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表:いつまで経っても行けない温泉旅行

 

 嫌な予感は当たるものだ。奈美がそれを感じたのは、旅行当日。彼氏である寛人ひろとからメールが来た時だった。


 ──『緊急オペが入って旅行に行けなくなった。本当にごめん。』


 確かに外科医という職業はとにかく多忙だ。奈美も看護師だから嫌というほど分かっているし、それを承知の上で交際を始めたのだ。


(でも、これで三度目よ?)


 一度目も、寛人が仕事を理由のドタキャンをした。旅行前日に担当患者が急変したとかで呼び出され、旅行当日になっても病院から出られず、宿泊予定だった温泉旅館「縁亭えにしてい」──有名な老舗旅館で、以前から奈美が目を付けていたのだ──は結局、奈美が泣く泣くキャンセルした。


 その後、気を取り直して再び旅行の予定を立てた。旅行当日まであと三日という時だった。今度こそ、と奈美が期待するなか、大地震が日本列島を襲ったのだ。旅行先の温泉街も被害を受け、営業するどころではなくなってしまったのが二度目だ。


 そして、三ヶ月後の今日。大地震の傷跡を残しつつも営業を再開したとの知らせを旅館からもらったので、今日から一泊二日の旅行を予定していたのだ。三度目の正直ということで、まあ大丈夫だろうと踏んでいた奈美だったが、今回の旅行も彼氏の仕事の都合であっけなく取り止めになってしまった。


(地震は、まあ自然災害だから仕方ないにしても、旅行のキャンセルが三度続きになると……ちょっとね)


「一泊二日の温泉旅行くらい行かせろバカーーーー!」


 思わずスマホに向かって叫んだ奈美だが、道行く人々の不審げな視線を感じて、慌てて口をつぐんだ。


(いけないいけない……ここは天下の公道よ)


 顔を赤らめて、奈美はそそくさと近くにあった公園へと逃げ込んだ。人気がなくて、身を隠すには丁度良い。

 公園にベンチがあったので、奈美はやややけくそ気味にバッグを放り投げた。いつもより重いそのバッグが、どさりと音を立ててベンチの上に落ちた。中身はもちろん、旅行支度を済ませたバッグだ。


「ふう……。私みたいな善良な一市民が真昼間から大声でいきなり叫びだすなんて、それもこれも日頃のストレスのせいね」


 溜息混じりに呟きながら、奈美はバッグの横に座り込んだ。看護師をやっていると、ストレスフリーな生活など無縁なのだ。


 奈美が今勤めているのは大学病院の眼科病棟なので、他の病棟と比べれば命を預かる精神的なプレッシャーは少ない。外部の人間には、一見のんびりしている病棟のようにも思われている。だが実際は、日帰り入院や外来の患者の対応や手術のサポートなど、意外と忙しいのだ。


 仕事の忙しさはまだいい。問題なのは、病院の更衣室の中でほぼ毎日行われる──「ストレス発散」という名の、眼科看護師いびりだ。


 ──「あら、今日も定時上がり? のんびりしてていいわねえ、眼科は。夜勤もなくて楽だし、まさに天国だわ」


 ──「まさか自分から眼科に異動希望出したわけじゃないよね? だって、眼科じゃたいした経験積めないもの。看護師としてこれからっていうときに、わざわざ行くところじゃないわ」


 ──「あーあ、ウチの科、いま人手が足りなくて大変なのよね。眼科の看護師の手でもいいから借りたいくらい!」


 自分のことをこれっぽっちも知らない人の言うことなど、気にすることはない。


 奈美は何度も自分にそう言い聞かせたが、他科看護師たちによる辛辣な言葉は、更衣室に向かう奈美の足を重くさせた。仕事に行かなければという義務感だけで、この半年間、どうにか病院に向かうことができたのだ。


 彼氏との旅行も、職場のストレスを解消するために企画したようなものだった。──残念ながら、いつまで経っても実行できそうにないのだが。


 いつまでもベンチにただぼうっと座っているわけにはいかない。奈美はスマホを取り出した。


「旅館にキャンセルの電話しなきゃね。…………そろそろ旅館のブラックリストにでも載るんじゃないかしら」


 直前のキャンセルが続く「平原ひらはら奈美なみ」という名の宿泊者を、旅館側はマークするかもしれない。そんなことにでもなれば、「縁亭」に泊まるという夢が潰えてしまう。


(どうか外科医の忙しさに理解のある心優しい人が電話に出ますように)


 そう願いながら、奈美が通話ボタンを押そうとした時、スマホから着信音が鳴り響いた。


(──寛人? もしかして、緊急オペが急遽中止になって、旅行に行けるようになったとか!?)


 一瞬、そんな甘い考えが奈美の頭の中をよぎったが、画面を見て無用な考えだと悟った。彼氏からの嬉しい連絡を期待するのはもうやめようと、一度深呼吸をしてから、奈美は電話に出た。


「──もしもし?」

「あっ、お姉ちゃん?」


 奈美の耳に、明るい声が響いた。この可愛らしい声は、たった一人の妹、明日加あすかのものだ。明日加は元々高めの声だが、興奮しているためか、より上ずって聞こえる。


「フレイムのブレスレット、いま届いたよ! 私が欲しいって言ってたの、覚えてくれてたんだ」


 電話口の向こうで、届いたばかりのブレスレットを早速つけながら嬉しそうに喋る明日加の姿。奈美はそれを思うと、旅行が駄目になったもやもやとした気分など、すっかり晴れてしまった。


「当たり前じゃない、可愛い妹の誕生日なんだから。少し早いけど、18歳の誕生日、おめでとう。会って渡したかったのに郵送でごめんね。明後日のシフトはどうしても入らなくちゃいけなくて。仕事帰りにケーキでも買って、家に寄ろうか?」

「もう! 私だってもう子どもじゃないんだからね!」


 少し照れた様子の妹の声を聞いて、奈美はふふっと笑った。


(10歳も離れた妹なんて、まだまだお子ちゃまよ)


「でも……ありがとね、お姉ちゃん! ずっと大事にする!」


 妹のはつらつとした声が、奈美の心臓を貫いた。ノックアウトだ。


「……これだからシスコンはやめられないわ」


 思わず心の声が口から漏れてしまったようだが、幸いにも明日加には聞こえなかったようだ。


「えっ、何て?」

「ううん、何でもない。ていうか聞かなくていい。……それはそうと、そろそろ受験シーズンに突入するでしょ? 頑張りなさいよ」

「うーん……まあ、ぼちぼちね」


 言葉を濁すところも可愛いものだ。そんなことを思っていると、明日加が突然、話題を変えた。


「そういえばお姉ちゃん、今日から彼氏と旅行だっけ? ごめん、忘れてた……電話で邪魔しちゃったかな? 寛人さん怒ってない?」


 しばらくの間、奈美の頭の中から消えていたもやもやが、復活した。


「うん、全然大丈夫。旅行は中止になったから……ついさっきね」


 なるべく明るい声で答えようと努めたが、最後の一言はやはり溜息まじりになってしまった。そんな姉の心情を察したのか、明日加は驚いた様子で聞き返した。


「えっ? またっ?」

「緊急オペだって。まあ、仕方ないわよね。外科医だもの」

「仕方ないって言っても、そんなの、お姉ちゃんがかわいそう。温泉旅行、ずっと楽しみにしてたじゃん……」


 可愛い妹が心配してくれている。それだけで旅行中止でがっかりした奈美の心は慰められた。


「いいのよ。旅行なら、また予定立てて行けばいいんだし」


 そう明るく返しながら、奈美はふと思った。


(……とか言いながら、次も行けなかったりして。二度ある事は三度ある。三度ある事は四度……ある?)


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