転生に気付いて熱が出た。
到底信じ難い話だが、私は五歳の誕生日に前世を思い出した。
きっかけは、母親と銀座でランチ(とある三星レストランの約1万三千円コース。勿論、完全予約制の高級レストランだ)をしていた時のことだ。
通常のメニューにはない特製お子様ランチを用意されていたことに驚き、満面の笑みを浮かべて母親を仰ぎ見れば、「五歳のお誕生日おめでとう」と、やわらかな微笑と言祝ぎが降ってきた。
また、可愛らしくデコレーションされたミニケーキをタイミング良く出され、再び目を驚きで丸くした私に、サーヴィスしてくださったお店のスタッフさんからも「お誕生日おめでとうございます。お嬢様」と微笑まれてしまった。
嬉し恥ずかしながらも、お店のスタッフさんと母親に感謝の念を伝えることができた五歳児の私。今思い返してみても、その日が初めて公の場で披露することになったテーブルマナーも含めて、なかなかできることじゃないなと、つくづく思う。
だけど、この後が問題だった。
今すぐに食べてしまうには惜しく、仕事中の父親にもこのケーキを見せてやりたい気持ちから、お店の人に無理を言って持ち帰り用に包んでもらった帰りのことだ。
──心無い大人からの理不尽な攻撃。
ブランド品というだけでちっとも似合わない洋服や派手な化粧で着飾った三人の中年女性たちとすれ違い際、私の後頭部に彼女たちの誰かの手が当たった。
まるで小突くような──悪意あるその手によって幼い私の身体はよろめき、特別に持ち帰れるよう包んでもらったミニケーキの入った小さな箱を落としてしまった。……そればかりか、自身の足で箱の一部を踏みつけてしまい、そのままの体制で完全に固まってしまった。
幼い私に起こった不幸に息を飲んだのは、母親とお見送りに出ていたお店のスタッフだ。三人の中年女性たちを案内するスタッフですら、あまりな状況に笑顔も強張り、固唾を飲んでいた。
生まれて初めて(この時はまだ前世を思い出していない)のレストランランチ。特別に用意されていたお子様ランチは、彩り鮮やかで可愛らしく、美味しかった。母親でさえ驚いたミニケーキは、お店側のサプライズプレゼントだった。美味しいね、ありがとう、とっても嬉しいな、そう言って母親とお店のスタッフさんと笑いあった。……とても楽しかった。とても美味しかった。それと、テーブルマナーを粗相することなく終えたことに対する安堵感と達成感もあった。後は、この気持ちを仕事でこの場にいない父親に伝えたい、この場を用意してくれた父親とこのケーキを分かち合いたい──そんな想いの詰まった箱を、寄りにもよって己自身の足が踏みつけている。
幼い私の心にもようやく受け止められていく現実に、目頭に浮かんだ涙が零れ落ちたその時だった。
「ああ、嫌だ。こうゆうちゃんとした場所に小さなお子さんを連れてくる親って、一体何を考えているのかしらね? 常識のないお客を相手にしなきゃいけないなんて、お店側も大変ねぇ」
身体全体を使ってしゃくり上げながら後ろを仰ぎ見れば、こちらを不快げに眺め見る三人の中年女性たちがいた。
顔色を蒼白にさせた母親が、彼女たちの視線から守るように私を抱き締める。だけど私にはわかった。わかってしまった。……私を庇う母親の身体が小刻みに震えていることに気付いてしまった。
正真正銘お嬢様な私の母親は、その生い立ち故に、他者から向けられる悪意に慣れていない。また、幼稚園以外の公の場所に出るのが今日初めてな私に対して、これまで躾に苦心していたことも知っていた。
家族の為、会社で働く社員やその家族たちの為、必死に働く父親と、優しくも厳しい母親に、二人の期待に応えようと頑張ってきた私に対する侮辱だと、この時、幼いながらも直感したのだ。
後から思い返せば、彼女たちはまだ未婚のようだった。対する私の母親は明らかに彼女たちよりも若く美しく、しかもお嬢様然とした品の良さを漂わせていた。普通なら高級レストランでは立ち入りを遠慮される幼い私を連れて楽しげに店を出る母親に嫉妬したのだろう。
「本当に。お里が知れるわね」
そう言って口元に嘲笑を浮かべた彼女たちは、案内役のスタッフを急かし、店の奥へ消えて行った。
そうしてその場に残されたのは、ひっく、ひっく、としゃくり上げる私の身体を撫でさすりながら、店先を汚してしまったことをスタッフさんに詫びる母親と、お怪我はございませんでしたかと心配し、店側の配慮不足を謝罪するスタッフさんに、哀しみと憤りに打ち震えている私の三人だった。
その後すぐ、スタッフさんがひしゃげた箱を拾い上げて、ギャルソンエプロンのポケットから出したトーションで床を拭いていると、あの三人を案内していったスタッフさんが支配人さんを連れて戻ってきてくれた。そして空いている個室に通された私たち母娘に、再度の謝罪と温かい紅茶がサーヴィスされた。
哀しみと憤りはまだ幼い私の心をかき乱し、胸を塞いだけれども、ミルクと砂糖がたっぷり入った紅茶の味と、憔悴した顔をしながらも私を気遣い励ます母親の存在、そして真摯に対応してくださるお店のスタッフさんたちを眺めながら、どうにか気持ちを落ち着かせることができた。
声を挙げて泣き叫ぶよりも、声を殺してしゃくり上げ続ける私を不憫に思ったのか、何とか体裁を整えて帰る際、もう一度作り直されたミニケーキを持たせてくださった店側の配慮には脱帽した。
(……すげぇな! 流石は三星レストラン。ここのスタッフさんたちは、ガチでプロだ)
お店の心遣いに再び目を潤ませた母親に抱きつきながら、これまで耳にしたことも(だってテレビのチャンネルはいつでもN◯K)話したこともない言葉遣いでそう感心した私は、この瞬間、前世を思い出した。
(あ、私って『恋乙』のライバルキャラの一人じゃん)
一気に前世を思い出した私は、帰りの車の中(これぞ王道の運転手付きのセン◯ュリー! )で熱を出した。そのまま家に帰ることなく緊急入院をした私は、朦朧とした状態で手土産のミニケーキを父親に食べてくれるよう母親に頼み込み、力尽きたように意識を失った。
だってそうだろう。あれだけのハプニングがありながらもプロ根性を発揮してくださった三星レストランのスタッフさんたちの善意と努力の結晶を無駄にしたくないこの気持ち。わかってくれるだろうか。
(乙女ゲームに転生って、ベタ過ぎじゃん。唯一の救いは、悪役だとか没落とか死亡フラグのないことだけだけど、正統派だとか王道とか言われたいわゆるヌルゲーに転生って、一体どんな罰ゲームようぅぅ……っ!! )
基本、乙女ゲーはノベルゲーだ。そこにRPGの要素が入ったり、ミニゲームがあったりと、単調になりがちなシナリオに彩りを与えてくれるようになる。肝心なシナリオもシリアス寄りだったり、コメディ寄りであったり、ホラーやヤンデレ、妖怪擬人化死亡フラグなるものもあったりする。
しかし、ここは『恋乙』。正しくは『恋せよ乙女~貴方に出会う為にわたしは生まれてきたの~』。
乙女ゲームなるジャンルが発売された初期の頃の、何の捻りもないベッタベタの王道学園乙女ゲームだ。
最近の殺伐とした暗い乙女ゲームばかりで食傷気味だった前世の私(三十台前半の独身OLだった)が、中古品をゲ◯で購入したそのゲームは、ベッタベタな内容に全身むず痒くなりながらも、攻略対象者たちの甘い台詞に奇声を挙げてのたうち回りつつ、画面の中のキャラたちにツッコミを入れた後、ああ、でもこのこっぱずかしさと、現実では有り得ないこの展開。うん、これこそ王道乙女ゲームだわと、妙に納得したあのゲームなのだ。
そして私は、攻略対象者の中でもメインを張る、金持ちの子息令嬢が集う帝館学園内でもずば抜けて高スペックな男、新生徒会長、尾上眞一朗の幼なじみで親が決めた婚約者でもある間宮佳音。
学園のマドンナとも称される高スペック保持者で、特待生である庶民のヒロインの憧れの人であり、恋のライバルでもある間宮佳音なのだ。
何その無理ゲーと言うことなかれ、これは歴っとしたヌルゲー。攻略? 何それ? 三択で進む超簡単易しいベッタベタなノベルゲームなのだ。
『お慕いしております。眞一朗様』
『僕も君を愛している。だけど、彼女に出会って気付かされたんだ。これは恋情ではなく、家族愛なのだと。この気持ちは恋ではないけれども、君の幸せを心から願っていることだけは、出会ってからずっと変わらないよ』
(私があの台詞を言うの!? 言われちゃうの!?)
言えば黒歴史確定な痛い台詞が脳裏に過ぎれば、そりゃ熱も出るわ。