【番外編2】妓楼へ行こう!
「おせーぞ、ナミ!」
「ごめん! すぐ行くから!」
そう答えると、奈美は慌てて目の前に並べた巾着袋を麻製の鞄に詰め込んでいく。巾着の中身は、この世界の貨幣だ。貨幣の使い方はライカに教えてもらった。実際にうまく扱えるか緊張するが、この世界での初めての買い物は楽しみだ。こうやって少しずつできることが増えるのはうれしい。
奈美は鞄をしっかり肩に掛けると、食堂を飛び出した。向かうはこの窟の入り口だ。
今からカンドル隊の食料を買いに景の都に行くのだ。もちろん一人で行くのではなくカンドル隊の男たちと一緒なのだが、それでも十分な進歩だと奈美は思っている。窟に連れてこられた当初は、窟から一歩外へ出ることさえ許されなかったのだから。
「おう、ナミ」
「買い出しか。お疲れさん」
入り口で見張り役の隊員二人と軽く言葉を交わすと、外に出た。
辺りは真っ暗だった。奈美も、買い出しに付き合ってくれる隊員も、時間に余裕があるのは一日の最後の食事が終わってからなので、これから買い出しは夜に行くことになる。
「やっと来たか。馬、呼んどいたぜ。荷車も用意しといた」
「ありがと……あれ? セトだけ?」
奈美はきょろきょろと辺りを見渡したが、窟の前にいるのはセトと馬が二頭だけだ。
「他のみんなも都に行くって、夕餉のとき言ってなかったっけ?」
「他の奴らは先に行ったぜ。大勢で行くと目立つだろ。窟の場所が特定されるとマズイし、基本的に窟周囲での行動は少人数が原則だ」
「あー、なるほど」
二頭の馬に繋がれた荷車は前の部分に運転席が付いていて、セトはそこに座っていた。奈美もセトの隣に座らせてもらうと、セトが掛け声と共に、手綱を握った。馬車は窪地から坂道を上り、山の中を順調に進む。
クタラ村への遠征のときも思ったが、カンドル隊の男たちは何でもないように馬を操る。馬術など自分にはできそうにないので、誰かが買い出しに付き添ってくれるのはありがたい。一人で行け、と言われていたら絶対無理だっただろう。
セトとたわいない話をしていると、山を抜け、やがて巨大な城壁が見えてきた。景の都だ。
「何度見てもこの景色はすごいな……」
目の前の絶景にため息を漏らして見ている奈美に、セトが声を掛けた。
「ぼっとしてるなよ。身上札、用意しとけよ」
「あ、そうだった」
奈美は慌てて麻の鞄を漁る。景の都に入るためには、門兵の身分検めを受けなければならない。身上札という木の札を見せて、自らの素性を証明するのだ。
(……ホントに大丈夫なのかな、これ)
奈美は鞄から取り出した一枚の身上札を見ながら、思った。
ライカから「これがおまえの身上札だ」と貨幣と一緒に渡されたのだが、身上札が空から降ってくるはずもなく、つまりこの身上札は偽造したもの、ということになる。身分証明書を偽造なんて法に触れそうなことを平然と行うライカはどうかと思うが、しかし、この札を使わざるを得ないのもまた事実だ。奈美にできるのは祈ることだけだった。
(どうか偽物だとバレませんように……)
身上札が偽物だとバレて牢獄に入れられる自分の姿が頭の中をかすめたが、とうとう門の前に着いてしまった。門兵のうちの一人が近づいてきて言った。
「身上札を見せなさい」
「はいよ」
まずはセトが身上札を見せる。彼の身上札は、まるで筍を縦に割ったような、よく目にする典型的な木目の板だ。奈美の身上札も同じ模様である。前にライカの身上札をちらっと見たことがあったが、確か魚の鱗のような木目だった。
(この身上札って、身分とかによって板の種類が変わるのかしら?)
身上札の表面には、例の奈美には読めない文字で、びっしりと書かれてある。おそらく自分が何者であるかが書かれてあるのだろう、と奈美は思った。
そんなことを考えていたので、門兵に睨まれているのに気付いて、奈美は慌てて自分の身上札を見せた。
「……んん?」
奈美の身上札を見て、門兵が顔をしかめた。奈美の顔と身上札を何往復か見たところで、奈美が恐る恐る訊ねた。
「あ、あの……何か問題でも……?」
「いや、身上札には性別が男だと書いてあるのだが……」
「あっはっは! おやっさん、こう見えても、こいつはれっきとした野郎だよ!」
その時、セトが突然笑い出した。可笑しくてたまらないといった様子だ。
「いや、この前も女だと間違われたことがあったんだけどな? だがこんなナリでも、娼妓の評判はいいんだぜぇ。この前も一度に三人の娼妓を買ったらしい。どんだけ立派なモノ持ってんだってよな。くそ~、俺も娼妓を泣くほど喜ばせてやりてぇぜ」
「なっ……」
この男は一体、何を言い出すのだ。どこでどうそんな話になった。奈美は一瞬、セトの口を塞いでしまおうかと思ったが、いや待てよ、と踏みとどまった。
(不本意だけど……ここは我慢よ! 今、私を男だと証明してくれるのは、セトしかしないんだし……!)
奈美の我慢は報われた。門兵はセトの話を聞いて奈美を男だと信じてくれたようだ。「疑って悪かったな。通りなさい」と言って、すんなりと通してくれた。
荷馬車の上で揺られながら、セトが笑いをこらえながら口を開く。
「おまえ、これから食料調達に来るたびに、門兵に止められるのかよ」
「さあ……知らね」
そんなこと、こっちが知りたい。
景の都に来ただけでまだ何もしていないというのに、奈美はどっと疲れていた。とりあえず次来るときは、体つきがよく見えるようにたくさん着こんでこよう、と思う奈美であった。
門を通過したあと、荷馬車は大通りをしばらく走り、景の都の象徴──空渡城に少しだけ近づいたところで止まった。目の前には、明かりのついた店。店の中に食料品や日用雑貨の入った箱がたくさん積まれているのが見える。どうやらここが、カンドル隊御用達の卸問屋らしい。
セトが馬車から降りたときにちょうど、店から男が出てきた。セトを見つけると、気軽に話しかける。
「やあ、今日はあんたか。近頃、注文数が多くなったけど、隊員でも増えたんか? ……おっと、今日持って帰る分は、前に注文受けた分だけでいいかい?」
店の主人がそう口を動かしながら、店の中から箱を次々と運び出してくる。
「違う違う。隊員が増えたんじゃなくて、飯が美味くなったから食べる量が増えただけだよ」
セトは手慣れた様子でその箱を荷馬車に載せていく。奈美も、手伝おうと慌てて荷馬車から降りた。
「お? どいつの飯もまともじゃないと言われ続けてきたカンドル隊に、ようやく料理の腕が上達した奴が出てきたんか?」
「というよりも、カンドルに新しく料理番が入ったんだよ。ほら、こいつ。女みてーだろ。ナミってんだ」
そこで、箱を何とか持ち上げている奈美をセトが指した。主人が奈美の顔を見ると、感心したようにため息を漏らす。
「ほお、確かに。男にしとくのがもったいないくらいだ。うちのカミさんより美人だしな。あっはっは」
「無駄口叩いてないで仕事しなッッ!!」
その瞬間、背後から芋が飛んできて、主人の頭に命中した。奈美がギョッとして芋が飛んできた方を見遣ると、店の中から主人を睨んでいる女が一人いる。
「あいててて……わかってるって」
主人は頭をさすりながら、店の中に聞こえないようにセトと奈美にささやいた。
「いいか? おまえらは祝言なんか挙げるなよ。どうしてもってんなら、見た目のいいカミさんもらえ。こんな仕打ちされても美人相手なら許せるから」
「は、はは……」
奈美は何とか笑って答えたが、心の中ではこの男に呆れていた。
(それ以前に、奥さんの前であんなこと言う方がどうかしてるから!)
意外なことに、セトも奈美と同じような顔をしている。てっきり同意するか笑い飛ばすかのどちらかと思っていただけに、その苦虫を嚙み潰したような反応は、奈美には意外だった。
「冗談いうなよ、おやっさん。ナミならまだしも、俺たち術持ちはそこらの人間と違うんだぜ。女を娶るなんぞ、できやしねえ。女が近づいてくるかよ。知ってんだろ」
そう言うセトに、主人が寂しそうに首を振る。
「ふーー。嫌な世の中だねえ。カンドルの男たちはいい奴ばかりだってのに……」
(……おおお?)
二人のやりとりの内容に、奈美の片眉が上がった。最近、窟での様々な話に耳をそばだてている奈美だが、カンドルの仲間たちの恋愛事情が話題にのぼることは一度もなかった。あんな山の中の窟で男だらけで暮らしているのだから結婚している者がいるとは思ってなかったが、まったくと言っていいほど色恋沙汰の話を聞かなかったのも、今思うと確かに変である。
(つまり……天力みたいな不思議な力を持つ彼らは、一般人から嫌われてるってこと? ううん、これまで会った人たちの様子からすると、別に嫌われてるわけじゃないわね。むしろ好かれてるし、尊敬されてる。……けど、結婚はできない?)
──術持ち。
その言葉の裏に何か闇が隠れている、と奈美は感じた。
◇◇◇
卸問屋で荷馬車に食料を積み込み、店の主人に次回分の注文をすると、店を後にした。セトは次の行き先も告げず馬を走らせているが、奈美にはどうしても気になることがひとつだけある。
「な、なあ……今から窟に帰るのか……?」
「せっかく都まで来たってのに、そんなわけねえだろ!」
おずおずと訊ねた奈美に、セトがどっと笑った。
「無論、『東菊』だぜ! 一仕事終えたあとは、やっぱコレだろ~?」
「そうだよな!」
奈美はあからさまにホッとした。奈美としても、せっかく都まで来たのならば、風呂に入って身綺麗にしときたかったのだ。
奈美の反応を見たセトが、複雑そうな表情でつぶやく。
「……やっぱ、人は見かけによらねえなあ……」
「は? 誰のこと?」
「おまえのことだよ! そんな女みてえなナリしてんのに、色欲は人一倍あんじゃねえか。今日は何人の娼妓抱く気だ? あん?」
セトがニヤニヤとした顔でそう訊ねてきたので、奈美は思わずブッと噴き出す。
「……なに言ってんだよ!!」
「恥ずかしがらなくていいんだぜ? 男同士じゃねえか! な、教えてくれよ。どうやったら何人も抱けるほどもつんだ? あと、女を喜ばす技も教えてくれよ」
「……おれに聞くな!!」
奈美が顔を真っ赤にしてそのまま黙り込んでしまったので、セトは残念そうにため息をついた。
東菊に着いた。娼妓と遊ぶ間、荷馬車は裏の納屋で預かってもらうことになり、二人は玄関の方に赴いた。
「いらっしゃいまし、旦那さま」
暖簾をくぐると、一人の娼妓らしき女が膝をついて待っていた。
「いつもありがとうございます、セトさま。ナミさまもまたおいでくださいましてありがとうございます」
「おう、今日もよろしくな」
娼妓の出迎えを受けて、セトが気軽に返した。奈美も慌ててお辞儀する。それにしてもさすが接客業のプロだ。まだ一度しか訪ねたことがないというのに、すでに顔を覚えられているとは。
「あいつらはもう来てるのか?」
「はい。皆さん、すでに各々娼妓と共に部屋に入っておいでですよ。セトさまは、今日はどちらの娼妓にされますか?」
「ん、そうだな……そういや、あんたとはまだ共寝したことなかったよな?」
「ふふふ、それはどうもありがとうございます」
奈美はというと、目の前のやりとりを見て、ただドギマギしていた。だから、娼妓にこう訊かれたときは思わず肩が跳ね上がった。
「ナミさまはどの娼妓にするか、お決まりですか?」
「えっ!? えっ、と、おれは────」
「特にご指名がないのであれば、顔なじみのフジドケを呼びましょうか? あの子なら今、ちょうど空いてますし……」
フジドケという名前に、セトが反応した。
「ああ、前にナミが助けてやったっていう娼妓か?」
「ええ。私もその現場を見ていたのですけれど、あの時のナミさま、とても素敵でしたのよ。フジドケは否定していましたが、東菊の娼妓みな、すでにフジドケはナミさまのお相手をさせてもらったのではないかと睨んでいるのですよ。シイラシさまとライラ姐さんも、つきっきりでナミさまのお相手をしていたようですし」
「ぃよっ、この女殺し! 三人の娼妓を抱いたってのはやっぱ本当の話だったか、ちくしょー!」
セトは若干泣きそうになりながら、奈美をからかった。今から自分の相手をしてもらう娼妓が頬を赤らめて奈美を見つめていれば、それも当然かもしれない。
(……噂の発生源はここか)
奈美は呆れて物も言えなかったが、本当は女人として風呂諸々の世話を受けていたとは口が裂けても言えるはずがない。
それはそうと、この場をどう切り抜ければよいのか──と奈美は気付いた。素直に顔なじみのフジドケを呼んでもらうのが、無難なのだろうか。
奈美が悩んでいると、背後から聞き覚えのある声が降ってきた。
「ナミさん! いらしていたのね!」
「あ……シイラシさん……? わわっ」
シイラシが睦まじそうに腕を絡ませてきたので、奈美はドキッとした。奈美の恋愛対象は異性だが、シイラシの色気には女をもうっとりさせてしまう気がある。
「ナミさんのお相手は私がするわ。あなたはセトさんのお相手? 代わりの案内の者は私が呼んでおくから、セトさんを部屋にご案内して」
シイラシはそう言って、セトと娼妓を奥の部屋へとやらせた。去り際にセトが「あいつも可愛い顔して、なかなかやるもんだ……」とつぶやいていたのが、奈美には嫌な予感しかしない。今日の出来事はきっと、窟に帰ったセトによってカンドルの仲間たちに広められるのだろう。
その場に残ったのが奈美とシイラシの二人だけになると、シイラシが微笑んだ。
「娼妓専用でも、娼妓たちが立ち入らないような奥の部屋に案内するわね」
そう言ってシイラシに連れられてこられたのは、廊下をひらすら進み、普通なら客は決して入れないような最奥の小部屋だ。
部屋に入ると、シイラシが茶を淹れ始めた。ちらりと奈美を見遣ると、フフフと笑った。
「何日ぶりかしら? ナミさんが来てくれたのは。遠慮しないでもっと頻繁に来てくれて良いのよ? これを淹れたら、ライラに声を掛けて湯あみの準備をさせるわね」
──忙しいはずの女主人が、ただ風呂を借りに来ただけの自分に、茶を淹れてくれている。それを見た奈美が、思い切って口を開いた。
「……シイラシさん、あの! お話があります」
「……話?」
シイラシがきょとんとしているなか、奈美は懸命に喋った。
「シイラシさんってお店のこといろいろやらないといけない立場のお人じゃないですか。そんな人に、これからずっと私なんかの相手をさせるのは申し訳なくて」
奈美はそれだけ言ったが、他にも理由がある。
(東菊に来るたびにシイラシさん呼びつけてるなんて知られたら、また隊員たちになんて言われるか……)
色気たっぷりの女主人ばかりに相手にしてもらうなど、話の種を提供する以外の何物でもない。東菊に来るときはできるだけ目立たないようにしなければならないのだから、それは何としても防がなければいけない。
「だから……さっきから考えていたんですけど、誰かもう一人に協力してもらえるようにお願いしてはどうでしょうか?」
「それは……どういうこと?」
「東菊に入ったら、玄関先で、その、女の子を選びますよね……? 誰か、女の子ひとりを私が指名すれば、シイラシさんの手を煩わせることなく、私が女だって気付かれずに入れると思うんです」
「……でも、その手を貸してもらう娼妓には、あなたの正体を明かすのよね? ウチの娘たちを信用していないわけではないけれど、ナミさんの秘密を知る者が増えるのは好ましくないわね……」
「フジドケはどうでしょうか? あの子なら何となく……秘密を守ってくれそうだし、協力してくれると思うんです」
協力してもらう娼妓は、この提案をする前から決めていた。少し話しただけだが、あの娘なら大丈夫な気がする。
「……あ。でも、私が来たとき、フジドケが他のお客さんの相手してたらどうしよ……?」
奈美がうーんと考え込んでいると、シイラシが口を開いた。
「その場合は私が案内するわ。……とはいっても、フジドケは新前の娼妓だからまだお客もあまりとっていないし大丈夫でしょう」
「じゃあ、いいんですか?」
奈美が顔をパッと明るくさせる。シイラシはため息をひとつつくと頷いた。
「……ま、仕方ないわね。あの子も口は堅いし、ナミさんがそれで良いのなら良いとしましょう」
「ありがとうございます!」
「では、フジドケには私から話しておくわね」
「……いえ! 私が言い出したことなので、シイラシさんに迷惑はかけられません。私からお願いしてみます」
奈美の言葉に、シイラシが一瞬止まる。
「ナミさんが? ……でも、あの子、あなたのこと……」
言いかけて、シイラシは首を振った。
「いえ、何でもないわ。じゃあ、あなたにお願いするわ」
(……ん?)
奈美はシイラシが部屋を出て行くのを見送りながら、首を捻った。シイラシは今、何を言いかけたのだろうか。
しばらくすると、フジドケがやってきた。奈美の前にひざまずき、礼を尽くす。
「フジドケでございます。シイラシさまからうかがい、参りました。今宵はお呼び立ていただきありがとうございます。それに……先日は大変お世話になりました」
そう言うと、フジドケは顔を上げて奈美の顔をじっと見つめた。赤く染まった頬に、潤んだ瞳。完全に恋する乙女の顔である。
「あ、えっと、来てくれてありがとう。それもこんな奥の部屋まで……」
「いえっ、お気になさらないでください。私、ナミさまと共に過ごせるのならば、どこへでも参ります! 私、本当にうれしいんです……娼妓としてまだまだ未熟な私を、まさか本当に、ナミさまに呼んでいただけるなんて……。私、今宵のことは一生の思い出として、大切に胸にしまっておきます」
懸命に想いを伝えるフジドケを見て、奈美は再び首を捻る。
(んんんんん……? 待って? まさかとは思うけど……?)
奈美は、このあどけなさの残る娼妓が以前言った言葉を思い出す──「私でよければ、お相手を」と。その時は感謝の気持ちからくる社交辞令的なものだと思っていたのだが、まさか本気だったとは。この娘は、本当に奈美を男だと思っていて、すっかり惚れ込んでいる!
(これか……! シイラシさんが言いかけてたのは……!)
奈美は、きょとんと不思議そうに見つめるフジドケの前で、がっくりとうなだれた。が、今更後悔したって遅い。自分から伝えると言った以上、責任を持って話さなければならない。奈美は居住まいを正して、フジドケの顔を見た。
「あの、実は、話があって……」
「はい」
フジドケがキラキラとした瞳で自分を見つめてくるので、奈美の口が止まる。男だと思って恋をしていた相手に、実は女でしたと明かされた時のフジドケの顔。思い浮かべるだけで、心が痛い。
「……と……とりあえず、お風呂に入ろうかな…………」
今の奈美にはそれだけしか言えなかった。風呂に入っている間に心の準備をして、後でもう一度言うのだ。
フジドケはというと、奈美の苦悩など知る由もなく、嬉しそうに答えた。
「はいっ! では、お背中をお流ししますね!」
立ち上がろうとしていた奈美は、思わずズルッと滑る。
「え!? 一人で入るから、いいよ!?」
「他のお客様にもさせていただいてますからお気になさらないでください。……というよりも……私がナミさまのお背中、お流ししたいのですが……」
そう言うと、フジドケは恥ずかしそうにうつむいた。その姿を見て、一瞬許可してしまいそうになった奈美は、慌てて口をつぐんだ。フジドケが明日加の姿に重なって見えたせいだろうか。
(くっ……シスコンがここで仇となるとは……!)
女だと明かす前に、一緒に風呂に入るわけにはいかない。奈美は逃げるようにして、扉を開ける。
「すっ、すぐ戻ってくるからここで待ってて! ……ごっ……ごめんんんんん────」
そうして、奈美はフジドケを一人残して、逃げるように風呂場へと走っていった。
◇◇◇
湯浴みから戻ると、フジドケは酒を用意して待っていた。奈美が座ると、フジドケが杯に酒を注ぎ始める。それを見て、奈美が慌てて止める。
「……あ。お酒じゃなくて、お茶をもらってもいいかな? なかったら、白湯でも……」
「すっ、すみません、私ったら勝手に……。ナミさまは、お酒は苦手なのですか?」
(苦手? まさか、とんでもない)
フジドケにそう訊かれて、奈美は心の中でそうつぶやいた。まだ元の世界にいた頃、奈美は自宅では酒は飲まない性質だったが、飲み会などの場では別だった。それほど量を飲めるわけではないのだが、人と呑む酒は楽しくて好きだった。
そういえば、この世界の酒はまだ飲んだことがない。どんな酒なのか興味があるが、今は呑んでいる場合ではない。
「そうじゃないけど……今日は大事な話があるから」
「そういえば、先ほども言いかけてましたよね。……お待たせしました」
フジドケが淹れたばかりの茶を奈美の前に置く。奈美は礼を言おうとしたが、何故だかフジドケが隣に座り、スススと体を寄せてくる。
「え、え~~と……」
奈美が口を濁らせながら、フジドケから体を離す。だが、フジドケもめげない。再びぴったりと体を密着させてくる。
「何でしょうか?」
上目遣いで熱っぽい視線を送るフジドケを見て、奈美は心の中で叫んだ。
(娼妓こわーーーー! 女の私でもドキドキさせられるんだもん! こりゃ男が妓楼にハマるわけだわ!!)
──よし、言え。今こそ言うのだ。
そう腹を決めると、奈美はフジドケからバッと体を離して彼女の顔を見た。……が、フジドケが見るからにしゅんとしているので、奈美は決意もむなしく固まるしかない。
今にも泣きそうな顔で、フジドケがつぶやく。
「……ナミさまは……私のことがお嫌いですか……?」
(あ~~~~もう!!)
奈美は我慢できずに叫んだ。
「そうじゃなくて! 自分をもっと大切にした方がいいんじゃないの!? よく知りもしない相手に、そんなことするもんじゃありません!!」
ぽかんと口を開けているフジドケを見て、奈美は我に返った。
(し、しまった……私ったらなんてことを)
娼妓だって好きでこの仕事に就いているわけではないだろうに、今の言葉は娼妓には辛辣すぎる。これではフジドケに協力してもらうどころか、嫌われてしまったに違いない。
「あ、ご、ごめん……今のは──」
奈美は慌てて謝ろうとすると、フジドケが口を開いた。
「……そんなこと言われたの、初めてです」
「……え?」
「私、姐さんたちを見習って早く一人前の娼妓になろうと必死だったから……周りもそう願ってたし……だから、私にはできそうもないことを無理して頑張って……」
すると、フジドケの目からぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「ありがとうございます……ありがとう……」
奈美は一瞬、礼を言いながら泣きじゃくるフジドケの背中をさすってあげたくなったが、やはりやめた。彼女を助けてやれるわけでもないのに、うわべだけの慰めは娼妓の世界に生きるこの娘には酷だと思ったからだ。
代わりに、奈美がじっと待ち続けていると、やがてフジドケは涙を拭いて顔を上げた。
「すみません、泣いてしまって……。ナミさまが言いたかったお話って、このことだったんですね。私、思わず泣いてしまいましたが、ナミさまのお叱りの言葉が胸に響いて……とってもうれしいです」
「そ、そう……それは何よりで……」
「ナミさまはよく知りもしない相手にとおっしゃいましたが……初めてお会いした時に感じたナミさまのお人柄と、何ひとつ違わないですよ。お優しくて強くて……。私、ますますナミさまの虜になってしまいました」
「うん……そっか、うん……」
奈美は顔に貼り付けたような笑顔で、そう言った。もはや本当の話なんて切り出せない。フジドケの感動を台無しにする度胸を、あいにく奈美は持ち合わせていないからだ。
結局、その後はフジドケとたわいない話をし、女だと明かせないまま時間が過ぎていった。
東菊を去る前に、奈美は思った。シイラシに謝ろうと。そして、フジドケにはシイラシから話してもらおうと。




