによ、いきなり人の名前呼んで」
「おまえが呼べと言ったんだろう。こっちだ。来い」
ライカは素っ気なく言うと、奥へと続く岩壁の通路を歩いて行った。奈美はその後ろ姿を呆れた顔で見ながら、後ろにいるテスとダンチョウにこぼした。
「……彼、あなたたちのボスでしょ? あんな性格の人と付き合ってて、疲れない?」
「まあ、表向きは人間味に欠ける人物に見えるかもしれませんな」
ダンチョウが笑いを堪えながら言った。その横で、テスも激しく首を縦に振っている。
「そうそう! ライカの兄貴は冷たいところもあるけど、照れ屋な一面もあるっすよ。隊員のことを一番に考えてくれるし」
「照れ屋に、仲間思い……。……うん、想像できないわ」
奈美はライカの後ろ姿を見ながら、鼻で笑った。
「でも、その……ぼ、ぼ……す? ぼ、すってのは一体──」
テスが奈美にそう問いかけた瞬間、ライカが足を止めてこちらを睨んできたので、奈美の気はそちらの方に逸れてしまった。
「あーもう、はいはい、行くってば!」
奈美は面倒くさそうに足を踏み出した──瞬間、立ち止まって足元を見下ろした。窟に着くまでは気が張っていて気にも留めなかったが、履いているロングブーツの中に海水が溜まっていてとても気持ち悪い。奈美は今すぐにでもブーツを脱いでしまいたい気分に駆られた。
「あ……ちょっと待って、ブーツ脱ぎたいから」
奈美はそう言うと、その場でかがみこみ、ブーツのファスナーを下ろした。
「あーあ……海なんかに飛び込むから、ブーツがびしょびしょじゃない。もうこのブーツは諦めるしかなさそうね……」
水浸しになった傷だらけのブーツを見て、奈美はがっくりと肩を落とした。寛人と山を登っていた時点でそんな気配はしていたが、ここまでボロボロになればお気に入りのブーツを手放すしかなさそうだ。
奈美が岩壁に手をつき、片足を上げてブーツを脱ぐ様子を、男たちは訝しげに見ていた。 ところが、ソックスを脱いで、奈美の色白の細い脚が顕わになった瞬間、男たちの間の空気が騒然となった。
「あー、これでスッキリした。ゴツゴツした岩の上を裸足で歩くのって痛いけど、濡れた靴を履いてる方が気持ち悪くてイヤだものね……って、どうしたの?」
奈美がもう片方の脚のブーツを脱ぎかかっていると、異変に気付いた。男たちの様子がおかしいのだ。ダンチョウは背を向けて奈美を見ないようにしているし、かと思えばテスは奈美の生脚を凝視している──鼻血の出た鼻を押さえたまま。
男たちのこの行動に首を捻っていると、ライカがつかつかと奈美の前までやって来た。
「……何をしている!」
「何、って……濡れて気持ち悪いから脱いだんだけど、ブーツ……」
ライカの剣幕に圧倒されて、奈美はぽつりとそう答えた。ライカは足元に転がっていたブーツを掴むと、奈美に突き出した。
「もう一度この履物を履け!」
「え、どうして──」
奈美は意味が分からないと言った表情でライカを見返したが、ライカは容赦なかった。
「いいか、今すぐにだ」
ライカの恐ろしい目に身がすくんで、奈美は慌ててブーツを履き始めた。何が悲しくて濡れたブーツをわざわざ履かなければいけないのか……奈美はぶつぶつ言いながらも、ブーツを履き終わった。
「はい、履いたわよ! これでいいんでしょ!?」
「この際だからついでに言っておくが、その髪は何だ? 唯でさえ紅い髪で目立つのに、結わずにいるとは……まるで娼妓だな」
ライカが奈美の背中に伸びる髪を指して、口の端を曲げた。それが自分を見下した笑いであることは分かっていたが、それよりも気になることがあった。
「しょうぎ、って何よ?」
ライカが呆れた様子で溜息をついたので、奈美はムッとした。こんな素性の知れない男に無知だと思われるのは癪だ。言い返そうとした時、ダンチョウが二人の間に割って入ってきた。
「まあまあ、落ち着いてくだされ。とにもかくにも、まずは部屋に入りましょう。いくらここが窟の最深部とはいえ、騒げば隊員たちの耳に入りますからな」
ダンチョウがそう言うと、ライカはふんと鼻を鳴らして踵を返した。言ってやりたいことは沢山あるが、それを何とか飲み込んで、奈美はふらふらとライカの後をついていった。