表:プロポーズ
「縁亭」を出発してから、かれこれ二時間が経とうとしていた。肌寒かったので、奈美はマフラー代わりにショールを首に巻いてきていたのだが、こんな長距離を歩いていてはむしろ暑くなってきた。
奈美は先頭を歩く寛人に、もう何度目だろう、息も切れ切れに訊ねた。
「……ねえ、本当に道、合ってるの?」
その質問に、寛人も同じ答えで返した。
「地図が間違ってなければな」
寛人が片手に持っている地図は、旅館を出るときに女将からもらったものだ。女将曰く、この地図が無ければ地元民以外の者はまともに山を歩けない。寛人が地図を読み間違えるはずがないだろうし、女将のことも信じられないわけではないが、奈美は少し──いや、かなり、だ──自分たちが山の中で迷子になっているのではないかと疑っていた。
(あの時、寛人の言うことに頑として抵抗してたら、今頃は旅館の温泉にゆっくりと浸かれてたのかなあ……)
そんなことを思いながら、奈美は地面に目を落とした。奈美たちの行く道──道といっても獣道のようだが──は、足元にかなり気をつけなければならなかった。木の根や草で足が引っかかることが何度もあったし、崩れかけた地面を踏んで危うく滑り落ちそうなときもあったからだ。
そのとき、奈美は今まで気にも留めなかった自分の足を見てぎょっとした。履いてきていたロングブーツが泥だらけなうえに、細かいキズがたくさん付いていたからだ。こんな山道を歩くとはつゆほども思わなかったので仕方ないのだが、奈美の気分はとことん落ち込んだ。このブーツはただのブーツではない。開店六時間前の夜明け前から店の前に並び、給料をはたいて手に入れた限定モデルなのだ。
「お気に入りだったのにぃ~~……」
あまりのショックに、奈美はその場にへなへなと座り込んだ。それに気づいた寛人が立ち止まり、後ろの奈美を振り返る。
「どうしたんだよ、突然?」
「苦労して買ったブーツなのよ? わかる?」
今にも泣きそうな奈美を見て、寛人は溜息をついた。
「わかったわかった。旅行から帰ったら新しいの、買ってやるから。もうすぐだからさ、頑張ろうぜ」
「ううう……」
寛人に腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして、奈美は再び歩き始めた。
そんな調子だったので、どうやってたどり着いたのか、奈美の記憶にない。目当ての場所に着いたことを知ったのは、寛人の声が聞こえた時だった。
「見ろ、奈美。着いたぞ!」
身も心もボロボロになった奈美が顔を上げると、そこには湧水があった。人が一人入れる程度の窪んだ地面に水が溜まっていて、そこから湯気が立っている。その傍には、「天女の湯」と書かれた看板が立っていた。どうやらここが目的地の野外温泉のようだ。
ぼうっと突っ立ったままの奈美とは違い、寛人は生き生きとした様子で温泉の周りを探索している。温泉からたった数メートル離れただけの所に崖があり、寛人がそのきわに恐る恐る近づいた。
「おー、いい眺めだ」
二時間も山登りしてきただけあって、奈美たちのいる場所はかなり高いところにあった。一人楽しそうな寛人は、奈美の方を振り返ると、手招きをした。
「奈美も見てみろよ、ほら」
「えー……私はいいよ。高いところ、苦手だし」
そもそもぐったり疲れていて、物見気分ではない。それでも寛人の催促が続いたので、奈美は仕方なく寛人の方へと向かった。
寛人の横に立つと、目の前にそれは素晴らしい──奈美にとっては寿命が縮まるような光景だが──眺望が開けた。平野が遠くまで続いており、大きな街々が見える。奈美たちの住む街も、その中のどこかにあるはずだ。
(早くあの街に戻りたい──)
旅の目的もすっかり忘れて、奈美はふっとそう思った。とりあえず旅館に戻るために、寛人には一刻も早く、ここに来た目的を達成してもらわなければならない。奈美は深く息を吸うと、できる限りの笑顔を繕って口を開いた。
「寛人は温泉に入ってくんでしょ? 私、野外の温泉はちょっと抵抗あるしパス……」
そこまで言って、奈美の口が固まった。寛人が差し出すように、ある物を持っていたからだ。
それは──、指輪だった。蓋の開かれたケースの中に、大事そうに収められている。
寛人は照れくさそうに、だがはっきりとこう言った。
「絶対に幸せにする。結婚しよう、奈美」
指輪の入ったケースが小刻みに震えていることに、奈美は気付いた。この男は、普段なら、絶対にこんなことはしない。
──つまり、本気なのだ。寛人は本気で、言っているのだ。
一瞬の間に、奈美の頭の中にいろいろな考えが交錯した。
(あれ、私、今プロポーズされてる? 早くもご利益あったってわけ? ちょっと待って、寛人ったらもしかして、プロポーズするためにわざわざここまで私を連れてきたの……?)
「プロポーズされるなら、普段と違うシチュエーションがいいって言ってただろ?」
奈美の頭の中を読み取ったかのように、寛人がつぶやいた。確かに昔、何気ない会話の中でそんなことを言った覚えはあるが、奈美は寛人に一言ツッコんでやった。
「でも、山登りの果ての崖っぷちプロポーズだとは夢にも思わなかったけど」
奈美からなかなか返事をもらえないことに焦りを感じ始めたのだろう。寛人はしゅんとして訊いた。
「…………違ったか?」
(違わない)
奈美は心の中で即座にそう呟いた。早く返事をしてあげたくて、奈美は寛人から指輪のケースを受け取った。
「私……」
そう奈美が口を開いた瞬間、奈美の体が大きく揺れた。
奈美だけではない。目の前に立つ寛人の体も、野湯の水も、山に生える木々も、遠くに見える大地も、全てグラグラと揺れている。あまりに激しく揺れるので、その場にしゃがみこむことさえできない。
「なっ、何これ!?」
奈美はそう叫んだが、この揺れの正体が何なのかは知っていた。ついこの前も体験している。日本列島で暮らす者なら誰もが経験するであろう自然現象──地震だ。
先日までの地震とは少し様子が違う。規模の大きい地震を予感させる揺れだ。揺れだけではない。大地が動いているような不気味な地鳴りも、奈美の体に響いている。
「奈美ッ! つかまれ!!」
寛人が奈美に向かって手を伸ばした。奈美もすがる思いで寛人に手を伸ばす。
だが、二人の指が触れようとしたその時、さらなる大きな揺れが大地を襲った。ガクンと地面が落ちたと思いきや、次の瞬間にはバネのように跳ね返されていた。
その衝撃で、奈美の体は宙に浮いていた。いや、真っ逆さまに落ちていると言った方が正しい。どうやら地震の揺れで、崖から落ちたようだ。崖の傍に立っていたのだから落ちない方が不思議だが。
奈美は重力に従って落ちてゆく間、視界の端に、同じく真っ逆さまに落ちていく寛人を見た気がした。
そして、自分はこのまま山のふもとに激突して死ぬのだろうか、と思うのではなく、こんな考えが頭をよぎった。
(どうしてこう上手くいかないの? 私の幸せ、これからだって時なのに!)