裏:三方の崖にて
カンドル隊の窟に風変りな来訪者がやってきてからというもの、ライカは忙しい日々を送っていた。隊の指揮やカンドル隊の一員としての勤めといった普段の任務だけでなく、例の日に向けて作戦を立てたり、鍛錬をしておかなければならなかったからだ。
例の日とはもちろん──この月の二の酉の日、早くも今日のことだ。
ライカは二人の部下と共に、草深い森の中に身を潜めていた。その二人とは、隊長直属の部下──参謀のダンチョウと、付き人兼伝令のテスだ。
三人の前方には、垂直に切り立った岩崖が高々とそびえたっている。この崖が「三方の崖」というわけだ。その崖の下には、ライカたちが身を隠している森と、荒々しい川があるだけだ。
シスイに指示された未四つ時まであと四半刻あるが、油断はならない。ライカたち三人は固唾を呑んで前方を見守っていたが、とうとう待ちくたびれたのか、テスがいつもの軽い調子でライカに喋りかけた。
「それにしても、本当にオレたち三人だけで良かったんすか? ついてこいって兄貴が言えば、隊のみんなだって絶対喜んで来たのに……。兄貴のためだったら、喜んで命を投げ出す奴らっすよ?」
テスがやや不満そうな顔をしているのは、この場に他の隊員たちがいれば、自分の身の安全が保障されたに違いないからだ。三人しかいないこの状況では、戦闘能力の低いテスも十分シスイの手にかかる可能性があるのだ。
(……また駄々捏ねが始まったか)
ライカは面倒くさそうに溜息をつくと、テスの頭でもなるべく分かりやすいように説明した。
「……むしろ俺たち三人だけの方がいいんだよ。もしかしたら、今からこの場で見るものは、俺の弱みになるかもしれない……。それを見せられるのは、カンドルの中ではダンチョウと、まあ、おまえくらいのものだからな」
「ん? なんか、すっげえうれしいこと言われた気がするんすけど……、つまり、どういうことっすか?」
にははと間抜けな顔で笑うテスを見て、ライカがこめかみに手を当てて溜息をついた。
それを見たダンチョウが、ライカの横から補足した。
「シスイがライカどのに渡す贈り物とやらの正体が予測できない以上、うかつに多くの者の目に触れさせるわけにはいかないということだよ。たとえそれが忠義を誓ったカンドルの者たちであっても、だ。ライカどのの弱点を知っているという理由で、将来、厄介事に巻き込まれないとも言えないだろう?」
「兄貴の弱点って……シスイの野郎は一体、何をくれるっていうんすか!?」
「それが分かってたら苦労していない」
突然大声を出したテスの頭にげんこつを食らわしながら、ライカが答えた。
「俺だってそりゃ、本来ならカンドル隊の皆をここに連れてきたかったさ。シスイ自身が与えてくれたこの機会を逃さずに、奴の首を取るためにな」
テスが頭を擦りながら、今度は小声で訊いた。
「なら、今からオレがカンドルの窟に戻って、みんなを連れてきましょうか!? 天力を使えば、何とか間に合うかも……」
テスは期待を込めてライカの返事を待った。すぐに却下されなかったのでいけるだろうと思ったのだが、ライカの答えはやはり決まっていた。
「だめだ。シスイから与えられるものが吉にしろ、凶にしろ、どのみち危険がでかすぎる」
「ちぇ~~」
テスは不満そうに口を尖らせる。その様子を見ていたダンチョウが、諭すように口を開いた。
「まあまあ落ち着きなさい。ライカどのが隊員たちを連れてこないのは、他に理由があるのだよ」
「他に理由って何すか? ダンチョウさん」
「もし隊のほとんどの人間をこの場に連れてきたら、カンドルの窟はどうなる? たとえばシスイがそれを狙っていたとしたら……我らの窟が落とされてしまう」
それを聞いたテスが、なるほどと言わんばかりに手を打った。
「さすがは兄貴っすね! やっぱりスゲーっす!」
「分かったらさっさと前に集中しろ。隊員たちは置いてきたが、シスイの首は諦めていないからな。たとえ無理でも、奴の手がかりを得てさえいれば、次につなげられるんだ」
尊敬のまなざしで見てくるテスの頭をグリッと動かしながら、ライカが言った。
ライカも前方の崖に集中しながら、頭の片隅でシスイが窟に現れた時のことを思いだした。
──その日は、彼らを連れてこない方がいいよ。僕を倒そうと色々と策を練ってくるだろうけど……贈り物はできるだけ誰にも見られない方がいい──
シスイの言った通り、ライカはこのひと月の間、シスイを討つべく、試行錯誤を重ねていた。ライカの考えなどシスイに見透かされているのかもしれないが、何もしないままじっとしていることなど、到底できなかったのだ。
だが、シスイの首を取るために立てた作戦はどれも実現しそうにないものだった。そう感じるたびに、ライカはダンチョウに相談したものだ。この冷静沈着な参謀は、熱くなりやすいライカと違って、いつも物事を客観的に捉えてくれる。これこそ、カンドル隊で唯一天力を持たない彼をライカが信頼している所以だ。
そうしてダンチョウと話し合うなかで、ライカは決めた──シスイが再び現れる日は、自分と直属の部下の二人だけで赴く、と。
もちろん、その決断は迷いに迷った末に下したものだ。カンドル隊が総出でかかれば、万が一の確率でシスイを倒せるかもしれない。先ほどのテスの提案に、ライカの心が揺れなかったと言えば嘘になる。だが「万が一の確率」でカンドル隊の存亡をかけるわけにはいかないから、こうして三人だけでシスイを待っているのだ。
(とにかく、シスイの奴が俺に何を渡そうとしているのかさえ分かればこっちのものだ。奴の言った通り、それが本当に俺にとって都合の良い物ならばとりあえず放っておき、シスイの首を取りにかかる! 持っていて不都合な物であれば、即座に壊せばいいだけの話だ)
ライカがそう考えながら、腰に提げた剣がすぐに抜ける状態かどうかを確かめた。
──その時だった。シスイが眼前に現れたのは。
カンドルの窟でライカの目の前で一瞬のうちに消え去ったのと同じように、シスイは岩崖の下に現れたのだ。もちろんライカはまばたきなどしていない。
シスイは頭上の崖を見上げて、満足そうに呟いた。
「うーん、さすが僕。ぴったりの場所だ」
「──兄貴!」
テスがシスイの姿を見つけて、思わず小声で叫んだので、ライカは「しっ」と指を口に当てた。さすがのダンチョウも、シスイの出現に緊張している様子だ。
とりあえずはシスイの出方を見たかったライカだったが、シスイがおもむろに口を開いた。
「そこにいるんだろ。出ておいでよ、ライカ」
シスイは間違いなく自分の方を見ている。隠れていても無駄だ──そう思ったライカは、ゆっくりと立ち上がり、草木をかき分けてシスイの方へと歩いて行った。
「あ、兄貴、一人で行くんすか?」
行ってしまったライカを追おうと立ち上がろうとしたテスを、ダンチョウが制した。
「テス、我々はこのままでいるのだ」
「でも……」
「今、我々が出て行ってもライカどのにはなんの助けにもならない。まずは相手の出方をうかがうのだ」
テスとダンチョウが見守るなか、ライカはシスイの前に立った。ライカが剣を抜いてぎりぎりシスイに届く位置だ。
「来てくれて嬉しいよ。それに、僕の助言も聞き入れてくれたこともね。まあ、何匹かは連れてきたようだけど」
シスイは口元に笑みを浮かべながら、ちらっとテスとダンチョウが身を潜めている方を見た。シスイの冷たい視線を感じて、二人の背筋が凍りつく。まさに蛇に睨まれた蛙だ。
二人への注意をそらすために、ライカがわざとぶっきらぼうに口を開いた。
「さっさと用件を済ませろ」
「そうだね」
シスイはくっくっと笑いながら、頷く。
「贈り物を君に渡す前に、ひとつ注意点を言っとくよ。君はその贈り物とテムルで繋がれている。ああ、テムルとは『命の鎖』……長生きしたいのなら、死に物狂いでそれを守ることだね」
「なに……? 『テムル』……?」
ライカの眉毛がピクリと動く。
(贈り物などと……やはりこの男の言うことだ、狂言だったか。一体、何をよこされるんだ?)
ライカの心臓がどくんどくんと脈打つ。顔には不安が表れていないが、胸の音はシスイに気付かれているかもしれない。
シスイが空を見上げて──その視線の先には、三方の崖がそびえている──から、口を開いた。
「……うん。そろそろだね」
「…………?」
ライカもシスイの視線を追って、崖の上を見上げる……その時だった。
ライカの体が大きく揺れた。崖からぱらぱらと岩石が落ち、森の木々は一斉に枝を揺らし、川の水がより荒々しく跳ねる。そう、大地が揺れているのだ。
森の中で待機していたテスとダンチョウも、突然の地揺れに戸惑っていた。
「地揺れ……っ!」
わたわたと困惑しているテスに、ダンチョウが即座に指示をした。
「テスッ、身を低く!!」
ライカの方も、二本の足で踏ん張っていることはできなかった。何とかその場にしゃがみこんだところで、大地がさらに大きく揺れた。不気味な地鳴りとともに。