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プロローグ

 アイスティーが世の中に広まったのは、一説では1904年。アメリカのセントルイスで万博が開かれた際、会場の暑さに目をつけた英国の紅茶商人が売り出したのがヒットしたそうだ。そんな何の役にも立たない豆知識を思い出したのは、たぶん熱気のせいだけじゃない。現実逃避ってやつだろう。

 ここはテニスコートが3つくらい入りそうながらんとした大広間。周囲は無機質な灰色の壁土で塗り込められ、光源は壁際のかがり火のみ。窓はなく、空気はよどみ、まったくもって蒸し暑い。気温は間違いなく40度以上あるに違いない。


 「こんなに暑いなら、アイスティーを用意した方が良かったですかね」

 そんな俺のつぶやきを、かたわらの少女が「ありえない」と真っ向から否定した。「きょうはブラックティーの香りをゆっくり楽しみたい気分なの。そうね、茶葉はヌワラエリアにして」

 「えっと、今すぐですか」

 「もちろん」

 「冗談ですよね」

 「ううん。わたし、お前なんかと冗談を交わしあう趣味はなくってよ」

 俺の表情は引きつっていたに違いないが、もとより選択の自由はない。ずり落ちかけた眼鏡を直すと、こういう場面でのお決まりの一言を絞り出す。

 「かしこまりました。お嬢様」

 何しろ俺は執事で、相手は俺の主人なのだ。

 そう。ディレクターズチェアで優雅に足を組み、肩より長いさらさらの黒髪を指先でもてあそんでいるこの細身の少女が、である。

 少女の名前は蓮堂(れんどう)クレオ。16歳。都内の名門私立として知られる大英学園高等部1年生。この暑さのなかで汗をにじませることもなく、涼しげな横顔を見せている。ちなみにいま彼女が着ている白い長袖セーラー服は学園の制服だが、殺風景な広間にまるで似合っていない。クレオはその整った容姿と清楚な物腰で、学園一の美少女として誉れが高いが、彼女がいったい何者なのかについては後で改めて説明したい。


 俺は肩からさげた馬鹿でかいバスケットを地面に下ろすと、お茶の用意に取りかかった。

 簡易式のミニテーブルを組み立て、クロスを敷き、ティーカップをセットする。そしてフラスコと固形燃料で湯を湧かし、沸騰する直前の、ちょうど95度になった時点で火を止めると、すぐさま茶葉を入れたティーポットに湯を移した。

 ヌワラエリアはセイロンティーの中でも格別に風味が良く、別名「紅茶のシャンパン」と呼ばれる高級品だ。こいつを美味しくいれるには、わずかの隙も許されない。俺は胸ポケットから金の鎖がついた懐中時計を取り出すと、秒針とにらめっこする。

 「2分30秒、40秒、50秒……。よし」

 ジャストのタイミングで蒸らしを終了。ティーカップに注ぎ入れると、薄い琥珀色の液体からみずみずしい花のような香りが立ち上った。

 うん、我ながらいい出来ばえだ。

 「お嬢様、どうぞ」

 俺はうやうやしくティーカップを差し出す。

 クレオは無言で手にとり、しばし香りを吟味したあと、こくんと一口飲みほした。

 「いかがですか」

 「悪くないわね。お前、紅茶のいれ方だけは及第点だわ」

 「ありがとうございます。お嬢様」

 褒められたのか貶されたのかよく分からない言葉だが、とりあえずミッションはクリアしたようだ。

 だが、安堵感に浸る間もなく、現実に引き戻される。時刻はちょうど午後3時。ティータイムにはうってつけだが、はたしてお茶を飲んでる場合なのか、どうなのか。


 ここはダンジョンだ。

 ダンジョン(dungeon)。RPGでおなじみの地下迷宮というやつだ。

 俺はクレオの執事であると同時に、ダンジョンの攻略を目指す彼女のパーティーメンバーの一員でもある。もっとも、本当は攻略ではなく、ティーパーティーの方が俺には向いているのだけれど。


 と、次の瞬間。

 重いものを引きずるような音が広間に響き、俺たちの向かって正面に位置する石扉が開いた。

 俺はクレオのそばでティーポットを携えて直立した姿勢のまま固まった。どう考えても危険な兆候だ。ダンジョンのイベントが始まろうとしているに違いない。まずはティーポットを手放して緊急事態に備えるべきだろうか。だがしかし、心の準備も出来ていないうちに、開いた石扉から何やらデカくてゴツくておっかなそうな輩が3体、姿を現した。

 身長はそれぞれ3メートルくらい。コブだらけの頭に青白い肌。大きく開いた口元からよだれが垂れ、手には棍棒のような打撃系の武器を持っている。

 「ななな、何ですか、あれは」

 「ホブゴブリンね」。クレオがこともなげに言う。「ゴブリンの中でも大型の亜種。知らない? トールキンの小説では『ウルク=ハイ』って呼ばれてるわ」

 そんなの知るか、という突っ込みが驚きのあまり言葉にならない。俺の身体は無意識のうちに後ずさりしていたが、その俺のシャツをクレオの左手がむんずとつかんだ。

 「ヨースケ」

 今度は本名で呼ばれた。山下ヨースケ。それが俺のフルネームだ。クレオと同じ大英学園高等部2年生の17歳。クレオよりも先輩のはずだが、彼女からは敬意のかけらも感じられない。

 「ヨースケ、お前、主人を置いて逃げ出そうなんて、どういう了見?」

 「いやだってクレオ、いや、お嬢様、あれは尋常じゃないでしょ。いやその、あれです。危険ですからいったん下がりましょうよ!」

 かろうじて敬語を保ちつつ取り乱す俺を前に、クレオはふんと鼻をならす。そして、左手で俺をつかんだまま、右手でカップを差し出した。

 「落ち着きなさい。私の執事ともあろうものが、見苦しいわね。とりあえずもう一杯、おかわりを所望するわ」

 「落ち着けませんて!」

 優雅に紅茶なんか飲んでる場合じゃないって。だってホブゴブリンがもう手を伸ばしたら届きそうな距離まで来てるし。腐肉のような臭いがぷんぷん漂ってるし。っていうか、ほら右端のアイツ、棍棒振りかぶってるし!


 俺は恐怖と焦りとで息がつまりそうになりながら、納得のいかない気持ちで頭がいっぱいになる。

 俺は執事になりたかっただけなんだ。ダンジョンに来るつもりなんか毛頭なかった。それなのに、俺はいったい、こんなところで何をしているのか。

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