第36話 メモリのデータは破棄される
医務室は無人だった。当然、ベッドも病室も空席。しかし、そんな筈はないのだと我は知っている。
魔導書を構える。恐らくは結界魔術の類だろう。まずは位置の特定だ。
「《トゥルーアイ》……再演」
記憶魔術とは、簡単に説明するならば魔術の保存と出力が可能な魔術だ。既存の魔術を記憶した後に、任意のタイミングで再演することが出来る。保存する魔術は別に自分のモノでなくても良く、また魔力消費も保存したタイミングで済んでいる為、非常に燃費も良い。
今回は、保存した魔術のストックから、色魔術の一種である《トゥルーアイ》を発動する。視覚を強化し、物体の本来の色を識別することを可能とする魔術だ。
視界がカラフルに染まる。光源や角度、視力などの外的要因を一切無視して、色という情報が脳に叩き付けられる。中々に負荷の高い魔術だ。常に発動しておくものではないな、これは。
「見つけた」
そして、病室の1つが明らかに異常な色を放っていることを確認する。病室を仕切るのは全て白いカーテンのはずなのに、我の目には黒色が確かに映っている。近付いて、カーテンを開ける。何もないベッド、だが、そこも我の目は異常があることを確かに示す。人型の何かが、色として我の目へと焼き付いている。
「《ディスペル》……再演」
場所が特定できれば、後は解除するだけだ。解除魔術を発動する。昔、図書館の人物からストックに加えたらしいが、あまり詳細には書かれていなかった。強力な魔術だが、ストックはあまり多くはない。無駄使いは出来ない魔術だ。
魔術を成立させている魔力を吸収し、隠蔽用の結界魔術は解除される。そこには、ガラス張りの病室と、ベッドに横たわる一人の少女の姿があった。
――ジジッ
「……まぁ待て、我は敵ではない」
視界にノイズが走る。同時に、我は目を閉じる。もし目を開けたままにしていれば、そうだな……我の首が飛ぶだとか、異形の怪物が現れるだとか、そういう何かが起きていただろう。彼女の魔術に対する対抗策も、過去の我は調べ上げていたのが幸運だった。
「シュヴァルツ、アンオブタニウムの人間だ。良いか、我は敵ではない。だから……次は確かに"観測"する。我はお前との対話を望んでいる。以上だ、後は好きにしろ」
リスクはある。しかし、こうでもしなければ、彼女とコミュニケーションは取れないだろう。だから、我は目を開ける。ガラスの中の少女から背を向けて、病室の虚空を見つめる。そして。
――ジジッ
視界にノイズが走り、眼の前に青い蝶がふわりと舞い降りる。我は目を開け続ける。
――ジジッ
そして、その青い蝶がいた位置に、ガラスの中にいた少女が……ノイズ混じりの映像のような朧気な状態で、そこに立っていた。そう、それを、我は確かに"観測"する。
「エル・レディンガー……だな?」
「うん。エル・レディンガー。或いは、そう呼ばれているだけの存在。けれど、あなたがそう定義するのならば、きっと彼女はエル・レディンガーなのだろうね。少なくとも、あなたの中では間違いなくそうなのだろう。あなたの世界はあなたで完結しているのだから」
「長ったらしい。エルでいいな」
「うん、エルはエルだ。まるで神のような名前だ。いや、一般的には天使のようだと形容する方が良いのかな。いや、あなたのような博識な人間にとっては、やはり神のような、が相応しいかな」
そこにいるようで、そこにいないような感覚。夢を見ているような感覚。胡蝶の夢という言葉が頭に浮かぶ。白黒のモノクロの髪。透き通るような白い肌。赤と青のオッドアイ。何もかもがアンバランスで、危うくて、歪で、そして美しい。そんな少女だった。
「状況はどこまで把握している?」
「描写されたことは、全て知っている。つまり、シュヴァルツ先輩が目を覚ましてから、ここに来るまでのことは全て知っている。更に言えば、今回ばかりはボーナスチャンス。エルは少しだけ未来のことを知っている。今回ばかりは例外的にね」
雲を掴むような感覚だ。彼女の言葉は、決して破綻しているわけではないが、決して理解することが出来ない。まず、前提条件を破壊する必要があるのだろう。恐らく、彼女に対して我の一般的な感性や常識は通用しない。あぁ、そうだな、彼女の言った通り……神のような存在と対峙していると思った方が良いのだろう。
「エルはそんな大層な存在ではないよ。観測者であり、観客であり、けれど部外者でもない。あぁでも、あなたがエルを神として認識するのであれば、きっとエルは神になれるのかもしれない」
「続きだ。お前とゆっくり話していたら日が暮れる。結論から話そう。ソン教授の計画を暴きたい。協力してくれ」
「構わないけれど、エルに出来ることはあるの?」
「お前は、あらゆる場所に偏在する。本体はこの医務室から動けないのだろうが、分身……のような、少なくとも我が今目にしているような姿であれば、物理的なあらゆる障壁を無視して立ち入れる筈だ」
「それは無理な相談かもしれないね。エルは確かに何処にでもいるけれど、けれど何処にもいない存在でもある。エルがこの医務室の外に存在するためには、観測者の存在が必要。つまりは、誰もいない空間、エルを見る人間がいない場所で、エルは存在することができない」
なるほど、そういう絡繰りがあったのか。ソン教授の研究室は、恐らく今は無人。誰も見ていない場所、誰もいない場所に、エルは存在できない。つまり、誰かがエルを観測する必要があるわけだ。
「ただ、方法がないこともないかな」
「……何でもいい。手段を選んでいる余裕はない」
「夢を使おう。例えば、あなたはエルがソン教授の研究室を訪れる夢を見るとする。その空間であれば、エルは確かに存在できる。夢の中ではあるけれど、エルを観測しているのだから、エルはそこに存在できる」
「なるほど……夢か」
望んだ夢を見る方法自体は存在する。そういう魔術は確かにストックの中にある。しかし、一つだけ問題がある。普通であれば何ら問題にならないある一点において、今回は例外だ。
「そう、問題は、シュヴァルツ先輩が夢を見るということは、今日のシュヴァルツ先輩が終わってしまうということ。エルとこうして画策したことを、綺麗さっぱり忘れちゃったら意味がない」
「別に、難しい話ではない。明日の我に続きを託せばいい……」
「それはどうなの? シュヴァルツ先輩は、明日の自分に使命や目的や、未練や呪いを残したくないんじゃなかった?」
「そうだ。我は明日の自分に、自由に生きて欲しいと願っている。だから……強制はしない。我は、今日起きた全てを記録して明日の我に託すが……それだけだ。明日の我は、今日の我と同じように『今日のお前がしたいように生きろ』という言葉の通りに生きるだけだ」
「もし、明日のシュヴァルツ先輩が思惑通りに動かなかったら?」
「それでいい。もしそうなっても、エル。明日の我を責めないでやってくれ」
「……そうだね。その通りだ。約束するよ。エルは決して明日以降の君を責めたりしないし、使命を強要しない。けれど、状況は中々に切迫している。エルの知る限りだと、今夜……リツくん達は大きな戦いに身を投じることになる。そして相応の犠牲を支払って勝利する。ただ……問題はその先だ」
「……エル、お前は何処までの未来を知っている?」
「今夜まで。こちらのサイドの情報が欠落しているから、あまり多くを語ることは出来ないのだけれど。一つだけ。今夜……いや、正確にはほぼ早朝かな。この大学は図書館に占拠される。恐らく、その未来は決して変えることの出来ない事実だ。だから……変えるとすればその先」
「……思っていた以上に時間は無かったようだな」
「明日の自分に使命を押し付けたくはないとは言っていたけれど、明日の君が今日の君と同じくらいお節介な人間だった時の為に、引き継ぎの準備は入念にね。多分……本当に大変なのは明日の君だよ」
「了解した。色々と助かった。有難う、エル・レディンガー」
「うん。エルとシュヴァルツ先輩は友達だからね。もちろん、今までも、今日も、明日以降もね」
――ジジッ
ノイズが視界に走って、エルの姿は掻き消える。そして、青い蝶がふわふわと……優雅な軌跡を描きながら、窓の外へと飛んでいった。
その後、我は自分の部屋に戻り、"後始末"を終えて。夢を操作する魔術を使用して眠りにつく。しかし不思議なものだ。夢の中のソン教授の研究室は、所詮は我の想像に過ぎないのではないのか?
いや、因果は逆なのだろう。我が夢の中で観測することで、その場所がソン教授の研究室であると確定するのだ。エル・レディンガーという人物が関与するということは、そういうことなのだろう。
意味の分からないことを考えている。こうして記述してから意味が分からないと理解する。きっと、恐らく、もうすぐ。我は眠りに落ちるのだろう。
そして、今日の我という存在は終了する。全ての記憶を失って、明日の自分として生まれ変わる。
あぁ、そりゃそうだ。我だって、所詮は人間だ。だから……
――死ぬのは、怖いものだな




