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並行世界(パラレルワールド)は君のいる世界  作者: 方丈 治
第二章

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【番外編4】鶴が見た夜明け

 

 薄暗く、湿度の高い小部屋。明り取りのための窓は、握り拳さえ通らないほど小さく、逃げ出すことは不可能だ。ただでさえ特殊な街の特殊な店の中、ここはまさに牢獄だった。


「あーあ、また失敗かあ……」


 シイラシは小さな窓に手をかざしながら、つぶやいた。


 ここは景の都の遊郭街──景趣に立ち並ぶ妓楼のひとつだ。貧しい村に生まれたシイラシは、13になるこの歳、親に売られてこの妓楼に連れてこられたのだった。


 だが、シイラシは妓楼に、この特殊な街になじめなかった。気が強いという元来の性格もあり、見知らぬ男たちに自らを売る商売を受け付けなかったシイラシは、これまで何度も景趣から脱走を試みたのだった。


 その結果が、これである。もう何度目になるだろう、この懲罰部屋に閉じ込められるのは。


「……あなたも何か悪いことしちゃったの?」


 突然の声に、シイラシは肩をびくりとさせて、周りを見渡した。部屋の隅、暗がりの中にのそりと起き上がる影がひとつ。暗い上にこの部屋は物置部屋としても使われていたので、何かの物だと思っていたのだが。起き上がったそれは物ではなく、一人の少女だった。


「い、いつからそこに?」

「ん~~? もう半日は経つかなぁ?」


 恐る恐る尋ねたシイラシに、少女は明り取りの窓をちらっと見てから答えた。


「暗いし退屈だから、寝てたんだぁ。ねえ、あなたシイラシでしょ? 最近うちに売られてきたっていう」

「そうだけど……何?」


 ムッとするシイラシに、少女は手をパンと合わせ、明るい声で言った。


「やっぱり! 私、あなたとお話ししてみたかったんだあ~~」

「私と? どうして?」

「だって、景趣の外から来たんでしょ。外の世界のこと、聞きたいんだぁ」

「そんなこと話して、何になるの」


 シイラシは鼻で笑った。今さら外の世界のことを話しても、虚しくなるだけだ。景趣脱走が失敗した今は特に。


 だがシイラシの侮蔑を気にするでもなく、少女は朗らかに言った。


「この世界がどんななのか、知りたいの! 私、外の世界に出たことないから」


 少女の名はアカツメで、シイラシと同い年だった。アカツメは娼妓の母から生まれたため、景の都どころか景趣からも出たことがなかった。


 そんな彼女は夢があった──景趣の外に広がる、広い広い世界を見てみたい、と。


「一度でいいから、自分の目で外の世界を見てみたいの。だからこっそり景趣を出ようとしたんだけど……今回も見つかっちゃった」


 そう言ってペロッと舌を見せるアカツメは、まだまだ幼さの残る少女だった。その瞳には、夢と希望の光が宿っていた。


 一方、シイラシはこの世の醜く、汚い部分を知っている。目を伏せがちに、つぶやいた。


「……こんな世界、大したことないよ。こんな目に遭うのに見合わないくらいには」

「ふうん……」


 アカツメはまじまじとシイラシを見てから、こう言った。


「いいな……うらやましい」


 そう言われたシイラシは顔をしかめた。


(何がうらやましいっていうの? 知っているからこそ、辛いのに)


 その時、部屋の外から扉のかんぬきを外す音が聞こえてきた。扉が開き、一人の男衆が恐い顔でアカツメを睨んだ。


「アカツメぇ、今度こそ反省したか? 次やったら水責めだぞ、分かってんなぁ?」

「はぁい」


 本当に分かっているのか分からない返事をすると、アカツメはタタタとシイラシの横を通りすぎて、扉へと駆け寄った。


 男衆に続いて部屋を出ようとしたところで、アカツメはくるっとシイラシの方を振り向いた。


「また後でね、シイラシ。あら……あなた、とってもきれいね」


 廊下からの明かりで照らされたシイラシを見て、アカツメはにっこりと笑った。


 そう言ったアカツメの顔の右半分は茶色い皮膚で覆われ、右目に光は宿っていなかった。





 それからシイラシも懲罰部屋から出され、見習い娼妓として過ごす日々を送っていた。


 その中で、段々と分かってきたことがある。この前懲罰部屋で一緒になった、あの少女のことだ。


「アカツメ? あぁ、あの子の火傷はね、昔お客に熱湯をかけられたのよ。そのお客ね、普段から荒っぽかったんだけど、あの時はさらに機嫌が悪くてね。私らも迷惑してたんだよ。……ま、その騒ぎの後、うちの男衆たちに袋叩きにされたんだけどね」


 そう話すのは、姉娼妓だ。まず一つ目にシイラシが納得いかなかったのは、可笑しそうに話す彼女の態度だ。


「女人の顔が傷つけられて、笑っている場合じゃありません!」

「ごめんごめん。別にアカツメを笑っているわけじゃなくて……そうだね、仕方ないんだよ。相手は客で、私らは娼妓。どうしようもない。運が悪かったんだ」


 そうため息を吐く娼妓に、シイラシはまだ納得がいかない。仲間が酷い目に遭ったというのに、代わりに自分がその被害に遭っていたのかもしれないのに、どうして「運が悪い」で片づけられるのか。


「……なら、今からでも薬師にみてもらっては? 完全に火傷の痕を消すのは無理でしょうけど、薄くするくらいは──」


 過ぎてしまったことはどうすることもできないが、これからの行動は決めることができる。そう思って口を開いたシイラシに、娼妓は呆れた様子だ。


「あんたねぇ……薬師を呼ぶのに、どれだけ金がかかるか知らないのかい。上級娼妓ならまだしも、美人なわけでもないアカツメに楼主が大金を出すわけないよ。ま、あんたなら出してもらえるだろうがね」


 そう言って、娼妓は妖しい笑みを浮かべてシイラシの頬を撫でた。


 その手をシイラシは払いのけると、ばっと立ち上がり、部屋を出て行こうとした。その後ろ姿に、娼妓は声を掛ける。


「あんたももう諦めな、この景趣から脱走なんてできやしないんだから。あんたはね、妓楼(うち)一番の娼妓になれる器量があるんだから──」


 最後まで聞かないうちにシイラシは廊下を走った。


 どこに行くあてもなく走る中、先ほど姉娼妓に言われたことが頭をかすめる。


 彼女の言葉で、もうひとつ納得がいかなかったこと──それは娼妓が男に消費されるだけの存在だと、まるでそれが覆ることのない定めかのように喋っていたことだ。


(よく知りもしない男にこの身を捧げ、挙句の果てに不満のはけ口にされるなんて……冗談じゃない! 私は絶対に食い尽くされたりするものか!!)


 腹の奥底に憤怒の情を溜めたまま、ちょうど台所の横を通りかかる。そこで仕事中の数人の女中たちの会話が、シイラシの耳に飛び込んでくる。


「──さっき男衆が騒いでたよ。アカツメがまた抜け出そうとしたんだと」

「可哀想に……今度はただの懲罰房行きだけじゃなくて水責めの罰も加わるんだろ? お客にあんな目に遭わされたってのに、少しは勘弁してやってほしいもんだよ……」

「しかしねえ、アカツメもアカツメだよ。性懲りもなく脱走するんだから。観念して娼妓として生きていくしかないのにねぇ」

「あんな顔にさせられて、まともな客がつくかってんだよ。遊郭という名の牢から逃げられず、かといって娼妓としても生きていけず。はあ……ひどい運命だよ」


 そこまで聞くと、シイラシは店の外に向かって駆けだしていった。





 懲罰部屋には、数人の男衆。そして彼らが取り囲んでいるのは、アカツメだった。


 アカツメは手足を縛られ、水責め罰を受けている最中だった。


「おい、こいつも入れといてくれ。また抜け出しだ」


 男衆の一人が水を張った桶の中にアカツメの頭を沈めていると、部屋の入口からそう声が掛かる。縄で両手両足を縛られた状態で入ってきたのは、シイラシだった。


「……シイラシか。おまえも懲りねえなあ」


 男衆が呆れたようにため息を吐いた瞬間、通りがけにシイラシの足が桶を蹴飛ばし、辺りに水がぶちまけられた。それと同時に、溺死の恐怖から解放されたアカツメが、ゲホゲホと口から水を吐いた。


「──何をする!」

「スミマセン。足が縛られているもので、うまく動かせなかったんです」


 しれっと答えたシイラシに男衆の一人が手を上げようとしたが、別の男に止められた。


「おい、よせ! シイラシに傷でもつけたら旦那様にどやされる! シイラシは将来、うちの大事な看板娼妓になるんだぞ!」


 そう諭された男衆は怒りを何とか鎮め、手を下ろした。シイラシが冷たい目でそれを見ていると、男衆たちはひそひそと話し始めた。


「おい、水責めの続きはどうする? まだ始めたばかりだろ……」

「もういい。水を運び直すのも面倒だ。それにこいつはどうせまた同じことをするだろ。続きはその時にすればいい。──おい、床を拭いておけよ。いいな?」


 そう言うと、男衆たちはぼろ雑巾をシイラシに投げつけ、舌打ちしながら部屋を出て行った。


 扉が固く閉ざされ、閂を掛ける音が響くと、ようやく呼吸が落ち着いたアカツメが口を開いた。少しくたびれた笑みを浮かべて。


「ありがとう。助けてくれたんでしょ」

「……違うわ」


(──別に、この子のためじゃないもの。私はいつものようにここから逃げ出すために脱走を企てて、また失敗しただけ。それで入れられた懲罰房に偶々、この子が居ただけなんだから)


 シイラシがそっけなく返したところで、素直になれないその心は見透かされているようだ。アカツメはクスッと笑うと、シイラシに近寄った。


「ね、あなたも景趣を脱走しようとしていたの?」

「そうよ」

「抜け出したら、どこに行くの? 生まれ育った家?」

「……ううん」


 縛られたままで床を拭くシイラシの手が止まる。自分を売った親のもとに帰れるわけがない。


 だが、アカツメは意地悪でそう尋ねたわけではないのは分かる。ただ単純に、彼女は無垢なのだ。


「行き先は決めてない。……けど、誰かに媚びることも、縛られることもない場所に行きたい──かな」


 そう言った後で我に返った。口をついて出てしまった言葉にシイラシが動揺していると、アカツメがぽろっと一言つぶやいた。


「あなたって、鶴みたい」

「……ツル?」

「昔、お客様に見せてもらった画集に描かれてたの。景ノ国からずーっと遠い地にいてね、海を越えてよその国と行き来するんだって。その姿はとっても優雅できれいなんだ」


 鳥に例えられたことをどう受け止めたらいいかシイラシが決めかねていると、アカツメはにっこりと笑って付け加えた。


「鶴を籠の中に閉じ込めておくことはできないんだよ」



◇◇◇



 その日から、シイラシとアカツメは忙しい見習い仕事の合間を見つけてはこっそりと会って、他愛もない話をするような間柄になった。


 妓楼という環境に馴染めないシイラシにとって、その時間だけは年相応の娘としてふるまえたのだ。


 そして時折、アカツメが脱走を企て失敗したと聞きつけるやシイラシも脱走を企て、共に罰を受けた。シイラシが先に脱走を企て、後にアカツメも、という場合もあった。


 ──そうして歳月は経ち、シイラシは17の齢になった。


 景王ヤワジが名君から暴君へと豹変し、悪政によって国内情勢が混迷していた頃、シイラシのお披露目が近付いていた。もちろん、一人前の娼妓としてのお披露目である。


 そんな折、シイラシのいる妓楼に大物の客が来た。剣を携えた武人の客に、楼主をはじめ娼妓たちは浮足立っていた。


 大物の客──それは今を時めく景ノ国の将軍、カンナビ・バイカだった。


 この体格のよい丈夫ますらおが一人の若者を連れて妓楼に入ってきた瞬間、待っていましたとばかりに初老の男が駆け寄ってきた。


「これはこれはカンナビ・バイカ将軍! お初にお目にかかります、楼主のチャナバと申します。本日はこのような小さな妓楼に足をお運びくださり、感謝申し上げます!」

「今日は世話になる。……先客はあったか?」

「はい! 部屋でお待ちです。ささ、どうぞこちらへ」


 楼主チャナバはへこへこしながら、バイカとその連れを部屋へと案内し始める。その様子を隠れながら見ていたのは、手の空いていた娼妓たち全員である。


「うわぁ……楼主さま、見るからにゴマすってるね。見てよ、あの緩んだ顔」

「まあ、無理もないさ。相手はヤワジ王のご腹心だもの。こんな上客、滅多に無いよ」

「バイカ将軍、相変わらず精悍なお姿で素敵だわあ~~。見た? あの太くて盛り上がった腕! 分厚い胸板!! 一度でいいから抱かれてみたいもんだよ」

「確か、将軍は後妻もお妾もいらっしゃらないんだろ? なら、今日が千載一遇の好機じゃないか!」


 娼妓たちがきゃあきゃあと盛り上がっていると、その中の一人がバイカの後ろに居た連れの若者に気が付いた。


「あら? バイカ将軍のおそばにいるのは……もしかして跡継ぎのライカ様じゃないかい!?」


 その一言に、おしゃべりに夢中だった娼妓たちが一斉にそちらの方を向いた。


 バイカの後を歩くのは眉目秀麗な若者で、必要とあらばいつでも抜けるように片手に剣を携え、辺りを窺っている。妓楼の中とは言えど警戒は怠らないようだ。


「はーー……水も滴るいい男だこりゃ」

「バイカ様とはまた毛色の違うイイ男だねぇ……惚れ惚れするよ」


 商売上男を見慣れているとはいえ、娼妓たちは皆、うっとりとした眼差しでライカを見つめている。


 やがて彼女たちはハッと我に返り、急に慌てた様子で立ち上がった。


「こうしちゃおれないよ! 急いで支度しなくっちゃ!」

「そうだね! いつお呼びがかかるかもわからないもんね!」


 そうして娼妓たちが身支度にその場を去っていった後、その場に残されたのはシイラシとアカツメだった。


「はぁあぁ~~……噂通りの美丈夫なんだねぇ……」

「そうかしら」


 アカツメも他の娼妓たちと同様、心奪われた顔でライカを扉の陰から盗み見ている一方で、シイラシは全く関心がなさそうだ。


「男なんて皆、被った皮が違うだけでどれも一緒でしょう。少なくともこれまで見てきた男たちはそうだったわ」


 姉娼妓たちの客をたくさん見てきたシイラシにとって、それは紛れもない事実だった。


「相変わらずの悪たれ口」


 そうアカツメが苦笑すると、思いついたように声を上げた。


「……あ。でもね、シイラシ。もしかしたらもしかするかもしれないよ」

「? 何のこと?」

「も~~! シイラシがあの将軍様かそのご子息に見初められるかも、ってことだよぉ!」


 いち娼妓ならば誰もが夢見ることにまったく興味を持たないシイラシに、アカツメはじれったそうに声を上げた。


「だって、こぉんなに美しくて芸事も達者、その上話術まで長けてるんだよ? 私みたいな醜女しこめには望みもないけど、シイラシだったらきっと──ううん、絶対身請けされるよ! そしたら景趣を出るっていう念願が叶うんだよ!?」


 確かにシイラシはこの妓楼一……いや、景趣一の娼妓になるだろうと噂されるだけの女人に成長した。この数年間、度々脱走を企てても大きな罰を受けずに済んできたのは、それほど将来有望な人材だったからだ。


 けれど本人にその自覚があるのかないのか、シイラシは娼妓になることをいまだ受け入れてはいなかった。お披露目は目前だというのに。


「気持ち悪いこと言わないで。景趣は出たいけど、男に媚びて、金で買われるなんてまっぴらよ。それにね、醜女なんかじゃない。あなたは誰よりも美しいわ」


 顔の半分を火傷の痕で覆われた女が誰よりも美しいなんて他の誰かに聞かれれば笑われるに決まっているのに、彼女は恥ずかしげもなく、まっすぐな瞳で言ってのける。そのことに呆れるのと同時に、嘘でもそう言ってくれるのがアカツメはうれしかった。


「それにね、私は一人で景趣を出たりしない。外を出る時はあなたと一緒よ」


 こう付け加えたシイラシに、アカツメの目頭がじいんと熱くなる。一番の娼妓になろうとしている彼女が、役立たずで何の価値もない自分にこんな言葉まで掛けてくれる。そんな親友と出会えたことが、アカツメには僥倖の極みだった。


 しかし、アカツメはシイラシの言うようなことはできるわけがないと思っている。景趣を生きて出られる娼妓は、ほんの一握りであることを知っているから。シイラシだけなら身請けで出られる可能性は高いが、自分も一緒にとなると、それは途端に絶望的なものになってしまうのだ。


 とはいえ、ここでシイラシの言葉を「それは無理な話だ」と否定したり、「私のことは置いていって」と卑下しない。現実はどうであれ、気持ちはシイラシと同じなのだから。


 だからこそ、アカツメは明るく、茶化すように言った。


「身請けを狙わないってことは、年季が明けるまでってこと? 10年も待ってたら私たち、しわしわのお婆さんになっちゃうね」

「あら、景趣の女人は仙女と言われているのよ。私たち、こんなに美しいのなら、100年後だって美しいままよ」


 アカツメとシイラシが笑い合っていると、チャナバが慌てた様子で二人のもとに駆けこんできた。


「こんな所で油を売っていたのか! シイラシ、早く支度をしろ」

「……何ですか」


 シイラシの腕を掴んで立たせようとしたチャナバに、シイラシは冷たい視線を送る。


 そんなシイラシの態度にいつもなら激昂するチャナバだが、上機嫌な様子でこう言った。


「決まっているだろう、お客様がお前をご所望だ。今日がおまえのお披露目の日となるんだ!」



 ◇◇◇



 楼主に案内され、バイカとライカは一等の座敷に入った。そこでは、二人の男が待っていた。


節部卿せつぶきょうどの。待たせて申し訳ない」


 バイカがそう言うと、年老いた方──節部省の長官フドクが笑みを浮かべながら口を開いた。


「いやいや、私どももつい先ほど来たところです。これは末息子のソンドラです。この度城勤めになりましてな、バイカどのにご挨拶申し上げたく連れてきたのです」


 それと同時に、フドクの傍にいた若い男──ソンドラが礼をした。ソンドラはそっとバイカから視線を動かし、自分と同じ年頃の、バイカの連れを盗み見る。


(コイツが都で噂になってるカンナビ・ライカという男か。フン、世間はこの見た目に騙されているのだろう。なにせコイツは──)


 その瞬間、ライカがこちらに視線を向けたため、ソンドラはばっと目を伏せた。


(な、何だ……?)


 一瞬目が合っただけなのに、ソンドラの心臓はバクバクと激しく鼓動する。まるで蛇に睨まれた蛙のように。


 その間、バイカとフドクは差し障りのない話をしていた。やがてそれが一段落すると、フドクが下品な笑みを浮かべて切り出した。


「ささ、こうして妓楼に来ていただいたのですから堅苦しい話は後にして、まずは妓楼遊びに興じましょう。今日は私がお呼び立てしましたからな、もちろん支払いは全てが私が持ちますぞ。遠慮なく遊ばれていってください」


 そう言うと、フドクは座敷の外に控えていたチャナバに合図を送る。あらかじめ大勢の娼妓を用意してもらうように言っておいたのだ。


(……ふん。この男やもめには女でもあてがって機嫌をとっておけば、操るのも容易いだろう。そのためにこの妓楼を貸し切ったのだ)


 大事な話はその後だ。将軍もその息子も、妓楼の空気に酔わせてしまえばこちらのものだ。これまでどんなに気難しい相手でもそれでこちらの意のままに仕向けることができたし、今回もそうなるはずだった。


 だがフドクの企みも虚しく、バイカは眉をひそめると、はっきりと言い切った。


「申し訳ないが、今日は遊びに来たのではない。話をなさる気が無いのであれば、私どもはこれで失礼する」


 そう言うなり、バイカたちが立ち上がったので、フドクは慌てて引き止めた。


「そ、そんなことをおっしゃらず! わ……分かりました。では私どもは向こうの部屋で話をしましょう。──おい、ソンドラ。その間、おまえはこちら──御子息のライカどのをおもてなししなさい。若い者同士、気が合うだろう」


 意味ありげな視線をソンドラに送ると、フドクはバイカと共に座敷を出て行った。


(……くそ。こんなバケモノと二人きりにされるとは……)


 ──二人きり。気まずい空気の中、ソンドラはチラッとライカを見る。


 父の言いたいことは分かっている。バイカ将軍は思惑通りとはいかなかったが、せめて息子のライカの方だけでもご機嫌取りをしておけば、将来活きてくることもあるだろう。奇人とはいえど、あのカンナビ家の跡継ぎなのだから。


 ソンドラは覚悟を決めると、張り付いたような笑みを浮かべてライカに話しかけた。


「ラ、ライカどの? 折角ですし、御父上を待たれる間、娼妓をお呼びしましょうか?」

「要らん」


 そう一蹴されたが、ソンドラは諦めずに続ける。


「しかしですね、妓楼を貸し切って、娼妓も選り取り見取りなんて滅多にできないことですよ? しかもライカどのなら娼妓たちは皆喜んでお相手するでしょう。もったいないですよ」


(ぐ……何故俺がこんなことを言わなきゃならんのだ)


 いくらおべっかとはいえ、ソンドラは言ってて悲しくなってきた。


 ソンドラは知っている。この男ライカは近くを通り掛かるだけで、景趣の女たちをうっとりさせるのを。対して身銭を切って景趣通いに精を出す自分には、イモ臭いだのケチ臭いだの陰口を叩かれているのも。


 そんなソンドラを憐れに思ったのかどうかは分からない。ライカはひとつため息をつくと、言った。


「呼びたいのなら呼べ。但し、一人でいいからな」


(……一人でいいだと?)


 ライカのその言葉に、ソンドラは耳を疑った。二人の客が座敷で遊ぶならば、最低でも5、6人の娼妓は入れるものだ。それを一人でいいとは。


(フン、どうせ妓楼遊びをしたことのない無骨者か、女を知らん坊やなのだろう。世間からもてはやされているのかもしれないが、何だ、俺の方が男として上ではないか)


 優越感を感じたソンドラは気を良くすると、控えていたチャナバに上機嫌で伝えた。


「おい楼主。もうすぐ見習い上がりの娘がいただろう。そう、景趣一の娼妓になると噂のな。このソンドラとこちらのライカどのが、その娘のお披露目を見届けてやろうではないか」



 ◇◇◇



「大変お待たせしました。ソンドラ様」

「遅かったじゃないか」


 座敷の扉が開き現れたチャナバに、ソンドラが待ちわびた顔で言った。娼妓が来るまでの時間、ソンドラは当たり障りのない会話で何とかライカと二人きりの時間を凌いでいたのだから、まさしく本音だ。


「当妓楼が誇る娼妓、シイラシの準備が整いました。お二方のような尊いお方にお披露目の機会をいただけるとは光栄の至りでございます。シイラシ、こちらへ」


 チャナバが背後に向かってそう促したが、誰も出て来ない。再度強い口調で急かし、ようやく前に出てきたのが、一人の娼妓だった。


「おぉ……」


 一目見ただけで、ソンドラは思わずため息が出たほどだ。色とりどりの刺繍をあしらった華やか衣裳で着飾り、化粧は本来の美しさをより際立たせている。彼女は、妓楼通い歴数年のソンドラでも見たことのないほどの、美しい娼妓だった。


「なんと美しい……」


 そう呟いたソンドラに、チャナバが得意げに説明する。


「美貌だけではございません。舞わせても良し、琴を弾かせても良し、歌わせても良しでございますよ」

「なるほど。では早速、舞を見せてもらおうではないか」

「かしこまりました。これシイラシ、ぼうっとしとらんでこちらに──」

「おまえがいると折角の風情も台無しだ。早く下がれ」


 もはや麗しの娼妓しか見えていないソンドラは、しっしとチャナバを手で追い払う。思わず面食らったチャナバだったが、そっと後退りを始め、その途中でシイラシに耳打ちをする。


「……くれぐれも失礼のないように」


 そうして楼主がいなくなると、ソンドラは待ってましたとばかりにいそいそとシイラシに近付いて行く。


「ほぉお……美しい。実に美しい」 


 先ほどから舐めるようにして見てくるこの珂族の若者に、シイラシの体がぞわぞわと身の毛立つ。


(どうしてこんなことをしなきゃならないの)


 この座敷に連れて来られるまでに、姉娼妓たちにはやっかみの言葉を聞かされるし、楼主には「失敗は許さない」と小言を言われるし、散々な目に遭った。その上で客からはこんな仕打ちだ。姉娼妓たちにはまだ見られているだけだと言われそうだが、これから待ち受けている閨事ねやごとのことは考えたくもないので、考えないようにする。


(ああ、反吐が出る。見て呉れだけを見てくるこの男も、その価値しかない私も)


 そんなことを考えていれば、シイラシがソンドラを汚らわしいものであるかのように冷たい視線で見ていたのも当然だ。


 だが、ソンドラはそれを「凛とした雰囲気の娼妓」と受け取ってくれたようで満足気である。


「妓楼の女といえば客の前では皆笑顔ですり寄ってくるものだが、こんな娼妓もいるのか。うむ、すました顔もいいものだ。……だが、この顔が乱れるところを見てみたいものだな。向こうの部屋で、な」


 そう言うと、ソンドラがシイラシの頬と腰に遠慮なく触れてきた。シイラシの顔が引きつり、悪寒が全身を駆け巡ったのは言うまでもない。


(こいつ、引っ叩いてやろうか──)


 シイラシが睨み上げた瞬間、二人の傍から声が聞こえてきた。


「舞を見せてもらうのではなかったのか?」


 そう言うライカ自身は、さして舞に興味なさそうな顔だ。が、ソンドラを止めるには十分だったようだ。


「そ……そうでしたね、ハハハ……」


 ソンドラは渋々シイラシから離れると、再び元の席に座り込んだ。


「では、舞え」


 そう横柄に命令するソンドラに熱い茶でもぶっかけたくなったが、シイラシはふと名案を思い付く。


(……そうだ。気に入られなければいいのよ)


 珂族に手を出したり言うことを聞かなければ、死罪になるのは目に見えている。この暴政の世ではいとも簡単に。


 だが、入れ込むに値しない娼妓だと思わせれば、向こうから勝手に離れていく。


 そうとなれば、すべきことは簡単だ。おざなりに舞い、おざなりに対応すればいいのだ。


 シイラシは二人の珂族の前に立つと、扇を広げた。


 そして、舞い踊る。ふらふらとした足取りで、まったくもって心を込めた舞なんかではない。楼主がこれを見たらさぞ激怒するだろうとふと思い、舞いながらシイラシは思わず鼻で笑ってしまう。


 しばらく舞を眺めていたソンドラも、何かおかしいことに気付いたらしい。眉をひそめて、シイラシをじっと見ている。


「どうした? 調子でも悪いのか?」

「ええ。調べがないと調子が出なくて」


 そこでソンドラは、ほれ見たことかと言わんばかりにライカの方をちらっと見遣った。


(貴様が娼妓は一人でいいと言ったがために、最高の舞を見逃してしまったじゃないか!)


 気を取り直して、ソンドラは尋ねた。


「では琴を」

「あいにくこの寒さで指先が切れてしまいまして。ご不快にさせてしまう演奏しかできませんわ」

「……歌は」

「私、舞い疲れて喉が渇いてしまいました」


 手応えのない会話が進むにつれ、ソンドラにイライラが募っていく。


(だめだ、だめだ。相手はただの娼妓だろう。しかもこの男の手前、苛ついている場合じゃない)


 ソンドラは何とか笑みを顔に張り付けて、酒瓶を持ちあげてみせた。


「では酒を飲むといい。私がついでやろう」

「お酒で喉は潤いませんわ。お水でないと」


 そう言うと、シイラシはにっこりと笑い返した。無論、ここには酒しかないからこう言ってやったのだ。


(……なんてくだらない会話。使い物にならない女だって、早く追い出しなさいよ)


 シイラシはフッと息を吐くと、ソンドラの隣に座る男をちらっと見遣った。先ほどからほとんど喋らず、自分に卑しい視線を送ることもない。──が。


(どうせ、この男も腹の内は同じに決まっているわ。見た目と地位に恵まれている分、他の男以上に女など金と権力でどうとでもできると思っているのでしょう)


 同時に、哀れにも思えた。上辺だけで生きているこの男が、上辺の世界で生きている自分と同じように思えて。


 シイラシがライカを見て、フッと口元を緩めたのをソンドラは見逃さなかった。実際、この笑みの意味は“蔑み”だったのだが、ソンドラはそうは思わなかったらしい。


 自分につれない態度をしておいて、もう一人の男には媚びを売った。そう見えたのだ。


(──俺の方が男として勝っているのに)


 そう思った瞬間、ソンドラの口からよどみなく言葉が溢れていた。


「おい女! どうして俺を見ない! その男はな、確かにカンナビ家の跡取りだが、もとは拾い子で、賤民の出だと噂があるんだぞ? しかも奇妙な術を使うバケモノだ! そんな奴より、節部卿を父に持つこの俺の方がよっぽど優れた男だぞ⁉」


 ソンドラははあはあと息を吐きながら、気が付いた。シイラシがキョトンとした顔でこちらを見ていることに。


 そして沈黙を破った静かな声に、ソンドラはびくっと肩を震わせた。


「……なるほど。ようやく腹の内を見せてくれたな」


 ライカがニヤリと口の端を上げてこちらを見ている。それを見た瞬間、ソンドラの顔からさあっと血の気が引いた。


「い……い、いや、違うのです……ッ!」


 ──父に怒鳴られる。そして、頭の中のおのれの安泰な将来像が崩れていくのが見える。


 相手は自分と同じ如鱗杢じょりんもくの身分とはいえ、今を時めく将軍の息子だ。関係にひびが入れば、ソンドラの今後の立場が危うくなるのは必至。


 とにかくこの失態を何とか誤魔化さなければいけない。ソンドラはバッと立ち上がった。


「わ、悪酔いしてしまったようです。申し訳ない、今から水をもらってきます……!」


 そう言い残すと、ソンドラはバタバタと部屋を出て行った。


「いちいち五月蠅い男だ……」


 ライカはひとつため息を付くと、再び口を閉じてしまった。


 ライカと二人きり。しばらくの間、座敷は沈黙に包まれたが、やがてシイラシがポツリと呟いた。


「……少し思い違いをしていたようです」

「というと?」


 ライカがシイラシに視線を遣ると、シイラシは俯きがちに口を開いた。


「あなたのことを見せかけだけの、生まれた場所に恵まれているだけの虚しい男だと思っていました。そして、そんな上辺だけで周りにもてはやされている姿が、まるで私のようだって」


 黙って聞いているライカに、シイラシは続ける。


「……でも、実子じゃないどころか賤民出身で。しかも世間から忌み嫌われるという術持ちで。あなたは虚しい人じゃない。虚しいのは私だけ……」


 そうだ。初めからそうだった。自分はこの妓楼に売られてきてからずっと、現実を直視するのを避け、この檻から逃げることだけしか考えてこなかった。


 しかし、この男は違う。かせをはめられた状態で珂族社会の中に放り込まれたのにも関わらず、立ち向かい、今日まで生き抜いてきたのは紛れもない事実だ。身分制度の厳しいこの国では──珂族の社会はとりわけ、異質な人間が混じるだけで激しいそしりを受けるのだから。


「そうだな……おのれを虚しいと思っているようじゃ、確かにその通りの人間にしかならないだろうな」


 ライカのその言葉に、シイラシはハッと顔を上げた。


「おまえが『上辺』だと言うこの地位も、天の力も。人は俺のことを蔑み嘲笑うが、俺は為すべきことのためにその『上辺』を存分に使わせてもらっている。さて……おまえはどうする?」


 まっすぐな視線でそう問われ、シイラシは口を開こうとしたが、言葉は出て来ない。


 己に与えられた『上辺』──この美貌や娼妓として秀でた能力を、自分はどう扱うべきなのか? 現実から目を背けるのに躍起になることで腐らせてしまうのか、それとも──。


(私は……)


 その時、遠くの方から騒ぎ声が聞こえてきて、シイラシはハッとした。嫌な予感がして、ライカに一声かけると、座敷を飛び出して行った。





 騒ぎは台所の方からのようだ。紗覧の裾を踏まないよう、けれど必死に駆け付けたその現場を見た瞬間、シイラシの顔にカッと血が上る。


「お……お許しください……」


 そう弱々しく呟きながら平伏していたのは、アカツメだった。そして、彼女の頭を足で踏みつけ、ぐりぐりと額を床に押し付けているのがソンドラだった。


「何ということを……!」


 考える間もなく、シイラシはアカツメとソンドラの間に割って入った。アカツメの体を抱え込むと、ソンドラをキッと睨み上げた。


「何をするのですか!!」

「何だその目はぁ? 一介の娼妓が珂族に歯向かえばどうなるか……知らないなんて言わないよな?」


 ソンドラに顎を掴まれ無理やり上を向けさせられても、その指が痛いくらいに肉に食い込んでいても、シイラシは顔を歪めることさえしない。そんなシイラシに苛立ったのか、ソンドラがもう一方の手を振り上げた──その時だ。


「ソ、ソンドラ様……ッ!」


 この騒ぎの知らせを受け駆け付けてきたチャナバは、うずくまるアカツメ、そして睨み合う客とシイラシを見て、瞬時に青ざめた。


「うちの者が何か粗相を致しましたでしょうか……!?」

「おい楼主! 何故こんな醜い者がここに居るのだ!? 俺は水を取りに来ただけなのに、このような恐ろしい顔を客に見せるなど──」

「……は? アカツメは与えられた持ち場で仕事をしていただけです。それなのに、おのれの非によるいたたまれなさから逃れるために勝手に座敷を飛び出して、勝手に台所をのぞいて、勝手に腰を抜かして。粗相をしたのは、あなた様の方じゃないんですか?」


 シイラシにそうまくし立てられ、みるみるうちにソンドラの顔色が赤黒くなっていく。ついでにチャナバの顔色も真っ青を通り越して、真っ白だ。


「シ、シイラシ……!!」


 シイラシのその物言いに顔色を変えたのはチャナバだけではない。騒ぎを聞きつけた女中や娼妓たちが、最悪の事態を想像して不安そうに見守っている。


 ──最悪の事態。それはもちろん、不敬とみなされ、この場でシイラシどころかこの妓楼の人間全ての首が飛ぶことだ。


 だが、この張り詰めた空気の中、ひとつの笑い声が駆け抜けた。その場に居た者は皆、そちらを見上げる。


「これは見物だ。まさか妓楼で珂族と娼妓の修羅場が見られるとはな」


 この二階建ての妓楼は中央部分が二階まで吹き抜き構造となっていて、台所ここは一階北側にあった。その二階の吹き抜きから台所を見下ろすように欄干に腰かけていたのが、ライカである。


「いいだろう、俺が証人となってやる。……シイラシといったか。先ほどの問いの答えを見せてくれ」


 そう言葉を投げかけられ、シイラシはアカツメからそっと身を離すと、すらりと立ち上がった。


(そうだ。私も『上辺』を上手に使えばいい。あの人のように)


 この美貌も、知性と能力も、男に媚びるために使うのではない。これらを使って、男を手の平で転がせばいいのだ。男に消費されるのではなく、こちらが男を消費するのだ。


 シイラシはライカを一度見上げてから、すっとソンドラの顔を見下ろした。


 先ほどは直ぐに出て来なかった言葉が、今なら言える。


「今すぐお引き取りを。僭越ながら、旦那様は当妓楼の格に合わないでいらっしゃるかと」


 気後れする様子など微塵もなく、シイラシはまっすぐな視線をソンドラに向けて言った。


 まさか客を追い返すようなことを言われるとは思ってもみなかったようで、ソンドラは戸惑いを隠せずに息を荒くして言った。


「なっ、何だと? 娼妓ごときが珂族を追い出すのか!? 俺は節部卿の息子だぞ! そこらの珂族とは品格が違うんだ! こんな小さな妓楼ひとつ、俺が父に一言言えば、今すぐ潰すことができるし、お前たちの命だって──」

「まあ、ちっぽけな品格だこと。それは確かに他の珂族様と違いますわね」


 くすりと笑いさえしたシイラシに、ソンドラは何も言い返すことができない。ただギリギリと歯を食いしばっているだけだ。


 激しい言い合いを目の当たりにしている妓楼の女たちは皆、ポカンと口を開けている。こんなことを言って後が恐いのは、もちろんある。が、それ以上に胸がすく思いでいるのは事実だった。彼女たちが今まで言えなかったことを、この見習い上がりが言ってのけたのだから。


 しかし、楼主はシイラシの言動を見逃しはしない。鬼の形相で目の前にやって来ると、シイラシの頭を押さえ付けた。


「な……なんてことを言うのだおまえは! 今すぐソンドラ様にお詫びしなさい!!」

「それは出来かねます」


 シイラシに手をはねのけられ、チャナバはわなわなと身を震わせた。


「おまえというやつは……これまで私がおまえにどれかけ目をかけ、金をかけてきたのか知らぬわけではないだろう?! 今まで育ててやった恩を仇で返すのか!」

「そんなつもりは毛頭ありませんわ。楼主さまには計り知れぬご恩がございますから」


 そう言って口の端に笑みを浮かべたシイラシを見て、チャナバは背筋がぞくりとした。その美しすぎる笑みに、彼女が景趣一の娼妓として名を馳せる未来を垣間見たからだ。そしてその冷ややかな瞳の中に、燃え滾る炎が見えた気がしたからだ。


 高揚と恐怖の狭間で微動だにできないチャナバに、シイラシは続けた。


「ですが楼主さま、約束してほしいのです。もし私がそれだけ売り上げに貢献したら、私とアカツメを景趣から出してくださると」

「ハ、おまえとアカツメ二人分の身請け金を用意できると? アカツメはともかく、自分の身請け金がいくらか分かっているのか? 上位のご珂族様でもなければ到底出せない額だぞ」

「はい。心得ております」


 半笑いでしか取り繕えないチャナバに、シイラシは凛とした眼差しを向ける。


「私たちの身請け金の倍を稼いでみせましょう。そうすれば異存はございませんね?」

「ば、倍だと……?」


 チャバナがごくりと唾を呑み込んでいると、後ろからソンドラの喚く声がした。

「調子に乗るなよ、女! この俺がみすみすおまえをここから出すと──」


「おっ、お待ちください! バイカどの!」


 その場にいる全員が振り返ると、バイカとそれを追いかけるようにフドクがちょうど階段を下りてくるところだった。


「そなたが有意義な話し合いができると言うから参ったが……王様の暴政をお諫めする妙案でもあるのか思いきや、まさか自らもその暴政に加担しようというはらだったとは。いやはや、時間の無駄であったな」

「ひっ、ひい!」


 険しい顔でバイカにぎろりと睨まれ、フドクは階段の手すりに掴まったまま腰を抜かしてしまったようだ。


「節部卿の御子息どの」


 父の情けない様子と揺るぎ始めた自らの立場に戦々恐々としていたソンドラは、上から降ってきたライカの声にビクッと肩を揺らした。


「先ほどは何と言いかけたんだ? 折角だ、俺が最後まで聞いてやろう」

「いっ、いえ! 何でもありません!!」


 ライカの鋭い視線を浴びて、ソンドラは真っ青な顔でぶんぶんと首を横に振るだけだった。


「そうか。──楼主、」

「はっ、はい!」


 突然、呼ばれたチャバナも身を硬くして返事をした。


「おまえも、シイラシとの約束を違えぬように。もし守らぬようなら──」

「かっ、必ずお守りしますともっ! ええ、必ずです!!」


 蒼白の顔でそう叫んだチャバナに、ライカはニヤッと口の端を曲げた。


「……ならば、いい」


 その時、すでに出入口まで来ていたバイカが声を上げた。


「行くぞ、ライカ」

「はい、父上」


 そう答えると、ライカは二階の欄干から飛び降り、身軽に一階の床に着地した。


 そしてカンナビ家の親子が妓楼を出て行くまで、その場の全員が彼らの後ろ姿を見つめていた。



 ◇◇◇



 夜明けの頃、東菊に戻ってきたシイラシは、宴の余韻が残る部屋の横を通り過ぎ、奥の人の気配のする部屋を訪れた。


 そこには、ライカとすっかり眠りこけた奈美の、二人の姿があった。気持ちよさそうな奈美の寝顔を見て、シイラシはクスクスと笑う。


「あらあら。ナミさん、お酒の飲みすぎかしら?」

「……いや、不測の事態があってな。大したことはないから大丈夫だ」

「この幸せそうな寝顔を見る限り、そのようですわね」


 シイラシはクスッと笑うと、しずしずとライカの前に座り、深々と頭を下げた。


「ライカさん。カンドル隊の皆さまのおめでたい日におもてなしもせず、申し訳ありませんでした」

「いや、こちらの方こそ、うちの男どもがいつも迷惑をかける。……少しは気分転換になったか」

「ええ。皆、景趣で一番の宿で羽を伸ばしていますわ。私も先ほど顔を出してきましたが、至福だと喜んでおりました。いつもはおもてなしする側ですから余計に感じるのでしょうね」

東菊ここの娼妓たちはいい主人を持ったな。娼妓に対してそんな厚遇、普通はないだろう」

「……景趣は出してあげられませんから。私にできるのはこれくらいですわ」


 どこか遠くを見つめるシイラシを見て、ライカは何となく察した。彼女は思い出しているのだ──数多くの娼妓たちが受けてきたむごい仕打ちを。感じてきた虚無感を。


「それでおまえは一緒に宿でくつろがずに、一人でどこに行っていたんだ?」

「……親友の墓参りに。少し離れた場所にあるので中々行けなかったのですが……ライカさんのおかげで久々に参れましたわ」


 アカツメは数年前に病気でこの世を去った。


 シイラシが娼妓として稼いだ大金をチャナバが受け取り、景趣から出られる目前のことだった。


 結局死ぬまで景趣を出られなかったアカツメのために、シイラシは景の都近くの、見晴らしのいい丘の上に墓を建てた。せめて死後だけでも、アカツメに外の世界を思う存分見てほしくて。


「……それは良かった」


 フ、と微笑んだライカに、シイラシは思い出したように口を開いた。


「……あ、そういえば、先ほど店の前でチャナバに会ったのですけれど。『ライカ様に一目だけでもお会いして、此度のご栄転をお祝いしたい』とのことで」

「……勘弁してくれ」

「フフ。そうおっしゃると思って、断っておきましたわ」


 そうシイラシが言ったので、ライカはホッとため息を吐いた。


「まったくあの胡麻すりは相変わらずだな……。おまえと約束した額よりさらに上乗せした金を受け取って懐が暖かいにも関わらず、まだこの調子だとは」


 あの日、シイラシがチャナバと約束したのは、シイラシとアカツメ二人の身請け金の二倍の額だった。


 だが、実際にシイラシが支払ったのは三倍の額。自身の身請け金の十増倍じっそうばい(10倍)を稼ぎ出したシイラシを手放すことを渋ったチャナバを納得させるのに、結局そうなってしまったのだ。


「やはりあの時、俺が出ていけばよかったな。珂族という切り札を振り回せば、否が応でも奴は従ったろうに。余分な金を奴に渡す必要もなかった」

「これで良かったのですよ。チャナバが快く私を手放してくれたおかげで、こうやって堂々と妓楼を開くことができたのですから」

「そういえば、良かったのか? 共に景趣を出ると約束した友はいなくなっても、一人で景趣を出ることはできただろう。娼妓時代に稼いだその金があれば悠々自適に暮らせただろうに、東菊を開く資金に回すとは」

「……あら。ライカさんったら、私のことをまだまだ分かっていらっしゃらないのね」


 シイラシは意地悪そうな顔でライカをちらっと見てから、そっと目を閉じ、口を開いた。


「あの日、心に決めたのです。ライカさんが民を守るためにその『上辺』をお使いになっているように、私も娼妓たちと彼女たちの矜持を守るためにこの『上辺』を使うのだと」


 もし生きていたら、きっとアカツメも同じことを言っていたはずだ。だからシイラシは、この生き方をまっすぐ進むことができるのだ。


「うぅ~~……」


 その時、奈美がもぞもぞと動いたのを見て、シイラシはゆっくりと立ち上がる。


「昔話に花が咲いてしまいましたわね、申し訳ありません。ナミさんも床の上じゃ寝心地が悪いでしょう。いま布団を持ってまいります。お二人とも、今日はこちらにお泊りになってくださいな」

「いや、いい。今日はもう連れて帰る」

「あら、別にナミさんとの逢瀬の最中をのぞき見するような不躾なことは致しませんよ」

「……どいつもこいつも……」


 ライカは大きくため息をつくと、奈美の体をゆっくりと抱え始めた。


「窟で過ごすのも残りわずかだからな。片付けも残っていることだし、窟で過ごさせてやりたいんだ」


 そう言うと、いまだ寝ている奈美を背負ったライカは部屋を出て行った。その背中にシイラシは言葉を投げる。


「お城に移られても、いつでも遊びに来てくださいとナミさんにお伝えくださいな」


 ライカは頷くと、出て行った。それを見送ってから、シイラシはふうと空を見上げた。空は明るくなり始めていた。


 懲罰部屋の小さな小さな窓から見ていたあの空と同じ空なのに、シイラシはこの空がやけに美しく見えた。


「──さあ、今日もお客様をお迎えするために頑張るとしましょうか」



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