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並行世界(パラレルワールド)は君のいる世界  作者: 方丈 治
第一章

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15/67

景の都

 

 呆然自失状態の奈美が我に返ったのは、広大な街が遠目に見えてきた頃だった。それまではどこもかしこも山と森だらけだった大地に、突然大きな人工物が出現したのから当然と言えば当然かもしれない。

 そのときになって始めて、奈美は自分がテスの瞬足によって空の上にいることに気付いた。


「ーーーーーーッッ!!」

「ようやく正気に戻ったか」


 奈美が声にならない悲鳴を上げたことに気付いたのか、背後から声がした。奈美がこわばった首で何とか後ろを振り返ると、ライカが後ろから奈美の体を落ちないように支えていた。


「どうして、私、こんな所に……!?」

「……やはり聞いてなかったか」


 ライカが呆れ気味に溜息をつくと、未開の地にぽつんと浮かぶ街を指さした。


「あれが景ノ国の都だ。まもなく着く」

「え……!?」

「ナミの姉貴! 気が付いたんすね!」


 先頭を行くテスが振り向いて笑った。ライカも皮肉っぽく笑った。


「街に着くまでは正気に戻らない方が良かったかもな」

「え? どういうこと?」


 奈美がきょとんとした顔で訊ねると、テスが申し訳なさそうに言った。


「そんなわけで、今から街に降りるんで、舌噛まないようにしてくださいっすね」


 まだ頭が完全に復活していない上に、風を切る音で彼らの声がよく聞こえなかったので、奈美は訳が分からなかった。

 何となく分かったのは、今からあの大きな街に行くということくらいだろうか。つまり、これから身のすくむ降下が待ち受けているわけだ。


 奈美が覚悟を決めた次の瞬間、奈美のみぞおちがぎゅっとすくんだ。まさに、ジェットコースターで急降下するような、あの感覚だ。

 声にならない悲鳴を上げながら、奈美の体は地面へと急降下していった。後ろでライカが体を支えてくれていなければ、今頃奈美は地面に投げ出されていただろう。


 地面に足が着く直前で、ふわりと体が浮き、それからゆっくりと着地した。この世界で生きていくためには、命がいくつあっても足りない──奈美は改めてそう思った。


「…………助かった…………」


 ライカの手が離れ、支えを失った奈美はへなへなとへたり込んだ。そんな奈美に、テスが明るく声を掛けた。


「お疲れ様っしたー!」

「ちょっと、あんたねぇ! あんなスピードで降りることないじゃない! もうちょっとゆっくりできないの!?」


 奈美が地面の上からテスに文句を言うと、ライカが意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。


「それだけ文句が言えれば、自分で立って歩けるな」

「…………」


 奈美はライカを睨みながら、何とか立ち上がった。手助けを求めるつもりなどなかったが、この男にそう言われると、やはりとても腹が立つ。

 ライカを先頭に、一行は茂みの中を歩いた。その途中、テスが奈美に明るく話しかけた。


「でもよかったっす。ナミの姉貴が元気になって」

「そうだな。魂の抜けたような顔をされては都の中に連れていけないしな。……まあ、やかましくなくて丁度よかったが」


 ライカはそう言って、口の端を曲げて笑った。やけに奈美をからかうような言動をするライカを見て、ダンチョウは一人、思った。


(……私が余計なことを申してしまったせいですかな……)


 歯を食いしばりながらライカを睨んでいる奈美に、ダンチョウは心の中でこっそり謝った。


 やがて茂みを抜けると、砂利で舗装された大きな道路に出た。そこには多くの人が往来していた。中には、大きな荷物を背負った行商人や、荷車を引いている牛馬などもいる。

 賑やかな往来にも面を食らったが、道路の先に現れた光景に奈美は思わず声を漏らした。


「すごい……」


 目の前には、巨大な城壁が広がっていた。左の方向も右の方向も、城壁の終わりが見えないほどだ。

 道路に沿って歩いていると、奈美は城壁の中に門があることに気が付いた。その門がまた堅固な様子で、武装した男たちが通行人の素性をあらためていた。

 そのうちの一人の門兵が、門に差し掛かったライカたちに声を掛けた。


身上札しんじょうふだを」


 門兵が鋭い眼光で一行を見渡したので、奈美は思わず心の中で叫んだ。


(ひぇ~~)

「ナミどの、安心なされ」


 奈美の不安を感じたのか、ダンチョウが背後からささやいた。ライカが懐の中から手の平に収まるくらいの木の札を取り出すと、門兵に見せた。それを見た門兵が、あっと短く叫び、深々と頭を下げた。


「大変失礼致しました! ささ、皆さま、どうぞお通りください」


 門兵の態度が打って変わったのを見て、奈美は呆気にとられるしかなかった。


「何ぼさっとしている。行くぞ」

「あっ……うん」


 奈美はライカの声に気付いて、門の中に入りかけているライカたちを追いかけた。合流した後、門の中を通過している間に、ダンチョウに訊ねた。


「ねーねー。さっき、あの人が見せてたのって何?」

「あれは国の民が一人ひとつ持つ身上札というもので、その者の素性を証明するものです。怪しい者を入れぬために、景ノ都に入るには先ほどのように身分検めがあるのです」

「ふーん……身分証みたいなものなのね」

「それにしても、さっきの門兵は失礼にも程があるっす! いつもなら身上札なんか出さなくても、ライカの兄貴の顔を見ただけで『ははーっ、お通りください~』なのに……」


 奈美の先を歩くテスが不満そうにぶつくさ言っていると、その横でライカが興味なさそうに口を開いた。


「さっきのヤツは新人なんだろ。見たことのない顔だったしな」


 ライカの身上札を見た時の門兵の様子を思い出しながら、奈美は思った。


(顔パスで入れるってことは……ライカこのひとってもしかすると、けっこうなお偉いさん?)


 いや、そんなはずはない。粗末な身なりに、みすぼらしい住居。カンドル隊とかいう大勢の荒くれ者たちをまとめる隊長らしいが、所詮はチンピラ集団だろう。偉そうなのは態度だけだ。


 奈美が鼻で笑いながらそんなことを考えていると、門を抜けて、青空と大きな街並みが現れた。どこを見ても、人、人、人だ──。

 門から真っ直ぐ大通りが伸びて、その両脇に平屋が立ち並んでいる。それらは宿や商店ばかりで、店の者たちが大通りを行く人々に向かって客寄せをしている。

 そして、大通りの向かう先には大きな建物が遠目に見えた。奈美が知る日本の城にどこか似ているが、やはり違う。


「はあぁぁぁ……」


 すっかり圧倒された奈美はぽかんと口を開けて、それらを見渡した。周りの光景全てが初めて見るものなので仕方のないことなのだが、その姿は完全に「おのぼりさん」だ。


「そんな所で突っ立っていると邪魔になるだろ」


 ライカに首根っこをつかまれて、道の端の方へずるずると引っ張られた奈美は驚いて叫んだ。


「いたたた! やめてってば、もう!」

「都で間抜けなつらをするな。一応おまえはカンドルの一員なんだぞ」

「一員って……それ、あんたが勝手に決めたんでしょーが」


 ぶつぶつと文句を言いながら乱れた上衣を整える奈美を尻目に、ライカはダンチョウに言った。


「俺はこのまま城へ行く。ダンチョウはナミを東菊あずまぎくへ連れて行き、シイラシにナミのことを頼んでから城へ来てくれ」

「承知しております」


 ダンチョウが頷いた。その横で、テスがうずうずしながら口を開いた。


「兄貴! オ、オレは……?」

「おまえは俺たちが来るまでナミと一緒に東菊で待機だ」

「ぃやったぁ!」


 ライカの言葉を聞いて、テスが胸の前で拳を握って喜んだ。奈美が首を傾げて訊ねる。


「なに? 私、今からどこに行くの? 別れて行動するの?」

「ここは人が多く集まる都だ。くれぐれも、でしゃばったことはするな」


 奈美の質問に答える代わりに、ライカはそれだけ言い残すと、大通りの人混みの中に消えていった。その後ろ姿を見送りながら、奈美が呆れたようにつぶやく。


「あいかわらず、人の質問に答えないのね……」

「ナミどの。こちらです。話は歩きながらしましょう」


 ダンチョウの案内で、奈美たちは大通りを歩いた。人にぶつからないように気をつけながら、ダンチョウが続きを話した。


「今から東菊という店に案内します。私がそこの主人に事情を説明して、ナミどのの世話を頼んでみます」

「私の世話って……」

「女人であるナミどのには必要な物が何かとあるでしょうからな。男所帯のカンドルの窟では手に入らないでしょう? 風呂も満足に入れていないとライカどのから聞きました」


 奈美はそれを聞いて、先日の一件を思い出した。カンドルの窟にも風呂場があるにはあるのだが、自分が異世界にいるとはまだ知らなかった奈美は風呂場に入って驚いた。なんと薪で沸かさなければいけない五右衛門ごえもん風呂ぶろだったのだ。料理番ですっかり疲れ切っていた奈美が風呂を沸かすのは難しいことだった。

 仮に頑張って風呂を沸かせたとしても、風呂場の扉には鍵ひとつなかった。いくら風呂場が窟の中でも目立たない場所にあるとはいえ、男だらけの窟で裸になるなど末恐ろしいことこの上ない。だから仕方なく、湯を入れた桶だけ持って、自分の部屋で体を拭いただけなのだった。


「東菊は若いおなごでも安心して風呂に入れる場所ですからな。ゆっくり湯浴みをしてくつろぐといいでしょう」

「ウソ、今からお風呂に入れるの!?」


 奈美は嬉しくてつい声高になった。ライカに食事を届けに行った際に、人質に満足に風呂にも入らせない気かと文句を言った甲斐があるというものだ。


(でも、あいつ……そんなこといちいち覚えてくれてたのね)


 奈美は少しだけライカを見直した。奈美に必要なケアを手配してくれるとは(もしかしたらダンチョウの提案なのかもしれないが)、一応は人として扱ってくれているということか。


(そうよ、よく分からない世界に来ちゃったからって、いつまでもへこんでいられないわ! とりあえずはこの世界で暮らしていかなきゃいけないんだもの、生活必需品は手に入れておかなきゃ。化粧品も、下着も、生理用品も欲しかったところだし、ホント、助かったわ。……にしても、この世界の生理用品とかってどうなってるのかしら。この文明レベルじゃあ、まさか今まで使ってきたものと同じってわけでもないだろうし)


 そんな現実的なことを考えていると、大通りからいくつかの道が分かれているのが見えた。ダンチョウたちはそのうちのひとつを進んだ。少し先に小さな門があり、門の向こうの地域を塀でぐるりと囲んでいるらしかった。まるで景の都の中に小さな都があるかのようだ。

 門をくぐると、先ほどの大通りと比べると道の幅が狭くなったが、活気のある雰囲気は負けていない。むしろ、賑わっているようにも見える。


「なんか……さっきまでと雰囲気が違うような?」


 奈美はきょろきょろと周りを見渡して言った。厚化粧の、派手に着飾った若い女たちが歩けば、それを見た男たちが浮かれた調子で声を掛ける……。通り全体が色めきだっているのだ。


「気付きましたな。ここからは遊郭ゆうかくなのです。景の都の遊郭──景趣けいしゅは美女揃いで有名なのですぞ」


 はっはっはっと嬉しそうに笑うダンチョウを横目に、奈美は考えた。


(遊郭、ってやっぱりあの遊郭よね……? 遊郭の中にある『東菊』って……つまり……)


 通りに面しているのはどれも妓楼ばかりで、中からはきれいな音色や、どんちゃん騒ぎが聞こえる。奈美が悶々としているうちに、すぐに目的地に着いたようだ。ダンチョウがとある建物の前で立ち止まると、奈美の方に向き直った。


「着きました。ここが知る人ぞ知る妓楼──東菊です」

(……やっぱり!)


 予想的中だ。奈美はくるりと踵の向きを変えると、スタスタと歩き去った。


「帰ります」

「あっ、ナミの姉貴!」


 驚いたテスが追いかけようとしたが、ダンチョウの一言で奈美の足はぴたりと止まった。


「ナミどの、湯浴みはもう諦めたのですかな?」

「うっ……」


 妓楼に足を踏み入れたくないが、風呂には入りたい。葛藤に苦しんだ末、どうやら風呂を選んだようだ。


「……入ります……」


 奈美は渋々、ダンチョウたちと共に妓楼・東菊へと入っていった。奈美が中に入りたがらない理由を察したのか、ダンチョウが笑いながら言った。


「安心してくだされ。ナミどのを妓楼に売り飛ばすなんてことはしないからですな」

「ほ、本当に? でも、あなたたちの隊長って、すぐに気が変わりそうじゃない? 私が何か気に入らないことでもしたら、借金のカタみたいに売るんじゃないの? 私が見てきた時代劇ではだいたいそうだったわよ」


 びくびくしながら訊ねた奈美に、ダンチョウが優しく諭した。


「ナミどのはライカどのとは切っても切れない間柄ですからな。ナミどのを手放すなんてことはありますまい」

「……え? それってどういう意味──」

「ダンチョウさんじゃないの。こんなに早い時間から珍しいわね」


 そのとき、一人の女が玄関に入ってきたダンチョウたちに声を掛けた。齢が奈美と同じくらいか少し上と思しき、凛とした雰囲気の女だ。頭で綺麗に結わえた黒髪は腰まで真っ直ぐ伸び、上等な絹の衣裳の上からでも成熟した肉体だと分かる。彼女の周りに漂う色気に、ダンチョウやテスだけでなく奈美までもがうっとりしている。


「さ、お上がりになって。今、案内の者を呼ぶわ」


 女がダンチョウの腕に触れると、ダンチョウの顔がさらに締まりのない顔になった──が、すぐにここに来た目的を思い出したのだろう。咳払いをすると、真面目な顔に戻った。


「いえ、残念ながら今日は違う用事で参ったのです。実は、シイラシどのにお願いありまして……」

「私に?」


 ダンチョウが頷くと、一歩横に動いて後ろにいた奈美を紹介した。奈美は、女──東菊の女主人シイラシと目が合ってどきっとした。


「こちらはナミどのです。彼女のことでどうか助けてもらいたく参りました」


◇◇◇


「──つまり、ウチでこのの面倒をみろ……と、そうおっしゃるのね?」


 ダンチョウたちを部屋に案内し、ダンチョウから事情を聞いたシイラシは、部屋の中をきょろきょろと見ている奈美をじろりと見て言った。奈美はというと、そんなシイラシの視線に気付くことなく、横に座るテスにのんきにも小声で話しかけた。


「ねえ、この建物もこの部屋も、すっごく素敵よね。私の元いた世界の昔ながらのお屋敷とかもこんな感じなんだけど、あなたたちの服と同じでどこか違うのよね。エスニック調の雰囲気が入ってるというか。なんか海外旅行に来てるみたいでワクワクするわ~。この世界も捨てたものじゃないわね」


 さすがのテスも、呆れた様子でつぶやく。


「ナミの姉貴……今は静かにしといた方がいいんじゃ」

「私だってさっきまではちゃんと聞いてたわよ。でも、退屈で仕方ないんだもの。私みたいによく分からない世界に迷い込んじゃった人間でもね、それを楽しまないと損な気がしない? そうよ、ポジティブ・シンキングよ! もうゼッタイ楽しんでやるんだから!」

「姉貴……」


 テスが珍しく溜息をついた。彼らのやり取りを背中で聞いていたダンチョウも、心の中で「やれやれ」と溜め息をつくと、シイラシに向かってもう一押しをした。


「何分、カンドルの窟は男所帯なもので……。若い女人の世話を頼めて、事情を内密にしてくれるような信頼に足る人物はシイラシどのしかいないのです。どうかよろしくお願いします」

「でもねぇ……『カンドル隊の重要な客人だが、隊員たちには女人であることを隠して、隊の一員として生活』? ……この娘を受け入れることで将来、厄介事なんかに巻き込まれたりしないでしょうね? この商売ではできるだけ、そういうのは避けたいところなの」


 シイラシがそっけなく言ったが、ダンチョウの表情は変わらない。ライカから頼まれている以上、譲れないのだ。

 ダンチョウの頑なな様子を見たシイラシは、とうとう諦めたらしい。溜息をつくと、頷いた。


「──分かりました。できるだけのことはさせてもらうわ。カンドルの皆さまはウチのお得意様ですしね。何と言っても、カンドル隊隊長であるライカさんの頼みだもの」

「まことにかたじけない。シイラシどの、恩に着ますぞ」

「秘密を守るためにも、ナミさんのお世話は私が特に信頼を置く女中じょちゅうひとりにやらせます。では、早速ですが湯浴みといたしましょう。ナミさん、風呂場に案内するわ」

「シイラシさん、よろしくお願いしますっ」


 待ってましたとでも言うように喜び勇んで立ち上がった奈美は、シイラシの後について部屋を出ようとした。そのとき、ダンチョウが彼女たちの背中に声を掛けた。


「それでは私はこれにて失礼します。これからライカどのと合流するため、城へ参ります。シイラシどの、ナミどののことをお願いします。ナミどのはライカどのに言われたことをどうかお忘れなきよう」


 それだけ言うと、ダンチョウは礼をして先に部屋を出て行ってしまった。


「……行っちゃった」


 現時点でカンドル隊の中で最も頼りになるダンチョウがいなくなってしまったことに奈美は一抹の不安を覚えたが、すぐに気を取り直した。


(別に何てことないじゃない。ただここでお風呂に入ってゆっくりしてればいいんだから。……それにしても、ダンチョウさんまであんなこと言って。平和主義のこの私が、何か仕出かすとでも!?)


 奈美が心の中でぷりぷりしていると、シイラシが奈美の後ろでそわそわしているテスを怪訝そうに見ているのに気付いた。


「あなたも風呂場に行って一緒に湯浴みしたいの?」

「ち、違うっすよ!」


 テスが慌てて否定するが、その顔は一瞬で真っ赤になった。奈美はその初心うぶな姿を可愛いと思う一方で、やはり年頃の男の子なのだなと実感した。

 奈美が「一緒に入る?」とでも言ってからかってやろうと思った矢先、シイラシが溜息をつきながら言った。


「ランカラなら今頃は炊事場にいるはずよ」


 それを聞いたテスが、身を乗り出して息巻いた。


「会いに行ってもいいンすか!?」

「仕事の邪魔をしないのならね」

「もちろんっす!────」


 その返事を聞き終わるか終らないうちに、テスは奈美たちの前から消えていた。例のジェット機能だわ、と奈美は思った。


(ていうかシイラシさん、テスのジェットに別に驚いたようでもないし……この世界ではあんなのが普通のことなの?)


「……やれやれ。では行きましょうか」


 シイラシが溜息交じりにそう言うと、考え事にふけっていた奈美は我に返った。


「あっ……、はい!」


 部屋を出たシイラシは、細長く続く廊下を歩いた。しばらくは黙ってその後を歩いていた奈美だったが、どうしても気になることがあってうずうずしていた。他人のことにあんまり干渉するのは良くないとは思うのだが、やっぱり気になる。奈美は後ろからシイラシの顔を覗くようにしておずおずと訊ねた。


「あの……ランカラって?」


 奈美の問いに対し、シイラシは無表情で一瞥を投げただけだった。答えてくれないと奈美は一瞬思ったが、シイラシは少し間を置いて口を開いた。


「うちの妓楼で働いている娘よ」


 それを聞いて奈美は「やっぱり!」とつぶやいた。シイラシが答えてくれたことに安心したのもあって、奈美はくすくすと笑った。


「テスったら、ここに来てからずっときょろきょろして落ち着きがないんだもの。絶対、気になる女の子でもいると思った! いやー青春してるのね、テスも」


 奈美には年の離れた妹がいるが、この世界に来て弟ができたみたいだ。奈美が何だか楽しいやらむず痒いやらではしゃいでいると、


「──ナミさん」


 突然、シイラシが立ち止まり、奈美の方を振り返った。その眼差しも、声も、冷たい。


「勘違いしないでくださる? 私があなたのことを引き受けたのはライカさんの頼みだったからであって、それ以上のものではないの。用事が済んだらさっさと出て行ってちょうだい。ここは妓楼、娼妓以外の女人は不要よ」


 シイラシの辛辣な言葉を受けて、奈美は体の中心がギュッと締め付けられるのを感じた。苦しくて、すぐにでもこの場から逃げ出したくなって、今となっては懐かしくもある、あの感覚──。


(あー……なんでかな。看護師いびりを思い出しちゃったわ)


 シイラシに冷淡な態度を取られたことはショックはショックなのだが、意外にも冷静でいられた。職場で散々、同性にそしられ、突き放されるという経験をしてきたためだろうか。あんなに辛かった看護師いびりでさえも、元いた世界の記憶全てが愛おしい。


「……えーと……」


 奈美が何て答えようかなと上の空で考えていた時だった。



「──ふざけるなッッ!!」


 どこからか野太い罵声が聞こえた次の瞬間、何かが壊れるようなすさまじい音、そして女の悲鳴が続く。


「なっ、なに!?」


 奈美がびくびくしながら辺りを見渡している隣で、シイラシの顔色がさっと変わった。奈美のことなど放って廊下を駆け足で行くシイラシの背中を見て、奈美は慌ててその後を追った。


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