星の瞬く夜に
ライカは一人、縁側で夜空を眺めていた。晩餐での熱を逃がすため、涼みに来たのだ。
漆黒の空に瞬く星がひとつ。自分はここにいると訴えているかのように、あるいは、消えてなるものかと、もがいているかのように──ライカには、そう見えた。
「ライカさん」
後ろから声を掛けられて振り返ると、そこにはクロハが立っていた。手には酒瓶や杯が載った盆を持っている。
「積もる話がしたいだなんて言っておいて、ほったらかしちゃってごめんなさいね。先ほどまでナミさんとおしゃべりしていたものだから」
「別に構いません。私は特に話すこともありませんから」
「まっ、冷たいのねぇ」
「……ナミは今どこに?」
「湯浴みにご案内したわ。カンボをつかせていますよ」
クロハはライカの横に腰を下ろすと、酒の準備を始めた。それを見て、ライカが言った。
「酒は結構です。頭と体の動きが鈍りますから」
「さすがはカンドル隊の隊長さんねえ。でも、あなたの御父上でもそんなに頭が固くなかったわよ」
そう言ってクロハがくすっと笑ったので、ライカは短くため息をついた。
「……では、一杯だけ」
「無理を言ってごめんなさい。でもお酒くらい飲まないと、あなたあんまり口を開いてくれないでしょう? せっかく久しぶりに話せるのに、それではつまらないもの」
クロハは酒を注いだ杯をライカに手渡すと、思い出したように口を開いた。
「あ、そうそう。カンボにそれとなく聞いてきてと言われたから聞くのだけど──ナミさんとはお部屋は一緒でいいかしら? あら大丈夫?」
杯をあおっていたライカが、思いっきりむせた。ごほごほとせき込みながら、苦虫を嚙み潰したような顔でクロハを睨む。
「何でそう思うんですか……俺とあいつが夫婦にでも見えたとでも?」
「やっぱり違うわよねえ……。でも、親しげな感じはあったから。同じ隊で、毎日同じ場所で生活してるんだし、それは分かるのよ。でも、それだけじゃない気がして」
うーんと呻りがながら、クロハは思ったことを口にした。
(まったくこの人は昔から……)
本当に、昔から勘が鋭くて困る。母子共々のんきな性格をしているくせに、突然、研ぎ澄まされたものが頭角を現すのだ。
「別に夫婦でなくてもいいと思うわよ。二人の気持ちがあれば」
あっけらかんとそう言ったクロハに、ライカが突っ込んだ。
「何を言ってるんですか、景国の王太后が!」
「身分なんて関係ないわよぉ。人の一生なんて短いんだから。特にあなたは昔からいろんなものでがんじがらめになっているでしょ。たまには思うままに生きてみなさい。ほら、今なら他の隊員さんもいないし! 絶好の機会よ!」
クロハが目をキラキラとさせながら言ったが、ライカは淡々と答える。
「部屋は別でお願いします。少なくとも、向こうに気持ちはありません」
そう、奈美の心など明白だ。奈美は首にいつも、想い人からの贈り物を下げているのだから。
そんなはずはないとでも言いたげな顔で、クロハは何か考え込んでいる。
「う~ん……押しが足りないんじゃないの? 今の子ってどうしてこう、奥手なのかしら。考えすぎというか」
嘆かわしそうに、クロハは深いため息をつく。
「あの子も王妃を迎えるって風の便りで聞いただけど、それは虚言でしょう? なぜそんなことをしたのかは分からないけど、何か理由があったね」
タカイヌが王妃を迎えると聞いて、クロハはさぞ喜んでいるだろう。そう思っていたライカは、意外だった。
「どうしてお分かりに?」
「……わかるわよ」
クロハはほんの少し悲しみの混じった微笑を浮かべた。
タカイヌはすべてを見てきたのだ。前王ヤワジ亡きあと、その王妃も国を傾けた罪で処刑され、辛くも一人娘は処刑を免れたものの都を追放されたのを。それを目の当たりにして、王でいる間は家族を持たないとタカイヌが心に決めたのは想像に難くない。
(優しい子だから……愛する人を勢力争いに巻き込みたくないのよね)
──それでも。クロハは伝えたかった。
「慕う人と共に生きられるってとても素敵なことよ? 私も亡き夫と夫婦になれてよかったと心から思ってる」
「はいはい、それはご馳走様です」
そっけなく返された一言に、クロハは眉をしかめた。
「ま! 私はまじめに──」
「では、隣同士の部屋にしてもらえますか」
ライカのその一言に、クロハは口をあんぐりと開けた。やがて、口の端がほころんでいく。
「そうこなくっちゃ!」
それだけ言うと、クロハはいそいそとカンボの元へと向かっていった。
奈美は風呂を済ませると、カンボにひとつの部屋に案内された。
カンボに礼を言い、彼女が去っていくと、奈美は一人残された部屋を見渡した。簡素だが居心地のよさそうな設えである。
「ふう、気持ちよかった……お言葉に甘えてつい長湯しちゃったな」
濡れた髪を乾かすため、それにのぼせた頭を冷やすために、外気を入れたい。部屋を見渡すと、出入り口の他にもう一か所、引き戸がある。ここが外につながっているのだろうか。
「よっと…………ん?」
奈美は引き戸を開けると、胡坐を組んで座っている一人の男と目が合った。
「ひっ!」
奈美は思わず叫んだ。その男の鍛え抜かれた上半身が露わになっていたからだ。こんなことが前にもあった気がする。
「自分から開けといて失礼な奴だな」
ライカはふっと鼻で笑うと、水を張った桶に手ぬぐいを浸し始めた。
「な、な、何であんたがここに⁉」
「俺の部屋だからな。おまえの部屋のすぐ隣にしてもらえるよう、奥方に頼んだ」
「な……何で?」
「おまえに危害がありそうな気配を感じたらすぐに駆け付けられるからに決まってるだろ。ここの家の者は、まあ信用できるが、念には念をな」
「あ、そっか……」
それにしても目のやり場に困る。本人はこちらのことなど全く気にせず、絞った手ぬぐいで体を拭き始めているが。それを見て、奈美が素朴な疑問を抱いた。
「……お風呂、いただかないの?」
「その間に狙われる可能性もあるんだぞ。呑気に入ってられるか」
「少しくらいの間なら大丈夫よ」
「……おまえが俺の湯浴みに付き合ってくれるのなら入れるがな?」
「できるわけないでしょそんなこと!」
奈美がぼっと顔を赤くして叫んだのに対し、ライカは意地悪そうに笑っている。
(……からかわれた)
奈美はふーと息を吐くと、ライカに向かって手を差し出した。
「それ、貸して」
ライカが不思議そうな顔で見ているので、奈美は頬を赤く染めた困り顔で催促した。
「手ぬぐい! 背中くらい拭いてあげるから」
ライカはしばらく微動だにしなかった。が、やがてニヤリと笑ってこう言った。
「そうだな、お言葉に甘えてつい長湯してしまった負い目があるしな?」
「ぐ……」
奈美とライカの部屋を隔てているのは薄い戸一枚。すべては筒抜けというわけだ。
ひったくるようにして手ぬぐいを受け取ると、奈美は桶で洗い、固く絞った。
(清拭はお手の物よ……! ぐうの音も出なくしてやる!)
患者の身体を拭くのは病院で散々やってきた。奈美はパンと手ぬぐいを広げると、いざ拭かんとライカの背中の前に膝をついた。
だが、ぐうの音も出なくなったのは奈美の方だった。その背中には、数多くの痣や傷跡があったからだ。
それらはほとんど消えかけているものもあれば、最近できたようなものもある。ずっと戦いの場に身を置いてきたという証だ。
何故だろう。見ただけで、身を切られるように奈美の心が痛む。
他人の傷を見て、さぞ痛いだろうといたわるとかのレベルではない。本当に自分の身に起こっているかのような痛みなのだ。
そんな痛みを感じて、奈美はふと思った。
(いつも私を守ろうとしてくれるけど……そのせいで、この人が酷い傷を負いでもしたら──)
考えたくもない。奈美は思考を消すかのように、ギュッと目を瞑った。
(そうならないように私が気をつけなきゃいけないんだ……!)
奈美がそう心に決めていると、ライカが訝しげに訊ねた。
「? どうした?」
「ううん、何でもない」
奈美は気を取り直して、ライカの背中を拭き始める。どうかこの傷すべてが癒えますようにと願いながら。
「はい終わり」
背中の隅々まで拭き終わり、奈美は手ぬぐいを返そうとしたが、ライカは受け取ろうとしない。代わりにくるりと振り返り、両腕を広げると、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「拭き残しがあるぞ?」
「あとは自分でできるでしょ!」
奈美は顔を真っ赤にして、ライカに向かって手ぬぐいをぺしんと投げつけた。
「まったく、人をからかうのもほどほどに──」
怒って自分の部屋に戻ろうとした奈美の頭に、白い布がふわりと落ちてきた。視界を急に塞がれ、奈美は驚いて足を止める。
「え、なに──」
「……髪。風邪引くぞ」
大きな手でわしわしと頭を拭かれるのを感じて、奈美は自分の髪の毛がまだ濡れていたことを思い出す。
この手を払いのけることはできる。が、奈美は甘んじてこの手を受け入れた。
──この夜が、ずっと続けばいい。
心のどこかでそう思いながら、奈美はライカの部屋にある窓から夜空を見上げた。空には、ひとつの星が瞬いていた。




