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表:伝説残る温泉旅館「縁亭」

 

 奈美はスマホを見た。待ち合わせの時間まで、あと十分ある。時間を見ると同時に、メールも電話も届いていないことを確認する。


(今の時点で寛人から何の連絡も来てないということは、今回こそは大丈夫そうね)


 奈美は、ふうと安堵の溜息をついた。


 三度目の旅行が中止になった後、寛人がドタキャンを土下座する勢いで謝ってくれたので奈美も溜飲が下がったのだった。三度目の正直もあえなく「惨敗」だったので、四度目の旅行の計画を無理に立て直すことはないと奈美は思っていたのだが、寛人が譲らなかった。今度こそは這ってでも行くと言い張ったので、奈美もそれを信じて温泉旅館「縁亭」の予約を取り直したのだった。


(旅行は何度も中止になったけど……寛人ったら、這ってでも行くだなんて。そこまで言ってくれるなんて嬉しいじゃない。私のことを大切に思ってくれている証拠よね!)


 奈美はにやつく顔をどうにか元に戻した。人通りの多い駅の改札前で真昼間から怪しい顔をしていては、このご時世、警官にでも声を掛けられるかもしれない。


(とうとう念願の旅行に行けるって時に、警官に捕まって旅行に行けなくなるなんて笑えないもの)


 思えば、この温泉旅行を最初に予定していたのが六月で、今が十一月。たった一泊二日の温泉旅行に行くだけで、半年もかかったのだ。


「長かったわあ……この道のりは」


 まるで旅館でゆっくりとくつろいでいるかのようにしみじみとつぶやく奈美だったが、実際にはまだ旅立っていない。

 そんな奈美を現実に引き戻すように、スマホが鳴った。その瞬間、奈美の顔が凍りついた。


(まさか、この展開は……)


 もはや嫌な予感しかしない。奈美の脳裏に一か月前のことがよぎった。三度目の旅行の直前も、まさにこんな展開だったのだ。


 奈美は恐る恐るスマホの画面を見た……。


「…………あれ」


 メールの送信者の名前を見て、奈美は拍子抜けした。寛人ではなく、妹の明日加だったからだ。


(びっくりさせないでよ……寛人からのドタキャンメールだと思ったじゃない)


 ふうと胸を撫で下ろしながら、奈美は明日加から届いたメールを開いた。


 ──待ちに待った旅行の日だね! おみやげのことなんか忘れていいから、寛人さんとラブラブな温泉旅行楽しんできてね。

 あ、もちろん旅行のことはパパには秘密にしてるから安心して行ってきてね!──


 キラキラとした絵文字で彩られたメールを読み終えると、奈美はふふっと笑った。


「まったくあの子ったら。父さんに内緒にしてあげるからお土産奮発しろ、って言ってるようなものじゃない」


 父に彼氏との旅行を秘密にしておけと、明日加に言った覚えはない。だが、明日加は姉想いの良い子だから、姉の楽しみにしている旅行をぶち壊すようなことはしない。万が一父に知られでもしたら、「嫁入り前の娘が男と旅行など言語道断」とか何とか言いだすに決まっているからだ。


(仕方ない、先月ブレスレットを買ってあげたばかりだけど、お土産も差し入れしてあげるか──)


 お土産は何がいいかなと考えていると、向こうから聞き覚えのある声がした。


「奈美! ごめんごめん、待った?」


 奈美が顔を上げると、駅の入り口の方から一人の男が走ってくるのが見えた。──寛人だ。


「──寛人! ううん、さっき来たとこ」

「そっか、それなら良かった。学会の準備でバタバタしてて……」


 寛人とこんな何気ない会話をしているだけで、奈美は自分が夢を見ているのではないかと思った。三度も旅行が中止になったものだから、仕方のないことかもしれない。


「どうした、奈美? 電車に乗り遅れるぞ」


 寛人のその声に、奈美ははっと我に返った。


(いけないいけない。現実感なくて、ぼーっとしてた……)


 せっかく彼氏との旅行が現実になったのだ。しっかり楽しまなくては罰が当たるというものだ。奈美は旅行用カバンを肩にかけると、寛人に続いて改札を通った。


◇◇◇


 電車に揺られて二時間半……。辺りの景色は都会の喧騒から離れ、すっかり田園風景となっていた。


湯所ゆどころ温泉―、湯所温泉―』


 車内アナウンスのあとに停車した駅で、奈美と寛人は電車を降りた。平日のせいか、この湯所温泉駅で降りる人は二人以外にはいなかった。


「やけに寂れた温泉街だな……」


 改札を出たところで、駅前の様子を見渡しながら、寛人がつぶやいた。

 寛人の言う通り、たしかに栄えているとは言えない温泉街だ。駅前だというのに、営業しているのかさえ分からないような、小さな土産店がひとつふたつあるだけで、あとは民家か田んぼがあるだけなのだ。

 寛人のつぶやきを聞いた奈美は、慌てて湯所温泉のフォローに入った。宿に着く前にがっかりされて、帰られては困る。


「湯所温泉はね、知る人ぞ知る穴場温泉なのよ! 湯治で訪れる人だって多いんだから!」

「湯治か……。温泉を日本の医療でもっと活用できると思うんだけどな。そういえば、ここの温泉の泉質はどうなってるんだろう……」


 寛人は手に顎を置いて、何やらぶつぶつと言い始めた。何とか寛人の関心を惹きつけることに成功したようだ。


(ふう、これで大丈夫ね。医学オタクの寛人なら、実際に自分が温泉に入って成分を確かめるまで絶対に帰らないだろうし。寛人には何としてでも私と一緒に旅館に行ってもらわないと)


 奈美は寛人に気付かれないように、胸の前で小さく拳を握った。そう、奈美の大願・・を叶えるためにも、今から向かう温泉旅館「縁亭」には二人で行かないと意味がないのだ。


「さっ、旅館に行ってみようよ!」


 いまだに考え込んでいる寛人を引っ張って、奈美は駅前のバス停に向かった。


◇◇◇


 数時間に一本しかないバスに乗って山道を往くこと一時間……。奈美たちはようやく本日の宿泊地である温泉宿「縁亭」に着いた。


「わあー、ようやく着いたね。こんな山奥に旅館なんてあるのって途中で心配になったけど……この旅館って結構大きいのね。写真で見るより大きく感じるわ」


 バスを降りると、奈美は大きく伸びをした。

 奈美に続いて降りてきた寛人はというと、青白い顔で地面に膝をついた。曲がりくねった山道で車酔いしたのだ。


「うう……こんなことなら、酔い止めの薬持ってこればよかった……」

「大丈夫、寛人?」


 奈美が寛人の背中をさすっていると、柔らかな声が降ってきた。


「平原様でいらっしゃいますか?」


 二人が顔を上げると、着物を着た、五十代くらいの女性が微笑みを浮かべて立っていた。


「ようこそお越しくださいました。わたくし、『縁亭』の女将でございます」

「あっ」


 今日からお世話になる女将には、きちんと挨拶しておかなくていけない。奈美は背筋を伸ばすと、会釈をした。


「二名で一泊二日の宿泊をお願いしていた平原奈美です。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いいたします。どうぞ館内へ。お疲れでしょう」


 女将はニコニコとした顔で奈美と寛人を案内し始めた。バス停から「縁亭」の敷地内に入ると、すぐ目の前に大きな旅館が立っていた。古びてはいるが、大切に手入れされている。そんな印象を、奈美は受けた。

 館内に入ると、数人の仲居が丁寧に二人を出迎えてくれた。チェックインを済ませたあと、仲居が部屋に案内してくれる時の態度も丁寧で、行き過ぎた干渉もない。奈美は素直に、いい旅館だな、と思った。横を歩く寛人の表情から見ても、彼も同じことを思っているようだ。


(良かった……。何度も予約をキャンセルしたからやっかいな客だと思われてるかと思ったけど、そんなことなかったみたい)


 仲居が館内の説明をするのを聞きながら、奈美はホッと胸を撫で下ろした。

 こんなに居心地の良い旅館なら、もっと繁盛していてもおかしくない気がする。だが、今日は観光シーズンの外れた季節の平日であるうえに、人里離れた山奥という立地が集客のうまくいかない理由だろう。


「それでは、これで失礼いたします。何か御用がございましたら、お気軽にフロントにご連絡ください」


 お辞儀をして仲居が部屋から出て行くのを見送ってから、改めて奈美は自分が宿泊する部屋をじっくりと眺めた。

 八畳の和室で、障子の向こうの窓は紅く彩り始めた山が広がっている。部屋の中央には今は黒檀の座卓が置かれているが、夜は二枚の布団が並べられるのだろう。


(そういえば、寛人とお泊りってこれが初めてなのよね……)


 そんなことを考えていると、奈美は緊張で喉が渇いてきた。座卓の上に置かれていたポットからコップに水を注いで、ぐいっと飲む。一気に飲み干したせいか、むせて咳き込んだ。


「おいおい、大丈夫か? 誰も取りゃしないんだから、ゆっくり飲めよ」


 寛人が奈美の背中を擦る。つい先ほどまでは立場が逆だったのだが。


「ごほこほっ……うん、ありがと、だいじょ……ぶ」


 奈美は息を整えながら、背中を擦ってくれている寛人の顔をこっそり見た。奈美が気にしていることを、寛人はどう思っているのだろうか。でも、寛人の表情はいつもの調子で、その心の内は何も分からない。奈美は心の中で毒づいた。


(もう! やっぱり医者って職業は変人ばかりだわ。いつも何考えてるか分かったもんじゃないんだから! 私がどうしてこの旅館に泊まりに来たかったのか、教えてやりたいわ)


 奈美はどうして「縁亭」に泊まりに来たかったのか……。その答えは、この湯所温泉の地に古くから伝わる伝説にあった。



 ──昔々、一人の男がおった。その男は、生と死の相反あいはんする二つのものを秘めておった。

 あるとき、空から一人の女が舞い降りた。美しくも妖しき風貌をもったその天女は、生と死を統べる力を持っておった。

 天女とその男は、ふたつでひとつ。ふたりは、かたく結ばれた。

 運命的ともいえるその出会いで、ふたりを導く先は生か死か。それとも未知なる世界か──



 この不思議な雰囲気のある言い伝えが、現代人──特に、妙齢の女性中心に広く受け入れられていた。言い伝えのなかに出てくる「男」と「天女」が「かたく結ばれる」……。この部分が特に男女仲に縁起がいいということで、湯所温泉の地は温泉の他にも、恋愛成就にご利益があるパワースポットとして、知る人ぞ知る名所なのだ。特に、温泉旅館「縁亭」に宿泊したカップルが結婚に至るという噂はこの地域では有名な話だった。


 二十八歳の奈美も、寛人と交際をするうえで、「結婚」はやはり気になる要素だった。寛人と今の関係を続けていたら、そのまま十年、二十年が過ぎていく……。ふとそんな考えが頭をよぎることも増えていた。


 そんな時、雑誌でたまたま紹介されていて湯所温泉のことを知ったのだが、見た瞬間、奈美は「これだ!」と思った。というのも、寛人とは付き合って三年が経つというのに、その関係は何も進展がなかった──つまり、寛人からは結婚の「け」の字も言う気配がなかったからだ。


 奈美が今回の旅行の計画を立てたのは、単に温泉を楽しみたいから、だけではない。湯所温泉の恋愛成就というご利益を得たい。それが、今回の旅行のもう一つの理由だった。


(今日この旅館に泊まって、絶対に寛人にプロポーズさせてやるんだから! 寛人との結婚が決まったら、あんな職場、すぐにやめてやる!!)


 そんなことを含み笑いしながら考えていると、寛人が怪しげな様子で口を開いた。


「奈美? なに笑ってるんだ?」

「あ、ううん、何でもない! そういえば、まだ夕食には早いよね。それまでどうする?」


 奈美は慌てて話題を変えた。どうやら寛人はその話題に食いついてくれたようだ。しばらく考え込んでから、寛人が口を開いた。


「夕食の時間まで結構あるし、せっかくだから温泉に行こう」

「賛成! 私も入りたいと思ってたの。えーと、さっきの仲居さん、お風呂は何階って言ってたっけ? 露天風呂って言ってたよね、楽しみ!」


 奈美はうきうきしながら、入浴の準備をするためにカバンの中をあさった。そんな奈美とは対照的に、寛人は自分のカバンを再び背負う。


「さ、行くぞ」

「……え、どこに?」


 ポカンと口を開けている奈美に、寛人はさも当然といった様子で言った。


「野外温泉だよ。仲居さん、旅館の裏の山の中に温泉があるって言ってただろ」

「え、え? ちょっと待って」


 突然の話に、奈美はこめかみを押さえた。確かに先ほどの仲居が、旅館から二時間ほど獣道を上った山中に野湯やとうがあると言っていた。そして、その野湯が崖の傍というデンジャラスな場所にあるということも。

 ゆっくりするために来た温泉街だというのに、往復四時間の山歩きをしてまで、しかも、危険なロケーションにある温泉になど入りたくない。だから奈美はゆっくりと、言葉を選んで提案した。


「山を登るの大変だし、温泉も危ない場所にあるみたいだし、やめといた方がいいんじゃない?」

「いや、ここまできたら、野外温泉までも調べてみないと気が済まない」


 奈美の説得むなしく、野湯行きが決定した。医学オタクの性質がここで仇となったようだ。


(結婚どころか……そもそも無事に帰ってこれるのかな、私)


 旅館を後にしながら、奈美はそうぼんやりと思った。


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