人を助ける理由
シイラシが開け放した扉の先でまず目に入ったのは、床の上にひっくり返っている机だった。辺りには割れた酒瓶や杯が散らばっている。
そして、一組の男女がいた。殺気立った男が拳を振り上げた状態で、ひざまずいた女の前に立ちはだかっている。女は赤くなった頬を押さえて、震えている。今にも泣き出しそうだ。
(うわー……見るからにならず者だわ)
お世辞にも良いとは言えない身だしなみのその男を見て、奈美はまずそう思った。うずくまっている女は娼妓だろうか。彼女をよく見ると、袖から覗いた白い腕に痣がいくつも浮かんでいる。さては、客であるこの男に暴力を振るわれたのか。
(かわいそうに。仕事とはいえ、あんな男も相手にしなきゃいけないなんて)
痛々しい姿の娼妓を見て、奈美の胸はぎゅっと締め付けられた。それと同時に、ひどいことをした男に対する怒りがメラメラと湧き上がってくる。
「勝手にお部屋に入ってしまって、どうかお許しくださいね。なんだか物騒な音が聞こえたものですから。旦那さま、うちの娼妓が何か失礼なことを?」
客が娼妓に暴力を振るっているのは一目瞭然だが、シイラシはあくまで笑みを浮かべたまま客の男に訊ねた。それを見た奈美がこっそり後ろで、「さすが、対応がプロだわね……」と感嘆する。
「てめぇこの妓楼の責任者か? 低級な娼妓、雇ってんじゃねーぞ! このアマが、俺の衣に酒をぶっかけやがったんだ」
客の男は騒ぎ立てるようにそう言うと、シイラシを、次に床の上の娼妓を、ぎろりと睨んだ。
「初めてだぜ、妓楼で酒をぶっかけられるなんてな。あぁ胸糞悪りぃ」
「まあ。それは心からお詫びいたします。さ、別のお部屋へ案内しますわ。私がお召し替えのお手伝いを」
シイラシがかしこまって言うと──眼光だけは鋭く客を射抜いているが──、客の男にこの部屋から出てもらおうと扉の方を指し示した。
ちょうどその頃、騒ぎを聞いた何人かの男衆(※妓楼で働く男)が部屋の前までやって来たところで、客の男もシイラシに従うしかないと思ったらしい。
「ちっ、仕方ねえな」
舌打ちすると、男はシイラシの待つ入り口まで仰々しく歩いていく。
少し緊張感が解けたのか、同時に奈美も床にうずくまったままの娼妓のもとに駆け寄って声を掛けた。
「大丈夫?」
「あ……、は、はい……。あなたは……?」
青白い顔をした娼妓はそう訊ねたが、奈美は顔をしかめただけで答えなかった。
──触れた娼妓の肩が、小刻みに震えている。
奈美は手のひらから伝わる、娼妓の恐怖を感じて、彼女をこんなひどい目に遭わせた男になおさら怒りを覚えた。
部屋の入り口までゆっくりと歩いていたその男が、ちょうど奈美と娼妓の横を通り過ぎる頃だった。ありったけの憎しみを込めて睨みつけてやろうと、奈美が男の顔を見上げた。
(────あれ?)
頬のこけた土気色の顔に、痩せこけた体。何かを渇望しているかのようなギョロッとした、充血した目。そして、男からかすかに漂う、脳を揺すぶるような甘い臭い。
男を近くで感じて、奈美は思い当たる節があった。娼妓の方を振り返ると、単刀直入に訊ねた。
「もしかしてあの男に、おかしな薬、飲まされようとしなかった?」
背中でそれを聞いた男が、ぴたっと立ち止まった。シイラシも、何かに気付いたようで、ハッとした顔をしている。
「あ、あの……わ、わ、私」
皆の視線を浴びて緊張しているのか、娼妓はどもってばかりだ。しびれを切らしたシイラシが落ち着いて訊いた。
「フジドケ、教えてちょうだい」
娼妓──フジドケは口を開く代わりに、一度だけコクリと頷いた。それを見たシイラシが微笑んだ。
「ありがとう、フジドケ。よく言ってくれたわね。さて……と、」
シイラシは今までの“営業”用の笑顔から、冷淡な表情へと一変させた。相手を客だとはもう微塵にも思っていない顔だ。扉を隠すように立つと、毅然たる態度で男の前に立ちふさがった。
「大事な娼妓たちを台無しにするたわけ者を危うく見逃すところだったわ。……さあ、私たちと一緒に向こうのお部屋に来ていただけますわね? 旦那さま?」
最後に微笑みを浮かべたのが、何とも恐ろしいと奈美は思った。しかもシイラシのすぐ後ろには、厳つい顔をした数人の男衆が待ち構えている。
(詰んだわね……)
奈美は思わず心の中でチーンと鐘を鳴らした。もちろん、このならず者に同情する気などさらさらない。
一件落着か──。そう思ったのもつかの間、窮地に追い込まれた男が最後の反撃に出た。
「黙っていればいいものを……このアマぁぁぁぁあああ!」
突然、男が懐から小刀を取り出した。切れ味のよさそうな刀身をフジドケに向けると、一気に突進してきた。
「きゃっ……」
フジドケはすっかり怯え、頭を抱えてその場に縮こまってしまった。それを見た奈美が心の中で叫んだ。
(こらこらこらーーーー逃げなさいよーーーー!)
しかし、もう小刀は目の前だ。奈美だって自分の身が大事だ。フジドケをひとり残して逃げたい衝動に駆られた。
(こんな時に限って、カンドル隊の一人もいないんだからもうっ……! ……ん!?)
そのとき、奈美の目に水のたっぷり入った桶が映った。手を洗うために各部屋に置いてあるようだ。そういえば、奈美が先ほどまでいた部屋にもあった。
幸いにも、その桶は奈美のすぐ足元にある。奈美は考えるよりも前に、両手で桶を掴んでいた。
「ええ~~いっ!!」
掛け声と同時に、奈美は桶の中身をこちらに突進してくる男に向かってぶちまけた。
一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥ったが、実際は時は止まっていなかった。男だけが止まったのだ。大量の冷水を浴びて、怯んだのだ。
「今だっっ!」
その隙を見て、男衆が一斉にならず者に飛びかかった。ならず者は為す術もなく押さえつけられ、男衆たちに引きずられて部屋を出て行った。
その場に残された者たちは、しばらく呆然としていた。奈美など、手脚の力が一気に抜けて、へなへなとその場に座り込んだ。
「た、助かった……」
無我夢中だったとはいえ、刀を持った男相手によく応戦したものだと自分のことながら思う。もしあのならず者が水を浴びたくらいじゃビクともしなかったら、今頃どうなっていたことか……考えただけでも背筋が凍る。
が、やがて奈美が「あっ」と声を上げた。
「……って、ぼんやりしてる場合じゃなかった! シイラシさん、氷とタオルある? ……あっ、ここじゃタオルって言わないのかな。手ぬぐい?」
突然テキパキとし始めた奈美の問いに、シイラシは面を食らった様子で聞き返した。
「えっ?」
「早く痣の手当てをしなきゃ。体に跡が残ったら困るでしょ?」
「あ、ああ……そうね」
シイラシは扉の外から部屋の中を覗いている物見高い娼妓たちの一人に声を掛けると、奈美が指示した物を持ってくるように伝えた。だが、その娼妓は頷く代わりに、ためらいながら訊ねた。
「シイラシさま、貴重な氷を出すのですか……?」
「いいから早く」
シイラシが強い口調で言うと、娼妓は慌ててその場から去っていった。
必要物品が用意される間も、奈美は無駄なく手を動かせる。フジドケのもとに駆け寄ると、訊ねた。
「あの馬鹿男に殴られたの、腕と頬だけ?」
フジドケがあどけなさの残る顔でこくりと頷くと、奈美は「ちょっと見せてね」と言ってフジドケの手を取った。袖をめくり、痣の状態を確認する。続いて、頬も。
(明日加とそんなに年が変わらないような子が、どうしてこんな目に……)
赤く腫れ上がった頬にそっと触れながら、奈美は顔をしかめた。まだ青春を謳歌する年頃の女の子の、こんな姿を見るのはいたたまれない。
そのとき、手ぬぐいと氷の入った桶を持った娼妓が息を切らして部屋に入ってきた。それに気づいた奈美が、自分の足元を指して言った。
「ありがと。ここに置いてくれる?」
その娼妓が言われた通りに置くと、しずしずと後ろに下がった。奈美とフジドケの様子を見守るため、他の娼妓たちに混じって、部屋の入り口から顔を出す。
奈美は手ぬぐいを広げて置くと、その上に桶の中から氷を出した。氷を包んだ手ぬぐいを持つと、フジドケの頬に優しく当てた。しばらくして、今度は腕の痣に順番に当てていく。
「氷がもっとあったらいいんだけど……」
痣の多さに、奈美は溜息をついた。そういえば、先ほど娼妓が氷のことを『貴重』だと言っていた。この世界じゃ、氷はそうそう用意できるものではないらしい。
「二日間はこうやって痣の部分を冷やしてね。氷が無かったら冷水に浸して絞った手ぬぐいでもいいよ。三日目からは温湿布に切り替えて。一日に二、三回くらいかな」
「は……はい」
フジドケは奈美のてきぱきとした指示に戸惑いながらも、聞き逃すまいとしっかりと聞いているようだ。相手がまるで女人のように華奢な体つきをしていることに気付いていないのか、それとも、そんなことはどうでもいいのか──奈美を見つめるフジドケの目は、まさに好きな男に向けるような、敬愛の念を持った目だ。
そのとき、傍で処置を見守っていたシイラシが声を掛けた。
「……ナミさん、そろそろ──」
背後に群がる娼妓たちに視線を向けるシイラシを見て、奈美も気が付いた。自分は今、素性を隠している身なのだ。目立つようなことは避けなければいけない。慌てて立ち上がると、フジドケに向かって言った。
「さてとっ、もう行かなきゃ。後は自分でできるよね? それじゃあ……──あっ、」
シイラシの後に続いて部屋を出て行く前に、奈美はフジドケの方を振り返って言った。
「今やったことは応急処置だから、いちおう医者にちゃんと診てもらってね」
シイラシが部屋の入り口まで来ると、集まっていた野次馬が二つに分かれて廊下に続く道ができた。娼妓たちの好奇の視線と黄色いささやき声を浴びながら、奈美は体を小さく縮ませて、何とかその場を去ることができた。娼妓たちの声が聞こえない所まで廊下を進んだところで、シイラシが口を開いた。
「いくつか訊ねてもいい?」
「なっ、何でしょーかッ?」
今のひと騒動で忘れていたが、シイラシに嫌われていたことを奈美は思いだした。シイラシの言葉につい身構える。
「先ほどの客だけど……ナミさんが手当てをしてくれている間にあの男を取り調べた男衆から、男の懐から銅鑼羽虞が見つかったと報告を受けたわ」
「ど、どらうぐ?」
「人を惑わせる、景ノ国では御法度の薬よ」
「ああ、ドラッグのことね。やっぱりアイツ、違法系の薬物使ってたんだ」
奈美は指をぱちんと鳴らすと、自分の判断が正しかったことにしたり顔になった。
「どうして、あの男が銅鑼羽虞を使っているって分かったの? それにフジドケの手当ても手慣れていたわね……。あなた、何者なの?」
「何者って……別にたいそうなものじゃないです。私は看護師だから。ドラッグ使用者だって分かったのも、職場で薬物乱用対策だとかなんかで薬物依存臨床看護の研修を受けたことがあっただけだからであって──」
「カンゴシ、とは何かしら?」
「ああ~~もう……」
奈美はじれったそうに頭を掻いた。この世界では元いた世界の言葉が通じないことが多すぎる。半ば投げやり気味に説明した。
「えーと、医者の仕事の手伝いとか、病人・怪我人の世話をする人のこと! 医者って分かる? 怪我とか病気を治す人のこと!」
「薬師のこと?」
(医者という単語さえもこの世界にはないのね……)
この先、苦労しそうだ──奈美ががっくりと肩を落とした。シイラシは奈美の答えに意を得たようで、何度か軽く頷くと次の質問へと移った。
「それでは、先ほどはどうしてフジドケを助けてくれたの?」
シイラシの問いに、奈美はポカンと口を開く。
「どうして、って……」
「あのとき、ひとつ間違えば、あなたにも危険が及んでいたのかもしれない。私にとってあなたはライカさんからお預かりしている大事なお客さまなのよ? うちのしがない娼妓の危険を見過ごしたからといって何ら問題はないのに、あえて助けに出たのはどうしてなの?」
「あのねぇ……」
奈美は溜息をつくと、呆れたように答えた。
「人を助けるのに、理由なんて要らないでしょ? あの男がナイフを取り出したとき、私だって一目散に逃げ出したかったわよ。でも体が勝手に動いちゃったんだもの。仕方ないじゃない」
まるでフジドケを助けたのを責められているように感じて、奈美は不満げに腕を組んだ。一方、シイラシは驚いた様子で奈美を見つめている。
「理由もなく、見知らぬ娼妓を助けたというの? 代わりに自分が殺されていたかもしれないのに?」
「な、なにか変? 私が住んでた場所では、まあ、それが普通というか……人として当然でしょ? それとも何? この世界では人を助けるのに理由が必要なの?」
むっとして訊ねた奈美に、シイラシは物悲しげな面持ちで頷いた。
「悲しいけれど、そうね……。一心に人を助けられるなんて、本当に良い所に暮らしていたのね、ナミさんは」
はかなげに微笑んだシイラシを見て、奈美は思わず唾を飲んだ。
(……何だかエライ世界に来ちゃったみたいね……)
「ごめんなさいね。あなたを不快にさせるつもりはなかったの。ただ、あなたの行動にちょっと驚いてしまって、訊いてみたかっただけなのよ。本当に感謝しているのよ。客に勧められるがままに使った銅鑼羽虞で壊されていく娼妓が後を絶たなくて……正直困っていたの」
そこで、シイラシは一瞬口を閉じると、首を振った。
「……いいえ、それだけじゃない。蔑まれるのが当然の娼妓を、身を挺して救ってくれた。そのことがフジドケや他の娼妓たちの──それに、私の心を救ってくれたのよ。……ありがとう、ナミさん」
シイラシにまっすぐ見つめられながら言われ、奈美は気恥ずかしくて落ち着かなくなった。
「それと……先ほど部屋を出る前にフジドケに言っていたことだけど」
「えっと……医者に診てもらって、ってやつ?」
奈美が思い出しながら確認すると、シイラシが頷いた。何となく言い辛そうにしている。
「残念ながら、そのようにできないと思うわ。娼妓を診てくれる薬師を探すのは難しいから……」
「えっ? どういうことですか?」
奈美がきょとんとしているのを見て、シイラシは溜息をついてから答えた。
「ナミさんの住んでいた所では誰もが薬師に診てもらえるのかもしれないけれど、この景ノ国では──いえ、倭国の大部分では、薬師にかかれる人間は限られているわ。上級娼妓ならまだしも、ただでさえ卑しい身分の下級娼妓にはまず無理ね……。お金を積めば診てもらえる可能性はあるけれど……下級娼妓にまずそんなお金はないし」
ふうと溜息をつくと、シイラシは再び歩を進めた。
「さて、と……立ち話が長引いちゃったわね。風呂場へ行きましょう」
その後ろ姿を、奈美は末恐ろしい思いで見つめた。孤独な身の上で、果たしてこの世知辛い世界で生きていけるだろうか──と。




