空渡城へ
元々、野山を駆け回る方が性に合っているタカイヌにとって、机に向かわなければならない文書整理は、気が乗るとは言い難い仕事だった。
だが、今日は違った。
それは、この王城に届いたひとつの上奏文のせいだった。
上奏を煙たがる臣下が多い中、タカイヌは上奏文が好きだった。なぜならば民の本心を聞けるからだ。もしかすると埋もれていたかもしれない民の苦痛に満ちた声を、拾い上げることができるからだ。
先ほどからタカイヌが穴が開きそうなほどに見ている上奏文は、端整な字で綴られていた。内容は、捕庁での身分の低い者に対する不当な取り調べの改善を求めるものだ。
ただでさえ滅多に出てこぬ上奏文が上がってきたのも驚くべきことだが、さらに驚くべきことは、この上奏をしたのが珂族――しかもまだ嫁ぐ前の娘だということだ。
珂族が平民の処遇改善を求めるなど、この景ノ国に――いや、倭国にあっただろうか。タカイヌの知る限り、ない。
身分の低い者は不当な扱いを受けて至極当然――これが珂族の、いや平民を含む全ての民の共通認識なのだ。
「しかし、驚いた」
タカイヌはようやく文から顔を上げると、机の向こうに立つ臣下に声をかけた――ライカと二人きりの時とは違い、王として然るべき言葉遣いを用いて。
「これがこの国一の重臣であるそなたの娘が書いたものとは」
王にそう言われ、左大臣イルグカは気まずそうに答えた。
「お恥ずかしい限りでございます。世間を知らぬ娘ゆえ出過ぎた真似を」
「どこが世間を知らぬ娘だと? 実に論理的に書かれているではないか。あまり知られていない大陸の国々の状勢や文化、価値観についても知見があるようだ。しかも珂族がこの内容での上奏など、度胸が無ければできぬこと。……この文の送り主に一度、会って話を聞いてみたいものだ」
感心した様子で文を眺めるタカイヌが何とはなしに呟いた言葉に、イルグカがピクリと身を固くした。
「王様が愚娘に……ですか」
「なんだ、別に取って食いはしないからそうびくびくするな」
タカイヌはハハハと笑っているが、そうではない。むしろ、あの娘が王様を取って食いそうだから恐いのだ、とイルグカは思った。
「恐れ多いのですが、王様……それには応じかねるかと。実は我が娘オウキは、大の男嫌いなのです。無理やり引っ張っては来れますが、王様に大変な無礼を働く可能性が……」
「男嫌い? それはますます気に入った。年頃の娘と会おうものなら、妃選びに入っただの何だのと噂が立つからな。周りに騒がれなくてよい」
――ああ。上奏するといって聞かない娘に、男嫌いの娘を喜ぶ王。なんと取り扱いにくいことか。
イルグカはこっそりため息をついたが、事態は彼の予測しない方向へと進んでいったのは数日後だった。
◇◇◇
「え? 私もお城に?」
奈美は朝餉を載せた盆をライカの前に置きながら聞き返した。
「でも、王様があなたに用事があるから行くんでしょ? 私までついてっていいの?」
「無論、王に会うのは俺一人だが、城に付き人を伴っても問題はない」
奈美としては、遠目にしか見たことのない空渡城の中に入れるのは楽しみではある。
「でも、どうしてまた? 今までお城に用事があっても連れていってくれたことなんてなかったのに」
「付き人として少しは働け、ということだ」
ライカは素っ気なくそう言ったが、もちろん理由は他にある。奈美を守るためには、近くに居てくれた方が守りやすいのだ。
もちろん、この窟に置いていった方が安全だという考えもある。隊員たちの力を信頼していない訳ではないが、外から敵に攻められる可能性も零ではない。
(まー、ついてこいと言うならついて行くけど)
そうは思ったものの、すでに奈美の心は踊っていた。必要最低限しか窟の外に出られない身の上としては当然だ。
そうして昼過ぎ、奈美はライカの馬に一緒に乗せてもらって景の都に向かったのだった。
景の都は巨大な城壁に囲まれているが、都の中心にある空渡城は更に壕に囲まれていた。
城へと続く橋を馬が渡り始めると、眼下に巨大な水溜まりが広がる。
「うーわーーーー……あ」
目の前の光景に感動して、奈美は思わず身を乗り出したのだが、勢い余ってバランスを崩してしまった。
(お、落ちる!)
――と思った瞬間、体を支えられる。背後に座っていたライカが、呆れた顔で奈美の体を引っ張りあげた。
「……この馬鹿」
「返す言葉もございません……」
奈美は決まり悪そうにはにかんだ。登城直前に落馬とか恥ずかしすぎる事態を防げたことに、ただ感謝しながら。
その後は奈美も大人しくしていようと決め、橋も無事に渡り終え、馬丁に馬を預けた。
ライカの後ろを早足で付いていきながら、城を見上げる。遠目で見ていた時から感じていたことだが、大国の名に偽りはなく、こうして間近で見るとなおさら壮観だ。そして、奈美の知る日本の城に似ていて、とは言え何処となく違う。
やがて正門が見えてきた。それをくぐり、途中幾つもの門をくぐりながら広い城内を歩いていくと、やっと目当ての場所に着いたらしい。
とある建物の前でライカは立ち止まると、そこにいた官吏に取り次ぎを頼んだ。
「カンナビ・ライカだ。王様に呼ばれ参った」
官吏の男は恭しく頭を下げると、扉を開けて入っていった。それを見届けてから、奈美がライカに小声で訊ねた。
「すっごく大きくて立派なお屋敷ね。もしかしてここが?」
奈美の問いに、ライカが頷く。
「王が執務を行い、日々を暮らす大殿だ」
「へえぇ~~、ここに王様がいるんだぁ……」
「……頼むから、俺が待っている間、その締まりのない顔でいてくれるなよ」
「別に私が王様に会う訳じゃないんだからいいじゃない」
「そういう問題じゃない。付き人がだらしのない顔をしていると、カンドル隊の名に傷がつくんだよ」
そんなやり取りをしていると、目の前の扉が開いた。先ほどの官吏だ。後ろに一人、若輩の官吏を連れている。
「お待たせ致しました。それではご案内致します」
二人の官吏の後をついて、大殿の中を歩く。
進むにつれ、奈美は驚いた。大殿の広々とした空間や整然とした雰囲気に圧倒されたのは勿論のこと、なんと庭園まであるではないか。木々が伸びやかに生えていて、何とも居心地が良さそうだ。
ふと見ると、その庭園の奥にちょっとした池まで設えてある。呆れるというか、軽く目眩がした。
(イルグカさまのお屋敷もそりゃあ立派なものだったけど、王様が住むこの大御殿に比べれば大したものじゃないわね)
ライカの手前、控えめに視線をさまよわせながら奈美が思っていると、官吏の足が止まった。
「ここから先は、お付きの方はこちらの者がご案内します」
そう官吏に告げられて、奈美の方にしずしずと一歩進み出てきたのは若輩の方の官吏だ。
王に謁見する場はライカのみで、付き人はその間、別室で待機するという話は既に聞き及んでいたので奈美はピンときた。どうやらここからライカと別行動となるようだ。
(えーと、私は大人しくこの人についていったらいいのよね?)
目で問い掛けると、ライカはその意を汲み取ったようで、頷いた。
「通された部屋で大人しくしとけ。……ま、おまえのことだ。思いもよらない来訪者が来たら、俺の忠告など無意味だろうがな」
奈美の耳元で囁くと、ライカは意地の悪い笑みを浮かべた。そのまま官吏と共に去っていく後ろ姿を見ながら、奈美はきょとんとした。
ただ、この言葉の意味が解ったのはすぐ後のことである。
若い官吏に連れられてやって来たのは、客間のひとつだった。数人が座れる程度の机に部屋の隅には花瓶といった、簡素な設えがしてある。
奈美が部屋に入ると、案内してくれた官吏は入り口で立ち止まった。
「では、ライカ様が謁見を終えられるまで、こちらでしばしお待ちください」
そう言うと、彼は部屋を出て行った。足音がどんどん遠ざかっていくことから、部屋の前で待機しているわけではないらしい。
「ふう……」
お城に入ってから緊張しっぱなしだったが、ようやく落ち着けるようだ。とりあえず、奈美は椅子に座ろうと、机に向かった。その時だった。
扉がコンコンと叩かれて、奈美はドキッとして入り口の方を振り返った。先ほどの官吏が戻ってきたのだろうか?
「……ナミさん、いらっしゃいますか?」
女の声なので、先ほどの官吏ではないようだ。しかし、知り合いの女性にこのような声の持ち主はない。
居留守するのははばかられるし、そもそも相手は何故か自分の名前を知っている。奈美は恐る恐る入り口まで近づくと、扉を開けた。
「は、はい。私がナミですが」
そこに立っていたのは、やはり会ったことのない者だった。町にいるような、普通の平民の格好をした女だ。歳は40過ぎだろうか。
「突然で申し訳ないのですが、失礼します!」
女はそう言うと、奈美の横をすり抜けて部屋の中に入り、扉をピッタリと閉めた。
「あ、あの……?」
「ごめんなさい、びっくりしましたよね。誰かに見られたら厄介ですので、入らせていただきました」
驚く奈美に、女は向き直って微笑んだ。
「私は左大臣イルグカ様の御息女オウキ様の小間使いで、チカノと申します。イルグカ様の使いで参りました」
「小間使い……オウキさまの!?」
奈美が任務でオウキの小間使いをやっていた時は、マナホの他には誰も小間使いがいなかったので少し驚いた。事件が無事解決したので、きっと使用人も元に戻したのだろう。
チカノという小間使いの説明をまとめるとこうだ。
本日、イルグカとオウキは王に会うため、城に来たのだという。そして現在、謁見中だそうだ。どうやら景王に呼ばれたのはライカだけではなかったらしい。
そして付き人として共に来城したチカノは、主人達が謁見している間に、ある事をイルグカから頼まれていた。
「えっ、今からオウキさまに会えるんですか?」
「はい、謁見後になりますが。お嬢様がナミさんに会いたいと毎日こぼされるので、取り計らうようにと旦那様から命を受けました」
(あののほほんおじさん、グッジョブ!)
先日の任務を終えてからオウキが元気でやっているか気になっていたので、願ってもない申し出だ。思わず心の中でイルグカを称賛する。
それにしても、オウキが自分に会いたいと言っているとは嬉しいものだ。
そんなことを考えていると、ふと奈美は気になった。
「あ……でも、今からそちらの部屋に伺うってことは、この部屋は空っぽになるんですよね? 王様に呼ばれた人の付き人が急に消えたと知れたら、もしかして大変なことになるのでは……」
「はい、問題になるでしょうね。城で何か不審な動きをしていると思われても仕方ありません」
「えぇ! というか、今、チカノさんも部屋を抜け出して来てるんですよね!? 早く戻らないと、もしお城の人がチカノさんがいないことに気付いたら――」
「とってもまずいことになりますね」
チカノは状況にそぐわぬ笑顔で答えると、続けて言った。
「ですので、早く交換しましょう」
「……交換?」
「はい。ナミさんの衣と私の衣を、です」
チカノの着ていた衣に着替えると、奈美はチカノの方を振り返った。ちょうどチカノも奈美の衣に着替え終えたところだ。
「うふふ、男物の衣を身につけるのは初めてでドキドキします」
(ええ、私もついこの前まではそうでしたよ。今ではむしろ男物の衣の方が落ち着くという悲しい事態になってますけどね)
奈美が心の中でそうつぶやいていると、チカノは不思議そうに口を開いた。
「旦那様からナミさんが下男のような姿をした女人だとは伺っていたのですが……驚きですわ。女人の格好をしたナミさんが、こんなにもお綺麗だなんて! なぜ普段、男の格好をしているんですか? それほどの美貌を隠すのはもったいないですわ」
「まあ、いろいろと訳がありまして……。あっ、私が女だということは他言無用でお願いします」
奈美が苦笑しながら返すと、チカノは得心の笑顔で答えた。
「安心してください。旦那様から伺っていますから」
イルグカから何を聞いているのか気になるところだが、今はのんびりしている暇はない。
「それじゃ、行ってきます。部屋はどこにあるんですか?」
「部屋を出て左手にずっと進んで、ひとつめの角を左に曲がってください。扉の横に朱色の花瓶が置いてあるので分かると思います。部屋のすぐ目の前は中庭ですわ」
「左手に行って、左に曲がる……。さっき途中まで通って来た道だから分かると思います」
「誰にも見られないように気をつけてくださいね」
チカノに扉の前まで見送りを受けながら、奈美は今更ながら思い出す――「部屋で大人しくしとけ」というライカの言葉を。
(あれ? そういえば……)
でもその後に、何かひっかかるような言い方をしていた。確か「思いがけない人が来たら」とか何とか。
(何よ、あの人、チカノさんが来ること知ってたんじゃない)
それなら、言いつけは有り難く無視させてもらおう。
「チカノさん、ご迷惑おかけしてすみません。その内この部屋に戻ってくると思うんですけど、うちの隊長、無愛想で横柄なんで、チカノさんに嫌な思いをさせるかもしれません……」
奈美が申し訳なさそうに言うと、チカノはほくほくした顔を隠そうともせず答えた。
「気になさらないで、ナミさん! 名将かつ色男と噂のカンドル隊の隊長さまを、ついに間近でお目にかかることができるんですもの。私も楽しみに待たせてもらいますわ~~」
(……なるほど。だからチカノさん、着替える時もノリノリだったのか)
チカノに別れを告げ、廊下に人影が無いのを確認してから、奈美は部屋を出た。
チカノが教えてくれた通り、左手に進みながら、奈美は思う――以前、東菊で娼妓たちに囲まれていたライカを思い出しながら。
(それにしても、相変わらず世間の女子の関心を集めているわけね、うちの隊長は。……解せぬ)
そんなことを考えていると、最初の角が見えた。左に曲がると、先ほど官吏に案内されていた時に見た庭園が目に入る。
まっすぐ行った向こうの廊下の端に、飾り棚がひとつ置かれており、その上に朱色の花瓶が載っている。そしてその真向かいには庭園だ。
チカノの部屋に見当がついて、奈美はとりあえず安堵する。
(チカノさんの部屋が思ったより近くて良かった……。じゃなきゃ、こんな大きな建物、一人じゃ絶対迷子になるわ)
花瓶の所まで来ると、そのすぐ隣に扉がある。ここがチカノの言っていた部屋に違いない。
(さて、誰にも見られていないわよね……?)
部屋に入る前にその確認だけしておこう。奈美がキョロキョロと辺りをうかがった時だった。
「何コレ、すご……」
思わず声が漏れた。振り返った先に見た庭園が、あまりにも美しかったからだ。
官吏に案内された時も軽く見て驚いたが、今はもっと凄いものを見てしまった。吹き抜けの天井から射し込んだ光が、庭に生える草木や池を輝かせている。それはまさに、ここが天上の世界かと見間違えるほどに。
足が自然と中庭の中に向かってしまう。
しばらくの間、目の前の光景に惚けていたので、奈美は気付かなかった――そんな自分の姿を誰かに見られていたことに。




