26.幼馴染は爪痕を残したい*
「智志君は、私達にとって象徴なの」
「象徴?」
「この穏やかな異界で生きた証なの。私も、すっかり平和ボケしちゃった。でも、故国の平和は、私達自身の手で築かなきゃいけないのにね」
「いや、僕は決して優しくなんてなかった」
なぜか智志の頑なな雰囲気に飲まれ、姫子は一歩引いた。自分の過失ではあったが、ゴンドラの中で抱き締められたことを思い出す。
「君は考え違いをしている。四年前の王子君の葬式の時、王子君は故郷に戻っただけだって言って泣いていた君を、僕は持て余してしまった」
「……ちっ、ちょっと智志君?」
気付いた時には智志に腕を掴まれ、引き寄せられていた。眼鏡の奥の瞳は街灯が逆光で窺えないが、姫子の怯えが伝わるほど近くにある。
「……その青い衣装も甘い香りも、何もかも王子のためなんだね、姫ちゃん」
腕の中に閉じ込めるように抱き竦められたが、姫子は腕を突っ張ってもがく。
「だっ、駄目よ、私は王子のものなの! 故国に知られたら智志君は――――!」
乳母が綺麗に紅を差してくれた唇が、無情にも奪われる。
口付けなどしたこともない姫子だったが、智志の薄い唇が冷たく、震えているのを感じた。世間では、女性から男性へ愛を告白する年に一度の日ではなかったか。
「――――ん!」
とっさに、渾身の力で智志を突き飛ばした次の瞬間、それまで智志の居た場所をオレンジ色の炎が通り抜けた。姫子の危険を察知したコカブが、口から炎を吐いたのだ。姫子はその隙に長い首の補助を受け、銀の鞍に跨がった。
「智志君は運がいいわ。故国の法によれば、姦通罪で石打ちの刑か不敬罪で斬首されるところよ」
「――それでもいいよ、僕は」
口元を拭う智志の掌には、姫子が唇を噛み切ったせいで血が付いていた。
「子供時代の淡い思い出にされるぐらいなら、辱めを受けた怒りと共に、涙目の君が繰り返して思い出してくれた方がずっといい」
「…………」
――しゃらん。
姫子が銀の鈴が結ばれた五色の手綱を引くと、燻し銀の飛竜が浮き上がる。周りの木々をそよとも揺らさず、優雅な飛翔だった。
(さようなら、智志君……)
姫子は二度と振り返らなかった。
**(※ここだけ智志Side)**
児童公園を飛び立った銀色の飛竜は、すぐに個体識別できなくなった。
上空を旋回している飛竜達が双竜町の上を飛ぶ姿は、それ自体がまるで一匹の巨大な竜のようである。それらが遙か遠くまで響き渡る、不思議と物悲しさを帯びた声で鳴き交わしたのを合図に、一斉に満月の方向へ飛び去った。
「さようなら。姫ちゃん」
あとに残されたのは、姫子の未練と共に切って捨てられた白のダッフルコートと智志だけだった。コートの重みに気付いて探ると、ポケットに飲み掛けのペットボトルのお茶が入っている。血の味を消そうと智志があおると、姫子と同じ香りと爽やかな苦味を覚えた。姫子のあまやかな香りは、ジャスミンだったのだ。
「……君が気にするまでもなかったよ、王子君」
すべての飛竜が月の痘痕のひとつに過ぎなくなっても、智志は夢の余韻から覚めやらずに立ち尽くす。軽やかに飛び去る彼女らに向ける感情は嫉妬なのか、それとも憧れなのか。自分でもいまひとつ、掴めないのだった。




