009.魔女とカラス
雑貨屋への売り込みに成功したルナティナは、上機嫌で王都の街の中を遊び回っていた。
ずっと森の中で一人暮らし。やっと外へ出たと思ったら離宮の屋敷に軟禁――こんな環境で過ごしていた好奇心旺盛な八歳児が、ようやく外に出たこの機会を逃すわけがなかった。
あっちの市場、あっちの路地へと興味の赴くまま、精神的に疲弊している大人二人を振り回す。
「露……じゃない。姫様、もう充分回りましたでしょう。帰りましょう……」
パパリーはすっかり疲れ果て、路地の石壁に凭れかかってぐったりとしていた。
隣でしゃがみ込んでいるパズーは「子供の体力、半端ねえ」と肩で息をしている。
「やだ。向こうの辻にある『占い魔女の館』に行きたい」
「そんな情報、どこで仕入れてきたんですか」
「パパリーが持ってた『王都観光するならココ! ウキウキ☆女子向けお勧めスポット!』って雑誌」
「いつの間に読んだんですかあ!」
王都での就職が決まり、浮かれて買った雑誌が自分の首を絞めるとは思わなかった。
「お前……遊びたかったんだな」と同情するパズーの声が心に刺さった。この男にミーハー認定されるのが死ぬほど辛い。
「帰ったら、雑誌燃やすわ」
「いや、そこまでせんでも」
侍女が涙に打ちひしがれ、護衛の顔はひくついた。
ルナティナは「よしよし」とパパリーの頭を撫でていたが、途中でふと、何かに気づいたように顔を上げた。
「姫さん、どうしたっすか」
ルナティナは、どこも見ていなかった。何かに集中するように耳をすませている。
「……アークラの声がする」
「あーくらって誰っすか」
「姫様のお友達のカラスよ」
答えたのはパパリー。けれどすぐに「カラスの声って聞き分けられるものですっけ」と首を傾げる。
「アークラは友達だもの。きっと迎えに来てくれたんだわ」
ルナティナはぱっと走り出した。こんな建物の間の細い路地に居たのでは、こっちを見つけにくいかもしれない。表の路地は、確か少し広かったからそちらへ行けば。
後ろから、慌てたパズーが「姫さん、離れちゃだめだ」と追いかけてくる。ルナティナは「そこの表に出るだけよ」と振り返って答えた。
(影……見えない)
声は聞こえたけれど、アークラの飛翔する影は見えない。いったいどこに……と上空に注意を払いながら角を曲がった。
ごつ!
曲がった途端、ルナティナのおでこに鈍い衝撃が走り、視界が真っ暗になって星が散った。
反動で弾かれ、石畳の上に尻餅をつく。
「痛ったあ……!」
「姫様!」
倒れたルナティナは、駆け寄ってきた柔らかい手によって抱き起こされた。
「大丈夫ですか」
パパリーの声に無言で頷く。お尻はそれほどでもないけど、おでこが痛くて目が開けられない。
頭の端から端まで、痛みの釘で貫かれたような一瞬だった。本当に痛い。泣きそう。
「ううう……一体何が当たったの……」
「アークラですよ。ちょうど角を曲がって飛んできたアークラと姫様が、思い切り頭同士をぶつけたんです」
「……そんなこと、あるの……?」
ちょっと信じられなかった。カラスと正面衝突ってどういうこと。
自分史上稀な事故に驚いている間に、少しずつ痛みが引いてきた。
ようやく耐えられるほどになり、ゆっくりと目を開ければ、ほっとした表情のパパリーが顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい。もう大丈夫……」
「ようございました。驚きました」
「ねえ、アークラはどこにいるの? 怪我とかしてなかった?」
「大丈夫だったみたいですぐ飛び立ちました。ほら、今上を飛んでますよ」
パパリーの指の先を辿って見上げたら、青い空に旋回するアークラの影が見えた。ほっと胸を撫で下ろす。
「本当だ。よかっ……た?」
突如、視界が揺れた。いや、ブレた。
ルナティナの世界が、突然二重になった。
「姫様?」
(――街、が見える)
それは不思議な感覚だった。
ルナティナは、いつもと違う世界を見ていた。
険しくそびえるダボラ山脈と、麓の王城、王城からベールのように広がる王都――ルナティナは、街の上から自分を見下ろしていた
赤茶色のレンガの屋根が見えた。屋根には煙突と、風にはためく色とりどりの洗濯物。道には、買い物かごを持って行き交う婦人たち、駆けまわる子供。そして、細い路地に座り込む自分と、パパリーたち。
ルナティナの視界だけが、空の上にあった。
視界は、ルナティナの意志を無視し、動いていた。視界の元は空の上で、ルナティナがいる場所を中心に、ゆっくりと円を描くように移動しているようだった。
(これは――アークラの視界?)
黒い羽が常に見えていた。
間違いない。これは、今上空を旋回しているアークラの視界だった。
「姫様、大丈夫ですか? わたしのこと分かりますか!?」
伏せていた顔を上げると、心配で青ざめるパパリーの顔があった。その顔に、アークラの視界が重なる。
(自分とアークラの視界、両方が同時に見える……)
別々の動きをする二つの視界に、感覚がついていかない。酔いそうになって、パパリーの胸に寄りかかった。
オロオロするパパリーの声が耳元で聞こえるけれど、何を言っているか判断できなかった。大丈夫だと伝えたいが、混乱で余裕がない。
(――落ち着いて。私の意識はちゃんとある。手足も動く。視界さえなんとかすれば)
息を整えるために、長い息を吐く。目を閉じて冷静になるように努めたら、アークラの視界だけが残った。
(――きれい)
ルナティナは、アークラと共に飛んでいた。
夏の太陽の下、王都は生気に満ちていた。
と、急にアークラが、空に描いていた円から外れた。
ひとつ羽ばたきをして、滑るように移動する。その先には――見慣れた鮮やかな金髪の頭が全力で走っていた。
イルムが、街の中を駆けていた。
緩い癖毛が疾走する身体に合わせて揺れてたなびいている。
どう見ても――まっすぐこちらに向かって来ている。
「姫さん! 聞こえていたら返事してくれ」
(イルムが走っているのはどのあたり? ひえっ、もう結構近い!)
「お顔が真っ青だわ。どうしよう、パズー、姫様に何かあったら」
(まずい、黙って離宮を抜けてきたのがバレて追いかけて来たんだ)
「落ち着けパパリー。とりあえず離宮に戻ろう。ほら、林檎持て。俺がおぶるから」
(イルム、走るの速い! このままじゃ、すぐに見つかる。まずいまずいまずい!)
「落ちないように押さえておけよ。よし、せーの」
弾けるように身体を起こした。
「ダメ逃げなきゃ!――――あれ」
「わーっ!」
パパリーとパズーの悲鳴がうるさい。
何ごと? と考える間もなく、ルナティナの上半身がぐらりとうしろに倒れ、後頭部に衝撃が走った。
「ぎゃー! ひめさまーっ!!」
パパリー、大絶叫である。
ルナティナは痛みに言葉も出ない。目の前に星が飛んだ。本日二度目の打撃に、石畳の上で後頭部を押さえてごろんごろんとのたうち回った。
「あーあ」と、パズーがしゃがんでルナティナを上から覗き込む。
「ったく、おぶろうとした瞬間に勢いよく反り返ったら、落ちるのは当たり前っすよ」
「パズーううう、痛いよおおお」
「はいはい、あーでっかいたんこぶできてますね。こりゃ痛いっしょ。あ、大丈夫っすよ、姫さんの頭に当たったのはさっき買った林檎です」
涙目で見れば、パパリーの持っていた籐籠の林檎が、見事に粉々になっていた。
「りんご……蜂蜜煮にしようと思っていたのに」
「残念ながら全滅っす。ジャムにしてください」
「パパリーいいいい、ごめんんんー」
「いいんです、姫様がご無事なら。――もう、気分は悪くないですか」
ぱちくり、と猫目を瞬かせる。言われて気が付いた。視界が元に戻っている。もう気持ち悪くない。
「――はっ、イルム!」
そして思い出した。イルムがこっちへ向かっている。逃げないと。
「イルムって、姫様をだました不埒な商人ですか!? どこに!」
パパリーが険しい目つきになって辺りをぎょろぎょろと見渡す。「誰それ?」とパズーは首を捻っていた。
「違う、一つ向こうの角からこっちに向かってきてるの!」
「向こうの角?」
パズーはルナティナが指した後方を見るが、当然誰もいない。
「向こうの角って、どこの角っすか?」
「向こう……から来てる気がする! 直感! ええと、魔女の直感! とりあえず逃げたい!」
説明する時間が惜しい。イルムの脚は速いのだ。
ルナティナは、しゃがんだままのパズーの背に飛び乗り、前方に向かってびしりと指を差した。
「パズー、走って!」
「馬扱い!?」
「つべこべ言わず、早く!」
ぴしぴしと肩を叩く。パズーは訳も分からず言われるがまま、ルナティナが指さす方向へ走り出した。
もちろん、イルムがいたのとは逆の方向へ。
(とりあえず適当に走って巻くしかない!)
しかし、甘かった。
路地を走り、一つ目の角を曲がったら――そこに、イルムが笑顔で仁王立ちしていた。
「ルナ、その男は何? 今日はコソコソと何をやってるの?」
次回更新は9/16(土)夜の予定です