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2回目

 少々乱暴な箇所がありますが、自己責任でお楽しみください。











 貴、奇、鬼と呼ばれるモノが、陸人は怖ろしくてたまらなかった。


 なぜか、陸人は、そういうモノと縁があった。


 もっとも、貴は、そう簡単に市井で出会うことはない。貴は、支配者クラスだからだ。


 道を歩いている時に、視線を逸らした先の路地裏で鬼が野良犬や野良猫を千切っているシーンを見ることがよくあった。


 怖くて目が離せないでいると、にやりと笑いかけられて、手招きされることもあった。


 血をしたたらせた笑顔でだ。


 良くも悪くも縁があったせいで、そういうモノに対する恐怖心が、強まった。


 幼稚園にも、保育所にも、ふつうに、奇や鬼はいた。


 少しだけ人間と姿かたちの違う奇の先生などもいたし、鬼の園児なんかもいる。


 そうして、角や牙の生えたやんちゃな園児は、なぜか、陸人をターゲットに選ぶのだ。


 どうしてそんなことをするのかな?


 先生が泣いている陸人を傍らに、鬼や奇の園児の目線を合わせて尋ねると、


 いい匂いがするんだもん。


 そう言って、陸人に手を伸ばそうとする。


 相手の園児に、陸人を虐めているつもりは、まるでないのだ。


 それでも、相手は遊んでいるつもりでも、陸人は、毎日苛められてるような気になってしかたがなかった。


 だんだんと、陸人は、奇や鬼を避けるようになっていた。


 そうして、ついに、決定的な出来事が起きた。


 人ならざるものに、攫われ、食べられそうになったのだ。


 噛みつかれ、もう駄目だと思った時、警察組織の忌課に助け出された。


 あの時の恐怖は、カウンセラーにかかった後も、陸人の心の中にトラウマとなって、住み着いている。


 それなのに―――である。


 目の前にいる、銀の髪に、赤い目の貴の男が、姉をお嫁にする――と言うのだ。


 年齢不詳に見えた。


 年寄りにも見えたし、若くも見えた。


 三千歳を越えてると聞いた時には、目の前がくらくらした。


 独りになるのかと、陸人は怯えた。


 物心ついてから、陸人には、姉しかいなかった。


 不安で、姉に擦り寄った陸人に、壽盡が『一緒に連れて行く』と言ってくれなければ、どうなっていたのかわからない。


 そうして、連れて来られた、殷という貴の一族の屋敷はとてつもなく大きく、広く、たちまち、陸人を不安にした。


 どこを見ても、貴や奇や鬼ばかりだった。


 人間はいない。


 姉と一緒に眠っていた毎日から、与えられた広い棟の一室で眠るようになった。



 震えが、止まらない。


 自分を食べようとした、あの異形の存在が、ここにはたくさんいるのだと。


 闇の中に、鬼や奇が潜んで自分を食べようとしているかのようで、陸人は、落ち着けなかった。


 とある夜。


 どうしても陸人は眠れなかった。


 あっちを向いても、こっちを向いても、仰向けになっても、うつ伏せになっても。


 目が冴えて、眠れない。


 ベッドから抜け出した。


 晩秋の冷たい空気が、陸人を震わせた。


 毛布をまとった陸人が庭に出る。


 空にかかった壽盡の瞳のように赤い月が、陸人を見下ろしていた。


 どれくらい歩いたのか、黒い鉄でできた門があった。


 開かれていた唐草模様の門を、陸人は通り抜ける。


 そうして、陸人は、悲鳴を聞いた。


 何があげた叫びだったのかは判らない。ただ、全身が逆毛立つような、絶叫だった。


 逃げればよかったのだが、足が、動かなかった。


 ぶちっ、ぴちゃっという、ゾッとするような音が、耳に届く。


 クツクツと嗤う、笑い声は、妙に幼いもののように思えた。


 見たくないのに、まるで、見なければいけないものがそこにあるかのように、首が、動く。


 赤い月に、刳り抜いたように黒い影。


 頭に角のある、細長い影が手にしたなにかは、奇なのか、鬼なのか。それとも、人間だったのか。


 生臭い匂いが、鼻に届く。


 血を流しながらまだ痙攣しているそれを、黒い影が、口元に、引きずりあげた。


 赤い月の逆光のなか、そう見えた。


 食べられた。


 次は自分だと思う間もなく悲鳴が短く喉を裂き、陸人は後退さっていた。


 足下の石が音をたてる。


 かすかな音に、それが、陸人に気づいた。


 キロリと、月光を弾いた双眸が陸人を見たような気がした。




 陸人が気づいたのは、自分の部屋のベッドの中だった。


 助かったとは思えなかった。


 あの目。


 赤い月の光を浴びて緑に光ったあの目。まるで自分を、見つけた次の獲物だと、そう看做した獣のようなあの目を思い出して、陸人は、泣き叫ぶこともできなかった。


 舘は違っても、同じ結界の中にいるのだ。それに、ただでさえ、人じゃないものたちは、訳の分からないいろんな能力を持っている。


 見つかるかもしれない。


 怖かった。


 自分を食べようとしたあの遠い日の人外を思い出して、震えが止まらなかった。


 ただ徒に震えて、姉に会いたいとつぶやきつづけるだけだった。


 お姉ちゃんがいてくれたら、抱きしめてくれたら、そうしたら大丈夫だと安心できる。


 しかし、姉に会いたいと身の回りの世話をしてくれる歳老いた外見の奇に頼んでも、いつも姉は忙しいという返事しか貰えなかった。


 花嫁修業をしているとそう聞かされて、ここにつれてこられた理由を思い出す。


 自分は、姉のおまけなのだと。


 だから、あまり我儘を言ったりしたら、お姉ちゃんが困るのだ。


 ぼんやりと、そんなことを考えてから、陸人はおとなしく部屋で過ごすようになった。


 きっと、部屋から出なければあの恐ろしい目の貴だろう存在は、自分を見つけることはないだろうと。そう考えるしかなかったのだ。


 そんな時だった。


 姉からと言って、たくさんの玩具や道具が陸人に届けられたのは。


 たくさんの玩具や道具の中で陸人を虜にしたのは、一台のピアノだった。


 黒く艶やかな不思議な形をした楽器は、陸人が見慣れた幼稚園などにあるような形のものではなく、グランド・ピアノだった。胴体部分の蓋を持ち上げバーで支える。そうして、鍵盤の蓋を開けて、赤いビロードの布を外した。白と黒の鍵盤がピカピカに光って見えた。


 特別な才能があったのだろう。陸人は音を一度聞けば、ピアノの鍵盤を確かめながら音色を再現できた。そうやって幼稚園でも時々ピアノを弾いていたことを、連絡帳で姉は知っていたのだろう。アパート暮らしではピアノなどは到底買えなかったが、あの時から姉は陸人にピアノをと考えていたのかもしれない。


 ピアノは、陸人を慰めてくれた。


 鍵盤を叩けば、鍵盤は嫌がることなく答えてくれる。


 誰も何も言わないことをいいことに、陸人は、一日中ピアノを弾いて過ごすようになったのだった。


 そうして、姉の結婚式の日になった。


 姉の結婚式は、盛大で、華麗で、陸人は、くらくらした。


 ここにつれてこられて、三ヶ月目の、二月下旬のことだった。


 なぜか、結婚式は洋風で、姉は真っ白いウェディング姿だった。隣に立つ、壽盡もまた、白いタキシード姿が、恐ろしいくらいに似合っていた。


 姉はとても綺麗で、近寄りがたかった。


 式が終わり、披露宴に移ったときも、陸人は、姉を遠目で見るだけしかできなかった。


 幸せなんだ。


 そう思った。


 中国風の極彩色の衣装に着替えた姉が、向こうのほうで、微笑んでいる。


 姉さんは、ぼくなんかいなくても、幸せなんだ。


 黄色いつやつやした花を、陸人は、毟った。


 目の前の池に、投げる。


 水音をたてて、魚が、飛び上がる。


 馬鹿だ――


 食べられないのに。


 そう思って、次々投げる。


 しかし、二度と、魚は飛び上がらない。


 やけになって、陸人は、花を投げ続けていた。


「陸人」


と、呼ばれたのは、その時だった。


 知らない声に振り向いた陸人は、その場から、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。


 黒い髪をきっちりと撫で付けた顔を、怖いと思った。


 視線が、怖ろしいくらいにきつい。


 なぜか、あの、月の赤い夜に見た光景を、陸人は思い出していた。


 ゆったりと近づいてくる男に、


「おじさん、誰?」


 そう言うのが、精一杯だった。


「私は、星辰―――おまえの、甥になるか。よろしく、叔父さん」


 星辰がニヤリと笑うのを、陸人は、蝋梅を背に、見上げていた。






 陸人は、ピアノを弾いていた。


 スポットライトを浴びた、高い壇上で、グランドピアノを弾く。


 鍵盤の上を、指が走る。


 この時ばかりは、陸人の心も、解放される。


 憂いも、悩みも、なにもかもから、陸人は乖離できるのだ。


 耳に心地好い、クラッシクの調べが、広いホールに、反響して消えてゆく。




 今は、陸人のピアノには、教師がついている。


 コンクールに出場しては、いつも、上位にはいる。陸人は誰にも言ってはいないのに、しかし、いつも、星辰は知っている。ピアノ教師が知らせているのだろう。そんな時、タイミングが合えば、星辰は、陸人を外食に連れ出す。そうして、教師以外には誰からも贈られない、「おめでとう」を、くれるのもまた、星辰だけなのだ。


 十年前のあの次の日、星辰が訊ねてきた時も、陸人は、ピアノを弾いていた。


 そうして、翌日、陸人は、星辰に雇われたと言う、ピアノ教師と会っていた。


 あれから、十年、陸人は、同じ教師についていた。


 いつの間にか、陸人の身の回りのことは、星辰が決める。それが、当然になってしまったのは、それがあってからだ。


 いつしか生活スペースも星辰の舘の一翼に移されて、通う学校も星辰が決めた。


 ピアノ以外の家庭教師も星辰が厳選した人間が、結界の外から招かれた。


 まだ幼い陸人に、どうして星辰に逆らうことができるだろう。


 香には年に数度会えるかどうかで、相談することもできなかった。


 結界の外の音楽に力を入れている学校への送り迎えも、星辰が決めた運転手と車だった。


 人間ばかりの学校の空気に陸人の心はほっと息をついたが、それだけだった。仲良くなった数人のクラスメイトともすぐに疎遠になった。寄り道も友だち付き合いも、許可されなかったからだ。


 数回、星辰の言い付けに反抗をして寄り道や友だちの家に行ったことがあった。しかし、すぐにばれた。迎えに来るのは、無表情な奇や鬼の男たちであり、ごく稀に星辰であることもあった。


 芸術のパトロンに貴が珍しくないとはいえ、学校に人外が来ることは滅多にない。芸術を志す者は基本人間であり、大成するのも人間だけなのだ。手遊びにそこそこの芸術をものする人外はいても、芸術家にはなり得ない。だからこそ、陸人の通う学校は、今の世の中では珍しく、純粋に人間だけの空間でありえたのだ。その分生徒たちも、人外とのふれ合いには免疫があまりない。そうして、人外を拒否ではなかったが、敬遠する風潮もあった。ある意味感じやすい生徒たちにとって、人外は存在そのものが苛烈すぎるのだ。そんな中、常に人外に囲まれ、その結界の中から日々通ってくる陸人は、彼らにとって人外並みに異質なものと映ったのに違いない。


 陸人は、学校でも孤立することになった。


 虐められることはなかったが、いつも、独りだった。


 慣れたと嘯いてはみても、寂しい。


 寂しさに押しつぶされそうになればなるほど、陸人は、ピアノに縋った。


 教師が腱鞘炎を心配するほど、ピアノに向かう日々が続いた。


 何年も何年も。


 そんな陸人も年頃になり、気がつけばひとりの少女を目で追っていた。


 よそから転入してきた少女は、陸人にも分け隔てなく接してくれる数少ない存在だった。


 少女が話しかけてくるたびドキドキと高鳴る胸に、陸人は病気を心配した。が、病気になどなってしまっては、ピアノを弾かせてもらえなくなるかもしれないと、誰にも言わなかった。


 年に数度会うことができる姉に口が滑ったのは、胸が苦しくてならなかったからだろう。


 誰かに聞いてほしかったからだろう。


 今度その子を連れてらっしゃいと、症状を初恋と診断した姉に、陸人は真っ赤になった。


 もしかしてと考えなかったといえば嘘になるだろう。


 けれど、そんなことはあり得ないと、あってはならないと、自分を縛めていたのだ。


 無意識のうちで、星辰が許すはずがないことを悟っていたに違いない。


 星辰の自分に対する束縛が、常軌を逸したものだとは常々感じていた。だからこそ、恐ろしかったのだ。時折、自分に向けられているまなざしが、いつかの異形を思い出させる。あの異形は、食べようとしている自分に何を言ったのだったか。記憶の中の異形の爛々とした瞳の輝きばかりが、星辰のそれを彷彿とさせるのだった。


 どういう経路をたどったのか、陸人の初恋は星辰の知る所となった。


 ピアノ室に続くささやかな居間のソファに腰をかけて、無表情のまま自分を見てくる星辰の眼鏡越しの瞳が震えがくるほど恐ろしくてならなかった。


 開いた窓からは、心地好く乾いた風が花の匂いをはらんで入ってくる。


 薄い磁器のカップを皿に戻した星辰が、


『奏でる音色に艶が出てきたと教師が褒めていたな』


と、口を開いた。


 そのことばに肩の力を抜いた刹那、


『だが、まだ早いだろう』


 そう断ぜられて、息が止まった心地に襲われた。


 何が早いのか。


 星辰の示唆する物事が何なのか、陸人にはすぐにわかったのだ。


 誰かを想う心は自由なはずなのに、それすらも早いと切って捨てた星辰に、怒りが込み上げてくる。


 もうすぐ高校生になる。決して早くなんかはないはずだ。ひそやかにそれでも確かに、クラスに色めいた話が飛び交っていることを陸人だとて知っている。ただ、自分には関係ないと、ときめきをそうと認められなかっただけで。


 それもこれも、この男のせいなのだ。


 心は自由だ。


 自由なのに、それすらも縛めようとしてくる星辰がに、怒りが込み上げてくる。


『なんで…………なんでだよっ』


 やっとの思いで口にしたことばは、しかし、


『恋などいつでもできる。今はそんなことより、ピアノのテクニックを磨くことだな。音色に艶が出てきても、当の練習がおろそかになっては意味がない。違うか』


 言いながら目を覗き込んでくる。


 眼鏡越しのまなざしからは、裸眼のときほどの苛烈さは感じられない。しかし、陸人は、全身が震えだすのを止めることはできなかった。


 時間ができた時には、星辰が陸人を送り迎えすることがあった。しかし、それ以来、時間を作って星辰が陸人を送り迎えしはじめたのだ。


 一層息が詰まりそうな毎日は、星辰の弟や妹たちを刺激することになった。


 陸人は知らなかったが、星辰の後を人間風情に継がせるのではないかと、そんな、噂が、広まっていた。


 貴の一族では、なによりも血脈が尊ばれる。母親よりも父親の血が重要視される。


 ありえない、そう、一笑に付されるはずだった。なぜなら、陸人は、あくまで、壽盡の妻の弟だからだ。―――しかし、ひそかにささやかれている噂があった。実は、陸人は、香の子供だと言うのである。そうして、なぜ、壽盡が香を、わざわざ日本まで迎えに行き、正妻に迎えたのか。それは、香が、壽盡のこどもを生んでいたからではないのか―――と。壽盡がそれより以前日本に滞在していた時期から逆算すると、陸人に、その可能性がでてきたのだ。


 そうなると、陸人は、壽盡の血を受け継いでいることになる。


 その上に、星辰の、溺愛振りである。


 弟妹に、危機感が芽生えたとしても、不思議はなかった。




 それから二年が流れた。


 ピアノが壊れた。


 壊された。


 朝食前に軽く指を慣らしておこうと練習室に向かった陸人を迎えたのは、愛機の無残な姿だった。


 十年近く愛用してきたグランドピアノは、執拗なほどに破壊されていたのだ。


 呆然と、陸人は、部屋で立ち尽くした。


 次いで、しゃがみこみ、部屋中に飛び散ったピアノの破片を、拾い集めた。


 悲しかった。


 悔しかった。


 白い鍵盤を、陸人の涙が、濡らした。


「おまえでも泣くんだ」


 残骸の上に、いつか、人影が佇んでいた。


 見上げれば、音たてて、ピアノを、踏みにじる。


「やめろっ」


 瞬間、怖さを忘れていた。


 食ってかかって、逆に、残骸の上に、倒れる。


 残骸が、陸人のからだを、擦った。


 人影は、壽盡の末の息子だった。銀瑯と言っただろうか。歳は陸人よりも二つ上だが、見た目は、中学生ていどにしか見えない。


「おまえがっ」


 脇腹を蹴り上げられて、呻きも出せず、身を丸く縮める。


「おまえなんかが、なんで星辰にいさまのお気に入りなんだ」


 ぎちぎちと頭を踏まれ、藻掻く。


 人の形をしていても、相手は、人ではないのだ。


 陸人に勝ち目はない。


「このまま、踏み潰してやろうか」


 そうしたら、おまえなんか簡単に死ぬ。


「たかが、人間のくせに」


 人間風情が、なんだって、にいさまに大切にされるんだ。


 幼い頃の、傷が、掻き毟られる。


 いつもは、心の奥底に閉じ込めていた、恐怖心が、陸人を捕らえる。


 なりふりかまわずもがいて、手に触れたものを、陸人は振りかぶっていた。


 それは、予想外の反撃だったのだろう。


「うわっ」


 ピアノの破片が、銀瑯の足を切り裂いた。


 怯んだ隙に、陸人は立ち上がり、


「出て行け」


 銀瑯を突き飛ばした。


「ここは、オレの部屋だ。勝手に入ってきて、勝手にピアノ壊しやがってっ! そんな権利、おまえなんかに、ないっ」


 何度も押しやりつづける。


 しかし、力でかなうはずもない。


「生意気な」


 片手で、陸人を押し飛ばす。はずみで、陸人のパジャマが大きく開く。少年は、倒れた陸人の剥き出しの腹を、踏みつけた。


「本当に、殺してやろうか」


 陸人の目の前が、真っ赤になる。


 このまま、腹を踏み抜いてやろうか。


 喰らってなんかやらない。


 苦しみにのた打ちまわればいい。


「いやだっ」


 その時だった。


「なにをやっている」


 場違いに冷静な声が、響いた。


 星辰だった。


「兄さん」


 銀瑯の顔が、青ざめる。


「なにをやっていると、聞いている。銀瑯」


 殷の末弟ともあろうものが、他人の部屋に無断で入って、大切にされている楽器を破壊するのか。


 それでまだ足りず、相手を、殺そうとするか。


「だ、だって……」


「なんだ」


 星辰の、闇を宿した鋭い双眸が、銀瑯を射抜くように、見る。


「おまえには、失望したよ。銀瑯」


 そうして、静かに、冷ややかな裁断を、星辰が告げる。


 銀瑯は、ひとつ大きく震え、走り去った。


「陸人」


 振り返って、穏やかな、星辰の声に、しかし、陸人は顔をあげられない。


 怖いという意識が先に立つ。


 いつもは、どうにか隠し通せていると思っている、彼らに対する恐怖が、こみあげて収まらない。




 細い手だった。


 女のような、白い、肌。


 長く尖った爪。


 赤い、くちびる。


 ぞろりと剥き出しになった、鮫のような、歯列。


 ――いい匂いがする。


 首筋に鼻を寄せられた。


 犬のような顔をした、異形だった。


 くすぐったさに、首を竦めて、陸人が笑う。


 しかし、笑いが凍ったように途切れたのは、


 ―――可愛いから、食べてあげる。


 そう言われて、陸人は、逃げなきゃとは思ったのだ。


 けど。


 悲鳴もあげられなかった。


 足が、動かなかった。


 それどころか、すとんと、他愛なく、腰が抜けたのだ。


 腕を掴む手が、伸びた爪が、背中に当たる爪が、痛いくらいに肌に食い込む。


 やっと、足をばたつかせることができるようになって、泣き喚いた。


 そうして、首筋に、鋭い痛みを、感じた。


 その時には、陸人の意識は、現実から遠のいていた。




 真っ青になって震えている陸人の背中に、そっと、星辰は、手を触れた。


「ひっ」


 小さく、胎児のように縮こまる。


 イヤを繰り返す陸人に、星辰の表情が、強張りつく。


「陸人っ」


 肩を掴み、抱き上げる。


 うつろなまなざしが、大きく見開かれた。


「いやだっ」


 腕の中で藻掻く陸人の頬を、星辰が、軽く、叩いた。


「あっ」


 小気味よい音がして、陸人の頬が、赤くなる。


「大丈夫か」


「せ……い………………しん」


「弟が、酷いことをしたようだ」


 すまなかったと、そう言いながら、陸人の赤く腫れた腹部をなでる。


「ひっ」


 刹那、陸人は大きく震えた。


 治まっていた震えが、酷くなる。


「お、おりる」


 下ろされて、息をついた陸人は、


「どうする。落ち着いてから、新しいピアノを見に行くか」


 ここに招いてもかまわないがな。


 部屋を出ようとした瞬間、背中に声をかけられて、その場で固まった。


 声を出せば、悲鳴になりそうで、必死に口を押さえた。


 星辰は、あの時の、あの、異形ではない。


 わかってはいても、怖いのは変わらない。


 目が――――


 そう。自分に向ける、星辰の目が、あの異形を思い出させるのだ。


 必死で、陸人は、首を横に振った。


「なぜだ」


 背中に、星辰の気配を感じる。


 自分を見ているだろう、あの、何かを圧しひそめたような視線が、脳裏によみがえる。


 何かを、答えなければ。


「ピアノがないと、困るだろう」


 答えなければ。


 涙が、こみあげてくる。


 目を閉じて、首を振った陸人は、いつの間にか、星辰が目の前にいることに気づき、息を呑んだ。


「………おまえはっ」


 ぐっと、顔を近づけられ、背けようとした顔を、星辰の両手が、掴みこむように、両側から、つつみこむ。


 目を覗き込まれて、掠れた悲鳴が、ごまかしようもなくくちびるを突いた。


 背中を流れ落ちる冷たい汗の感触に、自分はまだ震えているのだと、止まったと思った震えを意識する。


「いつになったら、この私を見る」


 私が、こんなにも、おまえに捕らわれているというのに!


 ぶつけるように、そう告げられて、息を奪われるかのような激しいくちづけを受けた。


 そのまま、ピアノ室の床に、横たえられる。


 どんなに暴れても、星辰にかなうはずもない。


 陸人は、自分が、星辰に喰らわれるのだと、痛いくらいに、思った。




 翌日には、新しいピアノが、届けられた。


 しかし、体調の悪さから陸人は、しばらく、ベッドから起き上がることすらできなかった。


 気は焦るものの、今は、ピアノを見るのも苦痛だった。


 それを自分から弾こうという気には、なれなかった。


 せめて気分を変えようと、ピアノを別の部屋に移動させたのは、体調が戻った二日後のことだった。


 そうして、陸人は、ピアノの椅子に座った。


 楽譜を開く。


 目を閉じて、深呼吸を繰り返す。


 ピアノに触れるのは、十日ぶりになる。


 指が、前のとおりに動くとは、考えられない。


 それでも、ピアノの感触は、陸人を、励ます。


 ピアノが、ささやく。


 大丈夫――と。


 わたしを、弾いてください――と。


 陸人が、そっと、鍵盤に触れる。


 やわらかな音色が、部屋に、響いた。


 それからは、迸るように、陸人は、鍵盤を叩いた。


 ピアノ教師が、ドアを開けたことも、佇んでただ陸人の奏でるピアノに耳をかたむけていることにも、気づいてはいなかった。




 あれから、何度も星辰に抱かれた。


 無理矢理の情交は、怖かった。イヤだった。からだも辛い。なのに、どんなに言っても、星辰は、許してくれなかった。


 ほんの少しの自由すら、陸人からは奪われてしまった。


 いつも、星辰の目がある。


 なにをしていても、学校にいてすら、星辰に見られているような気がしてならなかった。


 星辰の束縛から逃れる術は、陸人には、なかった。


 けれど、それは、天恵のように、陸人の目の前に現われた。


 世界的なピアニストだった日本人を偲んで設立されたという、コンクール。その優勝者には、コンセルバトワールの留学が待っている。


 ピアノ教師が陸人にそれを薦めたのは、ある意味当然なことであったろう。




 陸人は、今、その舞台に立っていた。


 最終審査だった。


 自分を励ましつづけてくれた、ピアノのやさしい音色を、今だけは、陸人は、楽しんでいた。


 そうして、気がつけば、スタンディングオべーションが、陸人を包みこむ。


 呆然と、陸人は、ただ、涙を流していた。


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