005.魔女の決断
「決めました」
お昼も過ぎた頃。
友達だというカラスを頭に乗せ、窓辺でぼんやりとお茶を飲んでいた幼い宮姫が唐突に立ち上がった。
侍女のパパリーは、刺繍をしていた手を止めて顔を上げる。
「どうしたんですか突然。あ、お茶こぼれますよ」
何か考え事をしていたらしい宮姫の手元はすっかりお留守で、カップの傾きがギリギリ危ない。容赦なくそれを指摘したパパリーは、「ドレスを汚さなくてよかった」とほっとしているルナティナを姉のような気持ちで見つめた。
「ずっと何か悩んでいらっしゃいましたね」
「うん……あのね、考えたの。イルムは王様に金で買われて私を拉致してここに連れてきたんだけど」
「初耳ですよ。なんですかそれ、ひどい男ですね」
一瞬で目が据わった。
イルムとは確か、入宮初日に宮姫の寝室で話し込んでいたうちの一人。てっきり身内かと思っていたのに。
「あ、誤解しないでね。そりゃたまに意地悪もするけど、普段は優しいのよ。私のこと大事にしてくれるし。ただ、ちょっと利益に目がないだけ」
「ソレ、騙されてる女の台詞ですよ露の宮様。冷静になって」
主人がアブナイ男に騙されている。イルムとかいう人物を見たこともないが、それだけは理解した。
「私、イルムのこと信用してるの」
「露の宮様……なんて健気な」
「イルムは、お金が好き」
「え」
「――利益で逸れたものは利益で取り戻すべし」
ルナティナは小さな手で拳を作り、高らかに宣言した。
「私、イルムを買収します!!」
「カァ!」
「待って」
少女の、思考の展開についていけない。
「ええと、駄目ですよ露の宮様。そんな酷い男のことは忘れましょう」
「私も同じくらい酷い女になる」
「こんな美少女にこんな発言させた男出てこい!」
椅子の上に立ち上がり、「やるぞー、おー」と気合を見せる幼い姫と、鼓舞するように飛び回るカラス。
パパリーは、イルムという男を脳内の危険人物リストの一番上に載せた。
「大丈夫よ、パパリー。ちゃんと道具は揃ってるから」
「何のことですか。え? 道具?」
「そう、イルムが届けてくれるの」
ルナティナが胸を張って説明してくれたのは、朝食直後の出来事だった。
*-*-*-*
そのとき、ルナティナは、一人で居間に居た。
離宮とは、建物の名前でなく、王城の北側に位置するダボラ山脈の麓にある広大な敷地のこと。
この離宮という敷地の中に、小さな館が点在している。これが宮姫の住む場所。
『露の宮』ルナティナのいる建物もそのひとつ。離宮の入り口にあたる護衛兵の詰所からほど近い場所に建てられている、二階建ての瀟洒な館。
一階には食堂と応接室、使用人の部屋。二階にルナティナの過ごす居間と寝室という、一般的な貴族からすればこじんまりとした屋敷。
朝食後。
侍女のパパリーが片付けに席を外した後、ルナティナはこの『露の宮の館』の、南向きの日当たりのいい居間で、ぼんやりと外を眺めていた。
「……帰りたい」
「カァ」
つぶやきに返事をしたのはカラスのアークラ。ルナティナは指で、黒い友達の頭と喉を撫でた。
目を細め、気持ちよさそうなアークラに対し、ルナティナの気持ちは沈み気味だった。
「帰りたい……だって」
ルナティナはひとつ、息を吐いた。そして指折り数えだす。
「……薬草石鹸は作りかけだし、ジャスミンの精油は抽出中だし、漬けようと思って山ほど摘んでたヤマモモは放置してきちゃったし……あああ、精油なんて、工程があと半分ほどだったのに。あれ、すんごく面倒で時間かかるのに、勿体ない……!」
悔しさを全身から醸し出して、ソファーの木枠をごんごん叩く。
魔女は、自然に親しみ、自然を用い、人の役に立つものを作る。そのために日々精進していたのに。勿体ない。
「ううう、薬草摘みたい……薬研で薬草ゴリゴリしたい……蒸留したい……」
顔を覆って震える姿は、完全に禁断症状。
アークラは我関せず、といった様子で嘴で羽を整えていた。
「……そういえば、アンブさんとシーラさん、心配していないかしら。……してるわよねえ」
「クア」
一人暮らしのルナティナを心配して、何かと世話をやいてくれる狩人夫妻の顔を思い出してため息が出た。
突然居なくなったルナティナを心配しているに違いない。何か無事を伝える方法も考えないといけなかった。
「帰りたい……」
小さな響きが、絨毯の上にぽつんと落ちて消えた。
床に、木の葉の影がさらさらと踊った。窓の外には、生を謳歌する濃緑の木々が風に揺れている。背景には、青く濃く広い空。
どれも、ルナティナの住んでいた曇天の森にはない景色だった。
窓を開け、バルコニーへ出る。
肩を揺すって促せば、アークラは離宮の空へ、散歩に飛び立った。上空を旋回するアークラの影。
風が首を撫で、ルナティナの長い銀髪をなびかせた。光が銀糸を絡め、波打って散っていく。
空の快晴とは裏腹に、ルナティナのため息は重かった。
「物憂げなため息だねえ」
「イルム!」
突然の声。扉とは違う方向から聞こえた声に、ルナティナは飛び上がった。
金髪頭がバルコニーにぴょっこりと現れた。見知った顔に胸を撫で下ろす。
「どうしてそんなところから」
「いやー、玄関から入ろうとしたんだけど、上を見たらルナが見えたから」
どうやって二階まで登ってきたんだろう、と思ったら、窓の外にいい枝ぶりの樹が見えた。あれか。
「あはは。分かっちゃった? あれを登って、バルコニーに飛び移ったんだ」
「そんなに簡単にできちゃうものなの」
離宮の設計者も間抜けじゃないから、簡単に侵入されるような場所に樹を植えたりしないだろう。現に、樹からバルコニーまでは、軽く跳んだくらいでは届かないほどの距離はある。
いちいち常識破りね、という目を向けていると、にかっと邪気のない笑顔を向けられた。
「僕は腕のいい商人だから」
「体力ばか商人」
「ルナ、口が悪くなってない!?」
どの口が言うか。と、ルナティナはドレスを引きずり、イルムを置いてすたすたと部屋へと歩き出す。
イルムは柵から降り、小さなルナの後ろをぶつくさ言いながらついてきた。
「ねえ、僕、産着から棺桶までなんでもござれの、凄腕商人よ? 街でも人気のイルムさんだよ?」
「カーァ!」
そこに、滑降してきたアークラがイルムの頭ギリギリに飛んできた。掠るタイミングでぽちょ、と、ひとつ落としものをして去っていく。
「あああ! 自慢の金髪に糞が!」
「街で人気の商人さんは、カラスにも人気でなによりねー」
ルナティナは後ろも見ずに棒読みし、精巧な組木細工の床を歩いていく。窓辺の絨毯の上にある二人掛けのソファーに座って、自分でカップにハーブティーを注ぎ、すました顔で飲む。
「ルナぁ、ハンカチ貸して……」
イルムが屈んで、頭を差し出してきた。
いい大人が、しょぼくれた顔でお願いをしてくるのがおかしい。
イルムは背が高い。ルナティナはあまり外の人間に会ったことはないけれど、狩人のアンブや、入宮式で見た兵たちよりもイルムの方が高いようだった。鍛えている兵たちと違って、イルムは幅はなく、むしろ細めだから中肉高背というところか。
いつも、森でひとりで住んでいるルナティナに、保護者のような顔で世話をやいてくれていたイルム。
そんな大きなイルムが、ときどきこんなふうに背中を丸めて、自分のような小さな子供にお願いをしてくれるのがルナティナには嬉しい。ただ子供扱いするんじゃなくて、頼ってくれるみたいで。
怒っているフリをしていたルナティナの、カップに隠れている口元が緩んだ。
「はいはい、ハンカチね。ちょっと待って」
ドレスのポケットを漁る。引き出したハンカチは、高級そうな絹だった。ちょっと考えて、ルナティナはハンカチを渡すのをやめた。
かわりにテーブルに台拭きが置いてあったので手渡す。
「扱いひどくない?」
「子供を気絶させて離宮に放り込んだ誰かさんよりは優しいと思うわ」
「わー辛辣。こりゃ、ご機嫌取りに苦労しそうだ」
頭をごしごし拭いて笑う。
(いつも余裕そうな顔して)
ルナティナはちょっと面白くない気持ちでハーブティを飲んだ。
拭き終えたイルムは、当たり前のように隣に座った。
いつもの悪戯めいた笑顔で、じっと見つめてきたと思ったら、手が伸びてきて、そっとルナティナの頭を撫でた。
こんなので誤魔化されないぞ、とルナティナは眉間に力を入れた。
大きな手のひらが、優しく、小さな頭を何度も往復する。ときどき手のひらが頭を滑り落ちて、指が戯れに長い銀糸を絡めて流していく。
ルナティナは、イルムのこの癖が好きだった。甘やかしてくれているようで、心がちょっぴりくすぐったくなる。
イルムが銀の毛先を指に絡め、持ち上げて弄んだ。何も言わず、口元を柔らかくして、感触を確かめるようにくるくると髪を触る。
長い指を目で追っていたら、彼の瞳と視線がぶつかった。
近距離の金の色。優し気な目つきなのに、強い、太陽みたいな光。
どきりとして、勢いよく視線を逸らしてしまった。
「お姫様のご機嫌は、なおった?」
くすくすと笑う、余裕の大人具合が悔しい。
「……不機嫌じゃないもん。怒ってるの」
「王様の初夜の相手がそんなに気になるの?」
そして思い切り勘違い。
「どうしてそういう話になるの!」
「あれ、違う?」
「どこをどうやったら、私が王様の寵を得ようと頑張ると思えるのかしらね! 違うでしょ! 私が怒ってるのは、イルムが無理矢理ここに連れてきたことでしょ!」
「えー、でも森よりいいでしょ? 僕もちょくちょく顔を出せるよ?」
「う」
帳の森は深い。入口から最奥にあるリンデール城――ルナティナの実家で、古城を改装したもの――まで、迷わず来れてたとして、馬で駆けて半日かかる。イルムも狩人夫妻も、毎日来てくれるわけじゃなかった。ルナティナには、それがちょっぴり寂しかった。
「で、でもヤだ! 連れて帰ってよ」
「えー困る」
「困ってるのは私! 連れて帰って!」
駄々をこねるように言うルナティナ。けれどイルムは聞く耳持ちませーん、という顔で、ルナティナの手からカップを取り上げ、勝手に飲んだ。
「私のハーブティー!」
「これ、ルナの作ったハーブティーじゃないね」
一口飲んで、眉を落とし、カップの中を見つめるイルム。
「そりゃそうよ。道具もないし。さっき、パパリー……ええと、私に付いてくれている侍女の人が淹れてくれたの」
「そっか。うん。やっぱり準備して正解だった」
「なあに?」
「さてここで、ルナへのご機嫌取り第二段!」
ぷに、とイルムの指がルナティナのほっぺを押した。
不本意だけれど、どうやらさっきのが第一弾だったらしい。むっつりするルナティナとは逆に、イルムの目はわくわくと輝いている。
「ねえルナ。いいお知らせと、いいお知らせ、どっちが先がいい?」
「なにそれ」
「あ、どうでもよさそうだね。じゃあご機嫌取りふたつめ。王様は昨晩、月の宮のところには行ってないって。 ルナへの寵がないわけじゃないんだよ」
まったくどうでもいいお知らせだった。
舌を出してうんざり顔のルナティナに、イルムが笑う。
「そしてご機嫌取りみっつめ。古城のルナの作業部屋にあったのと同じ道具をこっそり準備したんだ。明日には運び込まれると思う。材料もあるよ」
「本当!?」
「手早いでしょう。苦労したんだよ」
「さすがイルム! 凄腕商人!」
「これでハーブティー作って、僕に淹れて。やっぱりルナの作ったのがいちばん美味しい」
「もう、ハーブティーでも胃薬でも林檎の蜂蜜煮でもなんでも作っちゃうわ。嬉しい!」
「飲み薬は勘弁してね。ルナの作ったやつ、不味いから」
イルムの大きな手を両手で握って、座ったまま、ソファーの上でぽんぽん跳ねた。薬の味を思い出して渋い顔をすしていたイルムは、身体全体で喜ぶルナティナを見て破顔し、「当然だろう?」と胸を張った。
「だって僕は、ルナの味方だからね」
「イルム……!」
「そして金の亡者だよ!」
「何で私、こんな人が好きなんだろう……!」
すっかり忘れていたけど、全ての元凶はこの青年だった。
脱力して崩れ落ちた先が大好きなイルムの膝の上だったが、それを嬉しいと思える気力は完全に尽きていた。