人生とは、不条理なゲームにすぎないのだろうか? その1 (生きてみる夢?)
人生とは生きてみる夢とも言われますよね?
確かに夢のような不合理さがいつでもついて回るのが私たちに人生ともいえるようですね、
故なくしておとしめられたり、
罪なくして、断罪されたり
突然のいわれなき、糾弾にあったり、
何の前兆もなく襲いかかる大災害であったり、
あるいは出会いたくないのに、魔性の女に出会ってしまってひどい目に遭ったり。
呼びもしないのに、勝手に来て、生活をめちゃくちゃに引っ掻き回したり
人生とは
予測できないという面がたぶんにあるものです。
人生で何があるかわからない、
一寸先は闇ともいいますね。
そうです、
元気に出かけて行った、あなたの愛する伴侶は、
夕方には無残なムクロになって帰ってくるかもしれないのです。
それが人生のはかなさ。頼りなさです。
全くの善人が、業病に取りつかれてのたうちまわって苦しみ悶え憤死したのを知っています。
かと思えば悪行の限りをつくしたヤサグレモノがのうのうと極楽に生きて天寿を全うしたのも知っています。
なぜなのか?
なぜこんないい人が、こんな目にあって苦しまなければならなかったのか?
いくら天に向かって問いかけても、何の答えも帰ってきませんね。
心優しい子供がいじめられて自殺する社会です。
繊細な傷つきやすい人が、引きこもりや鬱になって阻害される社会です。
いけずうずうしいいやな奴がのさばり、世間的ないい目を見る社会です。
「いったいこの世には神も仏もないのか」と、
そう苛立たしい思いを抱くのは私だけではないでしょう。
ですがなんといったらいいんでしょうか?
そう思っている限り
人生はつらく悲しく虚無でしかありえませんね?
そもそも人生とは何だったのでしょうか?
その原点から考えない限り
悲観主義からの脱却は不可能でしょうね。
まあ別に楽天主義に全員が成るべきとも私は思ってもいませんがね。
まず
人生とは、一度限りでは計り知れないと考えましょう。
あなたはもう何回も、そう、100回も人生の生死を繰り返してきたと考えましょう。
その過去の人生で、あなたは王様であったり、乞食だったり、女であったり、邪教徒であったり
したと考えましょう。
そこでの人生経験とは、すなわち、幸不幸の次元ではありえずに、ただどの境遇でどのように
あなたが対処したのかだけがが問われると考えましょう。
王様の人生の時、あなたは乞食を見て衛視に追い払わせはしませんでしたか?
あるいは乞食の人生の時、すり寄ってきた哀れな野良犬を、ひどく打ち据えはしませんでしたか?
結局
王様であろうと乞食であろうと
あなたが問われるのは
その境遇の世間的な幸不幸ではありません。
どの人生も結局はカゲロウに過ぎないからです。
そして問われるのはその時あなたは
あなたの魂はどう対処したのかだけです。
巨万の富も死ねば何の役にも立ちません。
大豪邸も死ねばもう不要です。
王様だったとか乞食だったとか、
死ねばもうどうでもいいことです。
そして永遠に残るのは
あなたが何を信じたのか?
あなたがどう対処したのか?
あなたの思いはなんだったのか?
それだけなのです。
つまり人生とは魂が見させられている
夢舞台です。
その夢舞台であなたは
ある時は乞食の役も、やらせられ
ある時は大金持ちの役もしますね。
でも夢舞台が終わればあなたは
元のあなたに戻るのです。
元のあなた?
それが「素の魂」です。
人生とはその、魂が
いろいろな役を押し付けれて
演じ切る場所ということです。
そこでどう演じたのか。
悔いることのない役作りだったか?
どんな境遇に置かれても
愛を、信を、望みを
持ち続けたか。
問われるのはそれだけです。
なぜなら人生はやがて消え去るのみだからです。
カゲロウであり魔保露詩に過ぎません。
それは学芸会でたまたまあなたが演じた役回りに過ぎないからなのです。
学芸会が終わればあなたは元のあなたに戻るのです。
かりそめの役回り。それが人生なのです。
ですからあえて誤解を恐れず極言すれば
どんないやな役が回ってきても、ああこれは学芸会の役回りなんだなと思って
真剣に演じなさい。
いずれ一切は終わります。
人の一生なんてそれまでのからくりしばいに過ぎません。
といって手抜きはいけませんよ。
あなたに回ってきた役回りを演じ切るのです。
なぜならそれが
つまり
人生だからです。
人生そのものだからです。
それ以外に人生はありえません。
「かりそめと、思いし人の一生も、力尽くして、生き抜いても見よ」
「悟りなば、うつつと見えし人の世も、ただ仮の世の、夢の一時」
「なぜと問い、悩むばかりが人生や、迷路の裏は、真の悟りよ」
「仮舞台、仮の役とは知りつつも、役になりきり、演じきるが道」




