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水底の記憶(前編)

登場人物紹介


結城ゆうき 凛子りんこ

陰のある性格。クールで人付き合いは良くない。愛想が悪い。心を許した相手には非常に友好的になる。

強い霊感を持つ。霊を見つめることにより霊の生前に同調でき「重なる」ことができる。霊に無念の原因を探り、それにより問題の解決に寄与できる。


三橋みはし 達也たつや

冷静でしっかりしており寛容。凛子に対しては頼りなさを見せることが多い。物事に対する視野が広い。謙虚。凛子に好意を持っている。大事なものを守ることに関して、時に激情を見せることもある。

古武道に通じており、かなりの実力者だが、表面にはあまり出さない。


 相談事を引き受けるなどと公言しているわけではないのだが、三橋達也にはあらゆる分野の相談事が舞い込んでくる。やれ彼女が浮気をしただの、やれ財布を落としただの、などといったたぐいのものなら相談先などの交通整理をしてあげれば然るべき対応となったが、やっかいなのは最近急に増えてきたオカルトの分野だった。

 そしてオカルトの分野が増えてきた一番の原因は、やはり彼女が原因だろう。

 今、達也の同郷のチカエから、オカルト的な相談事を一緒に聞いている、結城凛子のことだ。



 最初の異変に気がついたのは3日前、一人暮らしのマンション内での入浴中のことだった。ふと湯船の中に黒い糸のようなものが漂っている事に気がついた。なんで糸、と思い掬い上げてみれば糸ではなかった。

 それは一本の長い髪の毛であった。

 チカエはショートであるからチカエの髪ではない。

 気持ちが悪いとは思ったが、ここに引っ越してきてまだ日にちも浅い。前の居住者のものがなんかの拍子に残っていたのだろう。チカエはそう納得した。


 そしてその夜、異変は夢から始まった。

 水の中でもがく夢を見た。

 水が口や鼻から容赦なく入ってくる。苦しい。苦しいがその苦しさがいつまでも続く。とっくに肺の中は水に満たされているはずなのに・・・ 痛い、焼けるように痛い。もがいてもがいてもがきぬいた時-


 眼が覚めた。カーテンの隙間から朝陽が入っている。しかし...


 まるで水をかぶったような寝汗だった。布団がぐっしょりと濡れている。

 寝汗でおぼれかけた... なんて馬鹿な事あるのかしら 夜までに乾くのかな、この布団

 体中に途轍もない疲労感がのこる。胸も痛い。

 ぐったりとしたチカエは、それでもベッドから起き上がりパジャマや下着を着替えると、浴室の脱衣所のかごへ脱いだものを入れに行く。

 脱衣所から浴室への扉、半透明のアクリルガラスがずいぶんと濡れていることに気がついたチカエは扉を開けてみた。

 「乾燥ボタン押さなかったかしら」そう呟きながら中を覗いたチカエは絶句する。

 天井から床まで浴室中ぼとぼとに濡れていたのだ。ただ24時間換気の換気扇は回転しており、チカエの記憶をたどる限り、昨夜の入浴後には確かにバスタブの栓を抜いて1時間指定の室内乾燥ボタンは押したはずだ。

 「なにこれ」 混乱したチカエはそう呟くと、天井を見上げて自然にまた声が出た「水漏れ? なんか気持ち悪い...」


 不動産屋の営業開始時間を見計らって連絡を入れると、契約の時に顔なじみになった担当さんが、もう一人、おそらく一人暮らしのチカエへの配慮だろう、助手のような若い女性を連れて10時過ぎに来てくれた。24時間換気扇は回しているが室内乾燥は動かしていない。現状保全を優先させて不動産屋にまず見てもらおうと思ったのだ。

 「乾燥ボタンは確かに押したと... それからバスタブの栓も間違いなく抜いた... 朝、湯舟には水は無く空だった... 」 確認するように不動産屋は現場を見ながら声を出すと、その横でチカエが一々頷いた。

 「でも水漏れにしては... ちょっと踏み台持ってきて」 助手の女性にそう言うと担当さんは点検口の真下へ移動する。「あっ、踏み台ならあります」 チカエはそう言うと、行こうとする助手を押しとどめてキッチンから踏み台を持って来た。「すみませんね、用意が悪くて。お借りします」と頭を下げて、担当さんは点検口を覗いた。

 「あれ?」不思議そうに顔を出して、担当さんはチカエに言う。「中は完全に乾いています。漏れてる形跡はないですね」

 チカエも踏み台に乗らせてもらい、点検口から首を突っ込む。酷くはないものの埃が舞う天井裏は、確かに乾いている。浴室内の濡れ具合とは雲泥の差だ。

 「えーっと、と、言うことは...」チカエは混乱する。

 点検口から覗き込んでいる助手の下で担当さんが推測を言う。「夜間、何らかの原因でシャワーあたりから水が噴き出して浴室内を濡らし、朝になる前に水は止まった」「それと、申し上げにくいのですが、なにか朝から浴室内の掃除をしたくなって水を撒き、なぜかその目的を失念された... いや、これは例えばの話です」

 少しムッとする推測だが、後者はないと言える。ならば前者のシャワーからの放水か... しかし...

 担当さんがシャワーのノズルなどを確認している。水を少し出したり止めたりしながら、異常がないかを点検しているが、どうやら異常はないようだ。

 気まずい空気が流れる。

 不動産屋としては、チカエの勘違いである、という結論に傾きつつあるようだ。ただ面と向かってそれを告げはしない。暗にチカエからの言葉を促している。

 「わかりました。もう少し様子を見ます」

 チカエは無駄足を踏ませてしまった申し訳ないような気持ちと、良くわからない理不尽さがない交ぜになった気分でそう告げる。不動産屋の担当さんはほっとした顔で「また何かあればご相談ください」と言って帰って行った。


 「なによ、もう」ぶすっとしながら、1時間指定の浴室内乾燥ボタンを押す。

 「朝ごはん、どうしよ」チカエはキッチンへ向かったが、今朝がたの変な夢のせいで体調は最悪だ。ベッドの布団も乾かしたいけれど、乾燥機どこへしまったっけ... とりあえずビーズソファへ倒れ込み少し寝ることにした。




 そして昨日、改めて異変が夢から始まった。

 昨夜見た、水の中でもがく夢だ。

 水が口や鼻から容赦なく入ってくる。苦しい。苦しいがその苦しさがいつまでも続く。とっくに肺の中は水に満たされているはずなのに・・・ 痛い、焼けるように痛い。その時初めて気がついた。頭上の水面から無数の手が伸びていて自分の頭を押さえつけていることに。どうして・・・ やがてもがいてもがいてもがきぬいた時-


 昨夜と同じように眼が覚めると水をかぶったような寝汗で、それは昨夜と全く同じ状況であった。

 寝汗で溺れかけた... 同じ事を考えるが、同時に同じ夢を見たことが気味悪かった

 体中に途轍もない疲労感が残る。胸も痛い。これも昨日と同じだ。

 ぐったりしてはいたが、これほど濡れた状態でじっとしているのも気持ちが悪く、鞭を打つようにチカエはベッドから起き上がり、パジャマや下着を着替えると、脱いだものを部屋の隅に放り出し、クッションソファへ倒れ込む。昨日と違うのは、まだ夜が明けていないということで、時計は午前2時半頃を示している。


 うつらうつらした後、それでも浴室の脱衣所のかごへ脱いだものを入れに行った。

 何気なく脱衣所から浴室への扉を見る。思わずひいっと息を吸う。半透明のアクリルガラスの向こうに人が立っていた。チカエは悲鳴をあげる事もできずそのまま気を失った。



 そこまで話すと真っ青な顔をしたチカエは一息に水を飲んだ。

 「気が付いたら脱衣所で倒れていて... 頭は打たなかったみたいだけれどなんか頭痛も酷くて」「浴室のドアを恐る恐る見てみたら、またびっしょりと濡れているのがわかって、もう気が狂いそうになって飛び出して」「着替えて部屋を飛び出して、そのまま駅前のネカフェで...」

 一気呵成に語るチカエのその切羽詰まった表情に、達也は思わず同情した。「それは怖かったね」

 そう言うとチカエは激しく頷き、そしてそのまま泣き出したのだ。


 幸い、喫茶店の客は少なかった。しかし、数少ない客と店員が怪訝な顔でこっちを見る。「これは...」達也は少し焦る。どう見えるんだろう、三角関係とか... 凛子が膝で達也の足を蹴る。なんでこんな時は勘が良いんだ、このひとは。



 「どう思う?」居住まいを但し達也が凛子に問う。

 凛子は飲みかけのカップを置くと、「チカエさんに変なものは憑いていない ...と、思う」と呟き、「だから部屋が原因じゃないかな」と続けた。

 「ああ、部屋に憑いてるパターンか」達也はそう頷いた。

 しかし、チカエは首を振った。「不動産屋さんからは何も説明はなかったのよ」 少し落ち着いて「ごめん」と言いながら彼女は鼻をかんでチカエは否定した。

 「いわゆる瑕疵物件に対する告知義務ってやつだね」

 達也は頷いて、「でも永遠に告知しなくちゃいけないわけじゃないでしょ。たとえばチカエさんの部屋の前の前の借主が問題で前の借主をはさんでいたら...」と言った。

 凛子も頷いて、「そんなところだろうと思うけど」と同意する。

 チカエの表情が暗くなった。「それは違うと思う... それに、いい不動産屋さんなんだけどなあ」

 ぐいっとコーヒーを飲み干して凛子が立ち上がった。

 「ま、とにかく行ってみましょ。見ればなんかわかるんじゃないかな」

 「来てくれるの?」チカエの顔に少し生気が戻ったような気がする。

 「期待しないでね。なにかわかるかどうかは状況次第だし、まして解決できるなんて言わないから」 そしてちらっと達也の方を見て、

 「三橋の頼みだから付き合うだけだから...」 


 達也もチカエもあわててコーヒーを飲み干し立ち上がる。




 チカエの部屋は真新しいマンションの1LDKの部屋だった。

 達也は首をひねった。

 「えっと、もしかして新築?」

 チカエは少し首をかしげて

 「そういうわけじゃないんだけれど... でも建ったのは2年前で私の前に住んでいたのは一人だけだって不動産屋さんが言ってたの」

 先ほどの喫茶店での達也と凛子の推論にチカエが同意に積極的ではなかった理由が二人にも飲み込めた。

 それなら不動産屋が嘘を言っている可能性はあるが、しかし今の段階でそこまで考えても仕方がないだろう。

 とにかく部屋を見せてもらう事にした。


 流石に部屋へ入るにはチカエは躊躇した。鍵は明けたがドアノブを回す手が少し震えている。「差支えなければ私が先に入ろうか?」凛子が言う。しかし、チカエは首を振ってドアノブを回した。チカエ、凛子の順に中へ入る。そして凛子に促されるまで待った達也が続く。


 慌てて飛び出しただろうことが察せられる室内は、リビングダイニングキッチンという一体型の空間にビーズソファと小さなローテーブルが置かれており、その隣が間仕切りのない寝室になっている。そちらはできるだけ見ないようにしていた達也だが、凛子はベッドサイドへ行き、チカエの許可を取りながら布団のシーツに手を置いた。「濡れてるわね」ベッド全体を見渡し「それも広範囲に」とチカエを肯定するように言う。この辺り、普段の愛想は悪いけれど、相手への気遣いはできるのが凛子であり、達也は凛子のそんな面にも好意を感じている。

 「花瓶の水を零した、と言われてもこれだけの範囲で濡らすのは難しいわね」チカエに向かってそう言うと、チカエはほっとしたように「ありがとう」と言った。「信じてくれるんだ」 しかし凛子は横を向いて、「まだ自作自演の疑いがゼロではないわ」と憎まれ口を言う。達也ははらはらしたが、チカエは気にしていないようだ。

 凛子は玄関の方を向いて、「じゃ、本番ね。浴室、見せてもらうわ」と言い、そのまま浴室の方へ歩き出す。最初に部屋に入った時には扉の閉まった脱衣所を横目で見たようだったがスルーしていたのだ。一番の怪奇現象は浴室だよなあ、そう思った達也も後へ続くが、脱衣所の前で凛子に押しとどめられる。「あっち向いてなさい。良いと言うまでこっち見ないように」 なるほど、話からすれば着替えた衣類をそのままにして飛び出してきたはずだから、理由は見当がつくが、この「待て」は、もしかして犬扱いなのか、「よし」と言われるまでちんちんでもしておいてやろうか、と自分でもくだらないことを考えるな、と思った達也だが、おとなしく玄関ドアの方を向いておくことにした。

 脱衣所のドアが開いたようだ。「チカエさん、見られたら不味いものを片づけて」凛子の指示でチカエが脱衣所へ入る。怖いだろうに容赦ないよな、と、チカエに同情する。


 お呼びがかかるまで達也は玄関の方へ向いていたわけだが、その時、玄関脇に飾られた「稲穂」に気が付いた。実った稲穂に五色のリボンを結んで飾られている。へえ、五穀豊穣? いや、金運の方かな。達也の生まれ育った滋賀では、いや滋賀に限らず日本全国で稲作にかかわる神事が執り行われている。その象徴として稲穂を祀る、あるいはお守りにすることもある。達也の実家でもそのような神事にかかわることは多い。ただ、若い女性が飾っているのならば、これはおそらく金運、一粒万倍の方だろう。そう言えばチカエさんも滋賀だっけか。達也は近づいてそっと触れてみた。

 稲穂はもろくなっていたのか、籾が数粒、はらりと落ちた。しまった、慌てて達也はそれを拾う。チカエさんに謝らなくては。


 その時、おそらく洗濯機の中へすべて放り込んだのだろう、洗濯機のふたが閉まった音がして、凛子の「よし」が告げられた。拾った籾をハンカチに包みながらポケットへ入れて、達也は脱衣所へ入った。そして凛子の肩越しに浴室のアクリルガラスを見る。水滴は付いていない。浴室用の空調パネルは24時間換気が作動していることが確認できたが、例の現象から一昼夜経てば、流石に乾いていてもおかしくはない。

 「開けるわよ」凛子がチカエに許可を取る。チカエは怯えてはいたが自分以外の二人の存在に気が強くなっているのだろう、達也の後ろから「どうぞ」と言い、浴室を見つめていた。


 凛子が浴室のドアを開けた。



 結果的に浴室には異常は見られなかった。バスタブは乾燥しており、シャッター式の風呂ふたも立てかけられた状態でバスタブの中に立っていた。最後に浴室を使ったときは、あまりゆっくりと浸かる気にならなくてシャワーだけで済ませたという。そのためふたはバスタブの中に立てかけていたのだが、初日の不動産屋に来てもらった朝は、確かに洗い場の方へ立てかけてあった。だから風呂の栓は確実に抜いてあったし、仮に浴室の掃除をするためにシャワーを振りまいたとしたら風呂ふたはバスタブの中へ入れておいたはずだ、とチカエは語った。


 ローテーブルを挟んで達也と凛子は向かい合う。チカエはこのままでは申し訳ないからと、何か食べるものを買いに外へ出て行った。必然、二人が留守番になる。達也と凛子が作戦会議をしたいだろうことをチカエは感じ取ったようで、二人が何か買ってくると行った際に、自分独りがこの部屋で待つというのも怖いから、私が買ってくると出て行ったのだ。


 「どう思う?」今日このセリフは2度目だ。「この部屋、なんか居そう?」 そう尋ねたのだが、凛子は少し戸惑っている。

 達也は凛子を見ながら「以前に僕の実家へ来てくれた時に、家の前で緊張していたように見えたんだ」「今日はずっとあんな雰囲気は君から感じられなかったから」

 凛子は少し驚いたように「よく見てるのね」と、続いて意地悪そうな顔で「そんなにあたしのことが気になるんだ?」とからかう。

 「まあね」と達也が否定しないので、逆に凛子が顔を赤くさせてしまった。それが悔しかったのか、凛子は続けて「浴室の床もじっくり見たけど、長い髪の毛も落ちていないし、浴室も寝室も何の気配もない。ベッドが濡れているのは本当にわざと水を撒いてそれっぽくしたということもできるわ」と言い、「つまり自作自演」と達也を見つめて挑戦的に言う。

 達也は少し笑って、「本音は?」と聞き返す。凛子は鼻白むと「つまんないわね」と言った。



 ファストフードチェーン店の丼を食べて、達也は凛子、チカエと別れた。凛子が泊まってみると言い出したのだ。チカエは恐縮していたが、それでも心強く感じたらしい。嬉しそうだった。達也と言えば流石に一緒に泊まるわけにもいかず、明日の朝、様子を見に来ることにして、外で夕食を食べてから二人と別れ、帰路についたのだった。

 食事の際に口元を拭おうとしてハンカチを出した達也は、籾が入っていたことを思い出し、チカエに謝罪した。チカエは「全然大丈夫です。あれは貰い物なんで」と言い、金運が上がるという触れ込みで不動産屋さんにもらったものだそうだ。「そろそろ処分しようかなって思ってたんです。サマージャンボも当たらなかったし」とケロリと言う。チカエもずいぶんと元気になってきたようだ。今朝の様子に比べてずいぶんと調子も良さそうだ。達也は少し安心した。


 チカエの様子で安心したせいか、少し気が緩んでいたのかもしれない。凛子が怪訝そうな表情を浮かべ達也の手もとを見ていたことに気が付かなかった。

 そしてチカエを取り巻く問題は、ひとつも解決していないということにも気が回らなかったのだ。

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