作戦、決行
女が一人、温泉の端に腰掛け、風にあたって火照った体を涼めている。
濡れた薄絹の衣は躰の線を余すことなくあらわにしているが、背の高い竹格子によって守られているので気にはならない。自分を狙ってくるはずの敵は、必ずやカンドル隊が討ち取ってくれるだろう。
だが、いつまで温泉に浸っていればよいのか。早く敵が現れてくれなければ、茹で上がってしまう。パシャパシャと湯を蹴りながら、がため息をついた──その時だった。
何かの衝突音と同時にバキバキという竹が折れる音がして、驚いて顔を上げた。見ると、温泉の向こう側──温泉をぐるりと囲う竹格子の一部がぶち抜かれ、そこに見たことのない毛だるまがうずくまっているではないか。
よくよく見ると、毛だるまの正体は、何頭ものオオカミが黒ずくめの男の全身に噛みついているものだった。男はすでにこと切れていて、カッと目を開けたまま虚空を見つめている。
恐ろしい光景に怯えていると、一頭のオオカミとちらっと目が合った。しかしそれだけで、そのオオカミがくるりと向きを変えて温泉から立ち去ると、他のオオカミたちもくわえた人間を引きずりながら、出て行った。
嵐のような出来事にしばらく呆然としていたが、じわじわと安堵感が広がってきた。きっと先ほどのこと切れた男というのが待ちわびていた敵で、あのオオカミたちはカンドル隊の手の者。つまり、これで囮役から解放されるわけだ。
「ようやくお目にかかれたな……お嬢様よ」
「────ッ!?」
背後からかけられた低い声に、背筋が凍る。慌てて振り返ろうとしたが、首に剣を当てられ、動けなくなってしまった。
「動くな。声も上げるな。そうすりゃ楽に終わりにしてやる。お願いだから、俺が無事に逃げおおせるまでは静かにしといてくれよ……。ま、死んじまったらうんともすんとも言えないだろうがなぁ……」
くくくっと忍び笑いをする背後の男に、思わず自分も笑みがこぼれてしまう。見事に作戦に嵌まってくれたのだから。
「残念でした……! あなたは私をオウキさまだと思ってるようだけど」
「……な……?」
男の声が急に冷めたかと思うと、髪の毛をグイッと引っ張られる。
「痛っ……」
顔をしかめてから目を開けると、目の前にまじまじとこちらを見つめる男の顔があった。
「おまえ、左大臣の娘ではないのか……!?」
「やっと気付いた? 私がオウキさまの替え玉だってこと」
女は──奈美は、ニヤッと笑った。温泉から立ち上る湯気が顔と髪色を誤魔化してくれたのは間違いないだろうが、こんなにも上手くいくとは思わなかった。男が標的であるオウキの顔を知らなかったのは意外だったが、この際今はどうでもいい。
──自分にできるのは、万が一の場合に備えて、オウキを危険から遠ざけること。つまり、敵が襲ってくる可能性が最も高い湯浴みのときに、オウキのフリをして温泉に浸かること……
何の力も持たない自分が役に立てるのはそれしかないと思い立ったのは、まだ小間使いとして潜入する前、保養地で敵をあぶり出すという作戦をライカから聞かされたときだ。
無事、小間使いとして潜入が成功すると、すぐにオウキにその作戦のことと、自分が「影武者」になることを申し出た。
「──そなたが?」
オウキは少し驚いた様子で奈美を見つめたが、やがて、怒りをあらわにして睨んだ。
「見くびるな。私が正体の知れぬ敵に怖気づいて、関係なき者をみすみす危険な目に遭わすと思うか。そなたは下がっておれ。私が出る」
「オウキさまが臆病者だとか、決して、そういうことじゃないんです」
オウキのむき出しの怒りに奈美は一瞬怯んだが、ここで負けてはいられない。ぐっとこらえて、続けた。
「カンドル隊の凄さは私がよく知っています。この目で見てきてますから。けど、念には念を、です。万が一にもオウキさまに何かあったら、カンドル隊の名に傷がつくんです」
そうは言ったものの、奈美がカンドル隊に入ってから、まだたったのひと月だ。カンドル隊のことを『よく知っている』とは誇張表現だが、この強情な女を説得するにはこれくらい必要だ。
「…………」
オウキはしばらく奈美を見据えていたが、ふっと口の端を曲げた。
「……確かに、その通りだ。私の身を案じているとか何とか申すことなく安心したぞ。そなたは確かに正直者のようだ」
(あ……何とか納得してくれたみたい)
奈美はほっと息をつくと、改めて確認した。
「じゃあ、私がオウキさまのフリをして温泉に入りますので、オウキさまは……」
「わかっておる。事が済むまで裏で待っていればよいのだろう」
オウキは一呼吸置いて、奈美をじっと見つめた。
「そなたには苦労をかけるが……頼むぞ。カンドル隊が見事敵を捕らえ、そなたが無事であることを祈っておる」
こうしてオウキの了承を得ると、奈美は様子を見に来てくれたテスにすぐに報告し、奈美が影武者役をすることをライカに伝えるよう頼んだ。テスはライカの反応を恐れて嫌がっていたが、心配は無用だった。窟から返ってきた返事はたったの一言──「了解」。
(肩すかし食らったような気分だわ。身代わりなんて危険だし、てっきりダメだって言われるもんだとばかり思ってたんだもん……。ま、それほど敵を捕まえる自信があるのね。だから温泉に浸かってるのが本物だろうが偽物だろうが関係ないってとこかしら)
そう思っていたのに、この現状は一体なんなのだ。敵に温泉への侵入を許し、喉元に剣を突き付けられているではないか。
(いや、オウキ様の替え玉になるって言い出したのは私だけど……! でも……でも……私のこと、どこかで見守ってくれてるんじゃないのーーーー!?)
奈美が心の中で叫んでいると、男が舌打ちをしてブツブツとつぶやいた。
「……ない。……問題ない。ここはさっさと片付けて、あの女を探せばいい。どうせあの奥にいるんだろう」
(えっと、何を片付けるんですかね……?)
奈美は思わず聞き返しそうになったが、男がぎろりと奈美に視線を移したのが答えだ。
「可哀そうだが仕方がない……恨むなら、あの女を恨むことだ……!」
男が剣を構え直した瞬間、奈美の真横をヒュッと何かが通り過ぎる。
「ぐあっ」
目の前の男が吹き飛ばされ、ガランガランという音が鳴り響く。男が持っていた剣が足元の石畳に落ちた音だと奈美が気付いた時、突然現れた脚がその剣を温泉に蹴り落とした。
「お喋りが過ぎるな、この襲撃者は」
その声に奈美は顔を上げた──。
「…………!」
奈美に驚いた顔で見られているのに気付いて、ライカが答えた。
「なぜここにいるのかとでも言いたげな顔だな」
「何でここにいるの!? ここから離れた場所で敵を張ってたんじゃ……」
「危機管理という言葉を知っているか? こういう事態を予測して、俺だけ脱衣所の傍で張ってたんだよ」
「でも、男の人が近くに寄るのはオウキさまが──」
「そのお嬢様から頼まれたんだ。万が一の場合、おまえを守ってくれと」
「オウキさまが……?」
その言葉に、奈美の胸がじいんと熱くなる。男嫌いの高貴な姫が自分のためにそこまでしてくれたとは。
「ま、頼まれずともそのつもりだったけどな。この鎖がある限り」
ライカが見下ろた先には、紅い紐が浮かんでいた。奈美とライカの心臓を繋ぎ、淡く光っていたが、奈美が気付いたそばからすっと消えていった。
「……テムル……」
奈美はつぶやいた。改めて見ると不思議だ。赤い紐が何となく血管に見えるのは職業病ゆえか。
(……ん?)
その時、奈美はふと思った。替え玉の件をあっさり許してもらえたのは、敵を捕まえる自信があったからではなく、ライカ自らが側で奈美を守り抜くと決めていたからなんだと。
それがテムルでつながれているが故の行動だとしても、奈美の心は間違いなく動いてしまった。
奈美がそんな自分に腹を立てていると、ライカが長羽織を脱ぎ始めた。そして、それを奈美の方に無造作に投げ渡す。
「それでも羽織っておけ」
「あ……ありがと」
自分が裸に近い恰好をしているのを思い出して、奈美は慌てて長羽織を身に纏った。幸いライカは特に気にしている様子はなく、地面に横たわった襲撃者のもとに歩み寄っていく。
「し、死んでるの……?」
奈美が後ろからそっと覗きながら訊ねた。ライカは襲撃者の首根っこを掴み上げると、首を横に振った。
「いや、俺の投げた石が頭に当たって気絶しているだけだ。まだ死なれては困るから手加減した」
「脳震盪か……」
奈美がホッと息をついたのを見て、ライカはため息をつく。
(おまえのそのお気楽さ加減は相変わらずだな)
ライカが男を縄で縛るのを見ながら、奈美はふと疑問に思った。
「それにしても……この男、一体どこから出てきたの? 私ここからずっと見てたけど、あの格子を上ってくる人なんていなかったし、かといって裏手は脱衣所だし……」
奈美の疑問の答えを、ライカは知っている気がした。竹格子の外側で待機していたが、確かに竹格子を越えて侵入してくる者は鼠一匹いなかった。この男は突如として、奈美の背後に現れたのだ。
(この何の前触れもない現れ方……あの男を思い出す)
あの男──シスイも、神出鬼没に現れては消えていった。瞬きをするほんの一瞬の間に。
(──だが、この男はシスイではない。顔かたちも全く違うし、何より弱すぎる)
これは何を意味するのか──。ライカがそう思ったとき、奈美がのんきな声で言った。
「でもとにかく、これですべての襲撃者を捕まえたってことで一安心していいのよね? オウキさまに『もう大丈夫です』って伝えてきてもいい? 脱衣所でマナホさんと待たれてるし……」
奈美が裏手の建物を指したその時──オウキがいるはずのその建物から、派手な音が聞こえてきた。
「……え……」
奈美が呆気に取られている横で、ライカが機敏に動いた。脱衣所めがけて走っていく。慌てて奈美もその後を追う。
「あ、待って! 私も行く……!」




