初恋の味はカルピスソーダ by尾上眞一朗
ご無沙汰しております。こっそりと投稿。
「続いて卒業生答辞。卒業生代表、間宮花音」
「はい」
絢爛豪華に飾り立てられた壇上に上がる少女の姿を、会場にいる誰もが眩しげに見つめる中、僕は僅かに目を泳がせる。
数段の階を登る度に、制服の裾から覗く、ここ1、2年ですらりと伸びた細い脚の白さに直視することができなかったからだ。
それでも完全に目を背けることができないでいるのは、精通を迎えた男子としてのささやかな下心と、やはり彼女自身を意識してのこと。
そう、彼女は僕の婚約者。
壇上に飾られた有名花道のお家元が手掛けた大きな活け花にも霞まない容姿と存在感を持ち、また外見に見合った実力と教養を兼ね揃えた彼女が、互いの父親が口約束で結んだ婚約の相手なのだ。
「今日は、私たちのために卒業式を開いていただき、ありがとうございます。
ご来賓の皆様、PTAのお父様お母様、お忙しい中、私たちの卒業式にご参列いただくばかりか、慈しみに溢れた温かいお言葉も掛けていただきました。とても嬉しく思うのと同時に、より一層身が引き締まる思いとで、感謝の念に堪えません。
思えば6年前、この体育館で入学式に出席した時のことが懐かしく感じられます。あっという間の初等学部の生活でした。
北海道での雄大な自然を満喫した遠足。今現在、建て替えの為に取り壊されてしまった国立競技場で汗を流した運動会。国内を飛び立ち、北の極地で見上げた星々と色彩鮮やかなオーロラが美しかった林間学校。また、全国模試に匹敵するほど難度の高い定期テストなど、どれも今となっては良い思い出です。そんなたくさんの思い出を胸に抱いて、本日私たちは卒業します。
期待と不安があるなかで、この帝館学園初等学部で学んだことを忘れずに、中等学部でも成長していきたいと思います。
まだまだ未熟者な私たちに、今後ともご指導ご先達のほど、よろしくお願い致します。
卒業生を代表してもう一度心からの感謝を申し上げ、答辞とさせていただきます。
本当にありがとうございました」
淀みなく流れる言葉の羅列に酷く胸を打たれるのは、耳心地良く聞こえるやわらかな口調と声質だけではなく、彼女の凛然とした立ち姿や視線の動かし方そのひとつひとつに想いが込められているからだろう。
現に、広げた書状を畳み直し、一歩引いてからお辞儀をする彼女へ、初等学部の学園長や来賓たちに送られた以上の拍手が響き渡っている。
卒業生代表としての大役を終えた彼女の姿を、安堵と共に誇らしげに見つめていた僕は、再び視線を泳がせてしまう光景を目にする。
飛び交う拍手の勢いに圧された彼女の表情が僅かに揺れたかと思うと、わずかに唇の端を噛んで階を降りてゆく。
これまでも、過剰な讃美を浴びる度に垣間見せてきた姿だった。
周囲からの厚い評価に傲ることなく、常に謙虚さを失わない彼女らしい、羞恥に耐えているのだろうその姿に、胸の動悸が激しくなり、じっとしていることが難しくなる。
だがそれも、泳がせた視界の端のあちこちで、僕と同じようにそわそわしている男子生徒たちの姿を捉えるまでのこと。腹の底で渦巻く不快感に、思わず舌打ちが漏れ出ていた。
我に返ったのはその直後だ。
己の妬心に気付き、その余裕の無さに肩が下がる。だがその一方で、彼女とは親同士の口約束程度の薄い拘束力でしかなくとも、確かな婚約話が交わされていることに安堵もしていた。
そうでなければ、誰の目にも触れさせないよう、彼女が僕を置いて遠くへ行ってしまわないように閉じ込めてしまいたくなる。……否、しまいたくなるのではなく、誰にも反論を許さない理論武装で固め、己の欲求を振りかざしてしまうだろう。
この危うい、凶暴な独占欲を自覚したのはつい最近のことだ。
自覚する以前から、僕にとって特別な相手ではあったけれど、その特別がまさかこんな気持ちを伴ってくるなどと、思いもよらなかったことだ。
彼女との婚約話は、仲の良い友達を離さずにいられると、周囲の人間に自慢の友達を見せびらかす大義名分を貰っているのだと、そんな子供らしくも傲慢な占有欲を満たす為だけの認識であった筈なのだ。
(それがいつの間にか……)
彼女が何かに興味や関心を向けても、必ずこちらを顧みてくれる繋がりに縋り付いている己がいる。
思えば、自身を切磋琢磨してこれたのは、日本企業の中でも屈指の会社で代表取締役に就く尾上の血縁者として恥ずかしくないよう心掛けてきた以上に、常に僕の先を行く彼女に見合うよう、見限られぬようにと、無意識下で気を張っていたからかも知れない。
幼い頃から上流階級社会に出入りしていた為か、尾上の血縁者として日々大人たちの試す目に晒されてきた。また、当時通っていた幼稚園内でも、同年代の子供たちから(特に異性から)の関心を広く厚く集めていた。
そんな彼ら彼女らが向けてくる羨望と打算に、足元を掬われぬよう、結構そつなくこなしてきた自負があった。
けれど、煌びやかな会場の広さや、招待客の多さに平衡感覚を手放しそうになるのをどうにか堪えながら両親の傍にいたあの日__。
『初めまして。間宮佳音です』
父親に促されて挨拶をした彼女の微笑みに、周囲のざわめきが遠去かったかのような錯覚が起きた。
今にして思えば、圧倒的な存在感を放つ彼女に目を奪われてしまったのだ。
他の同年代の子たちとは明らかに違う、その理知的な目と佇まい。凜とした、けれどしなやかさを損なわない微笑み──。
敵わない、と本能が叫んでいた。それと同時に、己がこれまでずっと他人を見下してきたことに気付かされた瞬間でもあったのだ。
また、周囲の打算と欲望の目に心を傷付けられてきたことや、尾上の血族だからと肩肘張って、周囲を拒絶するように堅い鎧に包んで身を守ってきたことなど、まるで憑き物が落ちたような感覚に、頬が自然と緩んでいた。
絶対的な保護者として、父や母がいる。厳しいが、惜しみない愛情を掛けてくれていることもわかっている。たけど、苦しかった。訳もなく寂しかった。そして、何よりも怖かったのだ。
誰にも告げられずにいる、そもそも告げる勇気もない、重圧という名の孤独を抱えていたから──。
だからこそ、彼女という存在が一層輝いて見えた。
やっと安心して寄り添える相手に出会えたことが嬉しかったのだ。
だが、その当時はそんな小難しい言葉で自覚した訳ではなかった。当時を振り返ってみて、改めて自身の心の動きを追ってみただけのこと。
穏やかな微笑みを浮かべる彼女が差し出す手を握り、今までにない高揚感から頑なだった自尊心が、するりと解けた、あの時。……勿論、あまりに子供じみた冒険に気恥ずかしさはあったけれど、彼女に見栄を張ろうとして注文した苦手なアイスコーヒーを辞めて大好きなカルピスソーダを飲んだ際の達成感と、胸の奥がくすぐったくなるやわらかな感情の波幅はそれ以上で──。
(……そう、気付けば僕にとって、カルピスソーダは初恋の味になっていた)
今でこそアイスやホットの珈琲を難なく嗜める舌になり、その苦味に旨さを感じるようになったけれど、彼女といる時だけは自然と求めてしまう味になっている。
だからだろうか?
彼女は今でも僕の好物だと思っているのか、常にカルピスソーダ味の飴を常備し、こちらが疲れを見せたりすると、そっと手渡してくれるのだ。
僕だけに向けられた細やかな心遣いが、どれほど嬉しいか、どれほど誇らしいか──。
込み上げる想いに深く息を吸い込めば、列に戻ってきた彼女と目があった。
「……」
「……」
目だけで会話をした僕らは互いに微笑み合う。だがそれも数秒間だけで、すぐに目を逸らした彼女は僕に背を向け、椅子に座ってしまった。
「………っ」
目を逸らした際に見せた、羞恥に耐える彼女の表情が脳裏に焼き付いてしまった僕は、身震いする体を抑える為、膝の上の握り拳に力を籠め、唇を噛んだ。
先程とは違う衝動を必死に呑み込み、深呼吸をする。そして彼女の後ろ姿を視界に納めながら、深く自問する。
(……この衝動が、いつまで堪えきれるかな)
思春期ならではの悩みと言えばそれまでだ。けれど、まだまだ彼女に釣り合っていると自負できていない今、その想いは彼女に向けるべきではないと自覚している。
(だけど、だけど……)
親同士の口約束程度の婚約者、以上の想いが彼女にもあるのなら──。
もどかしくも悩ましい胸内を大事に抱え込み、息を吐く。そして、何故だか無性にあの味を口に含みたくなる。
(式が終わったら、花音から飴を貰おう)
請えば必ず手渡してくれるだろう。笑顔付きで。
「鞄に何種類もの飴ちゃんを常備って、あかん、歳がバレる…」
そうして式が終わり、戻ってきた教室内では、いつものように飴を手渡しつつも空笑いを小さくあげて呟く花音と、手渡されたカルピスソーダ味の飴を握り締め、嬉しげな微笑みを浮かべる眞一朗の姿があったそうな──。