その者を知らざれば、何を見る
実に、ライラの言葉は正しかった。
東菊を出たライカと奈美は、景城に向かうべく、再び都の中を歩き始めたのだが、早々に人の目を引き付けている。
(……そんなにジロジロ見ないでよね……!)
人々の視線が垂衣越しに突き刺さる。垂衣のせいで周囲の様子があまり見えないというのに、人々が奈美の前を歩くライカと、その後ろに続く自分を、驚きと好奇の目で見ているのが手に取るように分かる。
奈美はいたたまれなくなって、俯いた。男の恰好をしている時は、傍に付き添っていてもこんな視線は受けたことがなかった。
(この人はカンドル隊の隊長だし、都で有名人なんだろうけど、それにしたって、こんなに見なくたっていいじゃない!)
奈美はやや歩く速度を落として、ライカとの距離を空けた。こんなところで目立っていては本末転倒だし、何より胃が痛い。
「そんなに離れるな」
突然手首を掴まれ、奈美はハッと顔を上げた。ライカがこちらを見ている。
「ぼうっとしてるおまえのことだ。この人混みで離れたら、すぐに迷子になるぞ」
そう言うと、手を引いて歩きだした。それを見て、周りの人々がざわめく。
「えっ、えっ⁉」
奈美は混乱しながらも、ライカの後ろを足早についていく。どうかこの手を放してと心の中で懇願しながら。
(目立つのはダメなんじゃ……⁉)
人々の注目を集めていても、ライカは一向に構う様子はない。
「……あ?」
セトは目に映ったものを見て、立ち止まった。完全に呆けて使い物にならなくなったヒョウイを置いて、一人で窟に帰ろうとしていたところなのだが、先に屋敷を出て行った隊長の姿が人混みの向こうに見えたのだ。
「隊長じゃねえか。あれ、でも、とっくに城に着いてるはずだよな……寄り道でもしてたのかな? ナミもいねえようだし──ん?」
その時、彼はあり得ないものを目にして、口をあんぐりと開けた。
「隊長が、女人と歩いてる……? しかも手をつないで……⁉」
人々の視線を集めたのは、景城に着いてからもだった。
城に着くと、さすがに手は放してもらえたのだが、それでも都と状況は同じだった。城に入る時に笠を脱いだので、官吏や下働きの者たちの視線が、顔に直接刺さる。
「あのライカ殿が女人を連れているぞ」
「珂族の女人というわけではなさそうだな……」
「身分の低い女人と城へ? 一体どういうわけだ?」
通りすがりの官吏たちのひそひそ声が耳に入って、奈美も同意しかない。
(デスヨネーーーー)
もうこれは、前のように城にはいつもの男装で行って、派手でも女官たちに着替えさせられる方がマシなのでは──と奈美が思い始めた頃、謁見のため、ライカと別れることになった。
「うぅ……次はいつもの恰好で、ってお願いしてみよう……」
奈美はできるだけ体を小さくしながら、待機部屋へと向かった。いつもであれば庭園で待たせてもらうのだが、今日はもう、部屋の中でじっと身を潜めていたい気分だ。
その時、枝分かれした廊下の向こうから話し声が聞こえて、奈美はそちらの方を振り返った。
「あ、タカイヌさんだ……」
“爽やかキラ男”ことタカイヌが、数人の官吏と何か話し込んでいる。いつもの穏やかに笑う顔ではなく、真剣な顔つきだ。仕事中はこうなのだろうか。いつもと印象が違うタカイヌに、奈美は少しドキッとした。
(官吏の人と何話してるんだろ、こわい顔して……。何かトラブルでもあったのかな?)
少し気になるが、彼の目に入って仕事の邪魔をしては悪い。奈美がそそくさと待機部屋へと向かっていると、怒気を含んだ声が聞こえてきた。話している内容は聞き取れないが、まっすぐ廊下を進み、左に曲がった先──つまり、奈美が通りたいと思っている方向からだ。
今日はやたらと廊下で人と遭遇するものだと思いながら、奈美は壁に身を寄せると、曲がり角からそっと声のする方を覗いた。三人の男がいる。
(全員官吏のようだけど……一人は他の二人よりも位が高そうね。上司と部下二人って感じかしら?)
「そなたは何度、し損なえば気が済むのだ? これまでは大目に見てきたが、さすがに度が過ぎるのではないか」
「もっ……申し訳ございませんっ」
険しい顔をした上司に責められ、部下の一人が頭をペコペコと下げている。
「まさかとは思うが、御父上の権力を笠に着て、いい加減な仕事をしているわけではあるまいな?」
「け、決してそのようなことは──」
「今後もこのような調子ならば、王様に進言する。そなたが官吏職に向いていないのではとな」
それだけ言うと、上司の方がこちらに向かって歩いてきたので、奈美は慌てて壁から体を剥がした。その男が横を通り過ぎるまで、深々と頭を下げ続ける。この世界では、身分の高い者とすれ違う場合、このような礼儀作法があるのだ。
「権力者の子息には珍しく、まじめで有能な若者に見えたのだが……いやはや、私の勘も鈍ったな」
難しい顔でぶつぶつと独り言を言いながら、男はそばを通り過ぎていった。奈美の存在には、まったく気づいていない様子だ。
奈美がふうと緊張を解いていると、残された部下たちの話し声がした。
「おい、そんなに落ち込むなよ」
「……もう駄目だ。私にはやはり、王城での勤めには向いていないんだ」
叱られていた方の男がすっかり肩を落としていると、もう一人の男──彼の同僚だろうか──が「また始まった」と言わんばかりの顔でため息をついた。
「あのな、くそまじめなおまえが官吏に向いてないっていうなら、他の誰が官吏に向いてるんだよ」
「しかし、私はここぞという時に失敗ばかりする、使い物にならん男だぞ……」
「しっかりしてくれよ、キン。俺はな、将来大臣になったおまえの補佐役としてそこそこ出世して、かつ楽な人生を歩みたいんだ。おまえがいなけりゃ、おこぼれにあずかれないんだぞ」
「私が大臣? はは、儚い夢だ……」
力なく笑うキンだが、男には断固たる予見があるようだった。
「いや、その見込みは充分ある! 同門生として長年おまえを見てきたこの俺がそう言うんだからな。それに、先生だって──」
その時、彼は隣の幼馴染の異常な様子に気が付いて、ギョッとした。キンが床に膝をついて、体をびくびくと揺らしていたからだ。
「キ、キン⁉」
「はあっ、はあっ……はあっはあっ……」
キンの呼吸が明らかにおかしい。男は助けを求めようと辺りを見渡したが、誰もいない。
「ま、待ってろ! すぐ薬房室に行って、薬師官を連れてきてやるからな!」
男は真っ青な顔でそう言うと、脱兎のごとく、どこかへ駆けていった。
残されたのは、苦しそうに喘ぐ男と、陰からこっそり見ていた奈美だけである。
(……もう……! 見ちゃったから知らぬフリもできないし!)
今日は大人しくしておきたい気分だったのに、状況がそうはさせてくれないようだ。奈美はすかさずキンという名の青年に駆け寄ると、傍にひざまずいた。
「大丈夫だからね。ゆっくり呼吸することを意識して」
奈美はキンの背中を優しくさすりながら、落ち着いた声でそう言った。そのカッと見開かれた瞳から、キンはこの呼吸困難に対してかなり狼狽していることが窺えた。見知らぬ女が突然登場してさらに狼狽えた様子だったが、呼吸がうまくできなくて苦しい中で深く考える余裕はないらしい。奈美の言葉に反応して、なんとか呼吸を操ろうとしている。
「そうそう、上手。息を吐く方に意識して……そう、ゆっくり吐いて……ゆっくり吸って……」
呼吸のリズムを整えるために、キンに合わせて奈美もゆっくり呼吸を始める。
その最中、過去にも同じような状況があったことを思い出していた。あの時も、過呼吸を起こした患者と一緒に呼吸のリズムを整えていた。そう、この男は恐らく、過換気発作を起こしている。
(同僚に“くそまじめ”って言われてたし、確かに心配性な人そうよね。そんな人が上司から強い叱責を受けて不安が高まったのが、発作につながったのかしらね)
見た目が派手な症状なので、本人も周りもびっくりするのだが、落ち着いて対処すればやがて落ち着くのを奈美は知っている。だが、この男も、どこかへ行ってしまった彼の同僚も、今回初めて目の当たりにしたらしいので、まあ仕方がないだろう。
どれくらい時間が経っただろうか。一緒に呼吸を整えているうちに、キンの様子が落ち着いてきた。冷や汗をかいた顔で、ゆっくりと奈美の顔を覗き込んだ。
「すまない……もう大丈夫だ」
「あ、それはそれは」
奈美はキンの背中からパッと手を離し、少し距離をとった。官吏だから、この男、それなりに身分は高いだろう。看護とはいえ、なれなれしく触ってしまったことを怒られたりしないかという不安が、奈美の頭に今さらながらよぎる。
「……そなたは何者か? このような肺の病に詳しいのか?」
「イエ、怪しい者じゃないです。ただの付き人です……カンドル隊の隊長の。それに、肺の病じゃないと思います……」
心臓をバクバクさせながら、奈美は答える。勝手に偉い身分の人に関わって、問題になるようことを起こしてしまったら……。想像したくない。
「なに? そなた、この病のことを存じておるのか?」
適当にあしらって、少しでも早くこの場から逃れることはできるが、奈美はそうしたくはなかった。自分の持つ知識で、少しでもこの男のためになるのなら、正直に話そうと思った。
「えっと……何かのきっかけで息が吸いにくくなって、胸が苦しくなり、頭痛やしびれなど、他にも様々な症状が現れる『過換気症候群』かと思われます」
「何かの……きっかけ」
「几帳面で心配性な性格の人に多く、不安や恐怖などのつらい感情があふれた時に起こることが多いようですよ。おそらく、先ほどの一件がきっかけになったのかと……あ、すみません。盗み聞くつもりはなかったんですけど」
奈美が気まずそうに謝ると、キンが自嘲の笑みを浮かべた。
「いや、いいのだ。私が使い物にならぬことなど、少し城にいれば誰でも分かることだから」
キン自身、官吏の道を選んだのは、重臣の父を持つからではなく、タカイヌ王のためだった。わずかでもいいから、あの聖君の力になれたらと思ったからである。
それなのに、いざとなるとダメだった。周りから期待の目を向けられる重圧と、父のようにうまくやらねばという呪縛のせいで、頭と体が思うように動かなくなるのだ。父もなんと出来の悪い息子だと、ほとほと呆れているに違いない。
「私のような出来損ないにできることなど、ひとつもない……重荷すぎるんだ」
いつの間にか、そう呟いていたキンは、ハッとした。会ったばかりの者に何を言っているのだと。
しかし、目の前の女人はキョトンとこちらを見ている。そして、少し考えた後、口を開いた。
「私、あなたのことは全然知らないですけど……でも、さっきあなたといたお二人の様子を見ていたら、あなたが誠実で真面目な人だってことはわかりましたよ。出会ってすぐの私にこれだけわかるなら、あなたの周りの人はあなたの良い所、もっとたくさん知ってるんでしょうね」
その言葉に、キンは頭を殴られたような衝撃を覚えた。会ったばかりの者にこんな言葉をもらえるとは思わなかった。
「ええと、つまりは、自分に自信を持ったらいかがですかという話で……。そうすれば、この発作も起こりにくくなるかと……あの、聞いてます?」
うつむいているキンに、奈美は訝しげに訊ねた。だが、キンも男として、赤く潤んだ目を若き女人に見せるわけにはいかないのだ。
「薬師官どの、こっちです!」
その時、廊下の向こうからバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。どうやら、先ほどの男が薬師を連れて戻ってきたらしい。
それなら自分はこれにてお役御免だ、と奈美はパッと立ち上がった。
「私! もうこれで行きますね! お大事に!」
止める間もなく、逃げるように行ってしまった女人の後ろ姿を、キンはただ見守るしかなかった。
「すまないキン、遅くなった! 薬房室が空で、薬師官どのを探すのに手間取った……キン?」
「……礼も言えなかった」
「何だって?」
呆然と廊下の先を見つめる幼馴染を、男は不審そうに見た。先ほどの苦しそうな様子はないが、様子がおかしいとは言えばおかしい。
「一体、どうしたんだよ」
薬師官に脈をとられながら、キンは口に笑みを浮かべながら答えた。
「不思議な女人に、助けてもらった」
「女人? 女官じゃなくてか?」
そうだ、とキンは答えた。名前を聞きそびれてしまったが、その正体は聞けた。あの、カンドル隊隊長の付き人だと言っていた──。
◇◇◇
「今、何とおっしゃいましたか?」
王の執務室で謁見中のライカは、怒りの感情を隠そうともせずに聞き返した。
「いや、だからですね、この仕事はナミさんにお願いしたいのです」
タカイヌ王はびくびくとしながら、答える。傍から見ると、主従関係がまるで逆である。
「そんなこと、私が許すとでも?」
「でも、ナミさんはいいと言っていましたよ」
それを聞いて、ライカが思いっきり眉をひそめた。
(あいつは何を勝手に……!)
いつの間にか奈美と接触していた王に腹が立つし、それを軽々しく了承した奈美にも腹が立つ。
「そもそも、何故ナミなのですか? 女官とか、鼠とか、適任者は他にいるでしょう」
「ははは、彼女たちは恐れ多いと畏まって相手になりませんよ」
確かに、この世界の常識感の薄い奈美ならばその点は大丈夫そうだが……。ライカが難しい顔で考えていると、タカイヌが切実な様子で頼み込んだ。
「お願いします、兄上。危険な仕事ではないんですから。ただ話し相手になるだけですよ」
「そうは言っても、そのお相手が──」
「大丈夫です。ナミさんは私のことを城の下男だと思っていますから」
「……は?」
「まあ、とにかく。やっていただけますよね? あっ、まさか私情にとらわれて任務を受けないとでも言うんですか? 天下のカンドル隊が?」
その言葉に、ライカはピクリと眉を動かした。
「……いいでしょう。ですがその任務、私も同行します。よろしいですね?」
「うわあ! ありがとうございます、兄上! これで僕も安心して政務に取り掛かれますよ!」
「まったく……ナミを貸すのは、今回で終いですよ」
ライカはため息をつくと、再び口を開いた。
「しかし、今の状況では一日、二日ほどでも都を離れるのは少々不安です。ここに来るまでに偶然でしたが令嬢襲撃の現場に遭遇しました。王様の元にもすでに報告が来ているでしょう?」
「はい。先ほど官吏から聞きました。中々、厳しい状況のようですね……。もちろん、こんな状態の都を放ってまで行ってほしいとは言いません。襲撃の件の方が落ち着てからでいいんです」
タカイヌはそう言ったが、令嬢連続襲撃事件は急転直下の解決を見せた。この四日後には、事件の黒幕を捕らえたのである。




