第1話 冤罪
「被告人、中村レン。殺人罪により、死刑を言い渡す――」
静寂が、法廷を切り裂いた。
張り詰めていた空気が破れ、しんと冷えた空間に、判決の言葉だけがこだました。
誰かが息を呑む音がした。誰かが泣きそうになって、それを喉の奥で止めた。
けれど、俺の耳には、何ひとつ届かなかった。
ただ、心臓の鼓動が鈍く鳴っていた。
ドクン、ドクン。
「これは夢だ」「まだ終わってない」――そう、脳が必死に否定しようとしていた。
けど、現実は非情だった。
法服を着た男が冷たい声で読み上げた「死刑」の二文字。それが、俺という人間の全人生に下された“結論”だった。
やっていない。
――俺は、本当にやっていないんだ。
殺されたのは、俺の恋人、綾瀬ユカだった。
二人で暮らしていたアパートの一室。
深夜、コンビニに出ていた俺が帰宅すると、部屋の中には血の臭いが満ちていた。
寝室のドアを開けた瞬間、ユカはベッドの上で事切れていた。胸にナイフが深々と突き立っていて、彼女の好きだった白いシーツが、深紅に染まっていた。
頭が真っ白になった。
何が起きたのか理解できず、手が震えながらも救急車と警察に電話をかけた。
けれど、そこからすべてが狂っていった。
第一発見者。それだけで、すでに疑いは俺に向いた。
その上、部屋のドアに鍵がかかっていたこと、犯行時刻にアリバイが不明だったこと――“状況証拠”は、次第に俺を追い詰めていった。
スマートフォンの位置情報は改ざんされ、ユカとのLINEのやり取りも消されていた。
「DVの兆候があった」と語る“隣人”が現れ、ユカの同僚だという女が「彼女が別れたがっていた」と証言した。
どいつもこいつも、俺がまるで“ヒトゴロシ”であることを前提に語っていた。
俺を弁護していた国選弁護士も、途中から明らかに及び腰だった。
「事実を受け入れて、情状酌量を求めましょう」
そんな言葉が出た時、俺は心の底から絶望した。
真実は、どこにもなかった。
いや、“真実”は俺の中にしか残っていなかった。
たったそれだけで、この国の司法は、命を奪う。
三回の審理。たった三回。
それで、全てが決まった。
そして今日が、死刑執行の日だった。
死刑囚の独房は、想像よりも静かだった。
壁は灰色、天井は低い。ベッドとトイレ、洗面台があるだけの空間に、朝日が一筋だけ差し込んでいた。
その光を見ながら、俺は薄く笑った。
何がおかしいわけでもない。ただ、虚無が笑わせただけだった。
「中村、時間だ」
鉄の扉が開く。
黒服の刑務官が三人、無表情で俺を見つめていた。
まるで、これから始まる儀式の準備係のようだった。
何も言わず、俺は立ち上がった。
両手を差し出すと、彼らは無言で手錠をはめた。
それはまるで、最後の“正装”だった。
足音が、冷たい廊下に響く。
一歩ごとに、人生の記憶が頭をよぎった。
ユカの笑顔、母の手料理、友人と交わしたくだらない会話。
すべてが遠ざかっていく。
処刑室に入った瞬間、心臓が強く打った。
真っ白な部屋。天井から吊るされたロープ。
中央に立つ鉄製の踏み板。
死のために設計された、完璧な機械的空間。
「中村レン。最後に言い残すことはあるか?」
係官が問いかける。
その声にも、顔にも、感情はなかった。
まるで、今から命を絶つのが“日常業務”であるかのように、無機質だった。
俺はゆっくりと首を上げた。
視線の先に、誰もいなかった。
ただ、壁と天井と、薄暗い監視カメラだけが俺を見下ろしていた。
「……俺は、無実だ。
そして、俺を殺すこの国もまた、同罪だ」
その言葉は、誰にも届かないと分かっていた。
それでも、俺は言った。
この命が断たれる前に、最後の意志として。
無線がカチリと鳴った。
直後、足元の床が落ちた。
重力が身体を引きずり落とし、
縄が首を絞めつけた瞬間、息が止まり、視界が真っ白に弾けた。
骨が軋み、内臓が浮いた。
脳が揺れ、意識が千切れ、全てが――終わる。
……はず、だった。
次の瞬間、俺は“何か”の中にいた。
目を開けることができない。
手も足もない。
でも、“意識”だけがそこにあった。
暗い。
静かだ。
なのに、確かに“生きている”感覚がある。
《……意識、確認。ようやく起きたか、人間よ》
突如、声が響いた。
いや、“声”というより、頭の中に直接響き渡るような存在感。
《お前は冤罪により命を絶たれた。この世界の理により、新たなる存在として転生を許可する》
《ただし――その姿は、最弱クラス“影”と定められた》
影?
俺が、影……?
《この世界では“影”はただの使い捨ての存在。意志も、名も、存在価値すら持たぬ》
《だが――お前は違う。お前には“死を越えた憎しみ”がある。その執念が、お前を特異点へと導く》
その言葉とともに、俺は“新たな自分”として、影として目を覚ました。
“目”などない。けれど、周囲の気配がすべてわかる。
人間の形を失いながら、感覚は鋭く、静かに目覚めていく。
ここから始まる。異世界で。