第一話〈目覚め〉
2022/6/30 修正
____ポチャリ
どこかで、水滴が垂れる音が聞こえた。普段、就寝時には聞くことの無い音。
しかし、それだけの情報では、夢か現かを判断できず、そのまま凄まじい眠気に翻弄され、寝返りを打ちながら、再び夢の世界へと沈んでいく。
____ポチャリ
しかし、再びの水音がそれを許さない。断続的に続くその音により、少しずつ意識が覚醒し始め、様々な違和感を身体が感じ始める。
まず、床が、硬い。そして寒い。
追加で、僅かだが、風も感じる。
おかしいな、窓を開けたまま寝ただろうか。
目を開ける前に様々な情報が入ってきてしまい、完全に覚醒するのを心が拒否している。絶対に起きたくない。絶対にだ。
就寝時と、辺りの様子が違いすぎる。異変が起きたのは確定だ。これが、夢でないのなら。
しかし、一度夢の世界から浮上してしまったら、もう自分の意思では戻れない。そのまま、ゆっくりと、だが確実に、肉体は覚醒へと向かっていく。
青年は諦め、自らの意思でゆっくりと目を開く。
目を覚ますと、そこは草原の中だった。
ゆっくりと横を向く。
眼前に広がるのは風に揺られ、さまざまな表情を見せる草原と、青い空、雲海、二つの月に吠える鯨、そして花。
しかし、もちろん青年には外で眠るような習慣はない。
(うん。これは、夢だな)
草原だけ見れば、ただ寝ぼけて外に出てしまっただけという万が一、いや、億が一の可能性も無くはないかも知れないが、残念ながら既に理解の範疇を越えるものがいくつも視界に入ってしまった。特に、空に浮かぶ鯨とか。
そこで、この悪い冗談のような光景を夢だと断じ、そっと目を閉じ、今度こそ夢の世界からの覚醒を念じるが、当然何も起きない。
「はぁ????」
改めて目を開け、そこにある光景に、驚きで口が開いたまま塞がらない。
その口に湿った風が入り込み、肺が爽やかな空気で満たされる。空気がうまい。うますぎる。残念ながら、青年はこんなうまい空気は知らない。
視覚だけでなく、青年の五感全てが、残念ながらこの状況が現実であるということを告げていた。
青年は、状況が理解できず、固まってしまう。
外だ。
意味がわからない。暖かい場所で眠っていたはずなのに、外にいる。こんな草原、いや、こんな“世界”は知らない。
思わず飛び起き、続いて自身の状況にも驚愕することになる。
「?????」
全裸。青年は、自分が何の衣服も身につけていない事に気づく。
おかしい。明らかにおかしかった。青年は服を着る民族のはずだ。文明的で、科学の発達した現代人。
しかし、何故だか全裸で草原に横たわっていた。とてもではないが、この現実を青年はまだまだ受け入れられそうになかった。
そこで、昨夜の行動を思い出そうとして、更なる異常事態に気づく。
「思い、出せない……?」
そう。昨日のことが、思い出せない。いや、昨日だけではない。一昨日も、その前も、何なら家族のことも、自身の事も、何をやっていたのかも、何も、思い出せなかった。
--記憶喪失。
ぽつりと呟く。
なるほど、記憶がないとはこういう感覚なのか。基礎的知識はあるのに、自らに関する記憶だけ綺麗さっぱり、脳のどこにも残っていない。完全に違和感が先にやってくる。
はっきり言って、状況は最悪だった。いや、最悪という事が把握出来るだけまだマシか。
記憶喪失のうえ、その身一つのまま、どことも知れない草原に放置されている。
「ははは……」
思わず笑ってしまう。楽しいからではない。あまりにもどうしようもなくて、お手上げの、投げやりな笑い。
きっと、これが物語の主人公ならば、いきなり理解不能な状況に追い込まれても、持ち前の主人公パワーで何とかしてしまうのだろう。
しかし、青年はもちろん、物語の主人公でも何でもない。持っているのは、自身が記憶喪失であるという確固たる自信だけ。明らかに詰んでいる。
ひとしきり笑った後、青年は再び草原に横になる。どうすればいいか分からない。しかし、どうやら今のところ助けてくれるNPCや、解説者は現れない。なら、考えるしかないだろう。この、記憶喪失という、最大級のハンデを持った脳みそで。
「よし、まずは探索だ」
こうなったら、この世界、あえて“世界”と呼称するが、この世界を知るしかない。状況はよく分からないが、このまま野垂れ死にたくはない。
それならば、行動するほかないのだ。そして、今の青年にまずできることは、周辺の探索である。
青年は立ち上がり、あたりを見渡す。すると、案外自分の立っている草原が、それほど広くはないということにすぐに気づいた。草原の草丈は短く、地面が見える程度。
裸足だが、まぁきっとこのまま歩いても地面に何か落ちていれば気がつくだろう。硬いものを踏まないように気をつけながら慎重に歩き出す。
草原の端にはすぐに辿り着いた。青年が横たわっていた場所からゆっくり歩いて数分、というところだろうか。
しかし、端。草原の端と表現すると誤解を招きそうなので訂正してお伝えしよう。
そこは、大地の端だった。
大地はそこで途切れ、その下には空と雲海。さらに下は……よく見えない。周りには、空中に浮かぶ島々。青年のいる場所に似たような草原の広がる大きな岩が、そこら中に浮かんでいた。
「ほぇ~~」
青年は大地の端ギリギリまで攻め、下を覗き込む。しかし、同じような島が複数あるだけで、期待した大地は目に入らない。
状況を考えれば、青年のいるこの場所も、空に浮かぶ島の一つだと考えられよう。しかし、そうなれば空を舞う翼も、浮遊する不思議ぱわーも持たない青年にとっては、“詰み”の状況が確定してしまうことになる。
そうなっては記憶喪失の青年による、愉快な冒険譚が始まる前に幕を閉じてしまう。
なので、青年は再び青年が横たわっていた場所に進行方向を定め、軽やかな足取りでそちらの方向へ向かい始める。なに、きっとこちら側がハズレだっただけで、向こう側には山とか、川とか、村とかがあるはずさ♪
「…………」
そんな青年の淡い妄想は、数分後に儚い夢と消える。反対側も同じく、そこから続く大地は存在しなかった。というか、青年が今来たところは地面が少し盛り上がっていて、軽い丘のようになっている。そこからは普通に周辺が見渡せ、青年がいるこの草原が、他の島と同じく、宙に浮かぶ島の一つに過ぎないという事が分かってしまった。
「いや、終わりじゃん……」
宙に浮かぶ島に一人きり。服なし、装備なし、記憶なし。きっちり三拍子揃っている。ダメだこりゃ。
青年は三度草原に寝転がり、チクチクとした感触を背中に受けながら、今度こそ投げやりな気持ちで大の字になる。背中が痒い。全裸だから。
空を泳いでいた鯨も、もうどこかに行ってしまって、もう見えない。正真正銘、青年は一人だった。
「しかし、記憶喪失、ねぇ」
青年は、一人呟く。
記憶喪失。一概にそう言っても、様々なものがあるが、記憶がないのにも関わらず、青年には一つ、確信できる事項があった。
「この世界は、知らない」
そう。空飛ぶ鯨も、中に浮かぶ島々も、青年の常識、知識の中には存在しない。これは、記憶のない青年にもわかることであった。つまり、青年の記憶喪失は、エピソード記憶がないということか。いや、詳しくは知らないが。名前も分からないし。やっぱり分からん。
少し冷たい風が吹き、ブルリと身体を震わせる。少し寒い。まだ日があるので全裸でも凍えるまでは行かないが、夜になればおそらく寒いだろう。夜があればだが。
しかし、ただ寝転がっていても、何も起こるはずもないので、気を取り直して自分のいる島を調べ始める。
まず、青年は島の外周を、落下しないよう、端に近づきすぎないようにしながら、ゆっくりと歩いてみる。すると、ほんの十数分で一周してしまう。月の方角で一周を決めたので正確かは分からないが、それでもかなりミニマムな島だ。
周りを見れば島から滝が流れているものもあるので、青年がいるこの島にも、水がどこからか湧いている可能性もあると考えたのだが、青年がいる島は綺麗に草原しかない。
木も岩もないので風から身を隠すところがないのは、全裸の青年にとってはかなり厳しい条件だ。寒い。特に、下半身が。
続いて、地面の草を引っこ抜いてみる。鯨が浮く世界だ。草も普通ではないかもしれない。そう思い、慎重に抜いてみたが、見た目は普通、味は雑草。
「まず、ぺっぺっ」
思わず口に入れてしまったが、土の味しかしない。雑草の味って何だよ。知らんわ。
ダメだ。もうやることが無くなってしまった。大地の端に座り込み、ゆっくりと日が沈んでいく様を見守る。沈んでいくといっても、地平線は見えないので、雲海に沈んでいくのだが。これはこれで幻想的な風景だ。うん、どうやら夜は無事にやってきそうだ。
空と雲は赤く染まり、島に影が落ち始める。月は徐々に大きく見え始め、どこからか鯨の嗎が聞こえた気がした。
日が落ちるのに従い、当然、と言っていいのかは分からないが、気温もそれに連動して落ちてくる。
つまり、寒い。しかも、風が結構強くなってくる。
「うぅ……やばいぞこれ」
体を丸め、なるべく体温が落ちないよう、体育座りで縮こまる。しかし、それでも無情な風に体温はどんどんと奪われていく。
日が完全に沈むと、どこからかまた鯨が現れた。かなり遠く、月に重なってシルエットが浮かび上がる。月の光が強いが、人工的な光がないからだろうか、星空がよく見えた。
しかし、知っている星座は見当たらない。最も、記憶のない青年の知識には、冬はオリオン座、夏は大三角くらいしか知識は無いが。
青年は、寒さも一時忘れ、その壮大な自然の風景に息を呑む。分からない、何も分からないが……この風景は、きっとなかなか見られるものでは無いだろう。鯨が潮を吹き、月光に照らされ、月虹が出る。
「あぁ、綺麗だな……」
青年は思わず呟く。そして思う。
「見せたいな……」
一瞬、月光に照らされた桜の木を夢想し、そしてその朧げな記憶はすぐに泡と消えていく。
一体、誰に、見せたいというのだろう。それは、青年自身にも、分からなかった。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。こんな状況で眠りにつける自らの胆力に関心するが、何かの鳴き声と、体の芯から凍えるような寒気で目が覚める。
どうやら座り込んだまま眠ってしまっていたようで、身体がガチガチに硬ってしまっている。
「あぶねっ」
青年は、島の端ギリギリで眠ってしまっていた。慌てて飛び起き、端から離れる。危ない危ない。これで落ちて死んだら笑い話にもならない。
「ん?」
と、ここで何やら頭上が騒がしいことに気づく。
頭上が、騒がしい?
何やら鳥の鳴き声のようなものが聞こえるので、頭上を見上げると、そこには黒い、巨大な影。
ガァァァァァァァァァァァァ!!!!!
「うおっ!?」
鳥だ。それも、青年の背丈をゆうに越す大きさの。
怪鳥が大きな鉤爪を広げ、まさに青年をハントしようとしていた。青年は慌てて避けるが、怪鳥は大きく翼を広げ、大空から青年を睨みつける。
怪鳥は、ハゲワシを何倍にも大きくしたような姿をしていた。しかし、青年の知識にあるハゲワシではない。青年の知識にあるハゲワシは、少なくとも翼は4枚も無かったし、頭は3つも無かった。間違いない。化け物だ。怪鳥だ。
これはまずい。ピンチ、いや、生命の危機と言い換えてもよかった。捕まれば最後、青年は3つの頭にちぎられて、雛鳥の餌にされるに違いない。絶対そうだ。そうに決まっている。
故に、青年は走って逃げる。裸足で草原だ。走りにくいったらありゃしない。何だよこの序盤で装備ゼロのクソゲー。人生はゲームじゃあねぇんだぞ。
そんな感じで心の中で悪態をつきながら、しかし身体は全力で動かす。寝起きで全裸。最悪のコンディションだが、何とか身体は動いている。何とかするしかない。
そんな青年の涙ぐましい努力虚しく、あっという間に島の反対側の端に追い詰められる。当然だ。この島は外周を歩いても十数分で周回できる広さしかないのだから。
3つの頭でギャーギャー騒ぎながら、しかし島の端まで青年を軽く追い詰めた怪鳥。
ヤバい、ここからどうしよう。背後には奈落、前には怪鳥。逃げ場は無く、あの怪鳥を撃退する魔法のスプレーもない。ついでに全裸。間違いない。詰みだ。
青年をその場で捕食するためか、島の地面に降り立つ怪鳥。
その怪鳥を見上げ、改めてその大きさに驚く。全長は3メートルほどあるだろうか。嘴には怪鳥にふさわしく、鋭い牙が並んでいる。青年を細かくするのに役立ちそうだ。役に立たれると困るが。
すると、唐突に強風が吹き付け、怪鳥がよろめく。おぉ素晴らしい。神風か。ぜひそのまま怪鳥を吹き飛ばしてくれ。そんな風に考えていると、青年の視界が傾く。
「おや?」
当たり前だ。あんなガッチリした鉤爪を大地にめり込ませた怪鳥がよろめくのだ。
島の縁ギリギリに立っていた青年がよろめいて、浮遊島から下に落下するのは当たり前。ミスったミスった。
大事な所がすくむような浮遊感。一瞬で身体に打ち付ける風に凍え、風圧で呼吸ができなくなる。怪鳥が何やら騒いだ気がしたが、もう見えない。いや、もうそんなことはどうでもいい。ヤバい。意識飛びそう。
手足を目一杯に広げ、何とか身体を大の字にし、風を全身で受け止める。何秒たったか分からないが、いまだ地上に叩きつけられ、見るも無残なトマトには、幸いにもなっていない。
その時。
現れたのだ。
救世主が!
もちろん、こんなところに勇者は現れないし、白い翼の生えた天使はやって来ない。高度何メートルかは知らないが、もしここに誰かが現れたとしたら、きっとそれは人間ではない。
では救世主とは何か。
そう。
先程の怪鳥である。
きっとこの辺りには餌にできる獲物は少ないのだろう。だから、滅多にいない大物である青年を諦められなかったのだ。随分と好かれたものだ。
怪鳥は大きな翼を広げて滑空し、鉤爪を青年に向けて急降下してくる。
もうダメだ。目を開けていられない。怪鳥は関係ない。風のせいだ。怪鳥の翼がはためく音が叩きつける風の音に混じって聞こえる。
(死にたくないなぁ)
そんな風に、ボンヤリと思った。
次の瞬間。
青年は鉤爪につかまれる。
「…………」
あれ? 痛くない。どうしたことか。
浮遊感は無くなり、代わりにまるでブランコに揺られているかのような安心感。
青年は恐る恐る目を開ける。
そこには、青年を優しく包む鉤爪と、大空を優雅に舞う怪鳥の姿があった。
「…………これは」
ひとまず、死なずに済んだようだ。