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脱走!

 

 もうどれくらい歩いただろう。奈美の足はすっかり棒になっていた。


 奈美は時折、共に歩く者たちの様子をうかがっていた。歩き始めてから一度も休憩することなく歩いているが、奈美以外の男たちは微塵も疲れている様子はない。後ろを歩くテスなど、退屈そうにあくびをしている。


(なによ、こいつら……バケモノね)


 奈美は運動神経のいい方ではないが、看護師として働いていたので体力には多少自信があった。眼科病棟に異動する前は急性期病棟でハードな勤務をこなしていたのだ。そこらの男よりも体力があると自負していたのも当然かもしれない。

 今すぐでも腰を下ろして休みたかったが、自分からは言えない。言えば、また首に剣を突きつけられるだろう。


 体は疲れ果てていたが、歩く間、今自分に起きていることを考える時間は十分にあった。先ほどは何だか惨め過ぎて男たちの前で号泣してしまったが、おかげで頭はすっきりしていた。

 奈美は頭の中で整理した。


(えーと……旅館の裏山にある野外温泉の崖で寛人にプロポーズされた時、地震が起きたのよね。それで崖から真っ逆さまに落ちた)


 崖から落ちたはずなのに、なぜかこうして生きている。そういえば、と奈美はふと気づいた。


(もしかして私……この男に助けられたの?)


 そう思いながら、前を歩く長身の男を見た。

 あの時、奈美は確かに地面にぶつかって死ぬと覚悟した。そして気付いた時には、無事、地面の上に下りていたのだ。一体どうやって、落下していく自分を助けたのかは見当もつかないが。

 だが、空中で誰かに抱えられた感触は覚えている。その誰かというのが、この長身の男というわけだ。


(そうそう、命を助けてやったとか何とか言ってたし。……感謝する気にはまったくならないけど)


 ライカが命の恩人とはいえ、彼の言動のせいで微塵にもありがたいとは思えない。現代の日本人としては変わりすぎている恰好をしているし、身も凍るような冷たい視線や声を浴びせてきたり、しまいには人の首に凶器を当てるような男なのだ。


(そうよ。こいつら、やっぱり、犯罪者集団に違いないわ! 訳の分からないことも言ってたし……。私のこと間者って言ってたけど、間者って確かスパイのことよね?)


 幼い頃は時代劇好きな父のそばでよく一緒にテレビを見ていたおかげで、「間者」という言葉は知っていた。まさか自分に対してその言葉を使われるとは思ってもみなかったが。


(でも、何でそんなこと思うのかしら? この私のどこがスパイなんかに見えるっての? 人のことをそんなふうに思うのも、やっぱり悪いことしてるからよ!)


 奈美は納得した様子で一人頷く。だが、大事なことを思いだして思わず声を上げそうになった。


(そうえいば寛人は!? 寛人はどうなったの?)


 奈美はプロポーズをしてくれた彼のことを、今の今まで思い出しもしなかった自分が恥ずかしくなった。崖から落ちたとき、寛人も自分と同じように真っ逆さまに落ちていくのを見た気がしたのにもかかわらず。


(私が地面に下りたときには、この連中の他に誰もいなかったし……まさかどこかで地面に激突して死──)


 そこまで考えて、奈美の意識が遠のいていった。目の前が真っ白になり、体が崩れ落ちていく──。


「あっ!?」


 テスが声を上げたのと同時に、ライカとダンチョウが歩みを止めて後ろを振り返る。

 そこには、地面の上に倒れ込んだ奈美の姿があった。顔は蒼白で、呼吸も荒い。歩き詰めで疲れ果てていたときに、大事な人の穏やかでない消息を考えていればこうなるのも当然だろう。


「ちょっと、アンタ……あ~あ、こりゃ完全にのびちまってっすね」

「……やれやれ」


 ライカは面倒くさそうに溜息をついた。まだ大して歩いてもいないのに、とでも言いたげに。


「仕方ないな……よし、テス、おまえが背負え」

「ええっ!? またオレっすか?」

「窟までまだかなりある。こんな所でゆっくりしてられないだろ」

「でも女なんか背負ったらオレ──」


 テスは想像した──自分の背中に柔らかいものが当たる感触を。そこでテスの鼻の穴からブッと血が噴き出す。


「……ぼら、ぼんどに死んじまうっずよオレ」

「……どいつもこいつも……」


 苛立った様子のライカに、ダンチョウが提案した。


「ライカどの、ここらで一休みしてはいかがですかな? カンドルは副隊長どのに任せてきたので、多少戻るのが遅くなっても問題はないでしょう? それに窟に戻る前に、このおなごをどうするかを決めなければ……」

「まあそれはそうだが……」


 ライカは指でぽりぽりと顔を掻くと、溜息まじりに口を開いた。


「仕方ない。半刻だけ休憩だ」


 ライカはそう言うと、倒れた奈美を担いだ。それを見たテスが、心の中でダンチョウを賛美したのは言うまでもない。

 ライカにとって、女人にょにんの柔らかい肌の感触は久しぶりだった。ライカは別に女嫌いという訳ではなかったが、好んで女と付き合うことはなかった。カンドルの男たちがいそいそと妓楼ぎろうに出かける時も、いつも興味なさそうに見送るのだった。


(……ふん)


 ライカは奈美を横目で見ると、鼻で笑った。肌が触れていても、ぐったりとしている奈美を見ても、何の感情も湧いてこない。むしろ、けがらわしいとまで思う。なぜならそれは、この女がシスイからよこされたモノだからだ。

 ──十年前のあの時と同じように。


◇◇◇


 近くに大木を見つけると、ライカたちはその根元に腰を下ろすことにした。夕日が遥か向こうの山の後ろに隠れようとしていて、辺りは既に薄暗い。の月ともなれば、日の入りが早い。


「ライカどの、申し訳ないが、火を起こしてはくれないでしょうか? 少し方角を確認したいのです」

「わかった」


 ライカは辺りに転がっていた小枝と落ち葉を集めると、手のひらをかざした。次の瞬間、落ち葉から煙が立ち、徐々に炎が広がっていき──小さな焚火が完成した。

 ダンチョウは懐から折りたたまれた紙と方位磁針を取り出した。しばらく磁針と紙を見比べてから、口を開いた。


「ふむ、進む方角はどうやら合っているようです。……しかし、このおなごの足に合わせていては、今宵の間に窟に着くのは難しそうですな」


 そこでダンチョウはライカの顔を見る。ライカは焚火に小枝を追加しながら、あっさり答えた。


「このまま眠っていてくれれば、背負える分、早く着くだろ」


 その言葉を聞いたがテスが、エッと声を上げた。


「兄貴、本当にこの女をカンドルの窟に連れて行くんすか?」

「そう、私もそのことを聞きたかったのです」


 方位磁針と紙を再び懐の中に戻しながら、ダンチョウも頷いた。

 二人の視線を浴びながら、ライカは思い出すように呟いた。


「……地揺れが起こる直前、シスイがこう言っていた──俺とこの女がテムルという名の『命の鎖』で繋がれている。長生きしたいなら死に物狂いで女を守れ、とな」

「……テムル……『命の鎖』?」


 初めて聞く言葉に、ダンチョウが片眉をひそめた。テスもライカの体を不思議そうにじろじろと見る。


「鎖? 兄貴の体のどこにも鎖のようなもんは付いてないっすけど」


 ライカは頷いた。テスの言うことももっともだ。ライカは焚火から少し離れた所に寝かせられている奈美を見遣った。今、自分とこの女を繋ぐものは、確かに何もない。


「だが、この女が空から降ってきたとき、俺は見たんだ──女と俺の心臓が紅い紐で繋がっているのをな。女を助けた後には、もう消えてなくなっていたが……」


 ライカがそう言うのを聞いて、テスとダンチョウが顔を見合わせた。


「じゃあ……その紅い紐ってのが、テムルっつう『命の鎖』ってことっすか?」

「おそらくな。消えたのは、そのテムルとやらが、天力のような不思議な力が働いているものだからかもしれないな」


 ライカは小枝を折りながら答えた。その時、ダンチョウが手で顎をさすりながら、フームと唸った。


「シスイの言うことが真実ならば……このおなごは決してライカどのに喜ばれるような『贈り物』などではなかったということですな。長生きしたいのならば女を守れという言葉は、裏返せば、女に万が一のことがあればライカどのに何か危険なことが及ぶ……ということになりますからな」

「……そうなるな。どうやら俺は、シスイの野郎に呪いをかけられたようだ。……しかし、呪いを断ち切ろうにも、女を殺すこともできないとはな。女を殺せば、自分を殺すことになるんだからな」


 ライカは自嘲した。あの時ライカの目に映った『命の鎖』は、決してまがいものなどではない。女の身に何か危険なことが起これば、あの紅い紐に繋がれた自分の心臓は即座に止まるのだろう。

 一同の間に流れる重い雰囲気の中、テスがぽつりと呟いた。


「…………今日は来ない方が良かったっすね…………」

「ふん、俺は後悔していない。確かに呪いを避けられるものなら避けたかったが……長年消息のつかめなかったシスイにつながる手がかりを得たんだ」


 そこで、ライカはまだぐったりしたままの奈美を親指で指した。


「あの女を手元に置いておけば、またシスイにつながることができるかもしれない。……そうだろ、ダンチョウ?」


 ライカの問いかけにダンチョウは頷いた。


「それゆえ、ライカどのはカンドルにこのおなごを連れて帰ろうとしているのですな。例え、おなごを通じてシスイに手の内を見せることになろうとも……」

「そうだ。……ま、手元に置いていた方が監視はしやすいだろうがな」


 女と共にカンドルに帰るという事実がだんだんと現実味を帯びてきたことに緊張しながら、テスが訊いた。


「で、でも、カンドルに女を置くっていうんすか? あの男だらけのとこに?」

「確かに、男所帯におなごを置くというのは、ちと問題がありますな……。カンドルの皆におなごの存在を隠して住まわせたとしても、二、三日のことならまだしも、長くは隠しきれないでしょうし……。もしおなごが窟にいると分かれば、隊員たちの士気が落ちかねないですし、おなごの身にも違う意味での危険が及ぶ可能性が……」


 ダンチョウの最後の言葉を聞いて、テスがまたもや鼻血を噴き出した。鼻を押さえながら、真っ赤な顔をしたテスが叫んだ。


「ダンチョウさんったらフケツ~~!」

「しかし、事実だろう? カンドルの隊員たちは皆、妓楼に通う女好きだ。……まあ、私も含めてだが。はっはっは」


 こういう話題になると、いつもならライカはつまらなさそうな顔をしているのだが、今は違った。陽気に笑うダンチョウの横で、ライカも笑みを浮かべていた。


「まあ心配するな。俺にいい考えがある」

「いい考え? 何っすか?」

「詳しくはカンドルに着いたら話す。だから、ほら、今の内に休んでおけ。休憩を終えたら、カンドルまで休みなく行くぞ」


 ライカはそう言うと、地面に寝転がり、目を閉じた。

 テスはちえっと口を尖らせたが、やがて後ろにばたんと倒れ、十秒後には寝息を立て始めた。ダンチョウも木の幹に寄りかかると、一眠りすることにしたようだ。


 辺りが静かになった──。しばらくして、強い風が吹き、小さくなっていた焚火の火が消えた。

 その時、暗闇の中を一つの影が動いた。それはむくっと起き上がると、きょろきょろと辺りを見渡し、それから後ずさるようにしてその場を去っていった。


(やった! このチャンスを待ってたのよ!)


 奈美は男たちからうまく逃げ出すことができたことに、心の中でガッツポーズを決めた。

 奈美は目覚めたとき、男たちは焚火を囲んで何やら話し込んでいた。その場は寝たふりを決め込み、男たちが油断したときに脱走しようと企んでいたのだ。

 だが、辺りは真っ暗な荒原だ。足元もよく見えないので危ない。奈美はひとまずライカたちに見つからないように隠れられる場所を探した。


(まったく……それにしても、ここ、とんだ田舎ね。灯りひとつないじゃない。民家のひとつくらいあってもいいじゃない)


 つまずきながらも五分ほど歩くと、木々の茂った場所に出た。奈美はそれを見つけるやいなや、一本の木の幹に身を隠すように飛び込んだ。

 そして、木の根元に座り込むと、鞄の中からスマホを取り出す。電源を入れると、辺りがパッと明るくなった。暗闇のなかで煌々と輝く画面を見るだけで安心するのは、やはり人間の本能だろうか。


「警察、警察よ! 通報すればもう大丈夫よね。事情を話せば、すぐにあいつらを逮捕して、私のことも探してくれるわ。1、1、0……と」


 スマホを耳に当て、警察につながるのを待った──。が、何かがおかしい。つながらないのだ。


「あ、あれ? な、なんで!?」


 奈美はスマホを耳から離して画面を見た。すると、奈美の目にある文字が飛び込んできた──「圏外」。

 愕然とする奈美に、さらなる災難が起こった。突然、スマホの画面が真っ暗になったのだ。バッテリーがなくなったのだ。一秒でも早く助け出してほしいのに、不運は続くものだ。


「う……うそ」


 その時、何かの気配を感じて、奈美はハッと頭を上げた。暗くてよく見えないが、草を踏み分けて、何かがゆっくりとこちらに近づいてくる。


(まさか……私がいないことに気付いて、あいつらが追ってきた?)


 そう思って、奈美は身を固くした。

 雲が開けて、月明かりが差し込む。奈美の隠れる場所も少しだけ明るくなり、視界が照らされた。

 ──奈美の前にいたのは、自分を追ってきた男たちではなかった。というより、人間ではなかった。


「い、犬……?」


 そう、奈美が目にしたのは、犬だった。脚が長く、耳は小さめの、中型の日本犬ほどの大きさだ。

 男たちではないことが分かって、奈美は呆気にとられた。が、それもつかの間のことで、どうやら事態は緊迫していることに気が付いた。

 犬は低く唸りながら、ギラギラとした目で奈美を睨みつけている。そして、一頭だけだと思われたその犬の背後から、次々と別の犬が現れ──全部で八頭の犬が奈美を囲った。犬たちは、じりじりと間合いを詰めていく。


「い、いやよ、犬に食い殺されるなんて──」


 奈美は目に涙を浮かべながら、そう呟いた。地面に激突して死ぬのも嫌だが、こんな死に方も嫌に決まっている。

 だが、相手は獣。無情にも、一頭の犬が前に飛び出すと、他の犬たちも一斉に奈美に向かって飛びかかってきた。奈美は反射的に後ろにのけ反った──が、背後は木の幹があって、逃げ場などない。


「────ッッ!!」


 犬たちが奈美に襲いかかろうとしたその時────宙に炎が舞い上がった。

 奈美の顔にカッと熱が帯びた。それと同時に、数頭の犬が炎に包まれた状態で地面の上でもがき、他の犬たちは一目散に逃げて行く。


「え……え?」


 訳が分からず、奈美はただ呆然とそれを見ていた。が、後ろから降ってきた声で我に返った。


「こそこそと逃げ出したから泳がせておけば……。わざわざオオカミの餌食になりに来たのか?」


 そんなことあるわけないじゃない──と言ってやりたかったが、月に照らされたその姿を見て、奈美はただ口をパクパクとさせることしかできなかった。

 奈美がもたれていた木の上に、一人の男が立っていた。もう二度と会いたくなかった男──ライカだ。


(──見つかっちゃった!)


 必死に逃げ出してきたというのに、結局は再びこの男に捕まってしまうのか──奈美の背筋が恐怖でぞっとした。

 奈美が固まっていると、ライカが木の枝から飛び降り、奈美の目の前に着地した。そして、奈美が持っていたスマホをすかさず取り上げ、まじまじと見始めた。


「さっきから見てたが、何だこの箱は? 突然光り出したかと思えば、今はまた暗くなって……怪しいことこの上ないな。没収だ、おまえの荷物全てな」


 そう言うと、ライカは奈美の鞄も取り上げた。


「あっ、ちょっと返してよ!」

「ああ、返してやろう。おまえがシスイの間者ではないと分かった時にな」

「そ、そんな……」


 一体自分がどのような状況に置かれているのか──それがまだ理解できないまま、奈美はライカに引きずられるようにして、脱出したはずの場所へと戻っていったのだった。


 そしてその途中、ライカはずっと思い出していた──オオカミが奈美に飛びかかる直前、再びあの紅い鎖が突如現れ、この暗闇のなか、自分とこの女の胸を煌々と繋いでいるさまを。


(俺がオオカミを退けると、消えた──。『命の鎖』……か)



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