1回目
ピアノに関して知識は薄弱以下ですので、勘違い等ご寛恕願います。
「香姉さん」
ゆったりとカウチに落ち着いている姉に、陸人は声をかけた。
過去の中国風の豪華なしつらえの部屋である。
そこでは、まるで制作費数億円で作られた映画のワンシーンのような光景が繰り広げられている。
紫檀のカウチに斜めに座る香は、身にまとう比礼もたおやかに艶めいている。
侍女が、香の爪を飾りつけている。
ツンと鼻を射るマニキュアの匂いは、すぐに、梅のかおりに紛れてわからなくなる。
姉の好きな白梅が、室内のそこかしこに活けられている。
殷の前大君、壽盡の妻として、満たされている姉の姿は、陸人の目にまぶしいものとして映る。
「なに?」
にっこりと微笑まれて、陸人は口ごもった。
姉と共に殷の本宅に引き取られて、すでに十年近くが過ぎていた。その間、姉と会えたのは、数えるほどでしかない。
姉は、貴の一族の中でも特に強大な、殷の前当主壽盡の何度目かの正妻で、おそらく、残りの生涯を共にすることになる最後の愛妻だろうとささやかれている。
貴は鬼であり、奇であった。
人ならざる、異形の存在。
時に彼らは、人を喰らい、笑いながら、屠る。
しかし、同時に、人を恋し、人を娶り、人と共にあろうとする。
貴は昔から、人界に混じっていたのだという。人ならざる者であることを隠し、混ざっていた。それが、あるときを境に、存在を隠すことをやめた。
さまざまな力において人よりも優れた存在である貴はたちまち、人界を手中に収めた。
ここは、そんな貴の一族の西の雄、殷一族の本拠地、本宅の中にある前当主の隠居所である。姓からもわかるように、古の中国風にしつらえられた広大な城が、壽盡とその愛妻香とが住む場所である。
「あの、さ。お願いがあるんだけど」
陸人のことばに、香は庭を眺めていた視線を、室内にもどした。
「陸人がお願いなんて、珍しいわね」
「うん。これ、サインもらえるかな」
陸人が差し出した薄い紙に、泳がせた香の目が大きく見開かれてゆく。
「留学? コンセルバトワールって、あなた」
「お願いだよ。オレ、ずっと、ピアニストになりたかったんだ。で、この間のコンクールで、どうにか、優勝できたんだ。いい機会だと思う。姉さんにもう迷惑かけなくてすむようになるし」
「おめでとう。ピアニストになりたかったなんて、少しも知らなくて………ああ、なんてこと。ここにこうしてきてからは、そうそう会えなくなったから知らなかったけど………でも! あなたがやりたいってことなら、なんだって応援するわ」
マニキュアの乾いていない爪が、頬にねっとりと触れる。
「ええ。留学費用なんて、気にすることないの。コンクールなんてまどろっこしいことしなくったって、言ってくれさえしたら、ちゃんとふつうに留学させてあげられたのに。あなたは、殷壽盡の、妻の、たったひとりの弟なんだから」
抱きしめられて、鼻先に、梅の花のかおりがたちこめる。
「姉さん、ありがとう」
陸人は、笑った。それは、陸人とにとって久しぶりの笑いだったが、本人は気づいてはいなかった。
「あ、それで、オレが留学するってこと、誰にも内緒にしていて欲しいんだ」
「どうして?」
「知られたくないヤツがいるんだ。オレは、そっと、ここから出て行きたい」
真摯なものを口調に感じ、香は、
「いいわ。でも、壽盡には、言っておかないと」
「うん。姉さんが、打診してくれたら、壽盡さまに都合のいいときに、オレが言ってもいいし」
「オッケー。今日にでも聞いておくから」
にっこり笑って、香は、書類にサインした。
「陸人が、立派なピアニストになれるようにって、祈ってるから。休みには帰って来るのよ」
「うん」
ふたりは抱き合い、しばらくして別れた。
ふたりは、その場にいた侍女のことなど、すこしも、意識してはいなかったのだ。
夜の闇に紛れて、女が走る。
その速度は、並の人間がおよびもつかないものだった。
もちろん、彼女も、貴の一族である。ただし、殷に仕えることで力を得た、有象無象の奇に過ぎなかったが。
西洋風のレンガ造りの瀟洒な館に、女は姿を消した。
「誰だ」
ソファに腰を下ろして、膝の上の端末を覗いていた男が、ふいに、誰何する。
オレンジ色に絞った照明の室内には、男以外に人の気配もないようである。
しかし、いつ現われたのか、中国風のひらひらとした衣服を身に着けた女が、男の足元に跪く。
「香さまの侍女だな」
明るい日差しの中、香の爪を彩っていた侍女だった。
「星辰さま」
「今日は、あれが、そちらを訪ねたことは知っている」
星辰と呼ばれた壮年に見える貴の男は、端末を閉じ、眼鏡を、外した。
眼鏡を外した途端、侍女が弾かれたように顔を伏せる。星辰の雰囲気ががらりと変わったからだ。穏やかなエグゼクティブエリート然とした雰囲気が、苛烈なオーラをまとう。それは、あらわになった双眸のせいだった。
震えながら侍女がそれらを受け取り、部屋の隅へと運ぶ。
「では、あの方が、留学をなさると言うことは………」
侍女は、みなまで言うことができなかった。
手入れの行き届いた男の爪が、刹那にして鋭く伸びた。
握りしめたソファの肘掛の革が紫檀が、容易く、断たれる。
撫で付けられていた短い黒髪が、たちまちのうちに、腰までのたうち伸びる。のたうち伸びた髪の間から、一対の長い角が、現われていた。耳の上辺りに一本ずつ、それは、男が、紛うことのない貴の一族であることをあらわしていた。
侍女の顔が、青ざめる。
「そうか―――そうまでして」
クッと、喉の奥で絡みつくような笑いが、爆ぜた。
クツクツと、押し殺す笑いは、気味悪く、室内に響いていた。
見送りはいいから――と、そっと屋敷を抜け出した陸人は、手荷物ひとつで、飛行場にいた。
何も持っていかなくていいようにと、留学先の学校の近くに、香がすべてを整えてくれたからだ。
ぼんやりとショッピングモールを歩く。
さまざまな免税品や、ブランド物、土産物、レストランや喫茶店まである。
暇つぶしにゲームか本でもと、陸人は、数軒回って喫茶店に落ち着いた。
奇のウェイトレスに、軽食を注文する。いつもなら緊張するそれも、この日の陸人には楽にできた。
「久しぶりだ」
陸人は、肩の力を抜いた。
あいつから、離れられる。
ここにあいつはいない。
――――それだけで、陸人には、充分だった。
違う。
ずっと、それこそが望みだったのだ。
その上、ピアノの勉強に集中できる。
ピアノの勉強だけをしていればいい。
なんて、幸せだろう。
暮らすことになる場所では、他のなにも、自分を患わせることはないだろう。もしも患わせることが起きたとしても、そこに彼はない。それがなによりだった。
嬉しい。
ピアノを弾いていれば、たいていのイヤなことを忘れることができた。
逃げだと言われてしまえばそれまでだったが、それでも、陸人には、ほかに逃げ場所など思いつかなかったのだ。
あのとき、そこにあったのがピアノだった。それだけで。
でも、それは、運命だったのだ。
今、陸人は、そう思う。
そうだったらいいと、心の底から願うのだ。
ピアノが自分の運命だったのなら……と。
搭乗時間何分前のアナウンスに、陸人は、我に返った。
いつの間に運ばれていたのか、テーブルの上の軽食はとっくに冷めてしまっている。
ごめん――と、手だけ合わせて、陸人は、喫茶店を後にした。
飛行機に乗ったのは、十年ほど前、姉と、姉を迎えに来た壽盡と一緒だった時以来だった。
興味から、もしくは、それが気に入っている貴は別として、簡単に瞬時にして長距離を移動できる貴が移動手段に人間の乗り物を使うということは、ほとんどない。壽盡もまた、乗り物には興味はなかった。なのにあの時、壽盡が飛行機を使ったのは、香と自分とを気遣ってのことだということに陸人は気づいていた。
鬼や奇はともかく、はじめて見た最高位に属する貴に、飛行機の乗り心地などは覚えてはいない。
だから、今回初めてといってもいいだろう。
ゆったりと座れる広いシートで、陸人は、窓の外を眺めた。
本当に、空を飛んでいる。
雲が、眼の下にあるのだ。
雲の上に、飛行機の影が、落ちている。
やがて雲海を見ているのに飽きた陸人は、買ったばかりの本を鞄から引っ張り出した。
「奥様っ」
壽盡の館で、香が、倒れた。
侍女たちが悲鳴をあげ、彼女らを取り締まる老女が、叱りつける。
老女に助け起こされカウチに横たわった香が、必死になって、画面を見つめる。
巨大な液晶画面には、他の乗客の名前と共に、浅野陸人という名前が映されていた。
アナウンサーは機械的に人名を読み上げている。
旅客機がテロリストに襲われ、人質となった男たちの名前が、テレビ画面に映し出されている。
刻々と移りゆく状況の中、人質は疲弊し、犯人達は苛立つ。
対テロの組織がどこかの飛行場での給油中の旅客機に、突入する。
テロリスト達は、取り押さえられたが、その際に、死傷者が出た。
読み上げられる名前に、震えながら、テレビを凝視していた香が、今度こそ、短い悲鳴と共に、気を失った。
画面には、唯一の死者の名前が、忌々しいほどはっきりと映し出されていた。
浅野陸人―――――と
老いらくの恋――か。
前殷大君のありさまに、現殷大君である星辰が、眉間に皺を寄せた。
貴の一族でも一、二を争う雄であったはずの、実の父親である。
壽盡が、歳若い人間の娘に、とろけそうな笑みを振りまいていた。
壽盡の新たな花嫁の披露の宴だった。
広い庭のあちらこちらに、招かれた、貴、鬼、奇、それに、人間が、集っている。
種の別ない子供たちが、歓談する大人の間を縫うように、歓声をあげて走る。
古の中国風の音曲が、うるさくないていどに、流れていた。
目を楽しませる、さまざまな趣向。
酒、食い物、女。
もとより、壽盡の女色はつとに有名ではあった。相手は、貴であり、鬼であり、奇であったこともある。最近では落ち着かれたと周囲も星辰も安心していた矢先の新たな花嫁の登場に、星辰の眉間に皺も深くなる。
新たな花嫁は、その上、人で、まだ二十二才なのだ。
二十二年しか生きていない。
幼い。
壽盡に比べれば、赤子と呼べるほどに、だ。
これでは、人間から鬼と謗られてもしかたないかもしれない。
壽盡の歳は、人間に換算すれば三千を悠に越えるものだ。
(これ以上、弟だの妹だのが増えてはたまらない)
胸のうちで、星辰がつぶやいた。
星辰は、ただでさえ、こどもが苦手だった。はっきり言ってしまえば、煩わしい縁戚関係が、嫌いだった。
おそらくは誰よりも間近に壽盡の行状を見て育ったせいもあったろう。
星辰は、一度だけ妻を娶り、妻と子を一時に亡くしてからは、二度と、妻を娶ろうとも愛人をつくろうとも、しなかった。
貴は基本的に寡産ではあるが、壽盡には母親は違うが自分以外にも子供がいる。一番年下の、今年八才になる弟を入れて、五人いるのだ。これは、貴としては、破格である。自分の後継は、弟妹かその子供たちであってもかまわないだろう――と、星辰は考えていた。
壽盡好みの花であふれた庭を散策していると、この外での忙しなさが薄らいでゆく。
掌の上で人の運命を転がすゲームであるかのような遣り取りは、楽しくはあったが、煩わしい時もある。人間のしたたかさに舌を巻くこともあれば、意外な貴の打たれ弱さに目を疑うこともある。
星辰は、ゆっくりと、庭を歩く。
白梅、紅梅、蝋梅がみごとに咲き誇る緩急のある庭は、まるで、梅で埋め尽くされたようだった。
庭を覆いつくすのは桃ではないが、桃源郷とでも例えればいいだろうか。
足元では、落ちた梅の花首の間に、水仙が花開いている。
馥郁と、心が穏やかになってゆく。
楽の音が心地よく耳を満たす。
「さすがだな」
思わず、星辰は独り語散ていた。
貴の大多数に漏れず、星辰もまた人間の作る芸術文化に酔うひとりである。
どんなものであれ、人間の生み出す芸術というものは、不思議なことに彼らの心を打つのだ。
芸術家のパトロンをしている貴は、少なくない。
今日の楽団は、はるかな昔壽盡が生を受けた国での最高の楽団だという。壽盡がパトロンをしている楽団のひとつでもあった。
池の淵に沿って歩いている時だった。
ふと、なにかが、足に触れたような気がした。
水仙でも踏みしだいたのだろうか。
気にせず進む星辰の足に、再び、三度と、なにかが、触れる。
見下ろせば、蝋梅の落ちた花が、放物線を描いていた。
放物線の元を辿れば、ひとりの幼い少年がつまらなさそうに、蝋梅の花を毟っては投げていた。
あの子は。
こざっぱりとしたシャツとズボン。やる気なさげに木の幹に凭れて、池に向かって、千切った花を投げている。
コントロールを失った花首が、星辰に当たった。
それだけのことだった。
少年が時折り見上げる視線の先には、遠く、壽盡と花嫁の姿があった。
それで、星辰は思いだす。
あの少年は、花嫁がここに連れられてきた日、花嫁に手を引かれていた子供であったことを。
花嫁の弟だとか言っていた。
名前は、確か。
「陸人」
と、言ったはずだ。
突然呼ばれて驚いたのだろう。
弾かれたように星辰を見返した顔の中、あどけない褐色の双眸が転がり落ちそうだった。
「おじさん、誰?」
今にも逃げ出してしまいそうに怯えている陸人に、星辰は、ゆったりと近づいていった。
「私は、星辰―――おまえの、甥になるか。よろしく、叔父さん」
星辰は、そういって、ニヤリと笑った。




