9.イクサ カッタ スグカエレ
姫子は家に入るなり二階へ上がり、右側の自分の部屋に飛び込んだ。
なぜか無人であるはずの左側の部屋――王子の部屋から灯りが漏れているが、そんなことを気にしている暇はない。
勉強机の上に乗っていた来週提出予定の進路希望調査票を払い除け、引き出しから書き掛けの手紙を取り出す。そして大急ぎで『神さまのご威光により何不自由なく暮らしています』などの定型の文言で空白を埋める。もちろん、故国の文字だ。
使者がとんぼ返りで姫子の手紙を持ち帰る手はずで、本来ならもう数日あとのはずだった。すっかり油断していた。
パソコンで雛形を作って印刷出来ればどんなに楽かと思うが、それは無理な望みである。王子への手紙は、故国の文字で書かねばならないのだ。それに変わりばえのしない内容である以上、肉筆でもなければ誠意がなさ過ぎるだろう。
「――よしっ、出来たっ! あちちっ」
手紙に封蝋を施して階段を駆け降りると、セーターに半纏を着込んだ老ダンダーンが気難しい顔で居間のソファーから立ち上がる。
元王宮魔術師ダンダーンは齢七十を越え痩せ細ってはいるが、きつく巻いた髪はまだ黒い部分も多い。浅黒い肌の皺の奥に垣間見える鋭い眼光などは、若かりし頃の姿を偲ばせた。故国であれば高位の魔術師だろうが、この辺りの老人会ではまだ若輩の身であるらしい。故国と違って、双竜町の人々は長生きなのだ。
「お帰りなさいませ、姫さま」
「ただいま……あら、お使者はどこに?」
そういえば、広い庭にも飛竜の姿は無かった。老ダンダーンはそれには答えず、おもむろに懐から一枚の紙を取り出し、恭しく姫子に差し出した。
「封筒はゆえあってお見せできませぬ。内容は姫さまご自身でおあらため下さいま――」
「姫さまっ、おめでとうございますっ!」
それが王家の紋章である飛竜を象ったすかしの入った便箋だと気付く前に、いつになく陽気な乳母の声が老ダンダーンの台詞を遮った。
老魔術師とは対照的に、異界に来てから鞠のように丸々と太った乳母は真新しいシーツや枕カバーを抱えたまま、階段を上がるところだった。
「あたしゃもう、この日が来ることを一日千秋の思いで待ち侘びておりましたよ」
「これっ、サビーハ」
目頭にシーツの端を押し当てる乳母を、渋面の老ダンダーンが諌める。
二人の遣り取りに内心驚きながら、姫子は手紙を開いた。故国でもあるまいし、咎め立てするつもりなど毛頭ないが、先に手紙を読まれていたことなど今までになかったのだ。手紙はいつも通りの、メモの走り書きのような筆跡だった。
(小学校じゃ綺麗にノート取っていたのに。故国の文字は書き辛いのかな?)
乳母は故国の鼻歌を歌いながら階段を上がっていった。
ドアのきしみ具合から、王子の部屋に入ったことが分かる。来客でも来るのだろうか。故国の文字を適当に拾い読みしていた姫子の菫色の瞳が、ぴたりと止まる。
(『戦』『勝った』『帰郷』ですって?)
いつもなら、故国のどの辺りで行った戦で大勝したとか敵の大将の何某を討ち取ったとか、言葉通りならとっくの昔に王座を奪還しているはずと突っ込みたくなる内容なのだ。それが、ほんの二、三行で終っている。
「……これって、どういうこと?」
「国王を弑逆した賊をついに討ち果たすことができた。よって一週間後に迎えを寄こすので準備されたし――とのことですな」
やはり先に読んでいたであろう老ダンダーンが、流れるよう正確に語った。
十二年続いていた戦が、ついに終ったのだ。
(↓続きます)




