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007.魔女とふたつの夢

「露の宮様。明日、本当にやるんですか?」


 シーツを整えながらパパリーは、ちらりと不安そうにルナティナを伺った。

 夜着に着替えたルナティナは、ベッド横のソファーの上で膝を抱えて転がっていた。滑らかな銀髪が床まで垂れ落ちているが、本人はまったく気にしていない。


「やりますとも。そのために準備をしてきたんだし」


 ルナティナの後ろの窓には、満月がぽっかりと浮かんでいた。

 イルムを買収すると決めてから一カ月。明日はいよいよ、その一歩を踏み出す日。


「上手く儲かれば、パパリーの実家の借金も返せるかもしれないよ」

「ああ、甘言に心動かされるのが悔しい……」

「……やめてもいいよ?」


 意外な、しかも真摯な声音の言葉に、枕を整えていたパパリーは勢いよく振り返った。

 相変わらず小さくまとまったルナティナが、猫目をじっとこちらに向けていた。


「何かあった時にお咎めを受けるかもしれないのは、パパリーだもの。だからいつやめてもいいんだよ」


 この一カ月で、ルナティナは自分の立場について、あれこれ検証をしていた。

 そして分かったことがある。

 ルナティナの持つ権力は、離宮の中ではとても大きい。


 屋敷や庭を歩いているだけで、皆、膝をついて首を垂れる。

 パパリー以外の使用人や、護衛兵、何か用事があってやって来た様子の役人まで。

 聞けば、頼めばほとんどのものが手に入ることも分かった。

 試しに、禁書を依頼してみた。

 検証を兼ねての軽い気持ちだったのだが、二日後、「お納めすることができず、申し訳ありません」と報告と謝罪に来たのは、なんと文官侍従長だった。

 文官侍従長は、国王秘書のトップであり、生活全般を取り締まる超お偉いさん。声と姿勢だけでも威厳が感じられる人物だった。宮姫用の接見の間で対面した文官侍従長は、地面に頭をつけるように謝罪していた。

 申し訳なくて、こっちが土下座しそうになった。(パパリーに全力で止められた)


 全ての人が、まるで女神に仕えているかのような振る舞い。

 自分をおまけの宮姫だと思っていたルナティナは、ちょっと驚いた。

 知識と異なっている部分があるのは、きっと実家の書物が古いからだろうと考えた。


 ともかく、今回ルナティナが勝手をすることで何かあっても、宮姫として彼女を庇うことはできそうだった。けれど。


(バレたとき、全くお咎めなしにできる保証はないもの)


 パパリーのことは好きだった。

 彼女は、二人きりのときはルナティナを女神扱いせず、対等に話をしてくれた。それにどんなに救われたか。

 だから、無理を強いたくない。


 転がったままじっと見つめるルナティナの前で、パパリーは観念したようにため息をついた。


「やりますよ。だって、露の宮様をひとりにできないですもの」

「パパリー!」


 ルナティナは跳ね起き、柔らかい絨毯の上を素足で走ってパパリーに跳びついた。

 小さな身体を受け止め、パパリーはルナティナごと倒れこんだ。


「あー、せっかく整えたシーツが……」

「ありがとうパパリー。実はちょっと寂しかったの」

「……街に出るのは初めてでしょう? 迷子になったら困りますから、一緒に行きますよ。個人的な伝手つてで、護衛も頼んでありますから」

「うん、うん。ありがとう。楽しみね!」

「……本音を言えば、すごく気が進まないんですけど」

「ありがとう、ありがとう」

「……まったく」


 パパリーは笑うと、体勢を変え、ルナティナを正しい位置に寝かせた。真っ白なシーツを掛け、ぽん、と胸元をたたく。


「ちゃんと眠ってくださいね」

「うん。――あ、パパリー、これあげる」


 ルナティナは小さな手を出して差し出した。手には何か握られている。


「いつものやつですか?」

「うん。これは、夏至の日に採れたセントジョワーズ草を使ってるの」


 ルナティナの手からころりと出てきたのは、コインより少し大きいくらいの、円形で平たい蓋つきの容器。

 ルナティナが作った傷薬だった。パパリーは、それを両手で大切そうに包んだ。


「ありがとうございます。本当に効くので、調理人たちも喜んでます」

「パパリーの指の傷もだいぶ良くなったわよね」

「……どうせわたしは裁縫が苦手ですよ」

「茶化してるんじゃないってば。それ使って、直しながら針の練習してね」

「ありがとうございます」

「あと、いつも言ってる通り……」

「分かってます。イルムという商人には内緒に。ですよね」


 ルナティナは頷いた。

 パパリーの傷が気になって薬を渡したら、いつの間にか屋敷中の人間が薬を使っていた。どうやら、困っている使用人にパパリーが一度貸してしまい、そこから「すごく良く効く」と評判になったらしい。

 これは、口止めしなかった自分が悪いとルナティナは思っている。

 使用人たちは、薬を作ったのがルナティナだということは知らないし、薬の存在を口止めしているからいい。けれど。


「イルムってば、勝手に薬を人にあげると怒るから……」


 くあ、と小さな口から欠伸が出た。「あらあら」とパパリーがもう一度シーツを掛け直す。


「もう遅いですから、お眠りください」

「うん。パパリーも、おやすみなさい」

「おやすみなさいませ」


 枕元のランプの灯が消され、部屋は月明かりだけになった。

 天井まで届く硝子の格子窓のてっぺんに、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。

 紅玉ルビーの瞳は、しばらくじいっと月を眺めていたが、そう時間も経たないうちに、瞼がうとうとと揺れてくる。月の光の色をした長い睫毛は、ゆっくりと閉じられていった。



*-*-*-*



 丸い月があったはずの場所には、いつの間にか明るい太陽が陣取っていた。


 さっきまでベッドで寝ていたはずなのに……とルナティナはぼんやりと考える。


 高い塔の、窓辺だった。

 ルナティナは窓辺に座り、外を眺めている。

 眼下には草原が広がっていた。実家の森とも、離宮の庭とも違う景色。

 草が風になびき、点在して咲く黄色や赤の花を揺らしていた。離れた場所には新緑の森。その遥か向こうに連なる山脈。


 どうやら自分は、塔の上に作られた小さな部屋にいるようだった。

 離宮のような美しい白の漆喰の壁ではなく、黒く煤けた、頑丈な石壁の部屋。ルナティナの実家の古城と同じ、堅牢な造りの壁がルナティナを守る様に立っている。

 罪人の部屋ではなさそうだった。

 室内には、狭いけれど柔らかそうなベッドに、小さな机。そして壁一面の古い本棚。本棚には、魔女学や薬草の本がみっちりと収められていた。床には、石の冷たさを十分に防げる厚手の絨毯が敷かれ、気遣いを感じられる。


 もっとよく見たかったけれど、視界はルナティナの思い通りにはならなかった。

 身体は勝手に、窓辺においてある水差しに手を伸ばし、水を飲もうとしている。

 その手は、見慣れた自分のものよりも大きかった。大人というよりは、大人手前の少女のもの。


 これは、だれ。


「――ルナ!!」


 突然扉が開いた。

 驚いた手は、水を入れていた木のコップを落としてしまう。


「ああ、もうっ!」


 苛立った声を上げたのは自分だった。

 確かに自分の声なのに、何か違う。でも不思議と、違和感はなかった。


「あ、ごめん」


 部屋に飛び込んできたのは少年だった。ちょっと怯んで一歩下がる。

 十歳前後だろうか。少し癖のある金髪の、利発そうな声の少年。急いで来たようで、細い肩はまだ荒く息をしていた。

 けれど、なぜか顔だけはっきり見えない。集中して見ようと思えば思うほど、そこだけ霞がかってしまう。


 自分の手は、コップを拾い、水を入れ直していた。

 けれどノックなしに少年が入ってきたことを怒りはしなかった。きっと部屋に出入りするのが当たり前の、心を許した存在なのだろう。


「ルナ―――――入宮するって本当?」


 水を入れる手が止まった。少しの静寂が、石の部屋に落ちる。

 ルナティナは、ゆっくりと息を吸って口元に笑顔を作り、少年に向き直った。


「誰から聞いたの? 早いわね」

「僕の情報網をばかにしないでくれる? ルナ、あのクソ王の宮姫になるつもりなの」


 ルナティナの口から、乾いた笑いが出た。――ああ可笑しい。


「昔から狙われてたものね。子供だった私を見て欲情するって、相当変態だと思わない?」

「駄目だ!」


 少年の手が、ルナティナの細い腕をドレスの上から掴んでいた。


「ルナ、逃げよう。僕が逃がすから」


 腕に入る力で感じる、強い決意。自分より少し低い位置にある少年を見下ろたルナティナは、胸が小さく痛むのを感じた。


「子供が何を言ってるの」


 むにーと少年の頬を伸ばす。柔らかい頬だった。むにむに、と揉む指を、少年が怒ったように引きはがした。


「ちょっとだけ年上だからってばかにするなよ。もう一人前だ」

「商売ごとは上手だものね。すごいすごい」

「ルナ!」


 ルナティナはからからと笑って窓辺に戻る。水を飲むのは諦めて、窓枠に両肘を着き、再び風に当たった。


「はー、ここの景色も見納めか。せっかく村の皆とも良くなれたのに」


 風に流れて浮いた銀髪が、くん、と後ろに引かれた。少年が一歩だけ離れた場所に立って、ルナティナの髪の一房を引っ張っていた。


「……ルナ、外じゃなくて、こっち向いてよ」

「……」

「ほら」


 少年は、黙り込むルナティナの肩を引き、自分の方へ向き直らせる。

 さっき腕を掴まれたときよりずっと、力は優しかった。されるがままに、身体を向けた。

 こんなに近い距離なのに、やはり少年の顔は見えなかった。なのにルナティナには、少年が、くしゃりと笑ったのが分かった。


「……強がるなよ。泣いてるくせに」

「泣いてない」

「泣いてる」


 溢れる涙で、視界がぼやけた。霞んでいた少年の顔が、ますます見えなくなる。

 悔しかった。誰の役にも立たない自分が悔しくて。足枷になってる自分が悔しくて。


「……私、迷惑ばかりかけてる。研究も、修行も途中で、力も未熟なのに」

「そんなことない! ルナは頑張ってる。誰よりも」

「笑顔が見たいだけなの。みんなで、笑って暮らしたいだけなの。なのに、なぜなのかしら」


 離れたくない。ここから。この人のいる場所から。

 

 もう、離れるのは嫌なの――――  


 ぱちん!


 突然、シャボン玉が弾けたみたいな感覚がして、ルナティナは夢から覚めた。


 呆然としたまま、ルナティナは辺りを見回した。

 塔の部屋も少年もきれいに消え、今いるのは、見慣れぬ庭園。

 青々とした芝生に、目の前には円形の池。池の中心では石造の女神が壺から水を途切れることなく流している。向こうには、硝子ガラス張りの教会――ではなく、教会のような尖がり屋根をした温室だった。


 くすんだ硝子の向こうには、南方の植物らしい濃い緑の葉や、極彩色の花がうっすらと見える。


 わぁ、楽しそう。


「にゃあ」


 呟いたつもりが、猫の鳴き声だった。

 あれ、と自分の身体を見下ろせば、黒猫になっていた。

 なあんだ、まだ夢の中なんだ。じゃあさっきのは、夢の中の夢か。

 胸のあたりに不思議なもやもやを抱えながら、ルナティナは無理矢理納得する。


 ぴょん、と噴水池を囲う石に乗り、水を覗き込んだ。なみなみと揺れる水に、胸に白い上弦の月の模様が入った、ちょっとキツい顔の黒猫がこっちを見ていた。

 もやもやは、まだ晴れなかった。

 さっきの夢、おかしな夢だった。大きくなった自分がいて――――


 あれ?


「にゃあ?」


 水の中の黒猫くろねこが一緒に首を傾げた。

 ――どんな、夢だったっけ。


「ルナ!」


 ルナティナは弾けるように顔を上げた。

 温室の奥にある生垣の向こうから、イルムの顔が見えた。


「にゃあ!」


 イルム! と呼べば、生垣を一瞬で飛び越えたイルムが全力でルナティナの元に駆けてきた


「ルナ……よかった。探した」


 どうしたの? と首を傾げれば、イルムは猫ルナティナを持ち上げた。


「満月なのに部屋に来ないから、心配したんだ」


 抱きしめてくれる体温が温かかった。いい匂いもした。これはきっと、ルナティナが以前あげた、ジャスミンの香水だと思う。

 本当、夢なのに感覚がとてもリアル。

 イルムの体温がなんだか熱く感じるのは、走ってきたからだろう。まだ整わず、肩で息をしている。

 まるで、さっきの夢の少年みたいに――――


「ルナ?」


 抱きしめて満足したらしいイルムが、ルナティナの顔をみてぎょっとした。

 ぎょっとしたイルムを見て、ルナティナもぎょっとした。何に驚いてるの?


「ルナ、泣いてるの?」

「にゃ?」


 猫のルナティナの、赤い瞳から、ぽろぽろと涙が流れていた。水晶の玉が転がるみたいに、黒く艶やかな毛並みの上を、水滴が零れ落ちていく。


「――何か、辛いことでもあった?」

「……にゃーあ……」


 ちがうの。

 ルナティナは、使い勝手の悪い猫の前脚で、顔を拭きながら必死に言った。

 ちがうの。私じゃないの。泣いてるのは、夢の中の、あの人なの。

 

 イルムが、猫ルナティナの小さな額にキスを落とした。

 いつもの夢のような、色めいた雰囲気はない。憂いたように伏せられた睫毛の奥、金の瞳が、ルナティナの涙を受け入れるように見つめていた。


「――もうお眠り、ルナ。悲しいことは、僕に全て預けて」


 眉を落として小さく微笑むイルムの顔が、あの少年の顔に被って見えた。

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