後ろ髪を引かれる
思えば最近ツイてなかったと青年は独り思っていた。
無能ばかりのせいで自分に皺寄せが来ている現状に、いい加減我慢の限界だったのだ。
第三科のクラス長が余所者の非常勤教員に揃って敗北したことは、気に食わなかったソイツを内心でざまあみろとは思っていたが、第一科、第二科の連中からの侮蔑が強くなり一緒に馬鹿にされるのは耐え難い屈辱だった。
成績が上がらないのだって、この掃き溜めクラスでは自分の才能が活かせないからだ。高等部に進学するときの試験で第三騎士科に編入されたことは今でも納得していない。人を見る目のない教師連中だと、日に日に見下すようになっていた。
そもそも一科や二科は家柄や寄付金で入学したようなボンボンだ。実力は自分の方が上だと確信している。
更に最近はもっと面白くないことがあった。ひそかに想いを寄せていた後輩の少女達が例の余所者に慰み者にされてしまったという話だ。
しかもその噂の火消しに自ら出ることなく、彼女達にさせるという筆舌にしがたい卑怯者だ。少なくとも彼はそう思っていた。
そんな暴挙をしでかしたその異邦人も、それを雇うアカデミーの恥知らずさも、その少女達のアバズレさも、誰も自分を認めない環境そのものも、何もかもが気に喰わない。
こんなことなら我慢などせずに、空気など読まずに好きに行動すれば良かった。
クラス長にペコペコするフリもせず、教師の目を気にすることもなく、あの少女達に欲望のタケを思う存分ぶつけて、そして余所者を排除すれば良かった。
そうすれば今よりは良い状況だったかもしれない。いやきっとそうだ。無能な連中は自分の才能をようやく認め、急遽第一騎士科への編入させるだろう。上手く行けば一気にクラス長になれるかもしれない。
例の少女達も自分の男らしさそ知り目の色を変えるに間違いない。どちらを第一婦人にするか悩ましいところだが、ここはやはり貴族の娘の顔を立ててやるとするか。
男はそんなありもしない未来絵図を描きながら悦に入っていたのが悪かったか、前方の注意が散漫になり障害物にぶつかる。
「ってーなお坊ちゃんよぉ、どこ見てんだよ、ぁあ!?」
「ひ……ッ!?」
普段から障害物程度にしか思っていない下級の冒険者だった。
「おいおいショーガイ事件発生じゃねえか。リーダー、お怪我はありやせんか?」
「あーメチャクチャいてぇ。駄目だな、こりゃあクエストにも行けやしねえ。今日こそダンジョンを踏破しようと思ったのによー」
「あーあ。将来の大勇者が失われちまったわ……どうすんのさ兄ちゃんよー?」
「あ、あの……その……」
四人の冒険者パーティに凄まれ、男の冷たい汗が背を伝う。
冒険者といってもこの男達のように半ばゴロツキのような、国になんら益をもたらさない存在も居る。
王都の堅牢な審査基準から、大半の犯罪組織などは国に入ることは出来ない。だがそれでも街の秩序が完璧とはならないのは大都市であり多くの人口を抱えている以上、当然だといえる。
中には大貴族と裏で繋がっているような犯罪組織もあるので、一定以上から良くならないのもまた当然だった。
そんな王都全土を揺るがしかねない連中と日夜戦っているため、喧嘩の延長程度のいざこざなど、騎士団が乗り出してくる事は稀だ。
「ん? おいコイツアカデミーの生徒じゃねえか?」
「そう言われりゃあそっスね。もしかしたら金持ちのボンボンかもしれませんね。じゃあパパかママに慰謝料でも払って貰おうかなー?」
大きな体躯を余計に威嚇するように使っている男が、青年の外見からその事に気付く。
王立アカデミーの学費は平均的な冒険者の給料を上回っている。しかも昨今は、在籍する生徒の多くが貴族か中流階級以上の家庭に育ったものが多い。冒険者の男達は下卑た笑みを浮かべながら、自分達の都合だけで青年を追い詰める。
「あ? おう剣なんて抜きやがって、やんのか?」
青年は無意識の内に訓練用の木剣を引き抜いていた。仮にもアカデミー騎士科の生徒だ。授業で学んだ剣術だってある。
しかしどうしても手が震える。
自分の才能は歴代でも最高クラスの筈だ。泥臭い素振りなどしなくたっていずれ開花する。
練習なんてのは、才能に恵まれなかった奴らの慰めでしかない。少なくとも青年はそう思っていた。
「生意気に構えやがって……おらぁっ!」
「ぅわぁっ――!?」
乱暴に振り回された冒険者の本物の剣。鞘付きではあったが鉄製の重量と威力は、青年の手から木剣を弾きとばすのに十分だった。
反撃が無いことを悟り、リーダー格の男が追加の剣戟を悠々と叩き込む。
横っ面を叩かれ青年は地面に這いつくばった。通り雨でも降ったのか、窪みにあった水溜りが頬と髪を汚く濡らす。いま上から降ってくるのは冒険者達の嘲笑だ。
まただ。
何でこんな目に合うのはいつも俺なんだ。実力も家柄も何一つ劣るコイツらに良いようにされないといけないんだ。
何かもが気に食わない。こんなことなら、もっと、そう、もっと――。
『じゃあ今からすれば良いじゃん』
どこからか声がいた。若い女の声だ。この場にいる誰のものでもない。
「……誰?」
『んー……神様、かな?』
声の持ち主は神と名乗る。億劫に顔を上げてみるが、四人の粗暴な冒険者以外に姿は見えない。
幻聴か、と思う。
『違う違う幻聴でも空耳でも無いよ。ちゃんと神様だって。君を――そう、選ばれた君に祝福を与えに来たのさ!』
「……――!」
このとき、男の胸中にあったのは困惑でも、助かるかもという期待でも無く――、
「な、なんで……もっと早く来なかったんだ! 俺が選ばれたものならっ! もっと早く……今じゃなくて、もっと前に出て来いよ!」
というものだった。
選ばれた男であるはずの俺が辛酸を嘗めているのはおかしい。それがまかり通っているのは、神とやらの怠慢じゃないのか。そう思うと、幻聴かもしれない神の声に恨み言をぶつける以外の感情は無かった。
『ごめんねー。うんうん、つらかったねー、きつかったねー。でも大丈夫! これから大逆転人生の始まり! 今日は英雄伝説の一ページ目なのさ! これからはなんだって出来るよ! アカデミーの第一科どころか、王国騎士団団長にだって超級冒険者にだってなれる! 聖剣を手に入れて世界中の皆から称えられることだって叶う! 王女様だって皇女様だって君にメロメロさ! よっ! モテモテ!』
からかう様な神の声は、だが耳に気持ちいい。
そうだ。俺は選ばれた存在なんだ。この腐った国――いや世界を俺が正さないとならない。与えられた大きな宿命は、俺以外に為し得ないのだ。
『じゃあ良い? 早速祝福を授けるよ。ちょっとチクってするかもだけど、何の心配も無いからねー』
男が返事をするより早く、うなじ辺りに虫にでも刺されたような痛みが走る。時間経過で痒みに変わる程度のささやかな物だった。
『後悔するくらいなら、今からしちゃおうよ。思うままに、感じるままに、願うままにさ。後ろ髪を引かれ続けるような生き方は、今日でバイバイしなよ』
「いま、から……」
『今の君なら出来る――ううん、君しか出来ない。私もカミ応援してるから』
その声を最後に、声の主は居なくなった。最初から姿など見えなかったが、青年はかすかに感じていた気配の消失を確かに察知した。
「リーダー、なんかコイツぶつぶつ言ってて気味悪ぃんだけどー……」
「ッチ、強く殴りすぎたか? しゃあねぇ、金目のモンだけ剥いで路地裏にでも――」
倒れたままの青年に近づいたリーダーの言葉はそこで止まる。待っても次の指示が無いことをいぶかしみ、側にいた男が肩に手を掛けた。
「リーダー? どうかした――」
ぐらりと右に傾いたかと、そのまま地面に倒れる。皮と鉄で出来た防具と石畳がぶつかり音が大きく響いた。
「おいリーダー!? な――ひぃっ!?」
咄嗟に抱き起こそうとして異変に気付く。滾々と口から血を流し、首の骨が砕けてしまったかのように力なくうな垂れる。半開きの目は最早この世の何も写していないだろう。
その代わりに、無様に横たわっていたアカデミーの生徒が立っていた。俯いた顔は陰に隠れ表情が見えない。何時の間に拾ったのか、その手には青年が最初に持っていた木剣が握られていた。
「てめぇ! 何しやがったッ!?」
直感と背筋を走った怖気に従い、冒険者の一人は自らの得物である腰のダガーを引き抜く。
油断無く前に突き出していた筈の鈍色の刃先が、一瞬の風のあと持ち主の意思に反し高度を下げた。
「……あ?」
確かに握ったままの刃物を男は見た。ただし、どうやっても構えが取れない。
手首と肘の間に新しい関節が出来ている。外部から加えられた恐ろしいまでの力が、それを為したのだ。
皮膚を突き破って飛び出している鋭利な白いトゲが、自分の骨だと気付くのに数秒を必要とした。
「あ、い、ぎゃぁぁあああ! お、俺の腕がぁぁあああぁああ!?」
ダガーを取り落とし、灼熱感を伴う流血が腕と石畳を等しく彩る。
興奮により痛みは感じていないが、溶鉄に腕を突っ込んでしまったかのような気色の悪い熱は男を絶叫させるには十分だった。
しかしその声も長くは続かない。横凪に構えられていた青年の木剣がゆっくりと上昇し、真っ直ぐ振り下ろされた。それは下級とはいえ冒険者稼業で鍛えた男達の目を以ってしても見えないほどの速度。
異な音と、地面に顔面から叩きつけられた事のみが攻撃だったことの証明だった。
未だ無事な仲間二人は、物言わぬリーダーと男を見てたじろぐ。その一瞬の隙は残りの冒険者の運命を永遠に決定付けてしまった。
最後に目に捉えたのは木剣を諸手に構えたアカデミーの青年。しかし、その姿は自分達のリーダーだった男よりも大きな肉体になっていた。
翌日、変わり果てた姿で発見された四人の男達は王都を騒がせることになる。
・
・
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「どう思いますエッダさん!? ムネヒトさんったら酷いんですよ!」
「うんうん、ミルシェちゃんは大変だねぇ」
王都の中心からやや外れた場所にある雑貨店、このあたりの平均的な店舗面積の割りには幅広い品揃えが特長だ。専門店には劣るが浅く広いラインナップと良心的な価格の為、初級から中級の冒険者にも指示を受けている。
常連限定ではあるが軽食などの注文も受けつけており、利用者はカウンター席に案内される。そのカウンターに男女合わせて三人。少女が一人と壮年期の男性と女性が居た。
恰幅の良い女性はカウンターの内側に、男性は客側に座り、その隣の席に着いているのは栗色の髪をした少女だ。
カウンターテーブルの上にはチーズやクラッカー菓子、大きな木のジョッキ、ついでに少女の豊かな乳房が乗っている。
ミルシェ・サンリッシュは腹を立てていた。
本日は配達でエッダの家に訪れ、注文の荷を全て下ろした後、彼女はエッダに日頃の鬱憤を聞いてもらっていた。
「……ぷはぁっ! 最近ぜんぜん構ってくれなくて……忙しいのは分かりますが、レスティア先生やリリばっかりと一緒だし、帰ってきてもポーションの味覚改革がどうのこうの言ってるし……」
「一番仲が良いのはミルシェちゃんなんだから、蔑ろにするのは良くないよねぇ」
ジョッキの中身を一息で飲み干し、突っ伏しながらぼやくミルシェを壮年の女性――エッダは優しく慰める。
鬱憤というか若干ノロケ話だった。しかも同じような事を繰り返し話している。エッダは空になったコップにお代わりを注ぎながら、こういう酒癖の悪い客が居たことを思い出していた。
だがミルシェは特に酔ってはいないし、コップの中身も持参した牛乳だ。
酒は二十歳未満は飲んではならないというような法律は無いが、一般常識やモラルとして飲まない、未成年に勧めないが暗黙のルールとなっている。
「うう、ムネヒトさんのばか……」
「ったく、仕方の無い男だな。ミルシェちゃんを悲しませるなんてよ」
「ムネヒトさんを悪く言わないで下さい!」
「お、おう……すまん……」
隣に座ったモルブは素直に謝る。彼は年の割には逞しい肉体と、ほとんど白髪の頭に彫りの深い顔立ちをした壮年の男だ。モルブが視線の向きを変えると彼を咎めるような、でもどこか慰めるようなエッダの瞳がある。
乙女心ってのは面倒くさい、モルブは正直そう思う。
彼は王都でも有数の職人達を統括している顔役でもあるし、モルブ自身腕利きの職人でもある。外見のイメージから外れることなく頑固で仕事一徹な性格で、彼の元で修行している若者の中でモルブの怒鳴り声とゲンコツを喰らったことが無い者はいない。
情に厚く涙に脆い面もあり、この近辺では頼りになる頑固親父だ。
その彼をして、いや、そんな彼だからこそ年頃の娘の慰め方などよく分からない。自身の子は全員男子だったし、従業員もまた野郎しかいない。
最近、息子夫婦に待望の女の子が生まれたが、今のミルシェの様子から思春期は苦労しそうだなと考えなくてもいい心配をしてしまう。
「もう……私のコトなんて、飽きちゃったんでしょうか……」
聞き様によっては非常に際どい愚痴だが、エッダもモルブもまぁまぁと軽く慰めるのみだ。何を言ってるんだという内心はおくびにも出さない。
実際、ミルシェとムネヒトは恋人では無い。
単純に言うなら居候。旅人。雇い主と従業員。特別な言い方をするなら同じ牧場の別区画を担当する共同経営者だろうか。
ではそれだけの関係か? と言われればそれは否だ。彼には一家ぐるみで恩もあるし今では恩以上の感情もある。
だがそれが決定的な男女の関係性を表すものでは無いので、彼がどこでどんな女の子と仲良くしようが究極的にはミルシェには関係ない。
それを理性の面では理解しているので、ミルシェは背反する感情に挟まれ苦悩しているのだ。
(あの時はあんなに夢中になってたのに……)
彼女の思うあの時とはアレ以外に無い。ムネヒトへの御礼の時だ。
泣き出してしまったことは流石に驚いたが、あそこまで喜ばれるのは悪い気がしない。知性ある動物特有の感情、自尊心をくすぐられたのは事実だ。
やや勢いに身を任せすぎたとはいえ、なんともはしたない事をしたものだと思う。しかしあの時は何故かそうすべきだと思ったのだ。まるで神様にそうするべきだと、妙なアドバイスでも貰ったかのようなだ。
彼の手、彼の指、彼の熱、彼の目を思い出すだけでどうにも顔が熱くなる。あれは限定的とはいえ身体を許してしまったことになるのでは? いやいやアレは御礼なのだから、そういうのじゃないし。セーフセーフ。
そんな悶々とした言い訳を誰に話すでもなく胸の内に隠しているのだ。胸の話だけに、とムネヒトなら思うだろう。
あの時の以来進展は無い。
続きを希望されてしまえば恐らく拒めないだろう。ミルシェは早まったかなという僅かな後悔と、自分から言い出したことだから仕方無いよねという覚悟を持って日々を送っていたのだ。そもそもバンズが来なければ、あのあとどうなっていたか知れない。
あの晩も、もしかしたら帰っておとーさんが寝静まった頃に迫られたらどうしようと思っていた。
雨に濡れて軽く乾かしたきりだからこのままじゃマズい。風呂くらいは入らねば。
違うよ落ち着け、他に気にすることがある。
下着だ。しまったレパートリーが無い。こんなことならリリに連れられて行ったクノリ家御用達のランジェリーショップで、用意しておけば良かった。
自分に合うサイズが無いからオーダーメイドになると聞いて、面倒になったのがダメだったか。
いや待って。普段風呂上がりに身につける下着は、就寝用の地味な物だ。見た目の可愛さより、バストの形が崩れないようにとか痛くならないようにする為の機能以外には、特徴の無い衣類でしかない。
それを見せるのは問題外だが、わざわざ風呂上がりにお洒落な下着を身に纏っているのはその展開を予想していたということになるのでは?
大変だ。はしたない娘だと思われてしまう。
いやそうじゃない。なんでお風呂とか下着の心配をしているんだ。もっとこう……ええと、どうしよう。
結局その晩は、軽い夕食に風呂に入っただけで疲労と眠気に抗えず、全員泥のように眠ったので何も無かった。
ちなみに下着は着けずに寝た。
未知への恐怖、好奇心、興味など思春期にありがちなあれこれを混ぜながら時間は流れた。
その間、特になにも無かった。一日に四十回は見てくるクセに、自分ばかり意識して不公平だとは少し思う。無意味な長風呂もノーブラ就寝もいい加減に不毛だよ全く。
「ミルシェちゃんが飽きられるもんかね。あの坊やだって絶対に意識しているさ」
ぽんぽん肩を叩きながらエッダは慰める。
親しい間柄で贔屓目を多く含めたエッダが見てもミルシェは魅力的な少女だ。一般的な若い男性なら惹かれるのは当然だろう。
またエッダからみたムネヒトも悪いイメージは無い。スケベだが誠実そうな男だったし、牧場の為に大貴族に喧嘩を売るのだから見上げたものじゃないかと株も上がっている。
だがそれはそれ、これはこれだ。ムネヒトに対して思うところは勿論ある。ミルシェを大事に思っているのは間違いないだろうが、その大切の仕方が変だ。
彼は釣った魚に餌を与えないどころでは無く、自分より上手に飼える人物を率先して探しているのだ。
いつか誰かに譲るために精一杯の愛情を注ぐアンバランスさは、誠実と言うより歪んでいる。
モルブの抱える若い従業員たちを片っ端から腕相撲でのしていたし、アカデミーでも色々立ち回ってるらしい。半端な男を排除して回る過保護な兄とは彼が自称するところだ。
「いっそ素っ裸で迫りゃ一発さ。あっちゅう間にケリがつく」
酒で口を滑らかにしたモルブが、文字通り口を滑らせる。
「はだ……っ!?」
「このスケベジジィ。ミルシェちゃんに妙な事は吹き込むんじゃないよ!」
大胆というか大雑把なアドバイスに顔を赤らめる少女と、いっそ殴らんばかりの勢いで咎める女店主。
「あの手のへたれ男が腹を決めるには、時間か勢いくらいしか無いのさ。そうならざるを得ない環境に叩き込めば変わるって」
「へたれをサルに変えるつもりかい? ミルシェちゃんだって、そんな関係になりたいわけじゃないだろうに……ねぇ?」
「えっ? あぁ、うん……」
さっきまでそんな妄想をしていた手間微妙に返答しづらい。
「まずは意識させなきゃ話にならん。ミルシェちゃんならどんな男もイチコロさ」
「段階ってもんがあるだろうがジジィ。見た目だけで寄ってくる男なんてのにロクな奴はいないよ」
「知らない奴じゃないんだし、アイツだって男なんだからきっと喜ぶだろう。いっそ日頃のお礼とか、ムネヒトの忍耐力を試すテストにしたらどうだ?」
「まったく、馬鹿な事ばかり言って……その気が無くてもその気になったらどうすんだい。アンタ、何かあったらバンズに何て言う気だ?」
大雑把に磨きがかかってきたモルブに、エッダは深い溜め息をつく。
「仮にやるにしてもミルシェちゃんが自分を差し出す真似は駄目だ。まずは別の……そうさね、私がバニー姿とかでってのはどうかね?」
「止めとけ止めとけ! 男じゃなくてハエが寄ってくるわい!」
「なんだとクソジジィ!」
いつもの調子で口喧嘩を開始する二人を余所に、ミルシェは思案にふける。
「おいおい、言っておくが冗談だぞ?」
「そうさね、こんな飲んだくれジジィの言うことなんて真に受けるもんじゃないよ」
ちびちび牛乳を飲みながら途端に無言になった少女に気付き、言い争いをしていたモルブとエッダは注釈を加えておく。
酒が回っていはいるが、モルブだって本気のアドバイスではない。転んで擦り剥いた程度の傷に、上級治療薬を用いるような過剰な案など却下すべきだ。それはエッダも、勿論ミルシェだって理解している。
「しませんよそんなこと! 恥かしいし、引かれてしまいます……」
疑似酩酊状態でも、その程度の貞操観念は失われはしない。
ムネヒトの前に肌を晒すなんて、想像しただけで羞恥の檻の閉じ込められてしまいそうだ。ありえない話だが王都の大通りで裸になれと言われるより恥かしいと感じる。
だがどちらかを絶対に行わないとならないというのなら、迷い無く前者を選ぶ。その程度にはしっかりしているし、しっかりしていない。
今の二人の間柄では有り得ない事だが、それをする事態が来るのだろうか。
まさか。痴女ではあるまいし、そんな手段に訴えかけるようではあの時のムネヒトの言葉と、母の言葉を蔑ろにするようなものだ。
だがもし、自分以外の誰かが彼に対しそのような行為に及んだらどうだ。
モルブの言うように、ムネヒトはあっけなく陥落してしまうのだろうか。そうなってからいっそ彼に大胆に迫っておけば良かったと不毛な後悔をしてしまうのか。
それこそまさかだ。限りなく起こりえない未来の後悔までしてどうする。
「ふぅ……話したら楽になりました。ありがとう御座いますエッダさん、モルブさん。愚痴なんて聞いてくれて……」
それからもムネヒトに対する愚痴をローテーションしながら、しばらく時が経った後、空になったジョッキを潮にミルシェは謝意を述べた。
「いいさいいさ、話して楽になるなら幾らでも話しな。いざとなったら私があの坊やにガツンと言ってやるから!」
カラカラ笑って、エッダは太い角のオブジェクトを取り出す。すっかり手になじんでしまったのか、扱いようには淀みが無い。
「バンズの小僧にも宜しくな、また呑もうって言っといてくれや」
「あまり飲ませ過ぎないで下さいね~」
ジョッキを別れの手振りとして挨拶するモルブに、ミルシェは笑って応える。
根本的には何も進んでいないが、それでも心の靄が大分取れたと感じていた。悩みを相談できる間柄というのは貴重な財産だ。
精神的には軽くなった胸を弾ませ、ミルシェは待たせていたマルの頭を一撫でし荷台に乗る。
「――いたっ!?」
手綱を握ったとき、彼女のうなじ付近にチクりと鋭い痛みが走る。徐に手をやるが、特になんとも無いし痛み薄まってきている。大方、虫に刺されたかトゲでも有ったんだろうと思い深くは考えず、ミルシェは荷馬車を牧場へ向かわせた。
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子猫拾いました




