4.社則は法律よりも強い。
シュレッダーに貼られた“有給届はこちらへ”と書いてある紙を見つめ、なんだか切ない気持ちになる。
あの上司がこんなことをするとは思えないから、タナカ先輩あたりの仕業だろうか。ここ二・三日姿を見かけない先輩の身が心配だ。
「おい! さっさと仕事をしろ」
部下がトイレに立つことにも文句を言わねば気がすまない嫌な上司にもずいぶんと慣れてしまった。タナカ先輩が失踪した原因は、間違いなくこの上司だと思う。有給申請をすべて握り潰すなんて人間のすることじゃない。
有給は労働者の権利だというのは、別の国の話だったのかな。だとしたら、今からでもその国に移住を希望したい。
「ディス」
「ディス、ディスディス」
ヨシダ先輩三号と五号がなにか話している。どうも回ってきた書類に不備があったみたいだ。
人格改造手術を受けるとディス語しか話せなくなるのは本当にどうにかしてほしい。個性が消失してみんな同じような顔になるのも地味に困るし、見分けがつかないから全員“ヨシダ”と呼ぶことに抵抗がなくなってしまったことも悲しい。
“忙しい”とは心を亡くすと書くが、私の亡くしてしまった心に誰か復活の呪文を唱えてあげてくれ。勤続三十年の上司を見るに、私はまだ戻れるところにいるんじゃないかと思うんだけど。
「悪の組織で人の心を持ってるのもなかなかにツラいと思うぞ」
「ナカムラさん!」
「大丈夫か? 心の声らしきもんがだだ漏れだったけど」
それはマズい。
先月の二十三連勤の疲れが癒えていないに違いない。あれは過酷な期間だった。悪の組織に“代休”という概念を叩き込んでくれるヒーローを今すぐ募集したい。
しかし、構成員が減って私の仕事が異常に増えたのはヒーローが原因なので彼らを根絶やしにする方が早い気もする。
「ナカムラさん、ヒーローなんてみんなやっつけちゃってください」
「ん? おお、まあ頑張るわ」
私の他力本願な願いも軽く受け止めてくれるナカムラさんは本当にいい人だ。
さすが“今後上司になってほしい上位戦闘員ランキング”三位。私的にはもちろん不動の一位です。
こんな下っ端構成員にも声かけて気遣ってくれるなんて怪人の鑑だと思う。強くて、高給取りで、後輩にも優しいなんて完璧か。
「お前、今日も日勤だろ? もう十九時過ぎてるし帰らねぇか。給料日だしなんか奢ってやるよ」
「え!? そ、そんな、いいんですか!?」
「いいぞ」
ひょっとしてナカムラさんはすでに私の上司だったのでは?
違うのなら、今すぐMr.パワハラを交換しよう。そうしよう。
「もう帰れます! 今すぐ出れます!」
「んじゃ、行くか」
「はい!」
私たちのやり取りにいっさい興味を示さないヨシダ先輩三号五号に一応退勤の挨拶をしてから、私はナカムラさんとともにオフィスをあとにした。
「なんか食いたいもんあるか?」
エントランスへの道を私の歩幅に合わせて歩いてくれるナカムラさんはいったいどこまで優しいのだろう。こんな下っ端構成員のリクエストを聞いてくれるなんて。
しかし、悲しいかな。
職場と自宅の往復という潤いのない生活をしている私には、美味しいお店もオシャレなお店もなに一つ思い浮かばなかった。
最近の主食は十秒でチャージできるエネルギー食だ。片手で食べられるって素敵。
「ないなら俺のオススメに連れて行ってもいいか?」
「お任せします」
同じようなシフトで働き、強制サービス残業しまくりのはずなのに、オススメの飲食店があるナカムラさんを素直に尊敬する。こういう人としての余裕が成功の秘訣なのか。上位戦闘員ってやっぱり違うわ。
「ゼエヴ氏!」
ナカムラさんの怪人ネーム久しぶりに聞いたな。
ちなみに、ナカムラさんは狼の怪人だ。我が組織の怪人ネームはすべてそのモチーフとなった動物の名前をヘブライ語で呼んでいるだけで特にひねりとかはない。
“上司にしたくないランキング”一位の研究所所長が都合が悪くなるとヘブライ語しかわからなくなるので、研究所職員はヘブライ語の取得が必須だそうだ。……どこの上司もろくな人がいない。
「ヤマダさん。なんか用か?」
「退勤時に呼び止めてすまない。この間の検査で採血ができなかっただろう。今から少し時間をくれないかな?」
「? 採血の針が刺さらなかったから、特注品が来るまで二週間はかかるって言ってたじゃねぇか」
ナカムラさんを呼び止めたのは研究所の人のようだ。
話の内容を聞くかぎり、どうやら定期検査のときに強化レベルが高すぎて採血針が皮膚を貫通できなかったらしい。鉄板にも簡単に穴が空くはずの針が通らないってどんな身体だ。
「いや、特注品の申請をしたら許可が下りなくてね。きみ、再生力もそこそこあるだろう? ちょっと腕をレーザーで切り落として、そこから血液を採取したらいいかって話になってね」
「よくねぇよ」
「なに、痛いのは一瞬だよ」
「ふざけんな。検査費用は払ってんだから真面目にやれや」
ナカムラさんから聞いたこともないようなドスのきいた声がする。
ヒーローと戦っているときももうちょっと穏やかな感じで話す人なのに。敵よりもたちの悪いのが身内にいるってツラい。
「しまった。きみは律儀に検査費用を払ってるタイプの戦闘員か」
「アンタみたいな奴がいるから払ってんだよ」
ナカムラさんの言葉にヤマダさんは“残念だよ”と肩を落として研究所へと戻っていった。
「悪いな。時間食っちまって」
「いえ、大丈夫です。……今のってどういう話だったんですか?」
「ん? お前も人体改造手術受けてるんだから定期検査はしてるだろ?」
「それはもちろんしてますけど」
所謂メンテナンスだ。
レベル1の下っ端構成員は半年に一回の定期検査が義務づけられている。ナカムラさんのような上位戦闘員は二か月に一回で、これは階級・役職を問わずどれだけ業務が忙しかろうと最優先事項として就業規則に記されている絶対の掟だった。ただし、業務時間に検査を受けることは許されていないので、みんな自分の時間を削っている。
福利厚生の一環で、一応その費用は組織負担のはずなのだが。
「検査費用を組織負担にしてるとなにされるかわかんねぇから止めとけ」
「え?」
「自腹で払えば、“お客”扱いで検査のやり方に拒否権があるが、組織負担だとよくてモルモット扱いだぞ」
つまり、組織が費用を持つ場合はその検査は組織のためのものであり、組織の同意があればいかなる検査・改造を施されたとしても拒否権がないという鬼畜使用らしい。
嘘でしょ。そんなの聞いてない。
ここは法治国家じゃなかったのか。基本的人権はどうした。
「私、先月定期検査受けたんですけど……どっか変なとこありますか?」
「いや、大丈夫だ。よっぽど運が悪くねぇかぎりレベル1の構成員におかしな改造したりはしねぇよ。ただ、次からは費用は自分で払った方がいいぞ」
「……そうします」
ナカムラさんが言うには、人格改造手術は今のところ“罰則”や“処分”として使われているので、組織負担の定期検査を受けて人格を改造された人はいないのだそうだ。なにも安心できない。
「ほれ、飯食いに行くぞ」
「はい」
そのあと。
自分の所属する組織のヤバさに改めて慄きながら、私とナカムラさんは一緒に美味しいイタリアンを堪能した。ただの後輩のために予約必須の人気店を押さえておいてくれる彼はやっぱりヒーローなのかもしれない。
社内で起きた犯罪行為を内々で収めるのは犯罪です。会社に治外法権を適応するのは止めてください。