竜の射手
1
鳥たちが、頭上でかしましく鳴きかわしていた。
アイルは、うっすらと目を開いた。
背中が痛い。
痛いはずだ。アイルが横たわっていたのは小石や木の根っこがごろごろしている地面の上だった。
身体を起こし、きょとんとまわりを見まわした。
あたりいちめん、背の高い木々が生いしげっていた。
重なりあう木の葉の間から、日の光が、いく筋にもなってふりそそいでいる。
あざやかな緑の濃淡が目にしみた。空気までもが青くさく、しめっているようだった。
森。
という言葉がアイルの頭に浮かんだ。こんなにも木があるんだもの。
だけど、どこの森?
自分は、なぜこんなところにいるのだろう。
アイルは、ふらりと立ち上がった。
ひだの多い服の間から、ぱらぱらと何かがこぼれ落ちた。白くて目の細かい砂の粒だ。明らかに、この森のものではなかった。
砂をよく見ようとして、アイルは握りしめたままの右手に気がついた。手を開くと、親指の先ぐらいの黒いものがあった。
とがった二等辺三角形の、金属か石のかけら?
三角の底に出っぱりのようなものがついていて、取れた矢尻のようにも見える。
手のひらに血がにじんでいた。自分は、これをずっとにぎりしめていたのだ。
アイルは、それを腰帯の間に押しこんだ。
まだぼんやりとした頭をかかえたまま、しかたなく歩き出した。
おだやかな風が、木の葉をざわめかせ、明るい木もれ日をちらちらさせた。
少し行くと木々がひらけて、小さな湖が現れた。
アイルはたまらない喉のかわきをおぼえて、澄んだ水辺にかけよった。両手で一心にすくい飲み、深々と息をついた。
静まった水面が、アイルの姿を映し出していた。褐色の肌、黒い瞳。白いターバンの中から金色の髪をたらした十二三の少年。
アイルは、まじまじと自分の顔を見つめた。
「アイル」
自分の名前をつぶやいた。
水面は、鏡のように動かない。
そして、アイルの記憶もまた、自分の名を映しているだけで、さざ波立ちもしなかった。
自分はどこから来て、どこに行こうとしているのか。
そもそもこんな森の中でひとり、倒れていたのはなぜなのか。
アイルは、ぎょっとした。
頭をかかえ、必死で目ざめる前のことを考えた。
あせりが、息苦しいほどの恐怖に変わった。
思い出せなかった。
自分の名前のほかは、なにもかも。
突然、過去から引きはがされて、ひとりあの森に倒れていたのだ。
アイルは立ち上がり、やみくもにかけ出した。木々の枝葉を散らし、わけのわからない叫び声を上げながら。
声がかれ、足がもつれて走れなくなっても、思い出せる事は何もなかった。
アイルはただ、森の中をさまよい歩いた。
顔や手は、雑木の枝で引っかき傷だらけになっていた。ターバンも、どこかに落として来たらしい。もっとも、森の中で、それは邪魔になるばかりだったけれど。
いつのまにか、あたりは夕闇につつまれていた。
このまま夜になってしまったら。
アイルは、心細さで胸がしめつけられそうだった。夜のけものや魔物のたぐいが、闇とともに押しよせて来るような気がした。
夜を追いはらうように、アイルは歩き続けた。しかし、疲れと空腹は歩みをのろくし、とうとうその場にうずくまった。
ちょっとの間、眠ってしまったらしい。目を開けると、闇の中にぼっと光るものがあった。
アイルは目をこすった。間違いない。木々の向こうで、火が燃えている。
炎は小さかったが、力強かった。
誰かが火をたいているのだ。
力をふりしぼって、アイルは炎に歩み寄った。
焚き火の主は、一人だった。
太い木の根を椅子代わりにして座り、のんびり煙管をくわえていた。
頭巾つきの外套をまとった、長身の男。
彼は驚いたように眉を上げ、
「幽霊?」
まじまじとアイルを見つめた。
「じゃないようだな」
煙草の煙とともに、彼はつぶやいた。
アイルは、夢中で首を振った。
「ちがう」
アイルは、たき火の前にがくりと座り込んだ。
「お願い、助けてください」
男は煙管を口から離し、ちょっと考るようにして長い前髪をかき上げた。
癖のあるその髪の毛は、たき火の炎に照り映えて、みごとなほど赤かった。
二十代の後半ぐらい。やせて、いかつい顔をしていたが、大きめの鼻と口はどことなく愛嬌があった。灰色の目も穏やかで優しげだ。
もう一度アイルを眺めまわした後、彼は火の側の小鍋を指さして言った。
「夕食の残りの野菜スープがあるがね。食べるかい」
2
アイルが鍋の中身をすっかり平らげてしまうのを、男は黙って見守っていた。
人ごこちついて、アイルはスープ碗を置き、男にぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
男は、にこりと笑った。
「さて」
男は、あらためてアイルを見つめた。
「きみはいったい、何者だい?」
答えることはできなかった。
アイルは、うつむいた。
男は、首をかしげ、
「では、わたしから自己紹介しようか。私の名はダグ。ごらんの通りの旅人で、ここで野宿をしていた。そこに君が現れた。幽霊のように青ざめて、疲れはててね。しかも、そのなりからすると、このあたりの子供ではなさそうだ。わたしの頭の中では今、疑問がぐるぐるとうずまいているところなのだが」
口調は冗談めかしていたが、アイルの顔をのぞきこむ表情は真剣に心配してくれているようだった。
「ぼくはアイル」
アイルは、ダグに何もかも話そうと思った。
「でも、お答えできるのはそれだけです。ぼくが思い出せるのは、名前だけ。みんな、忘れてしまった」
アイルは、何も分からないまま目覚め、森の中をさまよい歩いたことをダグに語った。
ダグは気の毒そうに眉をひそめた。
「きみのその肌、その姿」
やがてダグは言った。
「どう見ても、西方の砂漠の民のものだと思う」
「西方?」
「ああ。わたしの故郷も西方でね。砂漠には行ったことはないが、きみのような姿をした砂漠の民を何度も見かけたことがあるんだ。ここから、だいぶ離れているけれども・・」
「服に、砂がたくさんついていました」
ダグは、うなずいた。
「砂漠の子供はきれいだからな。悪い連中がさらって来ては、都の貴族や地方の商人に売りとばすって話を聞いたことがある。ひょっとしたら、君も・・」
「ぼくも?」
「そんなやつらから逃げているうちに、何かがあって記憶を無くしたのかも。あくまでも、推測だがね」
「・・」
「何か手がかりがあればいいんだが」
アイルはうなだれ、はっと頭を上げた。
「これ、これを持っていました」
アイルは、腰帯にはさんでいたものを取り出した。ダグは受け取り、たき火の炎ですかし見た。
「これは、矢尻だな。しかも、だいぶ古い」
「わかりますか」
「うん。それに、これには何か文字が書いてあるようだよ」
「文字?」
ダグは、親指の腹で矢尻の表面をこすった。
たしかに、ひどく細かい模様のようなものが見て取れた。すりへってはっきりとはわからなかったが、うずまきと直線を組み合わせたような形がいくつか。
「古代文字かもしれないな」
ダグがつぶやいた。
「どこかの遺跡で似たような字をみたことがある。千年以上も前のものさ」
「意味、わかります?」
「いいや、かいもく」
ダグは、首をふった。
「いわくありげだが、ますますわからないな。とにかく、それは大事にしまっていた方がいいよ。まちがいなく、君にとって大切なものだ」
「ええ」
「今晩はもう休んだ方がいい」
ダグは、アイルの肩をたたき、力づけるように言った。
「きみは、疲れている。明日になれば、思い出せることがあるかもしれないさ」
だったら、どんなにいいだろう。
ダグの貸してくれた外套にくるまって、アイルは目を閉じた。
自分は砂漠の民?
砂漠を想像することはできた。
褐色の大地の向こうに連なる白い砂丘。
舞い上がる砂。突然の砂嵐。
だがそれが、自分とどうかかわっていたのか、結びつけることはできなかった。
やがて、静かな砂の浸食のように、眠りがアイルを押しつつんだ。
朝日の中で目ざめても、昨日と同じ。
何一つ思い出してはいなかった。
ため息をついたアイルに、ダグが言った。
「しばらく、私と一緒に来るかい? きみが記憶をとりもどす方法を、なんとか探してみるとしよう」
「ダグさん」
アイルは、言葉につまった。
「でも、迷惑じゃ・・」
「きみがわたしのたき火に飛び込んで来たのも何かの縁だ」
ダグは、ほほえんだ。
「このまま、放っておくわけにはいかないさ」
「ありがとうございます、ダグさん」
アイルは、心から言った。
「ぼく、あなたのためなら、何でもします」
「大げさに考えるなよ」
ダグは、ちょっと照れくさそうに肩をすくめた。
「どうせわたしは、あてのない放浪者なんだ。たまには目的ができるというのもいいものさ」
乾パンとコーヒーの朝食を終えると、ダグは旅嚢から服を一式取りだした。
「粗末で悪いが、まず、こっちを着た方がいい。その格好では目立つだろう。きみが人買いから逃れてきたとすれば、連中も探しているはずだしね」
ダグの服は、さすがに大きかった。上着の袖とズボンの裾をだいぶまくり上げ、腰帯をきつく結んでなんとか体裁を整えた。
「少しがまんしてくれ」
ダグが笑って言った。
「大きな町に行ったら、古着屋を見つけるとしよう」
ダグの全財産は、生活用具や衣類を入れた大きな旅嚢一つと、長い弓だった。弦を外した弓は、細長い布でていねいに巻かれてあった。
アイルは、ふと首をかしげた。何かがものたりない。
「弓はあるのに、どうして矢を持たないの? ダグさん」
「ああ」
ダグは肩をすくめた。
「わたしに、矢は必要ないんだよ」
「でも、弓だけじゃ狩りはできない」
「いいんだ。この弓は狩りをするためのものじゃない」
ダグは、あいまいな笑みを浮かべた。
「まあ、今にわかるよ」
たき火をした場所からそう離れていない所に道があった。それは、森の木立の向こうにまっすぐ続いていた。
「このあたりは、エルド領だ。インファーレンの南東部にあたる。この道をずっとたどっていけば、イラスル領に向かう街道に出るはずだ」
ダグが道の脇に立ち止まって説明した。
「イラスル領から四つ領地を過ぎると、王都アスファだ。アスファの後ろにはオラフルという美しい山脈があってね、砂漠は山脈を越えた向こう側に広がっている」
「遠いんですね」
アイルは目をみはった。こんなに離れたところまで、どうやって自分は来たというのだろう。
「てくてく歩けば、二月ほどかかる距離かな。行ってみるかい?」
砂漠になら、自分を知っている者もいるだろうか。だが、砂漠の広大さはなんとなく理解できた。その中で知り合いを見つけるのは、なみたいていのことではなさそうだった。
ダグは、力づけるようにアイルの肩をたたいた。
「とにかく、西に向かうとしよう。たぶん、砂漠に着くよりも早く思い出せるさ。どこかで、まじない師を探せるはずだ」
「まじない師?」
「魔法使いとまではいかないが、常人を越えた力を持った連中だよ。病気を治したり、未来を占ったりもする。きみの記憶を取りもどす手伝いをしてくれるだろう」
アイルは、期待を込めてダグを見上げた。
ダグはにっと笑ってうなずいた。
「さあ、行こうか」
3
森をぬけた道は、なだらかな丘陵ぞいに続いていた。
丘の下には耕作地が広がり、村の家々がちらばっている。
自分の歩調に合わせてくれるダグのかたわらで、アイルはどこまで行っても変わりばえのしないのどかな光景を見まわした。
出会うものといったら、鍬をかついだ近くのお百姓や荷車ばかりの田舎道。
記憶に残っている場所は、どこもなかった。はたして自分が、この道を通ったのかどうかも疑わしい。
しかし、ダグが側にいてくれるだけで心強かった。
彼に出会えなかったら、と思うとぞっとする。自分は、とほうにくれたまま、まだ森の中をさまよっていたかもしれない。
同じような村をいくつか後にして、その日の夕方近く、二人はいくぶん大きな村にたどり着いた。
道路ぞいに一軒、看板をかけた店もある。アイルに看板の字は読めなかったが、描いてある絵はジョッキとベット。どうやら宿屋をかねた居酒屋のようだ。
「よかったな」
ダグがアイルに笑いかけた。
「今夜は野宿しないですみそうだ」
カウンターとテーブルが二つだけの狭い店だった。客はまだおらず、太った主人が厨房で一人、せっせと仕込みをしている。
泊まれるかどうかザダがたずねると、主人は愛想よくうなずいた。
「かまいませんぜ。今日はまだ泊まり客がいないんでね。二階のお好きな部屋を」
ダグを上から下まで眺めまわし、
「お客さんもブルクへ行きなさるのかい?」
「ブルク?」
「三日後に弓術大会があるよ。そろそろ弓引きたちが集まってるころだが、お客さんは違うのかい」
「違うよ」
ダグは笑って首を振った。
あの時と同じだ。
ふとアイルは思った。アイルがダグに矢を持たないのかときいた時と。
ちょっと眉をひそめた、苦っぽい笑い。
「わたしは弓弾きだ。こんばん、店を借りてもいいかな?」
日がすっかり暮れたころから、店には常連らしい客がちらほら集まりだした。
ダグは布をほどいて弓を出し、弦を張った。古びてはいたが、よく手入れされた褐色の弓だった。
アイルは部屋にのぼる階段に座って、ダグを眺めた。
ダグは店の隅の椅子に腰を下ろし、弓を両膝で抱えるようにして弦を弾いた。意外に澄んだ、深みのある音が響いた。
弦の音にあわせて、ダグは低い声で歌い出した。
昔の恋歌のようだった。アイルには聞きおぼえなかったが、広く知られている歌らしく、何人かの客がいっしょに口づさんだ。
客たちにせがまれるまま、ダグはそれから何曲か歌った。客の歌に伴奏をつけもした。
陽気な曲、静かな曲。一本の弦なのに、弓はダグの指先かげんで様々な音を出した。
ダグは、弓引きならぬ弓弾きだったのだ。
アイルは納得した。弓は武器だけではなく、すばらしい楽器にもなる。
矢を射るダグよりも、弦の音を自在に操って歌うダグの方が、確かにずっと似合うと思った。
翌日、宿屋の主人は上機嫌で部屋代を安くしてくれた。
「商売させてもらったうえに、悪いな、おやじさん」
「いいってことよ。あんたの歌のおかげで、昨日は客の入りがよかった。酒もはかどったことだしな」
「じゃあ、ご好意に甘えるとして」
ダグは、人なつっこい笑みを浮かべた。
「それから、たずねたいんだがおやじさん。このあたりに、まじない師は住んでいないかな」
「まじない師?」
主人はきょとんとして、聞きかえした。
「何かこまりごとかい」
「うん。ちょっと教えてもらいたいことがあるんだ」
「まじない師ねえ。このへんにゃあ住んでいないが・・」
主人は、ふうんと鼻先にしわを寄せ、それからひとつうなずいた。
「そりゃあやっぱり、ブルクに行ってみた方がいいな。弓術大会があると言ったろ。今年は町長の娘の結婚祝いもかねて、いつもより盛大なんだ。大きな市が立つし、人も集まる。旅のまじない師なんぞも来て、商売するかもしれないよ」
「なるほど」
アイルの足でも、今日中にはブルクに着けるだろうと主人は教えてくれた。親切な主人に何度も礼を言い、ダグとアイルは宿屋を後にした。
村を出てほどなく、道は大きな街道と合流した。行きかう者たちの数も多くなった。
このあたりの者ばかりではなくて、徒歩の旅人、騎馬の旅人、大きな荷車をかこんだ芸人の一座らしき面々もいる。
弓矢を持った人たちの姿もよく目についた。
「みんなブルクに向かっているのかな」
アイルは、ダグを見上げて言った。
「今年の大会は盛大だっておじさんが言っていたけど、本当にずいぶん弓を持った人たちが向かっているね」
「うん」
ダグは軽く息をはきだし、空をあおいだ。
「来年は、王の射手祭もあるからな。早い領地では、そろそろ代表選びの公式戦を始めるころだ。弓術大会と聞けば、みんな腕だめしに集まってくる」
「射手祭って?」
「四年に一度、王国一の弓引きを決めるんだ。伝説の弓引き、ザンを記念してね。優勝者はザンにたとえられ、王の射手とも、世界の守り手とも言われる。弓引きにとっては、最高の称号さ。これは、砂漠にも伝わっている有名な話なんだが」
ダグは立ち止まり、様子をうかがうようにアイルを見下ろした。
アイルは、だまって首を振った。伝説の弓引きの話なんて、もちろんおぼえていなかった。
ダグはちょっとうなずき、再び歩き出した。
「千年ぐらい昔のことだそうだ」
アイルの記憶を呼びさまそうとでもするかのように、ダグはゆっくりと語り出した。
「この大陸インファーレンに、砂漠は存在しなかった。どこもかしこも、緑あふれる豊かな大地だった。砂の竜がやってくるまでは」
「砂の竜?」
「ああ。そいつがどこから現れたか、誰もわからない。時空を越えて出現したと言う者もいれば、遠い宇宙から降りてきたのだと言う者もいる。とにかく、そいつはインファーレンにやって来た。その巨大な翼は、木々や建物を吹き飛ばした。そいつに息をかけられたものは、生きものであれ何であれ、みな、砂と化した。人々は戦ったが、そいつの体は砂と同じだった。剣や矢が突き刺っても、すぐに押し戻されて傷つけることはできなかった。インファーレンの三分の一は砂漠へと変わり、王都までもが砂に沈んだ。
王は、魔法使いたちに助けを求めた。当時は、今よりも大勢の魔法使いが生きていたんだが、彼らの多くが砂竜との戦いで命を落としたわけさ。しかし、もっとも力ある魔法使いロドルーンが、ついに砂竜の弱点を見つけだした。両目の間のわずかなくぼみ。それが砂竜の急所なんだ。ロドルーンは、魔力をこめた矢尻を作り、友人の弓引きザンに渡した。砂竜は不死。だから、砂竜の魂を魔法の矢尻で封じ込めるしかなかったんだ。ザンの射た矢はみごとに砂竜の急所を貫いた。竜は倒れ、今も砂漠に眠っている」
ダグは口をつぐみ、アイルと顔を見合わせた。
アイルは、思わず腰帯に手をやった。
「矢はどうなったの?」
アイルは、ささやいた。
「まだ竜の額に刺さっているはずだよ。さもなければ、竜は再びよみがえる」
「・・」
古代文字が彫られた矢尻。
砂漠の砂。
考え合わせると、ひどく嫌な感じがした。しかし、まさかそんなことがあるわけがない。
「まさか」
ダグは、アイルの不安を笑い飛ばすような声を上げた。
「その矢尻は別物だよ。そうだな、早く気がつけばよかった。ロドルーンの他にも弓矢を使った魔法使いはいただろう。彼らのものが砂に埋もれて残っていても不思議はない。それを拾った砂漠の民がいても。きみが持っていても、あたりまえのものだったんだ」
アイルは、こくりとうなずいた。ダグの言うとおりに違いない。
「ただ、きみのなくした記憶と、どんな関わりがあるかが問題だな。きみを見てくれるまじない師を、早いとこみつけるとしよう」
4
夕方近く、二人はブルクの町に入った。
街道ぞいにあるだけあって、宿屋の多い、にぎやかな町だった。
二台の馬車が充分にすれ違うことのできる大通りには石が敷き詰められ、町の中央広場に続いていた。
アイルはダグに連れられて、市の立つ中央広場に行ってみた。
地面には、白墨でいくつもの四角い仕切が描かれている。その一つ一つが、二十ほどの店に割り当てられていた。
町に税金を納めれば、市の間は誰でも店をひらくことができる。簡単な柱に屋根をつけた店もあれば、棚のような陳列台を作っている店、地面の敷物の上にじかに商品を広げている店。売っている物も、小間物や食品のたぐい、陶器や刃物類、衣料品などなど種種雑多。
店主の多くは町の人や近くの農家の人々だが、各地の市を渡り歩く旅商人も混じっていて、他の地方の珍しい特産品や装飾品を置いていたりもする。
もちろん弓具専門の店もあり、弓引きらしい人々が、矢羽や弦を熱心に見くらべていた。
「気に入った」
突然、野太い声が聞こえてきた。
振り向くと、弓具屋の前に一人の男が立っていた。
眉とひげの濃い、黒髪の大男だ。でっぷりとした体格で、両腕はことに太い。売り物らしい弓を手にして、彼は店主に言っているところだった。
「この弓は取っていてくれよ、親父。明日の大会で優勝したら、賞金ですぐに買ってやる」
「すごい自信だね」
アイルは、ダグにささやいた。
「うん」
ダグは、眉をひそめた。
「ああいう弓引きもめずらしい」
ダグはやがて古着屋を見つけ、アイルにちょうどいい服を買ってくれた。
それからもう一度市を見まわし、広場の一番奥、屋根からすすけた灰色の帳を下ろして中をおおっている、あやしげな店に目を止めた。中に入ろうとする者はおらず、客引きの声も聞こえない。
「小さな看板がかけてあるだろ」
ダグは、言った。
「”まじない師。よろず相談ひきうけます”って書いてあるんだ」
「お客は、誰もいないようだけど」
二人を眺めていた古着屋の女主人が、大きな胸をそりかえして教えてくれた。
「ああいった所には、日が暮れるとこっそりやって来る連中が多いのさ」
「腕のほどはどうなのかな」
「二三日いただけじゃ何とも言えないね。まあ、気をつけなよ。あんなのは、いかさまが多いんだから」
「そんなもんかね」
「そんなもんさ」
ダグは肩をすくめたが、女主人に礼を言うと、まじない師の方に足を向けた。とにかく、行くだけ行ってみるつもりらしい。
アイルも彼の後に続き、灰色の帳の前に足を止めた。
二人の気配を感じたらしく、中からこれみよがしの咳払いが聞こえた。
ダグは、意を決したように帳を押し上げた。
中は、天井や帳のすきまからもれる光で、ぼんやりと明るかった。薬草や香が混ざり合ったにおいがたちこめ、アイルは、くしゃみしそうになった。
狭い床いっぱいに、ござが二枚敷かれていた。その一枚に、小柄な中年男がちょこんと座っている。黒っぽい頭巾付きの衣をまとっていたが、普通の格好をしていれば、どこかの領地の小作人といっても通用しそうな貧相な感じの男だった。
「これは、ようこそ」
男は二人を見上げ、向かいに座るようにうながした。
「用向きは何かな。弓引きとお見受けしたが、筋の痛みには貼り薬、かすみ目には煎じ薬。どちらもよく効くまじない付きじゃ。本番で平常心を保つ護符や、前日眠れん時の眠り粉もある。どれもみな銀粒三つ。良心的な値段じゃが」
「いや、わたしは弓引きではないし」
ダグが呪い師をさえぎった。
「それに、わたしじゃない。この子を見て欲しいんだ」
まじない師は小さな目を見開いて、まじまじとアイルを見た。
「砂漠の民か」
「ああ」
「この子の何を?」
「かわいそうに、二日前からの記憶がないんだ。あんた、取り戻してやれるかい?」
まじない師は腕組みをし、やがてすっと右手を差し出した。
「銀貨一枚」
「へ?」
「なかなか難しい仕事らしい。前金で頂くことにしている」
「だが、もし思い出せなかったら?」
「思い出すにしろ出さないにしろ、わしは力を使うことになる。わしの力はただではない。だから、銀貨一枚。嫌なら帰ってもらおうか」
アイルはダグと顔を見合わせた。いかさまには気をつけな、と古着屋の主人は言っていたっけ。ここにいるのはいかさま師なのだろうか。それとも、本当に自分の記憶を取り戻してくれるのか。
アイル同様、ダグも一瞬迷ったようだった。しかし、すぐに肩をすくめ、ごそごそと荷物の中から財布を取りだした。
「わかったよ。銀貨一枚」
まじない師はおもむろに銀貨を受け取り、懐にしまいこんだ。
「どれ」
まじない師は、アイルの方に身を乗り出した。
「動くんじゃない、坊や」
呪い師の、生ぬるい小さな手がアイルの額に触れた。呪い師は、もう片方の手でアイルの後頭部を押さえ、両手に力を込めた。
アイルは、思わず目を閉じた。まじない師の触れている場所がじんわりと熱く、ついでぴりぴりとした痛みを感じた。
アイルは首を振ろうとしが、まじない師の力は意外に強く、それを許さなかった。熱さと痛みはしだいに激しくなり、アイルは大きくあえいだ。
悲鳴を上げそうになったその時、まじない師は、突然手を離した。
ダグは、アイルをしっかりと支えた。
呪い師は、尻餅でもつくようにしてその場にへたりこんでいた。
「アイル?」
アイルは、両手で頭をこすった。まじない師の手があった場所はまだ熱かった。
しかし、アイルの中に変化はなかった。
何一つ、思い出していない。
アイルはダグを見、首を振った。
「なかなか頑固な記憶よのう」
まじない師が、言った。
「だが、わしにできるのは、これまでじゃ。もちろん、金は帰さぬよ」
「わかったよ」
ダグは、うなずいた。
「あんたは、いかさま師ではなさそうだ。そうだろう、アイル」
アイルはうなずいた。
まじない師からは、確かに力を感じた。肉体的なものではなく、アイルの記憶をこじ開けようとした不可思議な力。側で見ていたダグも、それを感じたのだろう。
「でも、ついでにもう一つ見てくれないか」
ダグは、アイルから古代文字が刻まれた矢尻を受け取った。
「この子が持っていたんだ。これに何て書いてあるか、わかるかい」
まじない師は矢尻をのぞき込み、すぐに首を振った。
「わしは、古代文字など読めないよ。だが、これは・・」
「これは?」
「大昔のものに違いないが、まだ魔力が感じられる。おそらく、一流の魔法使いが作ったもの。あの砂竜との戦いの時かな」
「うん。この子はこれを握りしめたまま記憶を無くしていた。何かを思い出す手がかりにでもなればと思ったんだが」
まじない師は、大げさなため息をつくと両手を高く上げた。
「言ったじゃろ。わしにはもう、お手上げだ。銀貨一枚分の務めはこれまでじゃ」
二人は、とぼとぼとまじない師の帳を出た。
いつの間にか、夕日が空を染めていた。市場も人気が少なくなり、後片づけをしている店が目立つ。
「こんどは、もっと力のあるまじない師を探さないとな」
ダグが言った。
「ごめんね、ダグさん」
アイルはうなだれた。
「無駄なお金を使わせてしまって」
「そんなこと、気にするなよ」
ダグは明るく笑ってみせた。
「だいじょうぶ。二人で旅して行ける金ぐらい、なんとでもなるさ」
5
ブルクの宿屋はどこも一杯だった。
街の中での野宿は禁止されている。このまま街の外に出てしまおうかとあきらめかけた時、一部屋だけ空いている宿を見つけた。
狭い路地裏にある古びた宿屋だった。食堂はなく、素泊まりだけ。しかも、通されたのは屋根裏を改造した狭い部屋だ。ベット二つがきちきちに置かれている。
昔はひとつづきだったに違いない隣の部屋とは、薄い板壁で仕切られており、板と板の隙間からは隣をのぞくこともできそうだった。
「野宿よりは、ましってわけかな」
ダグが苦笑いして天井を眺めた。
「もっとも、雨だったら盛大に雨もりしそうだが」
夕食をとるために、二人は近くの食堂に行くことにした。
ダグは、弓を部屋に置いていた。
「今日は弓を弾かないの? ダグさん」
アイルは、思わずたずねた。
「やめとくよ。弓引きが多すぎる」
ダグは、アイルがはっとするほどの真顔で言った。
「弓というのは、神聖なものなんだ。それを弾いて恋歌なんて歌っているわたしは、邪道中の邪道というところかな。本当の弓引きが見たらいい気持ちはしないと思うよ」
ダグが、他の弓引きと同じくらいか、それ以上に弓を愛していることはアイルにもわかった。
しかし、弓を弾くということは、そんなに後ろめたいことなのだろうか。
あんなにもみごとに、弾きこなせるというのに。
もっと誇りを持ってもいいはずなのに。
入った食堂は、テーブルが十以上もある広い店だったが、だいぶ混雑していた。
煙草の煙や食べ物の湯気がたちこめて、奥まで見渡せないほど。
いそがしく飛びまわっていた給仕の少年がようやく二人の所にやって来て、相席でもいいかとたずねた。
「向こうがいいなら、かまわないよ」
入り口近くの丸テーブルに、小柄な人が座ってビールを飲んでいた。
近づくと、それがまだ若い女性であることがわかった。
ズボンに、ぴったりとしたシャツ、革チョッキという男装。黒い髪を無造作に一つに束ねている。そばかすの目立つ顔は健康的で、化粧気がなくとも十分に美しかった。
「かまわないわよ」
彼女は言った。
「どうせ相席になるなら、むさい男よりもかわいい坊やの方がいいもの」
「わたしもいるんだが、よろしく」
彼女はダグに笑いかけた。アイルとダグを見比べ、
「親子? にしては似ていないわね」
「ちがうさ。それに、わたしはまだ若い」
ダグは冗談めかして言った。
「この子の名はアイル、わたしはダグ。旅の道づれだ」
「わたしはリー。北方のセガスの生まれ」
「あなたも、明日の大会にでるんだね」
「わかる?」
「うん。その左手」
「ああ」
リーは、くすりと笑って自分の左手を広げた。
「大きな弓ダコでしょ。ほんとの名人はタコなんてつくらないってお師匠さまが言ってた」
「女の人でも弓を引くの?」
アイルは、きょとんとしてたずねた。
「あたりまえじゃない」
背筋を伸ばしてリーは言った。
「女でも男でも、子供でも年寄りでも弓は引けるの。自分に合った弓さえあればね」
給仕がリーの前に食事を運んできた。深皿にたっぷり入った鶏肉シチューと焼きたてのパンだ。
ダグとアイルが同じものを注文していると、どかどかと新しい客が入ってきた。
「なんだ、また会ったな。セガスのおじょうさん」
リーに気づくなり、彼は言った。
アイルにも見覚えのある顔だった。市の弓具屋の前にいた、黒ひげの大男だ。
「ちょうどいい。おれに付き合わないか。明日の前祝いでさ」
「おあいにくさま」
リーは、ぴしゃりと言った。
「わたしは、この人たちといっしょに楽しく食事中なの」
「まだ負けたことを根に持っているのか? あんただって準優勝だ。女にしてはよくやったよ」
「根に持つですって・・」
リーはつぶやき、きっと男をにらんだ。その目の鋭さに、男もたじろいだようだった。
「あなたに、わたしのことをとやかく言って欲しくないわね。この店はいっぱいよ。さっさと出ていったら」
給仕も、ぺこぺこと頭を下げて、
「ごらんの通りです。もう少し待っていただければ・・」
「はん」
大男は鼻を鳴らした。
「もっといい店を探すとしよう。それから、もっとかわいい姉ちゃんもな」
男はからからと笑い、それから肩をいからせて出ていった。
「いやなやつ」
はきだすようにリーは言った。
「ビールがまずくなったわ」
「彼は?」
「ナズルのカズ。明日の大会の前祝いですってさ。すっかり優勝するつもりよ」
「わたしたちも、市で会った」
ダグは、首をかしげた。
「すごい自信家のようだが、いい弓を引くようには見えないな」
「でしょ。腕はぜい肉。射形だってひどいものよ。前のハズサの大会でもいっしょだったの」
「へえ」
ダグは、まぶしげにリーを見やった。
「で、あなたが準優勝で・・」
「そう」
リーは、ぐいと一口ビールを飲んだ。
「信じられる? あの男、優勝したのよ。他の弓引きの話では、あと二三カ所でも優勝しているみたい。あんな男がよ」
リーの怒りは、ますます大きくなってきた。
「弓の神さまは、どうかしている」
「でも、公式戦なら射形も減点対象だろ」
なだめるようにダグが言った。
「形が悪ければ優勝できないさ」
「まあね」
リーは、肩をそびやかした。
「あいつ、公式戦には出るつもりないみたい。早い話が賞金かせぎよ」
「なるほど」
「そりゃあ、わたしだって地方の大会を渡り歩いている。王の射手祭まで場数を踏みたいし、旅をしていくには賞金も欲しいわ。だけど、あの男は金のためにだけ弓を引いているの。弓よりも、お金が好きなのよ」
リーは、最後のビールを飲み干した。
「あんなやつ、許せない。明日こそ鼻をあかしてやる」
「がんばってくれ」
「人ごとみたいに、何よ。あなたも弓引でしょう」
「いや」
ダグは、笑って首を振った。
「ちがうよ」
リーは意外そうな顔をした。
「あら、ごめんなさい。弓にくわしかったから、わたし、てっきり・・」
「父親が、弓引きだったからね」
「じゃあ、習ったりはしたのね」
「うん」
ダグは小さくうなずいた。
「でも、子供に教えることよりも、自分の練習を大事にする人だった。いつもほったらかしにされてたな。そのうち父が死に、わたしもいやになって止めてしまった」
「そう、残念ね」
リーは、首をかしげてダグの顔をのぞき込んだ。
「だけど、また引きたいと思ったことはないの?」
ダグは、ちょっと眉を上げた。
「ああ、ない」
じきにアイルたちの食事もやってきた。肉も野菜も見た目通りに柔らかく、まずまずの味だった。
ダグが弓引きたちに感じている後ろめたさは、彼の父親に対するものでもあったのか。
シチューをかきまぜながら、アイルはひとり考えた。
ダグの父親がどんな人だったのか、もちろんアイルは知らない。だがきっと、弓を愛し、弓引きであることに誇りを持った人。弦を弾いて歌を歌うなんて、許せるはずのない人だったのだろう。
それだからダグは、まだ弓弾きであることに胸をはれないのだ。
弓引きのことを語る時、ふと悲しい目になってしまうのだ。
先に食べ終わったリーは、二人に別れを告げて立ち上がった。
「気が向いたら、応援に来てちょうだい。大会は明日の正午からよ」
二人は笑顔で答えたが、ダグはたぶん行くつもりはないだろうとアイルは思った。
それでいい。弓引きたちが大勢集うこのブルクに長居して、ダグにつらい思いをさせたくはなかった。
ランプを消しても、部屋の中は薄明るかった。
隣の客は夜更かしらしい。アイルたちがベットに入ってからも、壁板の隙間から細い明かりがもれているのだ。
二人組の男だった。ずいぶん長い間、話し声がしていた。
板壁の方に足を向けているので、枕に頭を付けている限り、はっきりとした声は聞こえない。しかし、何を言っているのかわからないひそひそ声の方が気になるものだ。
アイルは寝つかれず、何度も寝返りを打った。
そのうちに、まっすぐ射さしこんでいるはずの板間の明かりが、奇妙にぼやけてきたことに気がついた。黄色っぽい、煙のようなものが立ちこめてくる。
ダグに声をかけようとしたが、声が出なかった。体が重く、それ以上にまぶたが重くなった。
目を閉じたとたん、
アイルは、たちまち深い眠りに落ちていた。
6
目を覚ますと、頭ががんがんした。
ベットの脇では、ダグが呆然と立ちつくしていた。
「ダグさん?」
二人は顔を見合わせた。
小さな窓からは、明るい日が射しこんでいた。もう朝なのだ。
昨夜、いったい何が起こったのか・・。
「眠り粉をまかれたらしい」
ダグは言った。
「わたしも、いま起きたところだ」
「なぜ・・」
「泥棒だよ」
内鍵がこじ開けられていた。
賊は眠り粉で二人を眠らせたあと、鍵を壊して部屋に入り、ダグの財布を盗んでいったのだ。
ダグはすぐに宿屋の主人の所に行った。
隣の客は、今朝早くに立っていた。追いかけるには遅すぎた。それにだいたい、ダグもアイルも隣の男たちの顔を知らなかった。
「やれやれ」
主人は、壊された鍵を見て、薄い頭をぼりぼりとかいた。肌の黄色っぽい、痩せた男だ。
「いくら盗られたね」
「小銭ばかりだが、合わせれば銀貨十枚分にはなった。全財産だったんだ」
「まあ、とにかく、この修理代は、あんたからもらうよ。付け替えたばかりなのにな、まったく」
「なんで」
ダグは、あきれかえって言った。
「わたしは、被害者だぞ」
「泥棒が入るのは、そっちの不注意。何事も用心しないといけない」
「そうしよう。こんなすきまだらけの、やわな宿に泊まるときは、特にな」
主人は、ダグの皮肉も聞こえない様子だった。
「だいたい、わたしはもう一文なしだ。払いたくても払えないよ」
「金になりそうなものは残っていないかね」
主人は、抜け目なさそうに部屋の中を見まわした。
「こっちだって、商売なんだよ、お客さん。昨日の宿代だって、ただにはできない」
主人は、ダグの弓に目を止め、すばやく布をひきはがした。ダグはあわててとりかえし、
「なにをするんだ!」
「なかなかよさそうな弓じゃないか。盗人が置いていったのは幸いだった」
ダグの抗議をみごとに無視して、主人はひとりうなずいた。
「銀貨二枚にはなるかな。それを売って宿代を払うってのはどうだい。残った金でもっと安い弓を買えばいい」
「冗談じゃない」
ダグは声を荒げた。
「これは大事なものなんだ。手放せない」
「気の毒だとは思うよ、あたしとしても」
主人は、腕組みして、もう一度うなずいた。
「だったら特別、今日の夕方まで待ってやるよ。あんた、大会に出るんだろ。今年は十位まで賞金がつくそうだから、運が良ければうちの宿代も稼げるかもしれない」
「いや、わたしは・・」
「入賞できなかったら、あきらめることだな。この弓は売ってもらう」
「勝手に決めないでくれ。わたしは、弓引きじゃない」
主人は、信じられないといったふうに目を丸くした。
「では、なぜブルクに来たんだね。こんな弓を持って」
ダグは、どっかりとベットの上に座りこんだ。
両手で顔をおおい、考え込むようにして、
「賞金って、どのくらい?」
「娘の結婚祝いだから、今年の町長は太っ腹だ。優勝は金貨一枚、十位まででも銀貨一枚は出るらしい」
ダグは、ため息をついた。
「ここの宿代と、旅の資金にはなるわけだ」
「そういうことだな。子連れで文なしはつらかろう」
「だが、わたしは矢を持っていない」
「前に客が忘れていったのが一本あった。貸して欲しいかね」
主人はいそいそと階下に降りていった。
ダグは、うなだれたまま床を見つめていた。
「ダグさん」
アイルはそっと声をかけた。
「無理しないで。お金がなくたって、大丈夫だよ。ぼくにできることなら、何でも手伝う。どこかで働いてもかまわないよ」
「ありがとう」
ダグは顔を上げ、アイルに微笑みかけた。
「心配しなくてもいい。やってみるさ。十位以内なら、わたしにだって・・」
主人が、矢を持って戻って来た。
どこかにしまい込んでいたのか、よれよれに羽根がつぶれた、ほこりまみれのしろものだ。忘れ物というより、捨てられたという方が正しいかもしれない。
ダグは、矢を受け取ってつぶやいた。
「少し短いな。でも、引けないことはないだろう」
ダグは、矢の汚れをていねいにふき取った。それから主人にことわって、台所に向かった。
かまどでは、ちょうどお湯が湯気をたてていた。湯気の上に矢羽をかざすと、蒸気をふくんで、羽根はしだいにまっすぐ伸びた。
最後に指先で羽を整える。ぬけ落ちている所はしかたがないが、はじめよりははるかにりっぱな矢羽になった。
ダグは弓の弦も張りかえた。荷物の中に新しい弦を入れていたのだ。矢筈を何度も合わせて、弦の太さを調節した。
アイルは、一連の作業をするダグの表情が、しだいに生き生きとしたものになっていくのに気がついた。
夕べ、ダグは弓が嫌になったからやめたと言っていたはずだ。
引きたいと思ったことはないとも。
しかし、少しもそんなふうには見えなかった。
賞金を得るために仕方なく、といった感じでもなかった。
新しい弦になった弓で、何度も素引きを繰り返しているダグは、むしろ、喜んでいるようでもあった。
ひょっとするとダグは、ずっと弓を引きたかったのかもしれない。
アイルは、はっとした。
昨日リーに話していたことは、本心ではなかったのだ。
何かが彼を押さえつけていた。
しかしきっかけさえあればいつだって、ダグは的に向かいたかったのではないか。
ダグが今まで矢を持たなかった理由は、何なのだろう。
リーのような弓引きたちを寂しげな目で眺めながら弓弾きに甘んじていたのはなぜなのだろう。
ダグのことをもっと知りたいとアイルは思った。
自分の失ってしまった記憶と同じくらいに。
7
「いい知らせを待っているよ。がんばりな」
そう言ってアイルたちを送り出した宿屋の主人は、二人がそのまま逃げ出さない用心に、荷物を置いていかせることを忘れなかった。
正午までは、あといくらも時間がなかった。
大会参加の受付が終わってしまわないうちにと、二人は足を早めた。
会場は町はずれの広い河原だ。河原を見下ろす土手の斜面いっぱいにござが敷かれ、早くから場所取りをしていたらしい見物人たちが座っていた。
斜面の上では、焼き菓子や軽食を売る露天も並び、さまざまなにおいがたちこめている。はしゃいでかけまわる子供たちの笑い声、人々のさんざめき。まさに、祭りの雰囲気だ。
河原に設けられた大きな桟敷席では、着飾った町長や町の有力者らしい人々が並び、談笑していた。
桟敷とちょうど向き合う土手の下に、弓引きたちが集まっていた。百人は下らないだろう。みな弓を手にして立っている姿は、壮観だった。
「間もなく受付終了」
係の役人が叫んでいる時、ダグはようやく土手をかけ下りた。出身地と名前を紙に書き、番号札を貰うと手続きは終わりだった。
「なによ、嘘つきね」
大きな男たちをかきわけながら、リーが近づいてきた。
「あなた、やっぱり引くんじゃない」
「いや、ちょっと理由ありでね」
ダグは口ごもり、あいまいに頭をかいた。
「まあいいわ、お手なみ拝見といきましょう。何番?」
「百と三番だ」
「全部で百三人いるってわけね。わたしは八番目よ。もう準備しなくちゃ」
河原の右手に、大きな幕が張られていた。
その前に、青い円盤がひとつ用意されている。矢一本ほどの直径で、中央に小さく銀の星が描かれていた。
今いる場所からも遠いのに、弓引きたちは係の誘導に従って、もっと離れた場所に向かった。アイルは、目を丸くした。
「あれが的だよね。こんな遠い所から?」
ダグも的を見はるかし、こくりとうなずいた。
「三十間離れている。ザンが砂竜を射たのと同じ距離だ」
「すごく小さく見える」
「王の射手祭の的はもっと小さいんだよ、アイル。竜の星的と呼ばれていてね、あの銀の星の部分しかない。砂竜の急所はそれだけ小さなものだったから」
「へえ」
アイルは、思わずため息をついた。
「あれを、何回射るの」
「一度だけさ。決勝に残れればもう一度引けるが、それもはじめの矢が的に入ればの話でね。外れたらそれでお終いだ。だから、矢は一本あればいい」
「出場しない者は、土手に上っているように」
係がアイルに声をかけた。
アイルは、思わずダグの手を握りしめた。ダグは驚いたような顔をしたが、すぐにほほえみ、安心させるようにアイルの頭を撫でてくれた。
「あとは運まかせだな。祈っててくれ」
アイルは、弓引きたちがよく見渡せる土手の一番高い場所に座り込んだ。
的に向き合って、低い柵が設えてあった。早くも初めの五人が柵の前に並び、矢をつがえはじめた。五人づつ、順番に矢を射ていくらしい。
その中に、ナズルのカズの姿もあった。
悠然と体をそりかえし、弓をななめに構えている。顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
リーが怒るのも無理はないと思う。素人目で見ても、品のない姿だ。
五人の矢がいっせいに放たれた。
ばしっと胸のすくような音がして、一本の矢が的の星に命中した。他の四本の矢は、幕にぶつかり、河原に落ちた。
観客のどよめきと拍手が起こった。係が命中した矢を抜いて、並んで待つ五人の所に持ってきた。一同に見せると、カズは当然だというばかりに矢をつかみ、高々とかかげて見せた。再び拍手。
一番手が終わると、次はリーたちの番だった。
リーは四人の男を従えるように、ちょうど中央に立った。一度目を閉じ、息を吸い込んで、ゆっくりと弓を打ち起こした。
静まり返った河原に、きりきりと引き絞られる五本の弦の音がはっきりと聞こえる。
息づまる瞬間、弦が次々にひるがえった。
河原がため息につつまれた。五人の矢は、どれも的を外していたのだ。
アイルも、がくりと肩を落とした。どの矢も、的すれすれの所を飛んでいた。あとひとまわり的が大きければ、絶対入ったはずなのに。
リーは的をまぶしげに眺めやり、くるりと身をひるがえして射場を後にした。次の射手が並びはじめた。
リーは、アイルの方に歩いて来た。
アイルは声をかけた。
「残念だったね、リーさん」
リーは肩をすくめ、アイルの隣に座り込んだ。
「力みすぎたわ。前のやつのを見たら、ついね。まだまだ平常心が足りないのよ、わたしは」
「でも、一度だけだなんて。あんなに離れた的を一回しか狙えないなんて、きびしすぎるよ」
「条件はみな同じ」
リーは言った。
「わたしも、あなたの連れもね。だから全身全霊をかけて、弓を引かなくちゃならない。後悔しないように」
リーはくすりと笑った。
「もっとも、後悔だらけだけどね、わたしは」
「でも、前の大会では二位だったんでしょ」
「的に入っただけ。決していい弓ではなかった。次はいい弓を引こう、いい弓を引こうと思うんだけどなかなかうまくいかなくてね」
アイルは首をかしげた。
「いい弓って、どんなもの?」
「うーん、そうねえ」
リーは、鼻先にしわをよせた。
「自分の体と弓と心がひとつになるの。弓は自分に向かって引くものだって、わたしのお師匠さまがよく言っていたっけ。的は自分の心と思えってね。そして、心は無我。大事なのは、自分の心を受け入れて、無に解き放つ瞬間」
リーの最後の言葉は、ほとんどつぶやきのようだった。
「よくわからないけど」
リーは、声を出して笑った。
「正直、わたしだってわからないわよ。だけど、少しでも迷いがあれば、矢がそれてしまうことは確かね」
「奥が深いんだね」
「そうよ。だから、一度やったら、やめられないの」
アイルは、ダグの方を見やった。
弓引きたちの一団の中で、ダグの赤毛はよく目立った。じっとうつむた彼は、いくらか緊張しているようにも見えた。
「まったく、あなたの連れにはだまされたわ」
リーが言った。
「ダグさんは、だましたわけじゃないんだよ」
アイルはあわてて首をふり、夕べからのことをリーにうち明けた。賞金が手に入らなければ、部屋代も払えないことを。
「それはまあ、大変だったわね」
リーは、目を丸くした。
「でも、出場する気になったのは、少しは自信があるってことでしょ」
「かもしれないけど・・」
リーは、アイルの肩をぽんと叩いた。
「彼の出番までは、まだ時間があるわ。お菓子ぐらいなら、ごちそうしてあげるわよ」
8
アイルは、リーの後について露店の方に向かった。
急にさまざまな食べ物のにおいが感じられて、アイルは今朝から何も食べていないことに思い当たった。
練った小麦粉を大きな鉄板で焼いている店があった。こんがりと焼けたそれを棒状に切りわけて、砂糖と香料をまぶしてくれる。
リーは、二つ注文した。
「砂漠の方のお菓子よね。わたし、大好きなの」
リーは、紙に包んだ焼きたての菓子をアイルに手渡した。ぴりっとした香料と砂糖の甘い香りが一緒になって鼻をくすぐり、アイルの顔は思わずほころんだ。
一口かじりついた瞬間、ふと誰かの面影が頭をよぎった。
アイルは、はっとして顔をあげた。
この菓子の香りはおぼえている。
誰かが作ってくれた。
いつも微笑みを浮かべている、優しい女の人・・。
もう少しでその顔が思い出せそうだった。
アイルは、必死で記憶をたぐり寄せようとした。
誰だったろう。
もう少しで・・。
「やあ、セガスのおじょうさん」
つかみかけた記憶の糸を、無骨な声が断ち切った。
ちらりとかいま見えた人は、あっという間に消え去った。
「どうしたんだい。今回はだめだったじゃないか」
ナズルのカズだ。
リーは、おもいきり嫌な顔をした。
「決勝戦までは時間があるんだ。一杯やろうと思ってたところさ。こんどこそつきあわないか。賞金で何かいいものを買ってやるよ」
リーは怒り心頭に達しているようだったが、無視を決めこんだ。
「行きましょう、アイルくん」
「やれやれ、つまらん女だねえ」
カズは大げさに首を振り、背を向けた。その時、彼のふところから何かが落ちて、アイルの足下に転がった。
アイルは拾い上げた。
コルクの蓋がついた小さな瓶だ。透明な液体が中に少しだけ入っている。
「返せよ、小僧」
カズは、あわててアイルから瓶をうばい取った。
「これは、おれのもんだ」
あっけにとられているアイルとリーをしりめに、カズは瓶をにぎりしめて、早足で立ち去った。
「変なやつ!」
リーははきすてるように言った。
「相手になっていられないわ」
まったくだ。おかげで思い出しかけた何かが、また遠くに行ってしまった。
アイルはため息をついた。
冷めて香りも薄くなった菓子をかじりながら、リーと土手に戻った。 河原の弓引きの数は、半分ぐらいに減っていた。
ダグは弓を手にしゃがみ込み、川の流れを見つめている。
並んだ五人が矢を射るたび、観客の拍手やため息が起こった。続けて何組も的に入らなかったり、一度で三四人の的中者を出す組もあった。
ついに最後の組、ダグの番だった。残った三人は、弓を手に定位置に並んだ。
百三番目のダグは、一番後ろだ。
三人の弓が高々と持ち上がり、一呼吸置いて引き分けられた。
「いい形をしているわね」
アイルの傍らでリーがつぶやいた。
「よほど基礎をつまないと、あんなふうにはならないわ」
アイルは、まじまじとダグを見つめた。
いまや、ダグの腕と体は、みごとな十字を作っていた。リーの言う通り、その姿は伸び伸びとして美しかった。いつも猫背ぎみに弓をつま弾いていダグよりも、ずっとしっくりして見えた。
やはりダグは、弓を引きたかったのではないか。
矢が放たれた。
一本の矢が、にぶい音を立てて的に当たった。他の二本は幕の前に落ちた。
「誰の?」
リーが、うれしそうにアイルの肩を叩いた。
「あなたの連れよ。やったわ。的の角にぶつかったけど、入ってる。決勝に残ったのよ」
当のダグは、的を眺めたまま、まだ立ちつくしていた。
すぐに決勝に入るとのことで、アイルはダグに会いに行くことができなかった。
決勝に残ったのは十三人。
さっきまでの的が、ふた周りほど大きなものに取り替えられた。
「的が変わったね」
「大的よ。順番をつけやすくするため」
リーが説明してくれた。
「公式戦ではないから、主催者が自由な的を使えるの。十位まで入賞と言っていたでしょう。今日のはいつもより大きいわ。的の中心に近い矢から順番をつけていくわけ」
係りが、くじを引かせて決勝の順番を決めていた。
並んだ順を見ると、ダグは最初から四番目のようだった。ガズは、一番最後で自信たっぷりに胸をそらせていた。
一番目の弓引きの矢は、的の星よりに、小気味いい音をたてて命中した。それを意識しすぎたのか、二番手の矢は、おしくも的をそれた。三番目の矢は、的の縁に近い右側に当たり、
そして、ダグは・・。
アイルは、祈るように両手の指を組み合わせて、弓をかまえるダグを見つめた。
脱落者は三人だ。すでに一人、的を外しているし、的に当たりさえすれば入賞できる確率は高い。
ダグは呼吸を整えながら弓を引きしぼっていた。
目を見開き、的をにらんでいる。
ねらいをつけている時間が、あまりにも長すぎると思えた瞬間、矢は放たれた。
アイルは目をこらした。
ダグの矢は的のぎりぎりの所に刺さっていた。
「上位入賞は無理みたいね」
リーが、心底残念そうに言った。
アイルは、うなずくしかなかった。せめて、あと二人、的を外してくれれば。
つづく六人は、次々と的を射た。さすがに、決勝に残るだけのことはある。
しかし、十一番目の弓引きの矢は、的にぶつかって下に落ちた。
あと一人だ。祈るように考えながら、アイルは複雑な気持ちになった。他の弓引きの不運を待っているわけだから。
カズの前の弓引きは、小柄な初老の男だったが、弓をかまえると背筋がぴんと伸び、射形もみごとだった。
矢は銀の星のほぼ中央に命中した。観客の歓声は一番大きく、河原をゆるがした。
残るのは、カズだけだ。なかなか鳴りやまない拍手に、まるで自分のもののように答えて手を振って、的に向かって肩をいからせた。
今に見ていろ、といったふてぶてしい雰囲気だった。
カズは矢をつがえ、弓をななめに持ち上げた。
その時、筈が弦から外れ、矢はぽろりと地面に落ちた。
観客がどよめく間もなかった。地面に落ちたはずの矢は、矢尻をもたげて、生きているもののように的に向かった。空を切る音をたてて、的の真ん中に突き刺さった。
おそらく見ている者全員が、ぽかんと口を開けたに違いなかった。
一呼吸後、観客の悲鳴や怒号が飛びかった。
リーは突然両手を打ち鳴らし、けらけらと笑いだした。
「なるほどね、これでわかったわ」
「どういうこと?」
「あいつの弓の腕前は、本物じゃなかったってこと。矢にまじないをかけていたのよ。どんなことをしても、矢は的の真ん中を射抜くことになっていた」
「地面に落ちても」
「そういうこと。さっきの小瓶があやしいわね。矢につける、まじな呪い薬よ、きっと」
「ああ、あれ」
アイルは、ガズが落とした小瓶を思い出した。彼は、けっそう変えてアイルから取り返したっけ。
「ナズルには、魔法使い並の力を持つまじない師がいるって聞いたことがあるわ。大金かけて手に入れたんでしょうね。賞金で充分もとは取れるはずだもの」
興奮さめやらない観客が、持っていた物を次々と河原に投げつけていた。果物や菓子、紙くずや土くれが乱れ飛び、役人たちが止めに入った。
その場からこそこそと逃げ出そうとしたカズを、河原近くにいた観客が取り押さえて役人に引き渡した。
カズは役人に引っ立てられて行き、観客たちのさわぎもようやく収まった。
「ばかなやつ」
リーが、軽蔑ともあわれみともとれる口調でつぶやいた。
「二三年の労役は間違いなしね。さぞかし、やせることでしょう」
最後の混乱はあったものの、ブルクの弓術大会は終わりをつげた。
入賞者には、栄誉と賞金が贈られた。
なんとか十位になったダグは、銀貨一枚を手に入れた。
「よかったわね、これで宿賃が払えるじゃない」
「なんとかね。運がよかった」
肩をすくめたダグは、さほど嬉しそうでもなかった。
「運も実力のうちですってよ」
リーは明るく笑い飛ばし、こんどこそ二人に別れを告げた。公式戦に出るために、故郷に帰ると言うことだった。
アイルは、名残惜しい気持ちで彼女に手を振った。
彼女が公式戦に勝ち残って、王の射手祭に出場できることを祈りながら。
待ちかまえていた宿屋の主人は、昨夜の宿賃の他に貸した矢の代金まで請求した。
「あと銀粒一つで、ゆずってやってもかまわないがね」
「結構だよ」
二人はやっとのことで荷物を取り戻し、宿屋を後にした。
もう日暮れ近くだったが、この街に留まるよりどこかで野宿した方がましな気分だった。
「やれやれ」
夕日を見上げながら、ダグがため息をついた。
「さんざんな目にあった」
「うん」
アイルはうなずいた。
「むだ足をふませちゃったね、ダグさん」
「無駄じゃなかったさ」
ダグはアイルの肩をたたいた。
「いいことを聞いただろ。ナズルには、魔法使い並のまじない師がいる」
「でも、報酬は高いらしいよ」
「何とかするさ。どうせナズルは砂漠に行く途中にあるんだ。寄ってみる価値はある」
「ごめんね」
アイルは唇をかんだ。
「もう少しで思い出せそうだったんだ。もう少しで・・」
「だいじょうぶ」
ダグが、力強く言った。
「きっと思い出せる。それまでの辛抱だよ」
9
街道沿いの景色は、いつしか広い耕作地から、果樹の多い山の斜面へと変わっていた。
さほど高くない山々が、行く手に重なりあっている。
この山地を越えれば、ナズル領だとダグが教えてくれた。
たまに見晴らしのいい峠に立つと、遠くに細長い山脈が見て取れた。
オラフル山脈。そこを越えたはるか向こうに砂漠はある。
アイルは、ため息をつくしかなかった。自分は、なんて遠い旅をしてきたのだろう。
それなのに、何一つおぼえていないなんて。
ブルクを出て一週間あまり。
街や村を通りかかると、ダグは人々の前で弓を弾き、小銭や食べものを得た。
たくわえは少なかったものの、なんとか順調に旅を続けていけそうだった。ずっと雨が降らず、晴天が続いていたので、野宿するのも楽だった。
でも・・。
アイルはふと首をかしげた。
このごろのダグは元気がない。
ぼんやりと、考え事をしていることがよくあった。弓を弾いていても、時おり、アイルが分かるほど音を外した。客には歌でごまかしていたけれども。
ブルクの弓術大会以来だ。
いったい、どうしたというのだろう。
そして、ぎくりとした。
ひょっとして、自分のせいだろうか。ダグにとって、アイルの存在がだんだんと重荷になってきたのでは?
山のくぼ地に野宿に手頃な場所を見つけ、ダグとアイルは火を焚いた。
山地の夜は肌寒かったが、おどり上がる炎と鍋の湯気が二人を暖めた。乾パンとスープのつつましい夕食を終えると、ダグはゆっくり煙草をふかした。
たき火の明かりが、ダグの横顔を浮かび上がらせていた。
ダグは、こころもち眉をよせて、自分の左手をながめていた。煙管をくわえたまま、左手をにぎったり開いたりした。
アイルが見つめているのも、気づかないようだった。
アイルは、そっと声をかけた。
「ダグさん」
「うん?」
ダグは、われにかえったように顔を上げた。
不思議そうにアイルを見返し、
「どうかしたかい?」
「本当のことを答えてほしいんだ」
アイルは、思い切ってたずねた。
「ぼくがいっしょで、迷惑じゃない?」
ダグは煙管を口から離し、心の中でもう一度アイルの言葉を繰り返したようだった。
そして、心底驚いたように、
「そんなこと!」
ダグは、アイルの前に座り直した。
「なぜそんなふうに思うんだい。迷惑だなんて、これっぽっちも考えちゃいないよ。むしろ、相棒ができて喜んでいるくらいだ。わたしは、ずいぶん長いこと、一人で旅していたからね」
「でも・・」
アイルは、首を振った。
「ダグさん、このごろおかしいよ」
ダグは、はっと眉をひそめ、すぐにはぐらかすような笑顔を作った。
「そんなことないさ」
アイルは、黙ってもう一度首を振った。
ダグはアイルから目をそらした。
煙管の灰を落として腰帯にはさみ、こまったように前髪をかき上げた。
「ぼくのせいじゃなかったら・・」
ダグは長い枝を取って二つに折り、たき火の中に放り投げた。
「違う」
舞い上がる火の粉をはらいのけ、ようやく言った。
「違うんだよ。悪かった。心配かけていたんだな」
「どうしたの?」
ダグは炎から、自分の左手へと視線を移した。
「ブルクで、弓を引いてしまった時からさ」
ダグはささやいた。
「どうにもならない」
ダグの左手は、彼の足の上で軽いこぶしを作っていた。中指の上に親指が乗り、人差し指がふわりと浮いている。
アイルは思い当たった。これは弓を引く時の手だ。
「くやしいんだ」
ダグは言った。
「自分の思うように引けなかった」
「命中したじゃない」
「枠ぎわだった。わたしは、星を狙ったはずなのに。決勝の二本目は、話にもならなかった」
「もう何年も弓を引いていなかったんでしょ。しかたがないよ」
ダグは顔を上げて、ちらりと笑った。
「昔からそうなんだ。子供のころからさ。わたしの矢は星にあたったためしなんかありゃしない」
「リーさんだって外れたんだよ。それでも入賞したんだから、すごいと思うよ」
「外れた方がまだあきらめがついたかもしれないな」
ダグの口調は、ほとんどひとりごとのようだった。
「後悔ばかり残っている」
「じゃあ、もう一度やってみたら? きっとまたどこかで試合があるはずだよ」
「いや」
ダグは、顔をゆがめて黙り込んだ。
アイルは彼を見つめ、ずっと思っていたことを口にした。
「ダグさん、本当はもっと弓を引きたいんでしょ。なぜ・・」
ダグは、黙ったままだった。
アイルは、彼が話し出すのをじっと待った。
彼が何を悩んでいるのか、聞き出すのは今しかないと思った。
「砂竜を倒したザンの話をしただろう」
やがて、ダグがぽつりと言った。
「うん」
その昔、魔法使いロドルーンの造った矢を使って砂龍を見事に封じ込めたという伝説の弓引き。
彼を記念して、王の射手祭は始まったのだという。
「彼の子孫にも、ときどき弓の名手が生まれた」
ダグは、語り出した。
「わたしの父親もそうだった」
10
アイルは、目を見ひらいてダグの話を聞いた。
ダグは、偉大なる弓引きザンの子孫だったわけなのか。
「偉大なご先祖を持つと、後々の者が苦労する」
ダグは、言った。
「わたしの父親は、ザンに恥じない弓引きにならなければいけないと、とにかく稽古に明け暮れていたよ。
王の射手祭は四年に一度。わたしの父は生涯で二回出場した。一度目は、予選で落ちた。試合の途中で、妻が、つまりわたしの母親が病死したと知らせを受けてね、そのせいかどうかは分からないが。
二回目は、決勝まで進んだ。そりゃあそうさ、母の死以来、父の頭の中には次の射手祭のことしかなかった。毎日毎日、弓を引くために生きているようなものだった」
ダグは、膝の上で両手を組み合わせ、小さくため息をついた。
「射手祭に集まるのは、それぞれの領地の公式戦で勝ち残った者や、領主の推薦状を持った者、都の大会の入賞者。全部で百人近くかな。予選は、竜の星的ひとつで進められる。選手たちは、的に向かって順番に弓を引く。的中した者は次の回に残れるし、矢が外れた者は、もちろんそれでおしまいさ。
国中から集まった名手たちだ。技に大差はない。だが、あの射手祭特有の張りつめた空気。何千人もの観衆が、自分だけを見つめている。弓引きの緊張と重圧といったら、言葉では言いあらわせないだろうな。集中力・・精神力が強い者だけが勝ち残る。
一人、また一人と的を外していった。二巡目には半分、三巡目には二十人足らずの弓引きしか残らなかった。観衆は、もう声一つ上げなかった。空気がちょっとでも動けば矢筋が乱れるとばかりに、みな身を固くして、息を詰めて見守っていた。それぞれの矢の行く先を見定めるたび、大きな拍手か、さざ波のようなため息が広がった。
わたしの父を含めて、七巡目まで残った三人が決勝を迎えた。三人でいっせいに弓を引いて、的の中心に一番近い矢の持ち主が王の射手になるはずだった。
だが父は真っ青な顔で、精魂尽き果てていた。
もう限界だった。最後の矢を射ることなく射場に倒れ、その夜のうちに死んでしまったよ。すごい量の血を吐いてね。だいぶ前から体を悪くしていたらしい。無理しすぎたんだ、心も身体も」
ダグは、辛そうに顔をゆがめた。
「父は、弓にとりつかれていた。そして、命をすり減らした。わたしは、父のようにはなりたくなかった。だから、弓をやめたんだ。さすがに、形見の弓は手放せなかったけれど」
「それで、弓を弾くことにしたの?」
「そうだよ。面白おかしく歌いかなでて、笑い飛ばしたかった。そんなに、一途に弓を引いたところでどうなるってね」
笑い飛ばすだなんて。
アイルは、どんなにダグが他の弓引きたちをうらやんでいたか知っている。彼だって、ずっと弓を引きたかったのだ。それだから、水を得た魚のように弓術大会にのぞんだ。何を後悔することがあるだろう。
「リーさんが言っていたよ。弓引きは一度やったらやめられないって」
「確かにな」
ダグは、つぶやいた。
「わたしは父のように名人でもないし、簡単にあきらめはつくと思っていた。だが、こればっかりは腕の良し悪しに関わらないらしい。引けば引くほど、どうしようもない深みにはまってしまうんだ。私は、それが怖い」
「ダグさん」
「父のような名手ならいい。弓を引き続けて死んだ、それはそれなりの美しい物語だよ。しかし、わたしのような腕前では、引けば引くほどみじめになるだけなんだ。竜の星には決してとどかない。悪あがきをして何になる」
「悪あがきなんかじゃないよ。みじめでもない」
アイルは、きっぱりと言った。
「弓を引いている時のダグさんは、とてもきれいだったよ。そうやってくよくよしているダグさんより、ずっと」
ダグは、驚いたように顔を上げた。
「ダグさんは、弓が好きなんでしょ」
「・・」
「好きなことに一生懸命になるのは、名人だってそうじゃなくたって関係ないと思う。好きなものに取りつかれるなら、それはそれで本望じゃない」
ダグは、アイルをまじまじと見つめていた。
言いすぎかと思ったが、アイルは目をそらすことなく彼を見返した。
「ダグさんは、弓を引かなくても苦しんでいる。どうせ苦しむのなら、好きなことをして苦しむ方がずっといいよ」
ダグは、自分の左手に視線を移し、しばらく身動きしなかった。
やがて、木の幹にたてかけてある弓に目をやり、ひとつ大きく息を吐き出した。
「そうだな、わたしは弓が好きだ」
ささやくようにダグは言った。
「昔も今も。あの的の前に立った時の感じは言い表せない。この間、はっきりわかったよ。自分が一番いたい場所だって」
「だったら!」
ダグは両手で顔をこすった。
その唇に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
「きみ会わなかったら、一生思い悩んでいたかもしれないな」
「弓を引く?」
ダグはうなずき、アイルの両肩に手を置いた。
「すまない。本当なら自分のことを考えるだけで精一杯だろうに、よけいな心配をかけてしまって」
「そんなことないよ」
「きみの記憶は、この私がどんなことをしても取り戻す。約束するよ」
「その前に矢を買おうよ、ダグさん」
アイルは、ダグを見上げてほほえんだ。
「街に出れば、どこで弓術大会があるかわかるしね」
11
山地帯を越え、最初の村に着くとすぐ、ダグはまじない師のことを人にたずねた。
ナズルではかなり有名な人物らしい。すぐさま答えが返ってきた。
暗森の魔女。
そうまじない師は呼ばれていた。女まじない師だったのだ。
そして誰もが口をそろえて、その強欲さと恐ろしさを並べ立てた。
まじない薬を作ってもらったばかりに、全財産を奪われた男の話や、奉公の約束を破ってヒキガエルに変えられてしまった娘の話。魔女の家の中は全部金で出来ているとか、魔女は永遠の命を手に入れるために毎日一つづつ赤ん坊の心臓を食べるとか。
本当か嘘かわからない話を、ダグとアイルはいやと言うほど聞かされた。
村のはずれの土手に座って、やれやれとダグは煙草をふかした。
「とにかく、魔女は北の暗森という所に住んでいることは分かったな。うわさ話から推測するに、だいぶ気むずかしいらしい」
「とんでもない人のようだけど」
「大丈夫。取って喰いはしないさ。力のあるまじない師には、いろんな尾ひれがついたうわさ話がつきものなんだ。現にカズは彼女からまじない薬を手に入れている」
「カズがああなることを、魔女は知っていたんじゃないのかな」
ダグはちょっと眉を上げた。
「カズが矢を落とすことも、まじないの中におりこみずみっていうわけか」
「そんな気がする。すごく意地悪な人なんだ」
「まあ、会ってみればわかるさ」
とはいえ、二人はすぐに暗森へむかえなかった。魔女の報酬が高いことははっきりしていたし、ダグにはまとまった金がなかったからだ。
幸い、今は農家の刈り入れが一段落した秋祭りの時期だった。祭りにあわせて、弓術大会を行う所も多い。ダグは遠まわりでもそういった街や村を巡って、大会に出場し、賞金を手に入れるつもりだった。
翌日着いたロカという小さな街で、ダグはようやく矢を手に入れた。
街に一軒しかない弓具屋の、片隅にあった中古品だ。黒っぽい灰色の羽が少し欠けていたが、長さはダグにぴったりだった。
「矢筒はどうだい、兄さん。やっぱり中古だが、いいのがあるよ」
たまの客とばかりに、店の主人は愛想がよかった。
「いや、今回はがまんしとくよ」
ダグは店の前に並べられた矢筒を眺め、首を振った。
「砂ぼこりぐらい払ってやれよ、おやじさん。道具が可哀想だ」
「毎日払ってんだぜ」
主人は大げさにため息をついた。
「このところ雨が降らないんで、ほこりっぽいのさ。ただでさえ、山の向こうから砂が飛んで来るし」
「砂漠の砂?」
アイルは、驚いてたずねた。
「ああ。だが、今の季節ではめずらしいよ。たいていは、春先の風の強い日だけなんだがね」
アイルは、思わず西の山を降り仰いだ。
はじめて砂漠に近づいているという実感がした。
自分は砂漠にたどり着く前に記憶を取り戻せるのだろうか。
まだ見ない暗森の魔女へ期待と不安がふくれ上がってきた。
不安の方が大きかった。
なくした記憶は、必ずしも思い出したいものばかりではないような気がするのだ。
暗森に着くまで、ダグは大小あわせて四つの試合に出場することができた。
最高は三位、四位が二回、五位が一回だ。それなりの賞金が手に入ったが、ダグは自分の弓にまだまだ不満らしい。
ダグの矢は的の真ん中、銀色の竜の星を一度も射ぬくことはなく、引き終わるたびに気むずかしい顔をした。アイルに対してはすぐに表情を和らげたけれど。
ダグはもう弓を弾き語らなかった。試合のない村や町では、ちょっとした日やといの仕事を見つけて小銭を手に入れた。
節約したかいもあって、ダグの財布はブルクで泥棒に盗まれた時よりもふくらんでいた。
「これでも足りないと言われたら、あとは魔女のところで下働きでもするさ」
ダグは明るく言ってのけた。
笑い返しはしたものの、暗森に近づくにつれ、アイルの胸さわぎは、ますます強くなっていた。
どういうわけだろう。過去を知ることが、しだいに怖くなっている。
魔女の所になど行くのは止めてしまいたい。このままずっとダグと旅をして行けたらいいのに。
しかし、そんな心の一方で、自分の記憶と向き合わなければならないことは、アイルにもはっきりと分かっていた。自分が何者で、何を恐れているのか、知ることが先決なのだ。この恐怖の源をつかまなければ、それから逃れる術もないのだから。
暗森は、一番近い村里からも歩いて半日の距離にあった。
まさに暗森としか名付けようのない森だ。背後には切り立った山がそびえており、一日の大半は影につつまれているようだった。木々も高く太く枝を張り、日の光の届かない地面は黒くじめついている。もう夕方近くだったので、森の中はいっそう薄暗かった。
森を前にして、アイルは思わず身ぶるいした。
おそらく、真っ青な顔をしていたにちがいない。ダグが心配そうにその顔をのぞき込んだ。
「だいじょうぶかい? 少し休んでから行こうか」
アイルは首を振った。
「そんなことをしていたら、夜になってしまうよ、ダグさん」
二人は森の中に足を踏み入れた。たしかに訪れる者もいるらしくて、木々の間に細い道が出来ている。黒っぽい木の根元に、奇妙な形をした茸が群生していた。カラスの鳴き声が頭上でとぎれとぎれに聞こえ、いっそう不気味な思いにさせた。
道の先で木々がとぎれ、ぽっかりと空いた空き地に小さな木の家が建っていた。黒っぽいスレートの屋根から突き出した煙突から、灰色の煙が立ち上っている。
魔女の家にまちがいなさそうだ。
玄関の扉も家の壁も、くすんだ枯れ葉色をしていた。しかも、どこにも窓がない。
ダグは意を決したように玄関の扉を叩いた。
12
家は、しんと静まりかえったままだ。
もう一度叩こうとした時、扉が内側に大きく開いた。
アイルは、おそるおそる内をのぞき込んだ。
窓のない家の内はもちろん真っ暗で、人の気配はしなかった。薬草か何かのいがらっぽい匂いがたちこめている。
ダグが、思いきったように内へ入った。アイルも後に続いた。
その時、音を立てて扉が閉まった。
二人は真の闇の中に立ちつくしていた。
アイルはダグにしがみついた。ダグは大きく息をして呼ばわった。
「暗森の魔女。あなたを訪ねてきたんだ。いるんだろ、出てきてくれ」
答えはなかった。
ダグは、もう一度声を出そうとした。
と、前の方に細長く光が射した。
光は大きくなった。
向こうがわに、もう一つ扉があったのだ。まだ若い、ぽっちゃりとした女性がそこから顔を出した。濃い緑色の上着とスカートに、洗いざらしの清潔なエプロンをつけている。
「あなたが魔女?」
アイルは思わずたずねた。
「とんでもない」
彼女はぶるんと首を振った。
「こちらへどうぞ」
通されたのは、明るい大きな部屋だった。
アイルは、あっけにとられてあたりを見まわした。
高い天井からガラス細工がほどこされたランプがいくつもつり下げられ、やわらかな光を放っていた。大きな窓には、ひだのたっぷりとした厚いカーテン。床には手織りの絨毯が惜しげもなく敷かれている。テーブルや椅子、壁際に置かれた数々の調度類もみな手のこんだ豪華なもので、細かな模様のレース編みや刺繍に飾られている。
外から見た不気味な魔女の家とは、まったく様子が違っていた。広さだって、倍以上はあるに違いない。
あれは目くらましだったのか。確かに、魔女といえばあんな暗い家が似合うかもしれないが。
ダグが、部屋の奥に目を向けた。
燃える暖炉のかたわらに、詰め物入りの大きな椅子が置かれていた。
いかにも気の強そうな老婆が一人、そこにしゃんと背筋を伸ばして座り、お茶を飲んでいた。
若い頃はさぞかし美しかったにちがいない。やせたその顔は、整いすぎているだけにいっそうとげとげした印象を与えた。濃い緑色の衣をまとい、白い髪を後ろにきっちりと結い上げている。大きな髪止めからはじまって、首飾りや腕輪、指輪。身につけている装身具はみな小さな宝石があしらわれた品のいい細工物だ。
みんなまじないの報酬で手に入れたものなのだろうか。
ちらりとアイルは考えた。
それとも、こっちの方がめくらまし?
「ぽかんとしてないで、挨拶ぐらいしたらどうなんだい」
あまり上品とはいえない口調で魔女は言った。
「どうせまた、ろくでもない頼み事を持って来たんだろ。ことわっておくが、死んだ人間は生き返らないよ。殺しの片棒もお断りだ。火あぶりにはなりたくないからね。それ以外なら交渉次第。もっとも、知っての通り報酬は高いよ」
魔女は手元の鈴をちりりと鳴らした。二人を案内してきた人とは違う女性がそそくさと現れて、空になった茶碗を下げていった。
「ああ」
われに返って、ダグはうなずいた。
「突然おしかけて申し訳ない。わたしはダグ。この子はアイルだ。この子は、どういうわけだか、記憶をなくしているんだよ。あなたなら、取り戻してやれると思ってね」
「なくくしものの相場は金貨一枚だよ」
魔女はアイルに目もくれず言った。
「人の記憶なら、その五倍といったところかね」
ダグはたじろいだ。
「それはちょっと高くないかい」
「安いくらいさ」
「今はそんなに持ち合わせていないんだ」
魔女はふふんと鼻で笑った。
「甘かったね。出直しておいで」
「足りない分は何年かかっても必ず払う。約束するよ」
「あてにならないね」
「ここで働かせてもらってもいい。男手だって必要だろう」
「あいにく、奉公人はありあまっていてね。弓引きも来たことはあるよ」
「カズって名の?」
「名前なんか忘れたね。図体ばかり大きくて、なんの役にもたたないやつだった。二三ヶ月働かして、そうそうに追い返したよ」
「途中でばれるまじない薬を持たして?」
「中途半端な働きには相応のものだよ。でも、少しはいい思いもしたはずだ」
「彼よりは働けると思う」
「じゃあ、順番待ちしておくんだね。一年ぐらい先になるかもしれない。金もないのに望みばかりがある連中が多すぎるよ、まったく」
「何年でも待つし、いっしょうけんめい働くよ。だが、この子の記憶を戻すのは、今にして欲しい」
「むしのいいことを言うんじゃないよ。あたしの商売は、先払いって決まってるんだ」
「一日でも早く、思い出させてやりたいんだ」
ダグは頼み込んだ。
「あなただけが頼りなんだ」
「泣き落としも聞き飽きてるよ。情に流されてちゃ、この仕事はやってけないんでね。あたしはこの力を得るためにそれなりの代償を払った。依頼人も覚悟して来るべきだろ」
「覚悟してるさ。わたしにできることなら、なんでもする」
「人間にできることなんて、たかが知れてるね」
「あなただって人間だろ」
くやしまぎれにダグは言った。
「ほんとにこの子の記憶を戻せるだけの力があるのか?」
「馬鹿におしでないよ。あたしを誰だと思っているんだい」
魔女は肩を怒らせた。
「魔法使いの直弟子になれるのは、せいぜい十年に一人ぐらいなんだよ。あたしは選ばれた者なんだ」
「魔法使いは、まだ生きているの?」
魔女は、じろりとアイルをにらんだ。
「いるさ。最後の一人、あのいまいましいあたしの師匠・・」
魔女は口をつぐみ、ふと眉を上げた。
首をかしげ、もう一度アイルをまじまじと見つめた。
「お待ちよ。おまえ、何か持っているね」
「何か?」
「いやな気配だ。あたしのだいっきらいなやつの感じがしてきたよ」
魔女は、ぶるっと身ぶるいして立ち上がった。
「魔法がしみついているもの、あいつが待っていたものかもしれないね」
ぐいと手を差し出して、
「お見せ、早くこっちへ」
魔女のただならぬ様子に、アイルは驚いて後ずさりした。
ダグがかばうようにアイルの肩を引き寄せ、ささやいた。
「あの矢尻のことじゃないか」
アイルはうなずき、腰帯に挟んでいた矢尻を取り出した。
魔女はそれをひったくり、顔を近づけて眺めまわした。そして、短い笑い声をあげた。
「やっぱりだ。まちがいないね。これであいつとの縁も切れる」
「どういうことなんだ」
ダグがたずねた。
「その矢尻の古代文字、読めるんだな」
「こんなにすりへってるんじゃ、読めるわけないだろ。ただ、わかるんだ。これには、こう彫り込まれているはずだよ」
魔女は、目を閉じてささやいた。
「ロドルーンの名において、なんじを封印せり」
「ロドルーン・・」
「まぎれもなく、これは魔法使いロドルーンが砂竜のを封じ込めた矢尻だね」
13
アイルとダグは、呆然と顔を見合わせた。
魔女は矢尻を握りしめたまま興奮したように部屋の中を横切った。壁に掛けてあったショールを身体に巻きつけ、あごをしゃくった。
「ついておいで」
「待てよ」
ダグがあわてて言った。
「わけがわからない。竜を封印していた矢尻を、どうしてこの子が持っているんだ」
「そんなことは知らないね」
魔女はあっさりと言った。
「だが、封印が解けたことは確かだ。砂竜はよみがえった。このままでは、とんでもないことがおこるだろうよ」
心臓の高鳴りは胸が痛くなるほどだった。アイルはダグにしがみついた。彼がささえてくれなかったら、その場に倒れ込んでいたかもしれない。
胸騒ぎは的中した。
アイルが持っていたのは、砂竜を封じ込めたというロドルーンの矢尻だった。
インファーレンの三分の一を砂漠に変えたという砂竜が、再びよみがえった?
それにしてもなぜ。
砂竜の復活に、自分はどんな関わりがあるのだろう。ロドルーンの矢尻を手に、砂漠から離れた森の中で倒れていたのはなぜなのだろう。
考えれば考えるほど、息苦しくなってくる。砂竜の封印を解いたのが、この自分だったらどうしよう。
アイルとダグの驚愕などまるで無視して、魔女はもう部屋の扉に手をかけていた。
「なにしてるんだい、行くよ」
「どこへ?」
ダグが乾いた声で尋ねた。
「ロドラーンの住処さ」
「ロドラーン?」
「大魔法使いロドルーンの息子ロドラーン。あたしの師匠さ」
魔女は、さっさと部屋を出ていった。
ダグとアイルも、なすすべなく彼女の後に従った。一番はじめに入った真っ暗な隣部屋を抜け、家の外に出た。
森の中はもう、薄闇に包まれていた。アイルは、思わず魔女の家を振り返った。さっき見た通りの、窓のない小さな家が夜にとけ込もうとしている。
あの豪華な広い室内と、いったいどっちがめくらましなのか。思いめぐらす暇もなく、魔女は早足で先に進んだ。取り残されないように、二人は後を追いかけた。
「魔法使いに息子がいるなんて話は、聞いたことがないぞ」
ダグが言った。
「たいていの魔法使いは独り身で、ロドルーンもそうだったよ。だが彼は、やり残した仕事を引き継ぐ者が必要だったんだ。そこで自分の細胞を培養して、一人の子供を創り出した。母親の腹からではなく、フラスコから生まれた呪われた子供を」
魔女は思い切り顔をしかめて、邪気払いの仕草をした。
「ロドラーンはロドルーンの分身なのさ、つまり」
魔女は、どんどん森の奥に入って行った。
日はとっぷりと暮れてしまい、魔女の背中がやっと見えるくらいだった。
魔女は右の手のひらを上にして、ふっと息を吹きかけた。手のひらにぼっと青白い光が浮かび、あたりを明るく照らし出した。
木々の影がよけいに暗く大きくなって、のしかかってくるようだった。魔女は明かりをたよりに、いっそう足早に歩いて行く。
「たしかに、あなたの力は普通の呪い師とは違うようだ」
「あたりまえさ」
魔女はぴしゃりとダグに言った。
「この力を得るために、あたしがどんな思いをしたことか。あいつの求めるものを差し出し、あいつの僕でいなければならなかった。いまのいままで」
「さっき言っていたな。これで縁が切れたとか、なんとか」
魔女は一声高く笑った。
「あたしたちの主従関係は、ロドルーンのしるしを持った者が現れるまで。見つけたら即座に連れてこいというのがあいつの命令だった」
「ロドラーンは、この子を待っていたわけか」
「そのようだね。さあ、着いた」
魔女は、突然歩みを止めた。
いつの間にか森の木々はとぎれ、目の前に岩肌がむき出しになった崖が立ちはだかっていた。岩と岩の間に人一人くぐれそうな隙間が開いていて、魔女はそこを指さした。
「この奥にロドラーンはいるよ」
「こんな穴の中に?」
「インファーレンには、ロドラーンの住処に続く地下路がいくつもあって、ここもその一つなのさ。もっとも、ロドラーンが認めた者でなければ、彼のもとに行きつけはしない。たとえ入り口を見つけても、通路を延々とさまよい続け、しまいには元の場所に戻ることになってしまうんだ、ロドラーンが求める力のない者はね」
魔女は暗い穴の中に目をこらし、つぶやくように言った。
「あたしはここをくぐり、ロドラーンに受け入れられた。あんたたちも会えるだろうさ。あの魔法使いは、ずっとこの時を待っていたはずだから」
「行くしかないようだな」
ダグが言った。
アイルは、思わずしりごみした。ずっと求め続けていた記憶が取り戻せる。
だがそれは、想像していた以上に悪いものに違いなかった。
自分が持っていたのはロドルーンが砂竜を封じ込めた矢尻なのだ。砂竜はよみがえって、とんでもないことが起ころうとしている?
「手をお出し」
魔女がダグの手のひらに、息を吹きかけた。ダグは小さく驚きの声を上げた。魔女が持っているのと同じ青白い光が、手の上で燃え上がったのだ。
「熱くないはずだよ。あたしの役目はこれで終わりだ。とっととお行き」
魔女はくるりと背を向けて、足早に去って行った。
魔女の青い光は、やがて夜の中に見えなくなった。
「とにかく、すべてを知る必要がある」
ダグがアイルをうながした。
「その後で、できることを考えよう」
「ぼく、怖いんです、ダグさん」
「わかるよ」
ダグは、大きくうなずいた。
「わたしもだ」
ダグは、意を決したように暗い穴の中に入り込んだ。
アイルも、なすすべなく後にしたがった。
14
入り口と比べると、穴の奥はだいぶ広かった。
弓を持ったダグが身をかがめなくてもいいほど天井が高い。ダグの光に照らされた足下に、石の階段があって、二人は手を取り合い、一歩一歩下っていった。
石段はかなり長く、下り終えたところで通路が続いていた。その先には再び下り階段。同じような長い階段と通路の繰り返しが際限もなく続いた。
足が疲れ、膝ががくがくする。
もしかすると、魔女にだまされたのだろうか。魔女は気に入らなかった自分たちを、二度と出られぬ堂々巡りの迷路に閉じこめたのでは?
それとも、魔女が言っていたことは間違いで、この矢尻はロドラーンが求めていたものではなく、魔法使いには二人に会う気など毛頭ないとしたら?
だったら、それでもいいとアイルは思った。砂竜がよみがえるより、自分の記憶が戻らない方がまだましだ。
しかし、とうとう通路の先に、白い扉が現れた。
二人は荒い息をしたまま立ち止まった。
顔を見合わせたその時、頭の上で、どなり声が響いた。
「さっさと入ってこんか、ばかもん!」
扉が開き、何かの力が、二人の背中を突き飛ばした。
二人はよろめきながら部屋の中に入った。
ランプもないのに、室内は明るい光に満たされていた。
かなり広い室内にもかかわらず、壁際に乱雑に積み重ねられたたくさんの本や、陶器や鉄でできた大小の容器、その他用途のわからない様々な器具で、床の上は足の踏み場もないほどだった。
覆いをかけたテーブルと、寝台がわりらしい長椅子が、壁からなだれ落ちてきた本をかきわけるようにして置かれている。
声の主は、奥の壁半分をしめた暖炉の前に立っていた。
白い髪と白い髭を長く垂らした、いかめしい顔の老人だ。ダグと同じくらい背が高く、灰色の寛衣で身を包んでいた。
暖炉の火が、彼の髭を赤く輝かせていた。火にかけられた鉄鍋の中で、なにやら銀色のものがしゅんしゅんと踊っている。
「ようやく来たな」
老人は二人を眺めて鼻を鳴らした。
「待っていた」
「ロドラーン?」
ダグが声をかけた。彼の手の上の炎は、いつのまにか消えていた。
「あたりまえのことを、きくんじゃない」
「あたりまえと言われても、ぜんぜんわけがわからない。砂竜がめざめたというのは本当なのか。なぜアイルはロドルーンの矢尻を持っていたんだ」
ダグは、アイルをロドラーンの前に押しやった。
「いや、それよりも早く、この子の記憶をとりもどしてやってくれ。あなたなら、できるんだろう」
「ふん」
ロドラーンはアイルに近づき、アイルの額を指先で弾いた。
「そら、思い出せ」
頭の中に閃光がはしった。
アイルは息をのんだ。
閃光の後に、色彩がぐるぐるとうずまいた。
色彩は砂漠の光景になり、人の顔になり、言葉を発した。
押し寄せる記憶に、アイルは溺れそうだった。
アイルはその場にうずくまった。
このまま気を失ってしまったら、どんなに楽だろうと考えた。
しかし、歯を食いしばって受け入れなければならない。
自分のしてしまったことを認めなければならない。
「乱暴すぎる」
ダグが、あわててアイルの身体をささえた。
「大丈夫か、アイル」
「ふん。早く記憶を戻せと言ったのは、おまえだろう」
「しかし!」
「大丈夫です。ダグさん」
アイルはようやくうなずき、深く息を吐き出した。
「思い出しました、みんな」
15
アイルは思い出した。
砂漠での日々。
オアシスに天幕をはり、部族の人々といっしょに羊を追って生活していた。
父は早くに亡くなったが、母と祖母と、三人の姉がいた。母や姉たちは羊の毛の織物を上手に織った。おかげで、暮らしには困らなかった。
部族には同じ年頃の友人もいた。だが、彼らはことあるごとにアイルをからかった。女に囲まれて育った女々しいやつと。
決してそうではないことを、アイルは証明したかった。
くやしかったら、砂漠の向こうにある都の跡に一人で行ってみろと友人たちは言ったのだ。
大昔、砂竜に襲われて砂に沈んだ王宮の遺跡。そこにあるものをしるしとして持ってきたら、一人前の仲間として認めてやろう。
心配するだろう母たちには告げず、その朝早く、アイルは一人馬に乗って砂漠の中の遺跡に向かった。まる一日あれば、行って帰って来られるはずだった。
昼過ぎには砂丘の間に突き出ている尖塔の先や、崩れた石塀を見つけた。照りつける太陽のもと、アイルはターバンですっぽりと顔をおおって、いにしえの王宮に来たしるしを探した。
砂の中にきらりと光るものがあって、アイルを引き寄せた。
銀色の細い棒が砂に半ば埋もれていた。
アイルは何気なく引き抜き、その先についた矢尻を眺めた。
矢尻を右手に持ち替えた時、足下の砂が突然音をたてて動き出した。盛り上がる砂の間から、赤い二つのかがやきが見えた。
驚いて声を上げようとした瞬間、すさまじい衝撃に襲われたのだ。
まるで、雷に打たれたようだった。
自分の身体が、宙に浮くのを感じた。身も心も散り散りに吹き飛んでいきそうだった。叫び声を上げるひまもなく意識は遠のき、
気がついた時、森の中で記憶を無くして倒れていた。
「ぼくのせいなんだ」
アイルはぼんやりとつぶやいた。
「やっぱりぼくのせいなんだ。ぼくが砂竜をよみがえらせてしまった」
「それは違うな、馬鹿らしい」
ぞんざいな口調でロドラーンが言った。
「時が来ただけだ。ロドルーンの力をもってしても、砂竜を永遠に封じ込めて置くことは不可能だった。おまえがいなくとも、矢尻は遠からず抜け落ちて、砂竜は目覚めた」
「だけど・・」
「おまえはそれなりの役目をはたした。その矢尻を、ザンの子孫に届けたんだから」
「わたしの?」
ダグが目を見開いた。
「そうだ。砂竜が目覚めた衝撃で、この子は空間を越えて吹き飛ばされた。まあそこが、ロドルーンの矢尻がひきつけられた場所、ザンの血を引くおまえの近くだったわけだ。この子を連れておまえは魔女を訪ね、魔女はかねての約束通り、おまえたちをわしのもとに案内した。こうなったのも、ロドルーンの魔法の一部なのさ」
「なぜ、わたしなんだ」
ダグは当惑したように首を振った。
「はじめっから抜けた矢尻はあなたのところに届くようにすればよかったじゃないか。なんで、そんなまわりくどいことを」
「未来には幾通りもの可能性がある。過去からただ一つだけを確定することは不可能だ。ロドルーンは砂龍が目覚めた時、その時点で最もうまくいきそうな選択を矢尻にゆだねることにしたんだよ」
「これが一番の選択だって?」
「らしいな」
ロドラーンは、半信半疑のダグにうなずきかけた。
しかし、自分が矢を抜いてしまったことに代わりはないのだ。
アイルは魔法使いにすがりつくようにして言った。
「今、砂漠はどうなっているの」
「砂竜は目覚めたが、完全によみがえったわけではない。身体の半分はまだ石化したままだ。だがそれでも、あいつの周りではすさまじい砂嵐が起こりはじめたし、石化が解けるのも時間の問題だ」
「そうなったら?」
「砂竜は自在に飛び回る。世界は砂と化すだろう」
「こうしちゃいられない」
アイルは、叫ぶように言った。
「ぼく、砂漠に帰らなくちゃ。家族のところへ」
母たちは、どんなに心配しているだろう。
アイルが突然いなくなったうえ、原因不明の砂嵐まで起こっている。とにかく顔を見せて安心させ、側にいてあげなければ。自分は家族でただ一人の男なのだから。
「わかっている」
ロドラーンは、うるさそうに髪の毛を払いのけ、アイルに手を伸ばした。
「それなら、さっさと矢尻をよこせ」
アイルははっと気がつき、あわてて矢尻を取り出してロドラーンに渡した。
ロドラーンはしげしげと矢尻に彫り込まれた古代文字を眺めた。
「どうするの?」
「作り直すのさ。こんどは、もっと強力なものになる」
ロドラーンは暖炉の鉄鍋に矢尻を放り込んだ。
矢尻は音をたてて熔け、先に鉄鍋に入っていた銀色の物体に混じり合った。
ロドラーンは、じっとしているのも惜しいとばかり、こんどはテーブルの覆いをはぎ取った。
部屋の中と同様に乱雑なテーブルの上には、コルクの蓋がついた大きなガラス瓶がでんと置かれてあった。瓶の半分近くまで、色とりどりの宝石めいた粒が入れられている。薄紅や水色、萌葱色など、それらひとつひとつが微妙に違った色の輝きを帯びている。
「それは?」
「魔女たちの精気だ。弟子にしてやるかわりに、もらったものさ。一人あたり五六年分の若さだな。長年かけてここまで集めた」
「あの魔女のも入っているんだな」
ダグがつぶやいた。
「ふん。さぞ悪口を言っていたろうな」
ロドラーンは肩をすくめた。
「十代の娘のころは喜んで若さを差し出したくせに、年をとるにつれ、だんだん渡したものが惜しくなる。魔女どもは、どいつもこいつもわしを恨んでいるんだ」
ロドラーンはガラス瓶を抱え、暖炉の前に持ってきた。腕まくりをし、テーブルの覆いを丸めて、それで鉄鍋の取っ手をつかんだ。
「瓶の蓋を開けてくれないか」
ロドラーンはアイルに言った。
「開けたらすぐに瓶から離れろ。できるだけ、すばやくな」
アイルは言われた通りにし、ダグの方に飛び退いた。
ロドラーンは鉄鍋の中味、ロドルーンの矢尻だったものをガラス瓶の中にそそぎ込んだ。
何とも言えない耳障りな金属音がして、銀色の炎が瓶いっぱいに立ち上った。
瓶は割れ、かけらが飛び散った。
ロドラーンは、長い髪や髭にもふりかかったガラスのかけらを払い落とした。
砕けたガラスの中に、真新しい銀色の矢尻がひとつ落ちていた。
「できたの?」
アイルとダグは、伏せていた頭を上げた。
「まだだ、最後の仕上げがある」
ロドラーンは矢尻を拾い上げ、その出来映えをすかし見た。そして、大きく息を吐き出すと、両手で握りしめた。
矢尻を胸元に押しつけたまま、ロドラーンは身体を丸めた。
ぼんやりとした不思議な白い光が、彼のまわりからにじみ出てきた。
光はしだいに強くなり、大きく膨れ上がって魔法使いを押し包んだ。獣めいた低いうめき声が、光の中から聞こえた。
「ロドラーン!」
アイルが叫ぶのと同時に、光の強さは急速に衰えた。
ロドラーンはその場に、小さくうずくまっていた。
ロドラーンは、疲れたように顔を上げた。
そう、確かに彼は小さくなっていた。
長身の白髪頭の老人は消え、そこにいたのは黒い髪の、アイルとそう年の違わない少年だった。
16
「ロドラーン?」
アイルとダグは、同時に声をかけた。
少年は立ち上がり、胸をそらした。
「珍しそうに眺めるな、ばか者」
声までが、甲高くなっていた。
「なんで・・」
「魔女の精気だけで、新しい矢尻ができるわけがない。わたしの、ありったけの魔力をつぎこまなければならなかった」
「それで若返ったの?」
「いや。これがわたし自身さ。わたしは、魔法使いとしてはまだ若い方なんだ」
ロドラーンは、ぐいと顔を上げて二人をにらんだ。
「とは言っても、おまえたちよりはずっと年上だからな」
アイルは、もう一度ロドラーンを眺めた。アイルよりも背が低く、顔つきはかわいらしい少女のようだ。
ロドラーンは肩をすくめた。
「こんな姿では、魔女どもに馬鹿にされるだけだろうが」
たしかに。
アイルはうなずいた。
ロドラーンはいかにも魔法使いらしい姿をとって、魔女たちを従わせていたわけか。魔力の消耗が、あまり見られたくない本来の彼の姿をあらわにしてしまったのだ。
またぽかんとしている二人をしり目に、ロドラーンは握りしめていた手を開き、矢尻を調べ始めた。
矢尻には、出来たときにはなかった古代文字がはっきりと刻まれていた。
「なんて書いてあるの?」
「ロドラーンの名において、汝を追放せり」
ロドラーンはおごそかに言った。
「封印したところで、また何千年かたてばあいつはよみがえる。だとすれば、この世界から追い出すしかないんだよ」
「できるんだね。そんなことが」
「そのためにこそ、わたしは生まれ、長年力を蓄えてきた。インファーレンから砂竜の驚異を無くすことは、ロドルーンの悲願だ」
ロドラーンは、机の上に積み重なった本や筆記具の山をかきわけて、まだ矢尻のない一本の矢を引っぱり出した。銀製で、白い矢羽がついている。
それに矢尻を取り付けながら、
「こいつが再び砂竜の急所に突き刺されば、魔法は成就する。砂竜は二度とこの世界に戻れない」
「それで」
ダグが、はっとしたように言った。
「誰が弓を引くんだ」
「ロドルーン同様、わたしも弓は不得手なんでね」
ロドラーンは答えた。
「おまえに決まってるだろ、もちろん」
「わたし?」
ダグは叫んだ。
「なんで、わたしなんだ」
「ザンの子孫だ。なんのために矢尻がおまえのところへ行ったと思っている」
「冗談を言わないでくれ。わたしは、竜の星に一度も命中したことがないんだぞ」
ダグは声を荒げた。
「名人はいくらでもいる。だいたい、こんな時のために王の射手が選ばれるんだろうが」
「弓引きを決めている時間などないんだよ」
ロドラーンは肩をそびやかした。
「砂竜はもう目覚めている。一刻を争うんだ」
「インファーレンを救うなんて、このわたしにできるわけがない」
ダグは本気で怒っていた。
「ザンの血筋だからって、責任を押しつけられてたまるものか」
「魔法にも相性がある。矢尻はあんたを選んだんだ」
「わたしの父親なら話はわかるさ。だが、わたしなんて」
「おまえの父親はもういない。墓場から引っぱり出して来るわけにはいかないだろうが」
ロドラーンは大きく手をふってダグを黙らせ、部屋の奥の扉を開けた。
「こうやっている暇はない。急いで砂漠に向かう」
扉の向こうは広い厩になっていて、二頭の白馬がつながれていた。
ロドラーンは一方の馬の手綱を取り、アイルに渡した。
「ダグを乗せて、わたしについて来い」
「わたしは馬になんて乗ったことはないぞ」
ダグが抗議した。
「アイルの後ろにつかまっていれば、落ちはしないさ」
「わたしは、行く気はない」
「言っておくが、ここから出る機会は今しかないぞ」
ロドラーンは馬を引き出しながら、あっさりと言った。
「わたし自身がこのすみかの鍵だからな。わたしがいなくなれば洞窟は閉ざされ、二度と地上には戻れない」
ダグは悪態をついた。
ロドラーンはかまわず馬に飛び乗った。
厩の壁が突然消えて、代わりにまっすぐな通路が現れた。馬を走らせるには十分な広さだ。
ロドラーンを乗せた馬は、ぐいと首を一振りすると、すばらしい速さで駆け出した。
残された馬は、アイルを促して一声いなないた。
「とにかく、ここを出なくちゃ、ダグさん」
アイルは言った。
「ロドラーンの言ったことは、嘘じゃないみたいだよ」
消えたはずの壁は、また実体を取り戻しつつあった。通路を遮って灰色の靄のようなものがたちこめ、それはしだいに濃くなっていく。
アイルは馬にまたがり、ダグに手を伸ばした。
ダグは一瞬ためらったが、顔をゆがめてアイルの手を取った。
ダグが乗るのを待ちかねたように、馬は駆けだした。
靄の壁を抜ける時、一瞬、水面に叩き付けられたような抵抗があった。
振り返ると壁は完全に戻っていた。やがてそれも、闇の中に消えた。
通路の前方もまったくの闇だったが、走る馬のまわりだけはぼんやりと明るかった。
これは魔法の通路なのだろうとアイルは思った。
来た時のことを考えれば、だいぶ地底深くに降りているはずなのに、斜面はなく、平原を走っているような感覚だ。馬のひずめの音もせず、ただ耳元を風が切って行くばかり。
ロドラーンがどのくらい先を行っているのかは、わからなかった。後ろのダグは、ずっと黙りこくってアイルの背中につかまっている。
「ごめんね、ダグさん」
アイルはつぶやいた。
「ぼくさえダグさんのところに来なかったら」
そもそも自分が砂竜の矢尻を引き抜いたりしなければ。たとえ砂竜が目覚めるまぎわだったとはいえ、事態はもっと違ったものになっていたのではないだろうか。こんなふうにダグを苦しめることもなかったのでは?
「いや、きみのせいじゃない」
ダグは首を振った。
「これは、何かの間違いなんだ。もう一度、ロドラーンに言ってやる」
その時、突然空気の感じが変わり、目の前の闇にぼっと光が差し込んだ。
馬は、光の中に飛び込んだ。
風が吹いている。
アイルは目をしばたたいた。岩肌がむき出しになった褐色の大地。地面にしがみつくようにして生えている丈の低い植物群。
懐かしい砂漠の光景がそこにあった。
17
魔法の通路は、アイルたちを砂漠に導いてくれたのだ。
馬が抜け出して来た通路の出口は、もうどこにも見あたらなかった。ただ、一足先に着いていたロドラーンが、強い風に顔をしかめながら、あたりを見まわしていた。
夜が明けたばかりで、空気はまだひんやり冷たい。
朝焼けの赤みがかった空の下、東の地平に縁どりのようなオラフル山脈の連なりがある。そして荒涼とした大地の真ん中に、三角形の尖った岩がぽつりと見えた。
あの形は憶えていた。近づけば小山ほどもある巨大な岩で、星降岩と呼ばれている。遠く離れた場所からもよく見えるため、砂漠の移動の目印となっていた。
アイルの部族のオアシスは、あのすぐ向こうにあるはずだ。
しかし、オアシスの方、西の方角はいやに暗い。
東の空がだんだんと明るさを増してきているというのに、空と大地のつなぎ目は灰色に溶け合ったまま、夜の影から逃れられないかのようだ。
風が、三人の外套の裾をはためかした。
土埃が、ようしゃなく顔にぶつかってくる。
「砂が渦巻いているな」
頭巾をすっぽりとかぶりながら、ロドラーンがつぶやいた。
「ぼくの家に急いでいいですか」
震える声でアイルは言った。
影は、まぎれもなく砂竜のいる場所から広がってきているのだ。
「そうだな、われわれが向かうのと同じ方角だ」
アイルの後ろで、ダグが大きく息を吸い込んだ。ダグの言葉も待たず、ロドラーンは再び馬を走らせた。
星降岩に近づくにつれ、太陽は強く大地を照らし始めた。
記憶を取り戻したアイルにとっては、なじみ深い砂漠の日ざしだ。しかし、この吹きすさぶ風だけは異様だった。天候が荒れやすいのは砂漠の奥の砂丘地帯だけで、アイルの部族の住む土地はもともと暮らしやすい場所なのだ。
「アイル」
後ろからダグが思いつめたように声をかけた。
「きみの部族で、弓を引ける者はいないのか?」
アイルは首をふった。
「ぼくたちは遊牧民で、もともと弓を使いません。弓術大会みたいなものもないし。だから、誰も」
ロドラーンが前方を指さした。
遠くに、こちらに向かってやってくる隊列が見えた。
その数は百人ほど。人間よりも多くの動物を引き連れている。大きな荷物を背負わされた馬や荷車を引く驢馬、追い立てられて悲しげな鳴き声を上げている羊たち。
たがいの距離が縮まって、だんだん様子がはっきりしてきた。馬上の者、徒歩の者、みな不安げに身をすくめているようだった。
知っている顔を見つけてアイルは声をあげた。
あれは、アイルの部族の人々だ。
アイルは彼らの前まで行くと、馬を飛び降りた。
と同時に、隊列の中から忘れようもない人たちが駆け寄ってきた。アイルと同じ金色の髪に黒い目、それぞれがよく似た、美しい顔立ち。
姉たちだ。
三人の姉は、泣きながらてんでにアイルを抱きしめた。
「この子ったら。何か月も、いったいどこに行っていたのよ、アイル」
すぐ上の姉、エメルが叫ぶように言った。
「砂嵐に巻き込まれて、死んだとばかり思ってたわ」
「あなたのお友達が、王都の遺跡へ行ったと教えてくれたの。探しに行ったけど、ひどい砂嵐で近づけなかった」
長姉のルラアが付け足した。
「ごめん、姉さんたち」
「わたしたちより、まずお母さんにあやまりなさい」
二番目の姉のメラが、アイルの背中を押しやった。
母が祖母を連れ、ゆっくりとこちらに近づいて来た。アイルの前に立ちつくし、目を潤ませて息子を見つめる。
若いころは、姉たち以上にきれいだったに違いないと、いつもアイルが思っていたその顔は、やつれ、ひとまわり小さく見えた。
自分のせいなのだ。
アイルは母に飛びついた。
何度もあやまりながら、泣きじゃくった。
「もういいわ」
母は、優しくアイルを抱きしめた。
「あなたは生きていた。帰ってきてくれた」
一人の老人が馬を進め、ロドラーンのところにやって来た。
ターバンの下の日焼けした顔はかなりの高齢だったが、まだ足腰はしゃんとし、目にも強い光がある。アイルたちの族長だ。
「あなたは、どなたですかな」
族長は言った。
「ただの子供ではないとお見受けするが」
「むろん」
胸をそらして魔法使いは答えた。
「わたしはロドルーンの息子ロドラーンだ」
「ロドルーンの・・。では、この砂漠の異変に気づかれましたな」
族長は西の方を見やった。
まぶしく晴れわたった空の下、西の地平だけが暗く、黒い雲のようなものがわだかまっている。雲は生きているもののように伸び縮みし、しだいしだいに大きくなっているようなのだ。
「ちょうどアイルがいなくなった時から砂嵐が起こり、止むこともなく広がってきているのです。あれは、砂竜が封印されていたあたり。新たな災いのはじまりと、砂漠の多くの部族は移動をはじめております。都にも急使を出しました」
族長は一呼吸おき、低い声で付け足した。
「やはり、砂竜は目覚めたのですな」
ロドラーンは、しぶい顔でうなずいた。
「そういうことだ。わたしたちは、これから王都跡に行く」
「そちらの方は」
族長は、ダグをしめした。ダグは、居心地悪そうに馬にまたがったままだった。
「弓引きのダグ。ザンの子孫だ」
「おお」
「ぼくを助けてくれた人です」
アイルの言葉に、族長は深々と頭を下げた。
ダグは困ったように顔をそむけた。
「ロドルーンの息子とザンの子孫。伝説がそろったわけですな」
「一応はな」
ロドラーンは、鼻をならした。
「われわれに、お手伝いできることはありましょうか」
「いや。何が起こるかわからない。あなたがたはこのまま砂漠を離れた方が賢明だろう。都で王に従ってくれ」
ロドラーンはアイルに目を向け、
「おまえも仲間たちと一緒に行くんだ。ダグはわたしの馬に乗せる」
「いやだ」
アイルは、あわてて叫んだ。
「ぼくも行きます。ぼくがしてしまったことなんだから、最後までついて行きます」
「危険だぞ」
「そんなこと、わかっている」
アイルは母に向き直った。
「ごめん、母さん。もう一度行かせて」
「あなたに何があったのか、今までどうしていたのか、わたしたちは何も知らないのよ」
母は、アイルを見つめたまま静かに言った。
「それなのに、また消えてしまうの」
「こんど帰ったら、もうどこにも行かないから。何もかも話すから。今はぼくの頼みをきいて」
アイルは必死で母に言った。
「このままだと、ぼくは一生後悔してしまうんだ」
いくら時が来たからだとはいえ、砂竜が目覚めるきっかけを作ったのはまぎれもなく自分だし、ダグが苦しむことになったのも自分のせいだ。
ここで、彼らと別れるわけにはいかなかった。
最後まで、何が起きるか見届けなければ。
「約束ね」
「母さん!」
姉たちが、母をとがめるような声を上げた。母は首をふった。
「止めてもアイルは聞かないでしょう。だったら、まっすぐ送り出すしかないじゃない」
「ありがとう」
アイルはもう一度母を抱きしめた。そして、くるりと背を向けて、馬に飛び乗った。
「母さんたちと行った方がよくはないか」
後ろでダグが言った。
アイルは黙ってかぶりを振った。
ロドラーンが族長に片手を上げて馬を走らせた。支え合うようにしてかたまっている母や姉たちに頭を下げて、アイルも後に続いた。
アイルを王都跡に向かわせた友人たちが、追いかけてきて叫んでいた。
わびの言葉がとぎれとぎれに聞こえた。
「連中の気持ちは、わからないでもない」
ロドラーンが言った。
「きれいな姉さんたちにかこまれているおまえが、うらやましかったんだろ、つまり」
アイルは肩をすくめるしかなかった。
18
褐色の大地は、しだいに灰色の砂丘へと変わっていた。
それと同時に、あたりは薄暗くなった。風に高く舞い上がる砂が、太陽の光をさえぎっているのだ。
遠くから見た、黒雲の縁の部分に入ったらしい。砂龍がいる中心に向かうにつれ、風はますます強まってくる。
果敢に駆け続けていた二頭の馬も、やがて歩むような速さとなり、ついには悲しげな声を上げて立ち止まった。
「おびえているんだ」
アイルは、励ますように首筋を撫でてやった。が、馬は弱々しくまばたきを繰り返すばかり。
「ふん。ここから先は歩くしかないな」
ロドラーンは馬から下りた。
「こいつらには、無理だ」
アイルとダグも彼にならうと、二頭の馬はすまなそうに低くいなないて、来た方に駆け去った。
馬から下りた分だけ視界は低くなり、薄暗さも増した気がした。あたりは風と砂の乱舞、方角すら見失ってしまいそうだ。
「この砂と風」
アイルは、叫ぶように尋ねた。
「あなたの魔法でなんとかならないの」
「魔法?」
ロドラーンは、すごみのある笑みを浮かべた。
「言っただろ、わたしはロドルーンの矢尻を再生するのにあらかたの魔力を使ってしまった。いまはせいぜい、砂竜の居場所を見極めるぐらいのことしかできないさ」
「それじゃあ」
ダグが、すがるような口調で言った。
「あんたの力で、その矢を砂竜に命中させることは?」
ロドラーンは、きっぱりと首をふった。
「それができるなら、弓引きをこんなところに連れてこないさ」
ダグはがくりと肩を落とした。
「あの魔女から、まじない薬をもらってくればよかったんだ」
「魔女の薬ごときが、砂竜に通用するとは思えないがな」
ロドラーンは、さっさと先に進んだ。アイルは、彼の姿を見失わないように、後を追いかけるしかなかった。
視界はますます悪くなった。
風は強まり、息をするのもやっとのほどだ。すっぽりと頭巾をかぶっていても、砂がようしゃなく鼻や口に入り込んでくる。
くるぶしまで砂に埋もれ、前屈みになって歩いていたアイルは、はっと気がついた。
かたわらを歩いていたはずのダグが消えている。
「ロドラーン!」
アイルは叫んだ。
「ダグさんがいない」
ロドラーンは振り返り、舌打ちした。
「あいつめ、逃げたな」
「まさか、そんな・・」
アイルは絶句した。
「ダグさんは砂漠に慣れていない。はぐれたんだよ、この砂嵐で」
「ふん、どうだか。よほど砂竜が恐ろしいと見える」
「ダグさんは、そんな人じゃないよ」
言ったものの、最後の声は自分でも分かるほど弱々しかった。
ダグを信じたい。しかし、たとえロドラーンの言う通りだったとしても、どうしてダグを責めることができるだろう。
ダグが恐れているのは、砂竜ではなく弓を引くことなのだ。この世界の運命が、自分の引く矢一本にかかっているとすれば、アイルだってその重圧に逃げ出したくなるにちがいない。
ましてダグは、竜の星に一度も命中したことがないと言っていた。
「どうする。探さなくちゃ」
「もういい、臆病者をあてにしたわたしが馬鹿だった」
ロドラーンは、すっかり癇癪を起こしていた。
「あいつを探している時間などない。わたしがやる」
「弓もないのに?」
「矢を急所に突き刺しさえすればいいんだ。今のところ砂竜は、石化が解けずに砂漠につなぎ止められている。近くに寄ることさえできれば、なんとかなるかもしれない」
「ぼくが砂竜の注意をそらすよ」
「あいつの吐く息に触れたものは、みんな砂になってしまうんだぞ」
ロドラーンは驚いたようにアイルを見つめた。
「やめとけ。危険すぎる」
「ここで砂竜をなんとかしなければ、どっちにしろぼくたちは砂にされてしまうんでしょう」
アイルは言った。
「だったらいま、自分にできることをやるしかない」
「よし」
ロドラーンは鼻をならした。
「では、急いでついてこい。砂竜が飛び立ったらおしまいだ」
アイルは再びロドラーンの後につづいた。
あいかわらず風は猛り狂い、砂を舞い上げていた。
流砂に足をとられて、何度か転びかけた。両手両足を使い、ほとんど這うようにして先に進まなければならなかった。
ロドラーンが突然立ち止まり、無言で前方を指さした。
アイルは目をこらした。
波打つような砂丘の向こうに、黒々とした影があった。影は大きく伸び縮みし、さかんにうごめいていた。
それが砂竜だということは、はっきりとわかった。
太い首を振り上げて、空に向かって咆吼していた。身体の割に小さな前足を突っ張り、コウモリにも似た翼を上下させている。
しかし、砂竜がいかにあがこうと、後ろ足と尾はまだ石のまま、砂の中にめりこんでいた。砂竜を倒すのは、確かに今しかなさそうだ。
「ぼくは、前の方にまわる」
アイルはロドラーンにささやいた。
「あなたは、後ろから近づいて」
「いいか、くれぐれも無理はするなよ」
ロドラーンは言った。
「あいつの息は三十三間とどく。そこまで行くんじゃないぞ」
「的までの距離だね」
「そういうことだ」
アイルとロドラーンはうなずきあい、二手に分かれた。
アイルは砂竜の正面に向かった。
砂竜は絶えず羽ばたいているわけではなく、時おり疲れたように翼を休めた。そんな時は風も一時おさまり、見通しがきくようになる。
砂竜との間が縮まると、翼を持つ巨大で異様な姿が、ますますはっきりしてきた。
なめした革のような翼は鋼色で、薄く丈夫そうだった。広げると身体の数倍はあり、羽ばたくたび砂が恐ろしい勢いで舞い上がるのだ。
翼と同じ色の身体には毛も鱗もなく、たるんだ皺だらけの皮膚がはりついていた。太く短い首の先に、異様に小さな逆三角形の頭。
二つの赤い目は、身動きとれない苛立ちで煮えたぎっているようだった。大きく裂けた口が開くたび、しゅうしゅうと息を吐き出す音がはっきりと聞こえた。
目と目の間のくぼみなんて、アイルのいる場所から探すことなどできなかった。砂竜の急所は、その巨体と比べたらあまりにも小さかった。
冷たい恐怖がアイルをとらえた。
ロドラーンは首尾よく砂竜に矢を突き刺すことができるのか。
しかし、それができなければ、世界の破滅は目に見えている。母や姉やアイルが愛してきた様々なもの、それどころかアイル自身も砂と化し、消えてしまう。
どんなことをしても、砂竜の注意をこちらにむけさせなければ。
アイルは砂竜の前に飛び出した。
19
砂竜はアイルに気づき、一瞬動きを止めた。
遠い昔、自分を封じ込めた人間への怒りがよみがえってきたかのようだった。
砂竜は一声吠え、すさまじい勢いで羽ばたいた。
風圧で、アイルは砂地にたたき付けられた。もっと近くにいれば、吹き飛ばされてしまったにちがいない。いや、それよりも早く砂にされているかも。
砂に這いつくばりながら、アイルは灰色の視界の中で、砂竜の背後に駆け寄るロドラーンの姿をとらえた。
砂龍は人間への怒りと、飛び上がれないもどかしさで、狂ったように翼を動かしている。ロドラーンにはまだ気づかない。
ロドラーンが砂竜の背中に駆け上った。上下する翼の間を身軽によじ登り、首の付け根までたどりついた。
砂竜はようやくロドラーンに気づいて、首を振り上げた。息をかけようとするが、その首をロドラーンのいるところまで回すことはできなかった。
ロドラーンは矢を口にくわえて必死に砂竜の首筋にしがみつき、じわじわと頭に向かってよじ登っていく。
砂竜の怒りは頂点に達した。身をよじり、翼をばたつかせてロドラーンを振り落とそうとした。荒れ狂う馬のように前足で空を蹴り、ぐいと首をそらした。
ロドラーンは両腕をつかって、かろうじて砂竜にぶらさがっていた。首の皺に足をかけて体勢を立て直そうとしたその時、砂竜はもう一度大きく羽ばたいた。
アイルは息をのんだ。
砂竜の身体が浮き上がったのだ。
ついに石化が解けてしまった。
砂竜は喜びの声を上げ、頭を空に向けて一気に飛び立った。自由になった長い尾を首に向かって一振りし、ロドラーンを叩き落とした。
ロドラーンはアイルの近くに落下した。
「ロドラーン!」
アイルは叫んだ。
ロドラーンは仰向けに倒れたまま砂に埋もれ、ぴくりともしない。
目的を果たせなかった矢が、彼のかたわらに落ちていた。
砂竜は今や、高々と飛んでいた。千年ぶりの飛行を満喫するかのように、ゆっくりと上空に輪を描いて。
アイルは唇をかんだ。
間に合わなかった。
砂竜が遠ざかったせいで、その場の砂嵐は静まりつつあった。
しかし、これからは全世界が永遠の砂嵐に見まわれることになるだろう。まず手始めに砂にされるのは、自分と魔法使いというわけか。
砂竜は、急降下していた。
アイルとロドラーンの存在を思い出したのだ。口を開き、まっしぐらに向かってくる。
せめて最後の悪あがきとばかり、アイルは矢に手を伸ばした。この矢を、砂竜に投げつけてやろう。
その時、砂を蹴散らして、誰かが駆け寄ってきた。
アイルは、はっとした。
ダグだ。
何も言えなかった。アイルはただ、手にした矢を彼に渡した。
ダグは、弓にロドラーンの矢をつがえた。その顔は蒼白だったが、弓を引く腕は伸びやかで力強かった。
砂竜は、ぐんぐん近づいてきた。
三十三間。アイルは心の中でつぶやいた。
ダグは砂龍の息のかからないぎりぎりのところまで引きつけて矢を射るつもりなのだ。
ダグの目は、まっすぐ砂竜に向けられていた。
風が真っ向から吹き付けたが、ダグはひるみもしなかった。
アイルにとっては息もできないような一瞬が過ぎ、弓が鋭い弦音をたてた。
矢が空を切った。
砂竜は、悲鳴のような咆吼を上げた。
それが最後の声だった。
ダグの射た矢は、砂龍の目と目の間に命中していた。
砂竜は、羽ばたきを止めた。
ロドラーンの矢尻が深々と食い込んでいくにつれ、矢尻の中に砂龍の身体が吸い込まれていった。頭から首、胴体と翼、そして残った尾の先とともに、矢は中空でかき消えた。
砂嵐が止んだ。
弓を手にしたまま、ダグは肩で大きく息をしていた。そして、崩れるようにその場に座り込んだ。
アイルも、がっくりと膝をついた。
「まったく、いいところで現れたもんだな、馬鹿やろう」
横たわったまま、ロドラーンが口を開いた。アイルは彼に這い寄った。
「だいじょうぶ? ロドラーン」
「ふん。ちょっと気が抜けただけだ。じきに動けるようになる」
「砂竜は?」
「あの矢とともに、違う時空に消えた。宇宙の虚空だ。もう戻らない」
「やったんだね。ダグさん」
「悪かった」
ダグはうつむいたまま、大きくかぶりを振った。
「途中できみたちとはぐれて、このまま逃げてしまおうと思った。砂竜に命中させるなんて、できるわけがないと」
「でも来てくれた」
「夢中だった。どこを歩いているかわからなかったが、砂竜が飛び立つのが見えた。その下にきみたちがいた。わたしは」
ダグは深いため息をついた。
「本当に夢中だった。何も考えなかった。ただ弓を引いた」
「ぐたぐた言うんじゃない。矢は命中した。それで十分だ」
ロドラーンは、砂の上で大の字になったまま言った。
「よくやったよ」
「大まぐれだ」
「まぐれはまぐれでも、世界を救った。りっぱなものだ」
ダグは、弱々しい笑みを見せた。
「ほめられているようには、とても聞こえないな」
空は、まぶしく澄み渡ってきた。
いましがたまで砂嵐に覆われていたのが嘘のようだ。
強い太陽の光が、ようしゃなく砂地に降りそそぐ。
砂竜のいた場所だけが、巨大なすり鉢のようにくぼみ、影をつくっていた。しかしじきにそこも、風に流れる砂で埋まり、日の光にさらされることになるだろう。
白い波頭のような砂丘をぬって、こちらに駆けてくる二頭の馬が見えた。
砂竜の脅威がなくなったことを知ったロドラーンの馬が、迎えに来てくれたのだ。
「ともあれ、ここを離れるとしよう」
ロドラーンは、むくりと起きあがった。
「こんなところで日干しになるのは、ごめんだからな」
20
見渡す限りの砂の大地を、二頭の馬は並んで駆けていた。
来た時と同じようにアイルはダグを後ろに乗せていたが、馬の足取りはずっと軽やかに感じられる。
「わたしは、これから都に行く」
ロドラーンが言った。
「王に会って、砂竜がこの世界から消え去ったことを知らせてやる」
ダグに目を向け、
「おまえも来い、ダグ。砂竜を倒した、まぎれもない世界の守り手、王の射手だ。一生困らない富と名誉を得るだろう」
「冗談じゃない!」
驚いたようにダグは叫んだ。
「そんなことをしたら、二度と弓が引けなくなるよ」
「なぜ?」
「あんたがたの知っての通り、わたしは伝説にも名誉にもほど遠い臆病者さ。あの場から逃げようとしたんだぞ」
ダグは、自分自身に怒っていた。
「高潔で腕のたつ弓引きは大勢いる。このわたしが、どんな顔して王の射手になれると言うんだ」
「いかなる名人でも、あの状況では外したかもしれない」
ロドラーンは真顔で言った。
「ロドルーンの矢尻はおまえを選らび、おまえはそれに答えた。十分な栄誉だ」
「いや」
ダグは頑固に首を振った。
「こんな中途半端な腕のまま、都に行ってたまもんか。わたしには、まだまだ修練が必要だ」
「ふん、まあいいさ」
ロドラーンは、肩をすくめた。
「好きにしろ」
ダグが彼の言うような臆病者でないことは、アイルがよく知っている。もしそうだったなら、アイルもロドラーンもとっくに砂になっていたはずだ。
ダグはアイルたちを見つけ、救ってくれた。
その前に何を考えていたにせよ、ためらうことなく弓を引き、竜の星に命中させたのだ。
だが、ダグの気持ちもわかるような気がした。
彼は、まだ終わりにしたくないのだ。
父親の死以来、ずっとやめていた弓を、もう一度始めなおしたばかりではないか。いま王の射手にされてしまったら、弓引きとしての最終目標を失ってしまう。
太陽は、だいぶ西に傾いていた。砂丘地帯を抜けた頃、はるか前方にアイルのよく知っている岩影がぽつりと現れた。
星降岩だ。岩の三角形が大きくなるにつれ、オラフル山脈の美しい山並もはっきりと見えてきた。
「馬は、二頭ともおまえにやるよ」
ロドラーンがアイルに言った。
「こっちの馬も、用がすんだらおまえの所に戻すようにする。かわいがってくれ」
アイルは、きょとんとして尋ねた。
「でも、あなたは?」
「だいぶ力を使ったからな。しばらく眠らなければならない。こいつらの面倒をみてやれないんだよ」
「じゃあ、あなたが起きれるようになったら返しに行くよ。いつごろ?」
ロドラーンは軽い笑い声をたてた。
「次に目覚めるのは、たぶんおまえたちの孫の代になっているだろうよ。かまわない。もらってくれ」
あっけにとられているアイルにはかまわず、ロドラーンは言った。
「わたしはこのまま、魔法の地下路を使ってアスファに行く。途中まで、乗せて行ってやろうか、ダグ」
「いや。せっかくここまで来たんだ。故郷に寄って墓参りでもしていくよ」
「そうか。それもいいだろう」
アイルは、今さらながらにはっとした。
砂竜は消え、ロドラーンは目的を果たした。
アイルも記憶を取り戻し、砂漠に帰ってきた。
もうダグがアイルといっしょにいる理由はないのだ。
ロドラーンが別れを告げようとしているのと同様に、自分もダグと別れなければならないのか。
「会ってから、まる一日とたっていないのに」
ダグがため息まじりに言った。
「あんたとは、ずいぶん長いつきあいだったような気がするよ、ロドラーン」
「ふふん」
ロドラーンは鼻をならした。
「わたしもだ」
三人は、星降岩の側までやってきた。
ロドラーンが目を凝らし、山並みの下を指さした。
「あれは、おまえの仲間じゃないか」
たしかに、こちらに向かってくる隊列が見えた。アイルの部族に違いない。
砂嵐が止んだので、族長は砂竜が首尾よく消え去ったことを悟ったのだろう。住み慣れたオアシスに、意気揚々と戻ろうとしている。
「族長には、おまえがよく説明してやってくれ」
ロドラーンは言った。
「じゃあな、わたしは行く」
「ロドラーン」
アイルは呼びかけたが、何を言っていいのかわからなかった。
ロドラーンは二人を見て満足げにふふんと笑い、すぐに馬を走らせた。
馬は目に見えない地下路にすべり込んだ。
ロドラーンの外套と髪がひるがえり、たちまち消えてしまった。
「まったく」
ダグがつぶやいた。
「嵐のような魔法使いだったな」
「うん」
「わたしもここで降りるよ、アイル。いろいろありがとう」
「ダグさん」
アイルは驚いて振り返った。
「どうして。あなたの故郷の近くまで、送って行くよ」
「いや、大丈夫だ。ゆっくり歩いていくことにするよ」
ダグは馬から滑り降りた。
「きみは早く家族のところに行って、安心させた方がいい」
「こんなにあわただしく別れるなんて」
アイルは訴えた。
「母さんや姉さんたちに、ちゃんと紹介もしていない。ぼくの恩人なのに」
「きみがわたしの恩人さ。きみの姿を見なければ・・きみが矢を持って砂竜に立ち向かう姿を見なければ、わたしはあのまま逃げ出していた。きみのおかげで本当の卑怯者にならずにすんだ」
「そんなこと。ダグさんは、この世界を救ったんだよ」
今のダグにとって、賞賛は後ろめたいだけなのだ。自分が成し遂げたことを、一番信じられない思いでいる。
しかし、アイルは言わずにはいられなかった。
「もっと胸を張るべきだよ。みんなと会ってよ」
ダグは首を振った。
「今はやめておこう。もう少し、自分に自信が持てるようになるまで」
「ダグさん」
「わたしはこれまで、いろいろなものから逃げてきた。でも、逃げるのはこれで最後にしようと思う。だから、許してくれるね」
「行ってしまうの。どうしても?」
「また会えるさ」
ダグは微笑んだ。
「そうだな、こんどの射手祭は無理だが、その次に。きみに恥ずかしくない弓引きになって、都に行くよ」
アイルは馬から降り、ダグの手をとった。
「約束だよね。ぼくも都で待っているから」
「ああ」
ダグはアイルの手を握り返した。そしてそっと手をほどいた。
西の砂漠は、夕日を受けて金色に染まっている。
ダグは背を向け、まだ明るいオラフル山脈を目指して歩き始めた。
アイルは弓を持った彼のひょろりとした姿が小さくなり、遠い岩影に隠れてしまうまでいつまでも見送っていた。
21
祭りの初日早くから、アイルは王都アスファに入った。
市街は、人々であふれかえっていた。
なにしろ、四年に一度の射手祭なのだ。地元の弓引きの応援と、都の見物をかねて、国中から人々が集まって来ている。
四年前の射手祭の時、王は砂の竜が永遠にインファーレンから追放されたことを人々に告げた。すべては魔法使いロドラーンとザンの子孫と砂漠の勇気ある少年の働きだと。
ザンの子孫と砂漠の少年について、様々なとりざたがされたが、やがてそれも新しい伝説として落ち着いた。王の射手祭は、ザンと、その名もあかさず姿を消した子孫を記念して行われることになった。
しかし、なにはともあれ人々が楽しみたいのは、祭りの気分そのものなのだ。
どの通りも色あざやかな花や布で美しく飾り付けられ、広い道の両側には、さまざまな種類の露天が並んでいた。都のあちこちの広場では、大道芸や見せ物小屋が人寄せの準備を始めている。
普段ならば、アイルもそういったものいちいちに心を引かれていたにちがいない。しかし、今日は真っ先に行かなければならないところがあった。
丘の上に築かれた王城の真下、広い芝生の敷地が弓術場だった。
階段状の観客席が矢道の両側にあり、いい場所をとるために早出した人々がすでに座り込んでいた。
初夏の風がさわやかだった。
観客席の高みに立って、アイルはあたりを見まわした。
的場には紫紺の幕が張ってあり、その中央に竜の星的がひとつ掲げられていた。聞いていたとおり、普通の的よりもずっと小さなものだ。
射場の脇にある控えの広場には、弓を持った人たちの姿も見えた。競技がはじまるには時間があったが、いくらかでも雰囲気に慣れようとしているのだろうか。
アイルが知っている人の姿はなかった。
まだ早い、とアイルは自分に言い聞かせた。ここで待っていれば、きっと。
「アイル?」
聞き覚えのある声がした。
アイルはぱっと振り向いた。
忘れようのない赤毛が目に入った。
彼は弓を手に、まじまじとアイルを見つめていた。灰色の目、やさしげな口元も以前のままだ。
「ダグさん!」
「やっぱりきみだ」
ダグは、はれやかな笑顔を見せた。
「見違えたなあ。わたしより背が伸びたんじゃないか」
「まだダグさんの方が大きいよ。元気そうでよかった」
「きみも」
「射手祭に」
アイルは確信をこめて言った。
「出るんだね」
「うん。なんとか這い上ってきた。でも、出場権がなくとも、ここには来ようと思っていたんだ。きみと約束したからね」
「会えてうれしいよ」
「わたしもだ」
アイルはダグと肩を並べて腰を下ろした。
弓引きと、砂漠のすらりとした青年の姿は通りかかる人々の目を引いた。
この四年の間にあったことをダグにきいてみたかった。自分がどんなにダグに会いたかったかも話したかった。
だが、言葉はなかなか出てこない。アイルはただ、ダグに会えた喜びをかみしめていた。
下の方で、鐘が高らかに打ち鳴らされた。
弓引きを集める合図だった。
「やるだけやってくるよ」
ダグは立ち上がり、アイルに微笑んだ。
「また後で会おう」
「うん」
ダグは他の弓引きたちに交じって控えの広場に入った。アイルは観客席の最前列まで降り、空いている場所を探して座り込んだ。
役人の説明を受けている弓引きたちの中に、小柄な姿を見つけて、アイルははっとした。
彼女を憶えている。
ブルクで会ったリーだ。彼女もまた、射手祭までたどり着いたひとりなのだ。ダグは気づいているだろうか。
射場の後ろには、天蓋つきの一段高くなった席が設けられていた。そこに王が一族を伴って現れ、人々の歓声を受けた。
まだ若い王のかたわらには、弓を手にした灰色の髪の男が、背筋をぴんと伸ばして立っていた。彼が前回の王の射手にちがいない。
王はこの四年間インファーレンが平穏であったことの喜びと、さらなる平穏が続くようにとの願いを語った。四年間つとめた王の射手の任を解き、新たな射手を求めることを宣言した。
弓引きたちは高らかに名前を呼ばれ、的に向かった。
矢が放たれるたび、弓術場は拍手とため息につつまれた。
ダグの番がやってきた。
ダグは作法通り王に礼をして、射場に立った。アイルのいる場所からは、ダグの姿がはっきりと見えた。
彼の表情は穏やかで落ち着いていた。
アイルは、じっとダグを見まもった。
ダグは呼吸にあわせてゆっくりと弓を打ち起こした。
静かに細められた彼の目は、的ではない別の何かに向けられているようだった。
ダグが見ているのは、彼自身の心なのだろう。
アイルはふと思った。
まっすぐに向き合って、もうそれから逃げることはない。
高くなった日の光が、的場に射し込んでいた。
竜の星は、銀色にかがやいてダグの矢を待ち受けた。