ただいま。
旧い約束の時間が経った。
アーメン
新しい約束の時間が経った。
アーメン
寝て夢から起きた、あの朝をまだ、僕は覚えている。
どこかへ行って、そしておあげなよ、というような、そんな感覚。鑑の前に、地獄への道があった。世界の始まりを告げる、神の息吹が感じ取れた。歌が静かに聴こえた。その歌は世界的な指揮者と管弦楽団の演奏で、そして途中で演奏が終わったと思ったら、善意の合唱が鳴り響いた。「ここに薔薇がある。ここで踊れ」という名言で知られる在りし日のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが夕の晩餐会にその言を持って現れた。
「私たちの前には始まりと終わりがある。あなたはどちらを選びますか?」
そこには聖なるアテナイの学堂に描かれていたありとあらゆる学者が勢ぞろいして世界という、忘れたくても忘れる事なんて到底できない世界を、暗く、暗く、――明るく――そしてロッテルダムのエラスムスの神的であり心的な告白が天の国から聴こえた。
そして、それが聴こえた瞬間、ターレスやプトレマイオスやユークリッドが幾何を描き、オイラ―とニュートンとラグランジュが解析の式をあらわし、そして世界で最後の数学者が涙を流していた。その数学者の名前を、僕は知らないのだ。
あれから何億年もの長い月日が流れた、と思ったら、オルガンの音が聴こえた。オーボエで楽を慣らした音に、僕は世界を代表するその、アーメンという言葉をマリア像とキリスト像が見つめる中、ダンテ・アリギエーリが最後をstellaということばで結んだ、あの「神聖喜劇」を、そしてガリアへの戦いを挑んだカエサルがコロッセオで演説を行っていた。それから帝国が成立してからユリウス=クラウディス朝が崩壊した瞬間、ローマ帝国はいつの日か崩壊することを知ったのだろう。
「世紀から世紀へと古代の最も遠い時代まで遡っても、いま眼前に見ている事態に似たものは何一つ認められない。過去はもはや未来を照らさず、精神は闇の中を進んでいる」といったアレクシス・ド・トクヴィルと「人間はいないか」で知られるディオゲネスが世界樹ユグドラシルの前で陪審員、アレクサンダー大王、アリストテレス、ゲーテ、スピノザ、パスカルの五人の前で弁証し、五人を悩まさせていた。トクヴィルとディオゲネスの瞑想した形而上的な帝国、まあ、つまりマキヤベッリの創始した多様性のある群衆の前でグレゴリウス聖歌が流れ、聖歌隊のボーイソプラノが家庭を祝福されていたが、それ自体が仮定形だったのだ。
ひとりの父とひとりの母。
聖なる神の前でグスタフ・クリムトが最後の絵を描き上げていた「花嫁」それは絶筆となった。クリムトは第一次世界大戦の悲劇的な、ベルサイユ条約が結ばれるのをこの世で見るのを拒否するかのように、この世を去り、なまめかしくも生きた証を残した。この指を、僕は「 」のことを覚えていたのだ。と言った瞬間、世界は糸が触れ動き、交じり、交わり、創り、創り、喜びを天地創造の第八の朝を迎えるのだろう。
――主よ、人の望みの歓びよ、
エゴン・シーレはクリムトの絵画を聖なる仕事と評した。
――我が、心を慰め潤す生命の君、
サアディーの薔薇園は遠く、サアディーの果樹園は近い。
――主は諸々の禍いを防ぎ、
というヨハン・セバスチャン・バッハ作曲のBWV147「心と口と行いと生きざまは」の第二コラールが鳴り響いていた。まだヴィオラが消えるころだったのだろうか? ああ、ヴィオラ!
第八の夕に予告などなかった。まだ遠く、近く、作り作られる、世界と言う名の事象。色とりどりのバラと百合が世界中に散らばった。サンタクロースのような、存在だった。こころにいる。そしていつか消える、幸せな物語たち。〔その時イエスは云われた。父よお許しください。私は罪深い罪人なのです。この私を刺したロンギヌスの槍が私が生きた、という罪と証を残すのでしょう。〕
第八の夕は止まった。ラファエルとガブリエルとミカエルの三天使が笑っていた。私たちのことをうつくしく描く、ファン・アイク兄弟を持てた私たちは幸せだと。
ああ、聖なるマリア、幸あれマリア。めぐみに満ちている。受胎告知の夜にベツレヘムがヴァルプルギスの夜と重なった日だった。祭りの日だった。そしてそれは同時にマーテル、マーテラ、と最後の文字を変えて、魔女たちがマリアを罵っていた。それをビーナスの誕生を描いたボッチッチェリが止めに入った。「このお方は聖なる母で世界の誰からにでも慕われるお方なのです」と。
有限より大きく、無限より小さい集合体の羅列。もしくは決定不可能な連続体仮説の終り。この町にはいくつもの想い出が現れては消える。
神学者、アウグスティヌスが現れて判決を言い渡した。
「拍手をお芝居は終わりだ」
その瞬間、世界は精霊たちに愛されたのだ。文字となって世界という書物に書かれたオモイデたち。いつかいえるだろうか、ただいま、と。