003.月夜の夢と王子様
メルヘンな自分に悶えるルナです。
「やあ、僕のルナ。また会えたね」
月明かりを反射し光る、白いバルコニーに降り立ったルナティナに、イルムが微笑みかけてくる。
いつもイルムの意地悪な笑い方とも、優しい笑い方とも違う、ほんのり艶が混ざったような微笑みを向けられて、ルナティナの脳がくらりとした。
気を取り直し、ルナティナはイルムへと近づいていく。イルムは、バルコニーから部屋に繋がる大きな窓を空けて待っていた。
おかしなことに、石の地面を歩いてもルナティナは足音ひとつ立てていなかった。
変なのは、今のイルムの服装もだった。
いつもは街の青年のらしい、質素なシャツにベストだけなのに、目の前のイルムはふわふわのドレスシャツという、物語の王子様のような恰好をしている。少しだけシャツの胸元が開いているのを見て、ルナティナは悶え転がりたくなった。
「いらっしゃい」
するりと部屋に入ったルナティナに、イルムが柔らかく声を掛ける。
ルナティナは、いつもよりずっとと高い位置にあるイルムを見上げ、返事をした。
「にゃあ」
首元でちりん、と鈴が鳴った。
「今夜もお利口さんだね」
イルムが屈んで頭を撫でてくれた。
ルナティナが、イルムにたったひとつ秘密にしていること。
それは満月の夜、ルナティナが猫の姿になって、王子様みたいなイルムの部屋を訪ねるという夢だった。
こんなこと、恥ずかしすぎて本人に言えない。
ルナティナにとって、イルムは唯一なんでも話せる相手。けれどこんなこと話たら、絶対に意地悪を言われてしまう。「ルナって僕のこと好きなの?」なんてからかわれるくらいなら、舌噛みきって死ぬ方がマシ。
「おいで」
イルムが、広い部屋の中へとルナティナを誘った。
我に返り、ルナティナは後を追いかけた。
夢なのに、この部屋は毎回様子が全く変わらない。
床には、金糸の刺繍が豪快に縫い込まれた濃い青の絨毯。溶けない雪の上を歩いているみたいにふわふわで、ルナティナの肉球を優しく受け入れてくれる。ベッドは五人は横に慣れるほど大きくて、天蓋からは真っ白な布が垂れ下がる。その布を掻き分け、イルムが中へと先に入っていった。
白の布はルナティナとイルムを遮ぎきることなく、すぐにイルムが顔を出して中に招いてくれた。
天蓋を支える四方の柱は、何と金色。金と白の寝室から手招く金髪の王子様に、ルナティナはいつもどきどきしてしまう。
こんなのガラじゃない。そう思っても顔は正直で嫌になる。
軽々と飛び乗り、柔らかい寝具にちょっとだけ脚を取られながらイルムに近づく。
横になっていたイルムが、隣りをぽんぽんと叩いてここへおいでと示してくれた。少しためらうが、いるもふかふかのベッドの誘惑に負けてしまう。
イルムの近くまで寄り、おそるおそる腹をつけて寝そべった。
始めは遠慮がちに、前脚を折りたたんで行儀よく伏せる。けれど、イルムがいいところを撫でてくれるので、気持ちよくて、だんだん手足を投げ出して寝そべる羽目になる。
毎回思うが、この布団は本当にいい匂いがする。イルムの匂いかな、と嗅ぎ比べてみたことがあるけれど、よく分からなかった。
「いい子だ」
イルムが目を細めて笑った。
顎を、耳の後ろを、尻尾の付け根を。そしてルナティナがすっかりリラックスし、うっとりとしてくると背中、お腹、尻尾と全身を優しく優しくなでてくれるのだ。
ここでのルナティナは、黒猫。
肉球まで黒い、けれど首から胸元にかけて銀のラインが入っている、少し変わった模様の黒猫だった。
一度だけ鏡を見たことがあるが、瞳は人間のルナティナのように紅玉色をしていた。
そして、目と一緒に目立つのは、胸元に光る、ルビーの首飾り。細かい装飾も施されていて、どう見ても安物じゃない。
初めて見たときは、目玉が飛び出すかと思った。「ルナの目と一緒だね。おしゃれでしょ」とイルムが嬉しそうに言ったから二度びっくりした。どうやらこれはイルムが猫のルナにくれたものらしい。
「ルナ、綺麗だ。好きだよ」
たまらず、ルナティナは柔らかい布団に顔をズボっと埋めた。
これ。これだ。
この状況が絶対夢だと思う瞬間。
満月の夜の夢。ここでは、イルムが猫のルナティナに「好きだよ」と繰り返す。
それも甘い、甘い声で。
このイルム、どこから来たのでしょう。おとぎの国? それともルナティナの願望の世界?
後者だったら自分を消してしまいたくなる。
ここでイルムが「好きだよ」という温度が、ルナティナがいつも「私、林檎の蜂蜜煮が好きなの」と言っている意味と違うことくらいわかる。
王子様イルムが超絶猫好きなだけだと思っておきたい。
ルナティナの頭が沸騰している最中も、イルムはずっと好きだよといい続けていた。
まるでルナティナの毛皮に浸透させるように、何度も、何度も。
満月の明かりが入り込むベッドの、真っ白なシーツの上。王子様のイルムの横で、猫の姿にも関わらず、好きだと繰り返されながら過ごす夜。
欠片だけ持っている、男女の睦言の知識とは全く違うのに、イケナイことをしている気分になるのは、きっと自分がおかしいせいじゃ、ない。たぶん夢の中のイルムが悪い。
(あれ、でもこれは私の夢だから、やっぱりおかしいのは自分……?)
ぐるぐる悶々としていると、イルムの指先が、猫ルナティナの耳を軽く摘まんだ。
「何か考え事しているようだけど、もうおやすみ、僕のルナ。名残惜しいけど眠る時間だ」
頭から背、尻尾の先まですうーっと撫でる。まるで合図のように、ルナティナの眠りはシーツを潜るように滑らかに落ちて行った。
ここで眠ったら、この夢は終わり。分かっているのに、名残惜しいのに、どうしても眠気に逆らえない。
とろとろと睡魔に誘われ、ルナティナの意識は瞼を閉じていった。
(イルムの手、魔法の手みたいだ……魔女は私の方なのに……)