手首のほくろ
やがて、とある屋敷に着いた。それは、イルグカの屋敷と同じくらい広大で立派だった。そして、門をくぐる前から敷地の中まで、いたるところで私兵が警護していた。さすがのイルグカの屋敷でもここまでではなかったので、警護の厳重さに奈美は驚いた。
靴を脱ぐと、広い屋敷の中を案内されるままに付いて行く。途中、一人の小間使いが困惑顔で近付いてきた。
「ちょいとお待ちよ。今……」
「急いでおる。話は後でよいか」
有無も言わさず小間使いを退けると、家令はひとつの部屋の前で立ち止まった。奈美とライカも足を止める。
「失礼致します」
そう告げてから、家令は扉を開けた。部屋の中に見慣れた姿を見つけて、家令が安堵したように声を上げる。
「旦那様! お戻りでしたか」
主人のチガヤが、あの女人と向かい合せに座っているではないか。すれ違いになってしまったようだが、結果的にこうして無事会えたので、めでたしめでたし、だ。女人の顔がこわばっているように見えるが、具合が悪いからだろう。
そんな女人の顔を見据えると、ニヤリと笑ってチガヤが口を開いた。
「ああ、忘れ物があってな」
「ようございました。こちらのご婦人がいつもの呉服屋で待たれていたようなのですが、旦那様と出会えず、お困りになってこちらに来られたのです」
「私と『出会えず』? ……ほう」
「お加減はいかがでしょう。癪は治まりましたでしょうか。薬師を連れてまいりましたので、どうか治療をお受けください。ほら、こちら、先日団子屋でもお世話になった、あの薬師でございますよ」
家令はしずしずと客人に近付きながら、そう告げる。客人──スイが答える代わりに、チガヤが呟いた。
「……なるほどな」
「旦那様?」
「いや、何でもない。続けろ」
スイが何も言わないので肯定と受け取ったらしい。家令は奈美の方を向くと、お願いしますと促した。
予定は全て狂っていた。キギと会っているはずの将軍がなぜか帰ってきたし、使用人は今頃も薬師を探し回っているはずだった。しかも、連れてきたという薬師が、団子屋で作戦の邪魔をしたという、例の薬師だという。
「先日ぶりですね」
薬師にそう声を掛けられても、スイにとってはまるきり初対面の相手である。先日の団子屋で診察を受けたのは、姉のキギの方だったのだから。
「また脈をとらせてくださいね」
そう言われて、右手首を取られた。薬師は、手首に指を添えてじっとしている。
(大丈夫よ、大丈夫。薬師とはいえ、少し診てもらっただけの薬師に、別人だとは絶対に気付かれない。ハンゾウ様や仲間でさえ、私たち双子を完璧に見分けるのには、ある程度時間がかかったんだから)
そう自分に言い聞かせるが、スイの心臓の鼓動はドクドクと早くなる一方だ。左手首を隠すように、無意識に左手を袖で隠した。
キギとスイは鏡に映したような左右対称な見た目を持っていた。顔や手足の形はまるで同じだが、利き手やつむじの巻く方向なんかは逆だった。手首にあるほくろもその一つだった。
やがて何事もなく、薬師が手首から指を離した。スイがホッとしたのもつかの間、薬師は少し首を捻り、考え込んでいる様子である。
「あれ? あったと思うんだけどな……」
「な、何か?」
薬師がぶつぶつと言い始めたので、スイはドキッとした。
「いや、おかしいなと思って。この前診させてもらった時は、手首のここにほくろがあったんですよね。ちょうど拍動を触れる場所だから、目印になってわかりやすいなーって」
薬師が指し示したスイの手首に、ほくろはない。スイはぎくりとした。
「でもあなたのお顔は覚えてます。確かに先日お会いした方ですし。……まあ、きっと私の思い違いですね。すみません」
薬師──奈美がきまり悪そうに笑った瞬間、スイは動いた。正体がばれては長居は無用だ。部屋の入口の方には使用人や薬師の護衛らしき男が立っている。逃げ道は窓だ。スイは駆け出した。
「────くっ」
窓に手をかけた瞬間、後ろから取り押さえられた。将軍だ。
「双子の間者か? 大したものだ、私を騙し込むとは」
「え? え? どゆこと?」
奈美は突然の状況に理解が追い付いておらず、家令と共にオロオロするばかりだ。ライカは事の成り行きを静かに見守っている。
チガヤは腰紐を外した。それでスイを後ろ手に縛ると、紐の端を机の脚に括りつける。
チガヤは部屋を出て行く際、いまだ困惑している家令に告げた。
「この女が逃げださぬよう見張っておけ。私は外へ出て警護を強化してくる」
「はっ、はいっ」
チガヤの廊下を歩く音が遠ざかるのを聞きながら、残された者たちに沈黙が訪れる。その気まずさを破るように、奈美が口を開いた。
「……あの~……私たちはどうすれば……」
団子屋で出会った男女が再開し、実は女の方がスパイで男に捕まり……と、よく分からない展開になっていたが、すべて奈美には関係はないことだった。見たところ、女は仮病を使っていた様子なので、奈美は早くお暇したいところだった。それに気付いて、家令が慌てて声を上げた。
「はっ、そうでしたね! せっかく来ていただきましたのに申し訳ありません! 治療代をお支払いしたいところなのですが、今ここから離れることができず──」
「あっ、それは要らないです。何をしたわけでもないので。──そうだ」
その時、奈美は何かを思い出し、提げていた鞄をごそごそすると、袋をひとつ取り出した。
「これ、この前団子屋でご主人から頂いたお金なんですが……お返ししますね」
「しかし……それはれっきとした治療代です。どうかお戻しください。返されては私が旦那様に叱られます」
「でも、治療というほどのことはしてませんよ。脈を診たくらいですし。それに、この状況からすると、あの時も仮病だったんじゃないですか?」
家令は黙った。奈美は彼が納得してくれたと判断して、安心して銭袋を家令のそばに置いた。こんな大金をもらって奈美も気が気じゃなかったので、ようやく肩の荷が下りた心地だ。
「それじゃ、私たちはこれで」
そう言って、奈美がぺこりと頭を下げて部屋を出て行こうとした時だった。机に縛られた女が、突然叫んだ。
「──チガヤ将軍に女装癖あり!」
「……はい?」
奈美はポカンとしただけだったが、家令はギョッとしたようだった。
「なっ……あなたが何故それを!」
スイはそれを無視して、奈美に向かってただ叫んだ。
「これを情報屋に垂れ込んでください! どうかお願いします!」
「何ということを──」
家令はわなわなと体を震わせた。必死に隠してきた主人の秘密を、この女人は暴いてしまったのだ。
「薬師様がた、お待ちくださいっ……」
秘密を知ってしまった二人をこのまま帰すわけにはいかない。二人を呼び止めようと、家令が動いた──が、後ろからスイが家令を牽制する。
「私から離れていいのですか⁉ このくらいの縛りなら、縄抜けできますよ‼」
「くそ……!」
家令が舌打ちしたその瞬間、外から派手な音が響いてきた。続いて、男の声──チガヤだ──が部屋の中にまで聞こえてきた。
──その女を取り押さえろ! 決して逃がすな‼──
「えっ、今度は一体何?」
奈美が不安そうな顔で顔を上げたが、スイは一瞬で悟った。
(……キギ!)
姉が助けに来たのだ。このままでは姉も捕まってしまうかもしれない。姉妹共々捕らえられては、今まで手に入れた情報がすべて水の泡だ。だが動こうにも、煽った家令のすぐ目の前で、気付かれずに縄抜けは不可能だ。
スイが頭の中でぐるぐると考えを巡らせていると、薬師の護衛らしき男がいきなり動いた。つかつかとスイの方に歩み寄ると、両手を縛る縄を刃物で切ったのだ。
「な、なにを⁉」
家令が慌ててやって来たが、それをライカは後ろ手に取り押さえた。家令は突然のことに、ただ唖然としている。
「……失礼、少しの間ご辛抱を」
ライカは家令にそう告げると、今度は呆然としたままのスイを顎で促した。
「行け! 早く‼」
何故かは分からないが、この男は味方をしてくれるらしい。スイは立ち上がると、振り向かずに窓に足を掛け、外に飛び出した。




