魔女の心臓 ~キスから始まる不死の眷属~
「今日はなんという厄日だ……!」
騎士ルィン・イングロールは泥だらけになった顔を手で拭い去った。
爆発で吹き飛ばされ、地面とキスをするという無様さに、悪態のひとつもつきたくなる。出発前に神官より賜った太陽神ア・ムールの祝福はなんだったのか……。いままさに紛うことなき災厄にルィンは見舞われているのだ。
腕を地面につくと、勢いに任せて重い甲冑ごと地面から身体を引き起こす。
「っ痛……!」
なんとか立ち上がるが激痛に顔を歪める。脚の骨が片方折れているようだ。苦し紛れに紺碧の空を見上げると巨大な影が太陽を遮った。
仰ぎ見た空はアメジストのような不穏な色合い。雲ひとつ無い空を、一匹の巨大な竜が羽を広げ悠々と旋回している。
――紫黒竜、ドラギュケイヴ……!
死を運ぶ竜の襲撃を受けるなど、己の不運を呪わずにはいられない。
火蜥蜴を思わせる長大な体と尻尾に、それを浮かせるだけの浮力を生む蝙蝠のような黒い羽――。それは全長二十メルに達する巨大な、有翼のドラゴンだ。
全身を覆う禍々しく陽光を照り返す鱗は鉄のように硬く、騎士のランスでさえ貫通できないと云われている。
ゴゥ……! と羽が空気を切り裂く。薄い皮膜が陽光を遮り、地上に影を落とす。
ガリナヴァル王国内で確認されている災厄竜族の一体、最悪の凶竜。それが紫黒竜だった。
悪夢のようなドラゴンは、大きな弧を描きながら空を泳ぎ、地上で這いつくばる二体の獲物を狙っている。
蛇よりも冷たい光を宿す黄金色の眼は、地上を哀れに這いずり回る二人の弱った獲物に注がれていた。
「おぉご覧なさいな騎士様よ! あれが私達の死よ……! アハハ!」
手枷を嵌められた魔女が上空を仰ぎ見ながら、狂気の滲んだ甲高い声で叫ぶ。
魔女を護送用馬車で搬送中に紫黒竜に襲撃を受け、この有様だ。御者は死に、馬も動けない。
魔女の両手を固定する手枷から、鉄の鎖が伸びていた。荷台に繋がれていたはずの拘束具が、馬車がひっくり返った拍子に引きちぎれ、今はジャラジャラと音を立てて地面を引きずっている。
「黙れ、呪われた忌まわしき魔女め! さては、魔術で災いを呼び込んだな……!?」
「アハハ、どうだろうねぇ? お前さんが言う『呪われた忌まわしき魔女』と、こうして一緒に死ぬ気分はどうだい?」
「くっ! とりあえずその口を閉じていろ!」
騎士ルィン・イングロールは、険しい目つきで空を見て嗤う魔女を睨みつける。紫黒竜は徐々に旋回する半径を狭めている。
ルィンの脚は馬車から投げ出された衝撃で折れている。立ち上がりはしたものの、脚に力が入らず歩くことさえままならない。おまけに誇り高き騎士の主兵装である長剣は折れ、地面に散乱している。
「なんのこれしき……!」
激痛に耐えながら片足でなんとかバランスをとり、腰に下げていた予備兵装の短剣を引き抜き、身構える。
凛々しい顔立ちの青年騎士、ルィンの顔は今や泥と血で汚れ、整えていた長い金髪は乱れ、頬にほつれ落ちている。
こんな剣ではドラゴンのウロコ一枚傷つけられない……。だが騎士として、せめて一撃を。
自らを鼓舞するが、恐怖が心臓をじわりと締め付ける。
視線を転じると草原を貫く街道沿いに、横転した馬車が燻り煙をあげていた。騎士ルィン・イングロールの同僚騎士二名は、ドラゴンのブレス――地獄の火炎の直撃を受け壊滅。全身が黒焦げとなり既に息絶えていた。陽気だったヘルリア、一本気で真面目な騎士ダーリヒル。
「良い奴らだった……」
「あぁ、そうだねぇ。焼かれるのは嫌だねぇ、さぞや熱かろうねぇ」
「うるさい黙れ! 全部これもお前のせいだ、魔女ケレブリア」
剣呑な目つきで傍らの『いばら沼の魔女』ケレブリアを睨みつける。
「おやおや、酷い。とんだ言いがかりだよ」
魔女は若い女の姿で怯えて見せた。暗黒の魔術で若さを保っているとも、うら若き乙女の肉体を乗っ取っているとも云われている。いわくつきのお尋ね魔女だ。
とはいえ顔だけならば確かに美しい。ガリナヴァル王国内では見かけないカラスの濡羽のような、長く腰まで延びた黒髪。瞳は黒曜石を思わせる。白く透ける肌はまるで白磁か絹織物のようでさえある。
白と黒が同居したその姿をひと目見た時、ルィンは心の底でゾッとするような、否定しがたい感情を覚えた。惑わされるとはこういうことかと妙に納得したものだ。
とはいえ、魔女ケレブリアは魂どころか脳まで悪魔に捧げたらしく、完全にイカレている。
「魔女は、忌まわしき存在で……」
「本当にそう思うのかぇ?」
「それは」
瞳に宿る妖しげな魔の力は、屈強な戦士さえ魅惑し、剣を手放し呆けさせるという。淫靡で妖艶な美しさと、無邪気な少女のような爛漫さ、狂気とが同居している。
ルィンはぎゅっと短剣を握りしめた。
「なんでもかんでも魔女のせい? そりゃぁ、とんだ言いがかりってものさ。ねぇ、そう思わないかい、騎士様。静かに暮らしていたアタシを……森の奥から、結界の奥から無理矢理引きずり出し、こんな場所に連れてきたのは他ならぬ、お前さんたちじゃないのかい?」
「そっ、それはお前が魔女だから……」
「魔女だからなんだい? 上空をごらんよ、これが結果さ。隠れていたアタシを見つけて大喜び。あの竜の腹に、仲良く収まる運命だよ」
皮肉たっぷりに顔を近づけてケタケタと嗤う。手枷ごと鎖を引きずり、ヨタヨタと歩く魔女の紫のドレスも擦り切れ汚れている。
「邪悪なる魔力に引き寄せられ、紫黒竜が来ること自体、お前の招いた災いだろうが!」
「わからないのかい石頭の騎士様よ。だから私は隠れ住んでいたんだよ? どこかの正義感に燃える騎士様が、余計なことをしてくれたお陰でこの有様さ。まぁ、いい報いだよキャハハ」
巨大な空飛ぶドラゴン・紫黒竜の襲撃により、魔女ケレブリアの護送中だった馬車は襲撃を受け、魔女も騎士も投げ出された。
魔女ケレブリアは、西の辺境伯の領地で、とある乙女をかどわかし血を吸った嫌疑がかけられていた。
騎士ルィン・イングロールたちは聖堂協会から身柄の確保の任をうけ、この地に赴き――その帰り道でこうなった。
「騎士様よ! おぉ! ご覧、ドラギュケイヴが来るよ! さぁ王国の偉大なる騎士様よ! 意地をみせておくれよ、でないと私もお前さんも死ぬんだよ……? キャハハ」
まるで自分の死さえ見世物のように思っているのか、徐々に高度を下げてくるドラゴンを指差し嘲笑う。
その異常さと狂気に、嫌悪と苛立たしさを覚える。骨折の痛みと重量のある騎士の鎧がズシリとルィン・イングロールの体力を奪ってゆく。
「う、うるさいッ! ドラゴンなど我が剣で――」
次の瞬間。黒く生臭い風が騎士ルィン・イングロールと魔女ケレブリアの目の前を吹き抜けた。
ゴファ……! という黒い風が過ぎ去ると、再び草原と空が見え、そして真っ赤な何かが空中に噴水のように散った。
それが騎士の右腕があった位置から吹き出す血だと気がつくのに、瞬きほどの時間を要した。
「ぐッ……うぁあああああああッ! あっ……腕がッ……あぁああッ!」
「キャハハ!? 腕が……無くなったよぅ? あのドラゴンはなぶり殺しにする気だねぇ! 流石は最悪の竜、紫黒竜……!」
地面に前のめりに倒れ絶叫する騎士に擦り寄ると、ケタケタと笑いながら魔女が鎖で縛られた両腕を乗せ、そして身を被せる。
「ヒヒ……! 私の魔力は紫黒竜にとっては極上の餌。騎士が、私の静かな聖域を踏み荒らし、こじ開けた罰さぁ」
「くっ……おの、れ……魔女め、ドラゴンめ……!」
「痛いかい? 苦しいかい? どうだい、忌まわしい魔女と死ぬ気分は? えぇ? 神聖なる王国の騎士様よ?」
まるで夜伽のように、傷ついた騎士に覆いかぶさり、耳元で囁く。黒髪がサラサラと流れ、騎士ルィン・イングロールの頬をくすぐる。ムスクにも似た甘い香りと、大量の失血で頭がくらくらする。
騎士ルィン・イングロールの視野は狭窄し、世界が闇で覆われる。
『ゴガァアアア……!』
上空で再び紫黒竜が吠えた。抵抗の無くなった獲物に飽き、いよいよとどめを刺しに来るつもりだ。
「さぁ、どうするね、私と死ぬかい? それとも」
魔女ケレブリアの漆黒の瞳の奥、狂気の滲んでいた瞳の彼方に、かすかな強い光を見た。
それは気のせいか、気の迷いか。
秘密、深く暗い闇の奥で輝く宝石のような、秘密を隠している。
「……魔女……?」
「これは提案さ。……生きたいとは思わないかい?」
ニィ、と狂気の笑み。だがその瞳の奥に灯った光は真剣なものだった。
トクン……と停まりかけていた心臓が、強く脈を打った。
取引、魔女は何か取引をもちかけているのだ。
まるで甘い、悪魔の囁きのような。
「……生き……るだと?」
魔女の言葉が、ただその一言が、痛みで混濁する意識の隅に引っかかった。
騎士ルィン・イングロールの意識が、引きずり込まれそうになる絶望と死の闇の縁から、何かをつかもうと足掻いた。
死にたくない。
俺はまだ、死にたくない。
光が見えた。太陽ではない。もっと邪悪で赤黒い、禍々しい光。
それは魔女の眼の奥に宿っていた、燈火だ。
それでも絶望という暗い闇の中で、すがりつく希望の光としては十分だった。
生きる……?
そんなことが出来るのか?
この絶体絶命の、竜に成すすべなく喰われるだけの、絶望的状況で。
「簡単さ。私と『魔女の契約』を交わせばいい。魂を悪魔に捧げるんじゃない。あたしに……魔女にくれるだけさ。そうすれば永遠に奴隷魔として、不死に近い肉体が手に入る。さぁ……どうだい? 悪い話じゃぁ……ないだろう?」
まるで屍肉に群がる野獣のように、うずくまる騎士の身体の上に、紫色のドレスを着た魔女が覆い被さる。
「ふざ……けるな! 誰が……お前に魂など……売るものか」
「お高く止まるのもいい加減におしさ。死ねば終わりさ。それじゃぁ……愉しめないじゃないか? 私はね……まだ生きたいんだよ。この先百年も、千年もね……」
魔女ケレブリアの漆黒の瞳には、底知れぬ闇の炎が揺れていた。それは正邪こそ違えど、生きることを諦めた眼ではなかった。
「黙れ、お前もドラゴンに食われて……死ね」
「私はごめんだね。魔女と心中したとありゃぁ、騎士の名誉なんて残らないだろうに」
「う……」
「どうだい? ここは協力しあおうじゃないか?」
騎士の耳に驚くほど柔らかい唇がふれる。金色の髪に碧眼の、美しい顔をした青年騎士の顔は苦痛に歪んだまま、それでも拒否の意を示す。
ふたたび熱い吐息が耳にかかる。肉の熱、湿った音。その艶めかしい感触に、思わず息を飲む。
「……お、俺は……」
身体の奥底で、闇の塊のような欲望が蠢く。
名家に生まれ、聖なる騎士として厳しい訓練に耐え、王国に忠誠を誓う自分が、押し込めていたもう一つの自分、闇の顔。
あらゆる見栄や地位をかなぐり捨てても、見苦しくとも生きたいと足掻き、貪欲に生を謳歌したいと思う、本能。そういった原初的な感情がルィンを突き動かす。
そうだ……、こんなところで死んでたまるか。
「い……生きたい」
ルィン・イングロールは、呻くように言葉を漏らした。白い魔女の顔に、ニィッと狂気と喜悦混じりの赤い裂け目が浮かぶ。
「あぁ、決まりだね。契約をかわそう。証だ。キスをするだけのね。そうだ……その前に名前をきこうじゃないか?」
冷たい手のひらが、ルィン・イングロールの両頬を押さえる。
失血により、意識が朦朧としはじめていた。
「……ルィン・イングロール」
「ルィン、いい名だねぇ。契約を。……汝、閉じよ瞳を、闇を見よ、冥界の王よ、この者の名を、魂の片方を捧げ、心臓を我に。共に――心臓を。ルィン、これからお前は私のものだ」
耳を塞ぎたくなるほど邪悪な呪文の詠唱とともに、仰向けに崩れ落ちたルィンの唇に、魔女のキスが降ってくる。
黒髪のレースに隠された内側で、密やかに唇が重なり合う。
「…………う」
重なる唇は温かった。
一度触れた唇が、離れ、息が弱まる。
「ダメだね勝手に逝くんじゃぁない! もっと、しがみつくんだよルィン、生命に執着するんだよ、もっと深く、生きたいのなら縋り付くがいいさ」
ゴゥウウ……! と上空を黒い影が覆い尽くしてゆく。ルィン・イングロールの閉じかけた瞳に、巨大なドラゴンが急降下してくるのが映し出された。
もはや二人まとめて喰らうつもりなのだ。
魔女ケレブリアは唇を再び、重ねる。
ルィン・イングロールの冷たくなった唇をこじ開けるように、薄紅色の唇が咥える。わずかに開いた隙間めがけ、熱く湿った舌が入り込む。押し開け、こじ開けて命の糸を手繰り寄せるように、舌先で探す。
「ん……ッ!」
――熱い。
闇の底に堕ちた者が、救いの手を掴むように、ルィン・イングロールの舌が魔女の舌と触れ合い、溶け合った。
触れ合う熱と肉の重なりが、更に熱い熱を生む。
ドクン……と心臓の脈が速まった。否――別の熱い手で心臓を鷲掴みにされたような急激な脈拍の変化をルィン・イングロールは感じていた。
――ドクンッ……!
「うぉ……ぉ!?」
「あぁ、いいね、それこそが……生だよ」
「心臓が……身体がっ、熱い、ぐぁああああ!?」
「あぁルィン、私の心臓へ、ようこそ」
次の瞬間――
周囲の土と草が、まるで竜巻のように渦を巻き、爆発したかのように吹き飛んだ。禍々しい紫の光のなか、地面からゆっくりとルィンが立ち上がる。紫の光は周囲に幾重にも重なった魔法円を描き、その中心には魔女ケレブリアと自らの足で立ち上がったルィン・イングロールがいた。
「俺の腕が……脚も……!?」
驚愕と困惑。折れていた脚の骨は治り、食い千切られたはずの右腕は、黒いタールような液体が腕を形成し、置き換わってゆく。
再生した腕には硬質なトゲと鋭いツメがあった。異形のまるで悪魔の腕のように。
『ゴギャアアアッ!?』
二人の直上まで急降下していた紫黒竜が、異変を察し両翼を広げて空中で急制動ををかけた。上空10メルで急上昇に転じ、上空で再びターン。食いそこねた怒りからか、耳をつんざくような咆哮を発する。
「さぁおやり、私のルィン」
「うぁ……あぁアアッ!」
一閃。
漆黒の腕を振ると、刃と化した紫色の光が紫黒竜の胸を、横一文字に斬り裂いた。
間合いは二十メルも離れているというのに、分厚いドラゴンの鱗を破砕、肉を切り裂いた。
『ゴギャアアアッ!?』
「ぬぅおおおッ!」
ルィンは鋭い突きを放つ。漆黒の腕で虚空を叩くと、衝撃波を伴う紫色の光が放たれた。それは飛翔する槍のように、切り裂かれた傷口から体を貫通――紫黒竜の心臓を抉り貫いた。
『ギュガァアアアアアアアアアアア!』
断末魔の悲鳴とともに赤黒い飛沫を周囲に吹き散らし、紫黒竜の巨大な体が空中で爆散、粉微塵に砕け散った。
ザァ……! と血の雨が降る中、金髪の青年ルィン・イングロールが、黒髪の魔女ケレブリアと向かい合う。
並び立つと少女のような魔女の背丈は、頭ふたる分ルィンより低い。
「気分はどうだい、ルィン?」
「最悪だ……。だが、熱い……俺は、生きている……」
自分の異形の右腕を見ても、無表情のままわずかに瞳を細める。
「ルィン、今日からお前は私と一心同体。忌まわしいと言っていた魔女の心臓を共有する、闇の眷属さ」
「酷い話だな……」
「いい事を教えてやろう。私が死なない限り、お前も死なない。だからこの先ずっと、百年も先まで、私を護り続けることね。キャハハ!」
「……考えたくもないが……他に手は」
「無いね。お前は眷属だから、諦めな」
しばしの沈黙。
「それより。世界はこんなに……色に満ちていたのか」
ルィンは砕けて辺り一面に散らばった哀れなドラゴンの躯と、遥か彼方まで続く草原を見回した。
平静を取り戻した草原に風が戻ってきた。
空には小鳥が舞い、歌いはじめる。
そして、黒い腕で華奢な魔女ケレブリアの身体を抱き寄せた。折れそうな程に細く、柔らかくて温かい肢体。
「欲しいのかい?」
「生きている証なら」
再び唇を重ねる二人を、淡いアメジスト色の空が包む。
黒い光を宿した元騎士、ルィン・イングロールの瞳には、草原をわたる風の色と、生を謳歌する生き物たちの輝きが、とてもまぶしく輝いで見えた。
<おしまい>