稽古と野湯
夕餉を作り終えた奈美は、一人分の食事を載せた盆を持って、隊長の部屋へと向かった。扉を叩き、入れと許可をもらったので、奈美はしずしずと中に入る。
「隊長さま、本日のお夕食をお持ちしました」
そう言って、奈美は持ってきた食事をライカの前に恭しく置いた。
「本日から隊長さまお一人だけ、特別な献立にさせていただきます。こちら、メインディッシュは猪肉のソテー、オニオンソース添えでございます」
例の異世界語で説明を始めたところで、とうとうライカはぶっと小さく吹き出した。
「……今度は一体、何なんだ?」
前にも奈美の態度がおかしくなった時があったが。
(あの時は読み書きの指南を頼みにきたんだったな……。まったく、こいつの行動はいつも予測不能で困る)
そうは思うものの、どこかでそれを楽しんでいる自分がいる。
「で、頼み事は何だ。それか、何か仕出かしたか」
ライカがそう訊ねると、奈美は言い辛そうに口を開く。
「あの……お城で聞いたんです。あなたが珂族なんだって。だからその、今までの無礼をお詫びしようと思って」
「それでコレか……で、他は? 何をしてくれるつもりだ?」
ライカはニヤリと笑って訊く。もちろん意地悪でやっているのだ。それに気づかず、奈美は大まじめに答える。
「えっ⁉ えーと、お疲れの時は肩を揉んで差し上げます! こう見えて、前職では患者さんに人気の腕前でしたから!」
「ほう。次は?」
「次⁉ え、えーと、夜なかなか眠れない時はお話を聞いて差し上げます! これまた前職では、夜勤の時に──あれ?」
奈美はキョトンと見下ろした。ライカが下を向いて震えている。声を抑えながら。
「お前……よその珂族連中にはこんなこと言うなよ」
「えっ、えっ?」
なぜライカが笑っているのかわからず、奈美はただオロオロしている。ライカはどうにか笑いを引っ込めると、顔を上げて奈美に告げた。
「これまでと同じでいい。お前が城で聞いたことは確かに事実だが、俺を珂族だと思うな」
「え、でも……」
「俺の身分はただの飾りだ。それに、珂族扱いされるのは鬱陶しい」
「あなたがそう言うなら……あ~、肩凝った! 堅苦しいのはどうにも慣れないのよね。ねえ、ちょっと肩揉んでくれない?」
「……おまえな」
奈美の変わり身の早さに呆れつつも、ライカは内心安堵した。やはり奈美はこうでなくてはいけない。
「冗談だってば! でもさ、あなたが珂族だって知って、腑に落ちたわ。平民だったらフツー、気軽に王様なんかに会えないもんね。……あ、そういえば、隊のみんなは知ってるの? あなたが珂族だって」
ライカが食事を食べ始めるのを見ながら、奈美は訊ねた。いつの頃からか、ライカは奈美の前ではものを食うようになった。これまで食事を共にするといえば、直属の部下のダンチョウとテスくらいだったのに。それだけのことが、奈美には何となく嬉しい。
「知っている」
「ふーん。だからみんな、あなたを神様みたいに崇拝してるってわけ。珂族の隊長なんて箔がつくもんねえ」
「俺が珂族だから付いてきている奴は、カンドルには一人もいない」
汁を上品にすすりながら、ライカがそう断言した。椀にがっつく隊員たちとは全く違うきれいな食べ方をするライカは、やはり珂族なんだなあと奈美は思う。
「……そっかあ」
身分で統率されているわけではない軍隊。つまりは仲間意識というか、絆でつながれているということか。
ここに来た当初は仲良くなれないと思ったものだけど、奈美はカンドル隊のことがどんどん好きになっていっている。奈美は思わずにやついていた顔をどうにか引っ込めると、話題を変えた。
「あ、そうそう。さっき頼み事は何だって聞かれたついでなんだけどね──」
奈美はおずおずと切り出した。たぶんダメだと言われるのだろうが、こちらとて引くわけにはいかない。前から考えていたのだ──誰かに守られてばかりではいけない、と。
「私に剣の使い方を教えて」
「……なんだと?」
ライカがぴくりと顔を上げると、椀と箸を置いた。眉のひそめ加減からして、良くないと思っているのは確実だ。
「納賽の儀のためよ! 儀式の最中にオウキさまに危害を加えようとする輩が現れても、カンドル隊のみんながやっつけてくれるとは思ってる。でも万が一、取り逃がしてオウキさまに襲い掛かりでもしたら大変でしょ。そのもしもの時に備えておきたいのよ。オウキさまの一番近くにいるのは私だから」
「許可できない。カンドル隊の警護を振り切るような相手に、付け焼き刃で何とかできるものではない」
「もちろん相手を倒そうなんて考えてないわよ。あなたたちが駆けつけるまでのほんのわずかな間だけ、相手を牽制できればいいの」
「しかし──」
ライカがなおも反論しようとしたが、奈美はぴしゃりと言った。
「オウキさまのためだけじゃないわよ。私自身の身を守るためでもあるんだから」
その一言に、ライカは目を見開いた。しばしの沈黙のあと、ライカがようやく口を開く。
「……わかった。だが、あくまで護身のためだぞ」
「……! うん! ありがとう!」
しかし、喜んでいられたのもつかの間だった。
その後、食堂の片づけを終えた奈美は、窟を出た。ライカがさっそく稽古をつけてくれるというので、窟の前に来いと先ほど言いに来たのだ。
「おっ、お疲れさん。今から隊長に稽古つけてもらうんだって?」
入口で見張り番をしていた隊員が、そう声を掛けてきた。もう一人の見張り番も憐れむような顔で言った。
「隊長に稽古つけてくれなんて自ら頼むなんて、度胸があるというか命知らずというか……ま、がんばれよ」
それを聞いた奈美は、ぴたりと固まった。
(──んん? ちょっと剣の使い方を教えてもらうくらいに思ってたんですけど?)
奈美は、すでに窟前の窪地に来ているライカに目を遣った。ライカはニヤリと笑うと、こっちへ来いと手で合図をしている。
(まさかそんな、がっつり稽古、とかじゃないわよね?)
急に足取りが重くなるのを感じながら、奈美はライカの元まで近づいた。以前、隊員たちの訓練を見学したが、あの時の惨状が今になって思い出される。奈美が一人、顔を青ざめていると、ライカが口を開いた。
「早速、始めるぞ。いいな?」
「う、うん……」
どんなしごき方をされるのだろう……と奈美が怯えていると、背後ががやがやと騒がしくなった。振り向くと、窟の入口からわらわらと、暇を持て余した隊員たちが出てくるではないか。皆、奈美が隊長に稽古をつけてもらうと聞いて、面白そうだと見物しに来たのだ。
「おーい! 男を見せろよ、ナミー」
「本当は女じゃないところを見せてやれ~!」
「飯、抜いたかぁ? 吐いたら介抱してやるぞーー」
隊員たちの野次を聞いて、奈美の心拍数がますます上がっていく。
(え……みんなが見てる前でやるの? っていうか、吐くの……?)
自分から頼んだ手前、やめようとは言いにくい。奈美が顔を引きつらせていると、ライカがため息をついてから口を開いた。
「……ナミ、今から場所を変えるぞ」
隊員たちが残念そうな声を上げる中、ライカは奈美を連れて窪地の上に続く坂道を上った。ありがたいことこの上ないが、予定を急に変えてもよかったのだろうかと、奈美は後ろから訊ねた。
「え、いいの??」
「おまえ、あんな状況で稽古できるか? 俺は嫌だ」
「……うん、大いに同意します」
ライカが苦虫を嚙み潰したよう顔をしていたので、奈美はあははと笑った。
「で、どこに行くつもりなの? もうすっかり日が落ちたから真っ暗だけど……」
しかも寒さで体が凍える。手短に稽古をつけてほしいものだ。
ライカは答える代わりに、指笛を吹いた。
「俺が修練場として使っている場所がある。そこへ行く」
しばらくして、一頭の馬が森の奥から駆けて来た。二人の近くで止まると、ぶるるんと鳴いた。まるで「早く背に乗れ」と言わんばかりに。
「へええ、いつもそうやって馬を呼んでるんだ……」
奈美が感心している横で、ライカは着ていた長羽織を馬の背に掛けると、さっと馬に乗った。ライカの手を借りて奈美も後ろに乗り込むと、馬が走り出す。
木々を避けながらなので、馬の足はそれほど速くはない。だが、鞍も鐙もないので、奈美は思わずバランスを崩し、馬上から落ちそうになる。
その時、前に乗るライカが後ろ手に奈美の手を握り、自分の腰に回させた。
「しっかりしがみついていろ。すぐ着く」
ただの親切心からそう言っているであろうに、奈美の顔がかあっと赤くなる。
(あれ? この人、こんなに優しかったっけ……?)
出会った当初と比べると、打ち解けてきた分、優しくなってきたのかもしれない。それに、最近はなんだか、笑うことも増えてきたように思う……。
奈美ははっと我に返ると、他に話題を探した。
「え、えっと、すごいわね? 手綱がなくても、馬を操れるなんて」
「走るだけの分、慣れだ。イスビはもっとすごいぞ。細かい指示まで出せるからな」
「ああ、獣使いだもんねえ…………」
そこで会話が終了してしまい、奈美の気まずさが復活したが、やがて救われた。馬が走るのをやめたのだ。どうやら目的地に着いたようだ。
ライカが先に降りると、奈美を馬から降ろしてくれた。今までだったら自分で降りろと言われるところだが。
(……やっぱり、なんか優しい……)
冷たくされるより優しくされる方がうれしいに決まっている。しかし、だ。何故だか、息が詰まる。
「う~~ん……?」
奈美が首をひねっていると、少し離れた場所からライカの声がした。
「何をしている。こっちだ」
「あ、はーい……」
奈美が慌ててライカの方に駆け寄ると、その光景を見て目を見張った。今までの森の中と、雰囲気ががらりと変わった。
「竹林……? ここだけ植生が違うのね?」
「この辺りだけ、かつて人の手で管理されていたようだな」
竹林の中に、ぽっかりと空いた場所がある。ライカはそこに奈美を連れて行った。
「さっき言ってた、あなたがいつも使ってる場所ってここ?」
「そうだ。静かで、修練に集中するのに丁度いいからな」
そういえば、依頼などの有事以外、彼がほぼ毎日、どこかへ出かけている様子だったのを奈美は思い出した。ここで一人、修業していたというわけだ。
「この場所のことは、カンドル隊のみんなは知らないの?」
「ああ。ダンチョウやテスも知らない」
(あの腹心の部下でさえも知らない場所……?)
そんな場所に、自分は連れて来てもらったわけだが……。その意味を、奈美は深く考えることなく、やがて二人だけの稽古は始まった。
「まずは、剣の持ち方からだ」
ライカに短剣を渡され、奈美はとりあえず構えてみる。
「こう?」
「違う。逆手に持つんだ」
「逆手……?」
奈美がもたもたしていると、ライカがため息をついて、奈美の手を取った。正しい構え方に直しながら、ライカは説明する。
「こうだ。逆手持ちの方が固定しやすいし、力も入れやすい。順手持ちも間違いではないが、力の弱い女人が扱う場合は不利だ。相手に短剣を奪われやすくなるしな」
「そ、そっか……」
淡々と説明するライカに対し、奈美はどぎまぎしていた。これでは、最初の読み書きを教えてもらったあの時と、まるで同じ状況である。
(いや、だから、ただ稽古つけてくれてるだけでしょーが! ただ手が触れ合っただけで、なんで動揺する⁉)
そう自分に言い聞かせて、ようやく奈美は落ち着きを取り戻す。ライカの説明は続いていた。
「──仮に武器を持った敵が、こちらに向かって襲い掛かってきたとする。相手の武器が槍のような刀身の長いものだった場合、迷わず剣を立てて相手の懐に飛び込め。その方がまだ安全だ」
「あ、確かに……。槍は長くて、自分のすぐ近くにいる人を攻撃しにくそうだもんね。じゃあ、あなたが持ってるような、ふつうの剣の場合は?」
奈美が訊ねると、ライカはただこう言った。
「何もするな」
「……はい?」
「斬りかかったところで、返り討ちに遭うだけだ。相手に反撃の機会を与えるくらいなら、何もしない方がまだマシだな。とりあえず、こちらも武器を持っていることを示せ。わずかだが、相手の隙を狙えるだろ」
「えええ、それじゃ剣を教えてもらってる意味がないんじゃ……」
奈美が不満げに言うと、ライカがきっぱりと言い切った。
「俺が守るから問題ない」
その言葉に、はじめ奈美はきょとんとしていたが、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
「そそそそういう問題じゃないわよ! 守られっぱなしじゃダメだって思ったからこうやって教えてもらってるわけで……‼」
「……妙なことを言い出したと思ったら、そういうことか」
ライカはぐいと奈美に近づくと、ニヤリと笑って囁いた。
「いいか、ナミ。守られることを甘んじて受け入れろ。おまえは俺が守る」
(に、二回言った……!)
近すぎる距離に、低くて落ち着いた声。奈美はクラクラとしてきた。最近、なんだか自分の体がおかしい──主に、この男を前にすると。
(そうだ、何かの病気に違いないわ! あっ、パワハラによる適応障害だわきっと‼)
──このままやられてたまるか。奈美は一歩下がって距離を取ると、キッとライカをにらみつけた。
「きょっ、拒否します! 私たちがテムルでつながれてるからって、そういう甘やかしは良くないと思うわよ⁉」
「……別にテムルは関係ないがな」
「えっ⁉ 何て?」
「いや……、おまえもたいがい頑固だな」
ライカがそう言って微笑むと、奈美の心臓は余計に飛び跳ねる。
「~~~~‼」
そんな自分が許せなくて、奈美は短剣をずいっと目の前に掲げた。
「わざわざここまで来たんだから、もっとちゃんと教えてよね! ほら、次は何するの⁉」
「わかったわかった」
ライカは吹き出しそうになるのを堪えながら、奈美から少し距離を取った。
「なら、一応実践もしてみるか。俺が敵だと思って、斬りかかってみろ」
「えっ、でも、この剣、本物なんでしょ……?」
奈美がちらっと手に持つ短剣を見て言った。切れ味はよさそうである。
それを聞いて、ライカが呆れたように言った。
「俺がおまえなんかに傷ひとつつけられるはずがないだろ」
「それもそうか……じゃ、行くわよ!」
奈美はライカ目がけて、えいっと襲い掛かる。が、短剣を持つ手を簡単に掴まれ、捻られると、気づいた時には背後からライカに抱き留められていた。
「あ、あれ……?」
あっという間のことで、何が起こったか奈美は理解が追い付かない。しかし悔しい。ライカは何とも、余裕綽々たる面持ちをしているではないか。
「くっそぉ……もう一度!」
諦め悪く、奈美はその後も何度か斬りかかるが、結局はいなされて終いだった。
「満足したか?」
「はい、もう結構です……」
奈美は地面に手をつき、はあはあと息を整えていると、ふと笑みがこぼれてきた。あははと奈美が笑い出したので、ライカが訝しげに見やる。
「……どうした?」
「いや、あなたってとんでもなく強いんだなーって」
「おまえが弱すぎるのもあるな」
「うるさいわね」
奈美だけでなく、ライカも笑い出す。
(なんだか、こういうのも悪くないわね……)
奈美がふとそう思った時、胸元から指輪が飛び出しているのに気付いた。目立たずにずっと身に着けていられるようにと、紐を通して首に掛けておいたものだ。
「ちょっと薄汚れてきたわね……」
そう言って、奈美が袖口で指輪を優しく磨くのを見て、ライカが訊ねた。
「その輪っかは何だ?」
「これ? 婚約指輪よ。寛人が結婚しようって言ってくれた時にくれたの」
柔らかで優しい表情で、いとおしそうに指輪を見つめるその姿は普段、彼女が見せない顔だ。
ライカが面白くないといった顔をしていることに気づいて、奈美が慌てて言った。
「別にいいでしょ? 普段は隠してるんだし。カンドルのみんなにも誰にも見せたことないから大丈夫よ」
「……そうじゃない」
(なら、何なのよその顔は?)
磨き終えると、奈美は再び懐に指輪を入れた。そういえば、と奈美が口を開いた。
「こっちの世界は、ないの? 結婚するときに男女が指輪を交換するような風習って」
「似たようなものはある。契りを交わした男女は、互いの物を取り換える──とかな」
「へえ~なんかロマンチック! ねえねえ、取り換える物って、何でもいいの?」
興味津々で訊ねられた問いに、ライカは少し考えてから口を開いた。
「……いつも身に着けている物が多いか。男は生業道具、女は簪……とかな」
「なるほど~、自分の分身みたいな物なのね」
感心した様子の奈美に、ライカが短剣を拾いながら言った。
「そろそろ窟に戻るぞ。もう満足しただろ」
「……あ、うん。そうね。……」
そこで奈美は口を閉ざした。何か思うところがあるような顔だ。
「どうした?」
「いや、ちょっと体が冷えたから、お風呂に入りたいなーと思って。でも隊員、もう東菊に行っちゃったよね」
夕餉の後は、有事以外は決まって東菊に入り浸る彼らのことだ。奈美の稽古を見物できないと分かった時点で、皆東菊に向かったに違いない。
(残念だけど、仕方ないか。東菊は明日でも連れて行ってもらうとして、今日は毛布三枚増しで眠ろっと)
そうと決まれば、こんな寒々しいところ、早く帰るに限る。奈美は立ち上がり、衣に付いた土を払った。
「──湯浴みをしたいなら、あるぞ。野湯だが」
突然のライカの言葉に、奈美はびっくりした。
「うそ、温泉があるの? どこに?」
「ここからすぐ近くだ。修練の後、俺がいつも使っている所だが──」
「入りたい!」
奈美が間髪を入れずに答えた。この世界に来る前は野湯に少し抵抗があったが、風呂も満足に入れない今の現状では、野湯でさえも有り難いものだ。
だが、ライカは少し考えた後、首を横に振った。
「……いや、やはりやめておこう。明日、東菊に行け」
「ええ? なんでよ⁉」
言い出したのはそっちなのに、それはない。奈美がムッとしていると、ライカが気まずそうに視線を逸らして言った。
「……まれに猪や狼が出るからな。俺が見張りで近くに居られたんじゃ、入れないだろ」
──あぁ、そういうわけでしたか。
奈美もライカが渋る理由が分かって、きまり悪そうに視線をさまよわせた。
だが、湯浴みはしたい。すぐそこに絶好の場所があるのだ。奈美はう~んと考えて、思いついたことを訊いてみた。
「……見張りって言っても、温泉の方を見てるわけじゃないよね?」
「当たり前だろ。野湯の周りは茂みで囲われているから、見張りをするならその後ろで、背を向けてだ」
「それなら……良くない?」
「は?」
ライカが眉をひそめたが、奈美の方はけろりと話を続けている。
「だって、反対の方を向いてるんでしょ? 茂みもあるっていうし、見えないならいいかなーって」
「おまえなあ……」
ライカが呆れたように大きなため息をついた。
「夫でもない男をそんな簡単に信用するやつがあるか? カンドル隊をみてみろ! 見ないと言い張っても覗き見るのが男だろうが!」
「あなたはそんなことしないでしょ」
「~~~~!」
ライカが言葉に詰まり、結果、奈美の勝ちである。
野湯に移動し、奈美は着ているものをすべて脱ぎ捨て、湯に入った。
「はあ~~さいこう……温泉様様……」
野湯は自噴してできたとあって、綺麗に整えられている入浴施設とは違って自然のままの姿で、綺麗とは言い難い。だが、温かい湯に浸かれるのは有難い。しかも5、6人は余裕で入れそうな広々とした野湯だ。温泉と、ついでにライカがいる方向に奈美はこっそり手を合わせる。
「不便はないか?」
ライカの声が遠く聞こえてくる。茂みで隠れて見えないが、やはり律儀に反対を向いて腰を下ろしているようだ。
「うん、大丈夫。温泉入っといて何だけど、ごめんね付き合わせちゃって」
「構わない」
見られていないと分かってはいるが、裸でいる時に近くに男の人がいるのは落ち着かないものだ。そう、喜んで温泉に入っておいて何だが。その気持ちをごまかすように、奈美はわざとおどけた調子で喋りだす。
「あ~あ。こんないい場所あるんなら、今度からここに入りに来ようかなぁ。今日みたいに東菊行けない時だってあるんだし」
「ここまでどうやって来るんだ、おまえ」
「どうって……歩いて来るには窟からちょっと離れてるし、怖いけど、やっぱり馬に乗れるようにならないといけないかなぁ……」
「それはだめだ」
「何でよ。物は試しでしょ」
「……何度か落馬しそうになった人間がそう言うか?」
「なら、あなたに連れてきてもらうしかないわね。トレーニングしによく来てるんでしょ? ついでに乗せてもらおっと」
森の中が静かな分、水の音と鈴を転がすような彼女の声が、とりわけ耳に飛び込んでくる。
(……こいつは人の気も知らないで)
彼女を守る気持ちに迷いはない。
だが、彼女がこちらを振り向くことはないだろう。その指輪を胸に抱いている限りは。




