イスビとシムの奮闘
保養地に着いたのは、半日が経った夕暮れ時だった。
「小さな庵だが、案外悪くはないぞ」
オウキはそう言ったが、奈美は目の前に立つ建物を見上げて呆れた。
(小さな、って……。十分立派なお屋敷なんですけど)
マナホに聞いたところ、この「小さな庵」にも、常時使用人が住み込みで管理しているそうだ。オウキ到着の知らせを受けて、屋敷の前に数人の使用人たちが並んで出迎えた。
「お待ちしておりました、お嬢様。ささ、どうぞ中へお入りください」
都の本邸から主人が来るとなると、やはり気合いが入るようだ。使用人たちは生き生きとオウキを屋敷の中へ案内を始めた。
オウキの後ろをマナホと共に歩きながら、奈美は刻一刻と迫る瞬間を前に、緊張が高まっていく。
そう、この旅はただのんきに温泉に浸かりに来たのではない。敵をあぶり出すための作戦なのだ。
◇◇◇
「ふぁあああ……」
カンドル隊の獣使い、イスビは、犬のあくびのように大きな口を開けて唸った。
「……暇すぎる」
「任務中だぞ」
蟲使いのシムに横目で咎められると、イスビは目をこすりながら気だるげに答えた。
「わーってるよ。オオカミからの知らせはまだないから安心しろ」
イスビとシムは森の中に身を潜めていた。二人が遠目に見張っているのは、温泉だ。とはいえ、温泉は竹格子によってぐるりと囲まれているので、ここから温泉は見えない。
「何があろうとも温泉には近づくなって隊長から厳命されたけど……そんなんで姫様を守れるんかね」
「そのために、俺たちの天力がこの役目に選ばれたんだろう。それに、任務とはいえ、珂族の女人の湯浴みを覗けば俺たちの首が飛ぶ」
「おーおー、恐ろしいこった」
イスビはそう言って肩をすくめる。
「でも、ま、俺たちはいわば最後の砦なんだろ。今頃、他の隊員が敵を追ってる頃だろ?」
「うまくいけばな。隊長によれば、敵は護衛が最も手薄になる湯浴みを狙ってくるはずだ。温泉周囲の守りをわざと手薄にすることで、敵をおびき寄せることができる……とな」
「動き出した敵を温泉から離れた所で捕まえる算段ね……。あいつらが敵を取り逃がすはずがないだろうし……こりゃ、俺たちの出番はないね」
イスビが鼻で笑ったその時、遠くの方からオオカミの遠吠えが聞こえた。「知らせだ」とシムに目配せすると、イスビは啼き声を解読するようにつぶやいた。
「石の上を歩き──ああ、脱衣所から温泉まで続く石畳だな……衣擦れ……水のはねる音……。姫様が湯浴みを始めたようだぜ」
「女人の湯浴みの盗み見ならぬ盗み聞きか。しかも、オオカミまで使って……新手の変質者のようだぞ、イスビ」
「うっせー」
イスビが横目でシムを睨むと、「ってか、」と不思議そうに口を開いた。
「湯浴みするってのに、衣着たままなのかよ? 姫様はよ」
「珂族──とりわけ、その女人は、温泉など家屋外で湯浴みをする場合は、着衣のままだそうだ。薄い絹の肌付をな」
「なんだそれ。湯浴みするってのに着たままって」
「高貴な躰を誰かの目に触れさせるわけにはいかないんだろう。俺たちのような低俗な者には特に、な」
「へーへー。どうせ低俗だよ」
イスビがぶすっとした顔でつぶやくと、シムが突然切り出した。
「それにしても、居丈高・癇癪持ちで有名な姫が、よく許したと思わないか」
「何を?」
「この作戦に、だ。オウキ嬢が囮になることを承諾したと聞いたときは意外だった。ともすれば、身に危険が及ぶというのに」
「そうか? どうせ珂族サマの暇つぶしなんだろ?」
興味なさそうに答えたイスビだったが、再びオオカミの遠吠えが聞こえて、ハッと顔を上げた。啼き声は先ほどとは違った方向から聞こえる。
「まじかよ……」
イスビが深いため息をつきながら、シムに告げた。
「向こうに張らせといたオオカミから連絡だ。こっちの狙い通り、敵が行動を始めたらしい。大半は捕らえたらしいが……二、三人取り逃がしたんだと」
「……つまり、その数人の敵がこちらに向かってきている。そういうことだな?」
シムがひとつも動揺することなく言うと、イスビは面倒くさそうに答えた。
「そういうことだ」
「俺たちの出番ができたな」
「ったく、どいつだよ。敵を逃がすなんて情けなねーこと仕出かした奴はよー……」
「仲間がへまをしたという可能性はあるが……カンドル隊が取り逃がすほど、敵が手練れという可能性もある」
「ヤな可能性だねぇ……」
その時、黒ずくめの男が三人、イスビとシムの前に現れた。彼らは何も言わず、武器を構える。
「俺たちがカンドルのモンだって知っているね、この様子じゃ」
イスビが口笛を短く吹くと、どこからともなく五、六頭のオオカミがイスビの周りにやってきた。
シムも肩から下げている幾つもの皮鞄のひとつから小さな球を三つ、取り出すと、シュシュシュと間髪入れず、黒ずくめの男たちに向かって投げつけた。
「!?」
黒ずくめたちは一瞬驚いたが、自分に向かって飛んできた球をそれぞれ剣で真っ二つに割り切った。
「カンドル隊の連中は怪しい術を使うと聞いていたが……こんな子供騙し程度だったとはな」
黒ずくめの男の一人がそう言うと、他の二人もくっくっと笑い始める。
だが、それを見ていたイスビは「あ~あ」と憐れむようにつぶやいた。
「飛んで火に入る夏の虫、だなこりゃ」
「……知っているか? 虎蜂の習性を」
説明しながら、シムは別の革鞄──壺のような形をしている鞄だ──の蓋を開けた。その途端、中からたくさんの蜂がわっと飛び出し、シムの周囲を取り囲むようにして飛ぶ。
「こいつらは普段は温厚な性格で人を襲うことは滅多にないんだが、特定のにおいに敏感でな……。そのにおいを放つものがあると、狂ったように一斉にそれに襲い掛かる。強力な毒針を持ってな」
「ま、まさか……」
黒ずくめの男たちが恐る恐る、足元に落ちている真っ二つとなった球を見下ろした。よく見ると、その球の内部には濡れた跡がある。
「先ほど俺が投げた球の中には、俺が作った特製の薬を入れていた。温厚な虎蜂を狂戦士に変える薬をな」
シムが無表情でそう言うと、黒ずくめの男たちは剣を構え直して激昂した。
「そ……そんな虫ケラごときにやられる我らではないわ!」
黒ずくめたちが雄叫びをあげながら、イスビとシムに向かって襲い掛かってくる。
それと同時に、虎蜂の群れが二手に分かれて、黒ずくめの男二人に向かってそれぞれ飛びかかっていく。ブーンブーンという低周波を響かせながら。
それを見たシムが、眉をひそめた。
「……ム。一人は薬液を浴び損なったか」
「へいへい」
シムがピュイと口笛を鳴らすと、待機していたオオカミたちが運よく蜂の攻撃から逃れることのできた黒ずくめ目がけて走っていく。
「う、うわあああ!!」
男は恐れのあまり、がむしゃらに剣を振り回すが、オオカミたちはそれをするりするりとかわしていく。やがて一頭が男の脚に噛みついたが最後、他のオオカミも次々と男の体に牙を立てていく。
男の首にオオカミの牙がしっかりと食い込んでいるのを見て、イスビが短く息をついた。
「おいおい、こりゃまた簡単に獲物がとれちまったな。オオカミは牙じゃなく、脚で狩りをするもんだってのによ」
イスビは物足りなさそうな顔で振り向くと、残り二人の黒ずくめはそれぞれ、蜂の群れから逃げ回っているところだった。
「あン? 敵ながら、案外ねばるじゃねーか」
イスビが高みの見物を決め込もうと座り込んだ時、逃げ回る一人が息を切らせながら意気揚々と声を上げた。
「なんと芸のないことだ! 刺されないよう、振り切ればいいだけの話だ!」
「なるほど……人間と蜂、どちらの脚が勝つか。競争してみるとするか。案外逃げ切れるかもしれないな」
「納得してんじゃねー!!」
敵の言葉に関心を示したシムに、イスビは思わず突っ込みを入れる。だが、その競争も突然終わった。
「……な!?」
ふと男が違和感を感じて見下ろすと、自らの手にぽつぽつと小さなイボができていることに気付いた。──いや、よく見るとそれはイボではなかった。
「吸血壁蝨だ。あらかじめ俺たちの周囲に待機させておいた。腹を空かせておいたからな……獲物が現れてさぞ喜んでいることだろう」
「くそ……っ」
血をたっぷり吸って膨れ上がった壁蝨の数の多さにゾッとした男は、狂ったように皮膚を掻きむしり始めた。だが、それに夢中になって走るのをやめたのが運の尽きだった。
「ぐあああああぁあ……ッ」
追いついた虎蜂たちが男に総攻撃を仕掛ける。それを遠くで見ていたイスビが、苦々しくつぶやいた。
「うえ……やっぱ俺、シムだけは敵に回したくねーわ……」
残るは一人。まだ蜂から逃げ回っているようだが、その体力から察するに、やはり敵はなかなかの手練れなのか。イスビがその方を見遣ると、残る一人はいつの間にか、自分たちからかなり離れた所を一直線に向かって走っている。そう、その先にあるのはオウキのいる温泉だ。
「やっべ……!!」
高みの見物などしている場合ではないことに気付いたイスビは、慌てて立ち上がった。
「嚆矢! 殿まで連れて、あいつを仕留めろ!」
獲物の周りで待機していたオオカミの群れの中の一頭が、その声に顔を上げた。短くひと啼きすると、早速次の獲物に向かって走り始める。他のオオカミたちも残らずそれに続いた。
「頼むぜ……! 隊長の命令で、俺とシムはここから動けないんだかんな……」




