歪んだ世界の歪
例えどれほどの綺麗な言葉を並べたところで、どれだけの美麗に装飾された言語を使用したところで、圧倒的な暴力を含んだこの世界が欺瞞に満ち満ちている事実を認識している者は少ない。
嘘と偽りでしかない。
もっとも、全てがそうだとは誰も言い切れまい。
しかし、だからこそ人間同士の友情や愛情、心温まるようなエピソードが美化されているのではないだろうか。
だからこそ、より豊かな感情に陥ってしまう。
世界が麗しいという錯覚を無意識の内に覚えてしまう。
言うまでもなく、この世は弱肉強食である。
そして、もっと言ってしまえば、この世界は《善良》に厳しい。
良心を有する者がいつだって貶められてきたことは、弱肉強食が持つ一面であるのと同時に人間界における摂理の表れでもあるだろう。
騙され、謀られ、裏切られ――善良過ぎる人間が評価される裏に隠れているのは、損益を省みない精神と自己犠牲だ。
《善良》が弱者であると決して断定することはできないけれど、少なくとも世間一般的に見れば、彼らは損をしている。
それを自覚しているかどうかはともかく、果たして、そうまでして《善良》を保つことに何かメリットがあるのだろうか。
彼らにとって、その姿勢を保つことが利益となるのだろうか。
はたまた、そんな思考を当然として有している私自身は《善良》ではない《邪悪》なのだろうか。
損得勘定。
その意は自分にとって損であるか得であるかを打算的に判断することである。
例えば、《善良な者》が自己の損失を省みずに犠牲を払えるのなら、恐らく彼らはそんな卑しい勘定など行わないのだろう。
まったく、善良にもほどがあるとは思うが。
しかし、それは本当に下品な思考なのか――卑下されるほど下劣な勘定なのだろうか。
人間関係において損得勘定を行う者が圧倒的多数であるという事実ならぬ実態が意味していることは、誰も自分に害を為す者と関係を建設したくないという極々当然で当たり前の、ある種の文化と表現しても過言ではないような凡俗な思考の結果だ。
誰も、損などしたくないのである。
誰も、害悪など及ばされたくないのである。
しかし、例外もまたある――得が損を上回った場合、両者の間には非凡な人間関係が形成される。
例外と言ったが、これもまた損得勘定の結果に変わりない。
そして。
そのような非凡で稀有な、特殊な人間関係が構築された際、必ずと言っていいほど両者間に浮遊しているのは暴力と裏切りである。
或いは《強者》と《弱者》、若しくは《力》と《力》である。
それもまた、世界が欺瞞に満ちている現実を表す側面であり、正面だ。
付き纏うのは金と権力と暴力――突きつけられるのは、それらに並列することを許されない現実。
平々凡々な一般人には到底抗うことすら敵わない弱肉強食の世界。
どうしてかこの世界では狡猾で狡賢い者ほど力を掌握している。
どうしてかこの世界では善良で正しい者ほど力を搾取される。
裏切られるのはいつも善良な心優しい人ばかりで、謀るのはいつも狡賢い悪質な者だ。
心の隙間に付け込んで弱みを握り、利用して、騙して裏切って――こんな世界のどこが綺麗と言えるのか。
人生のおよそ七割が辛いことや悲しいことで、だからこそ残りの三割が痛快愉快と感じられる逆説に惑わされている多数はどうしてそんなことすら気付かないのだろう。
いや、気付いてはいるのだ。
けれど、だから何ができるという話である。
世界は善良に厳しい。
世界は良心に厳しい。
世界は才能に厳しい。
世界は邪悪に優しい。
世界は悪質に優しい。
世界は貧困に優しい。
それらを認識しているかはさておき、世界の下劣な正体を知ったところで果たして何ができるのだろうか。
何を変えられるのだろうか。
善良な者がその評価とは見合わない損失を甘受する世界を変化させることができるだろうか。
何の力も持たないたった一人の人間が狂った歯車で不気味に蠢く世界を正すことができるだろうか。
否、そんなことできるはずがないのだ、だからこそ世界の実態を承知しても尚、ひたむきに生きるしかない。
下向きに生きるしかないのである。
裏切られても、揶揄されても、卑下にされても、それでも自分なりの営みを送るしかないのである。
スケールを縮小してみよう。
不満が募るばかりの会社を簡単に辞職したところで、彼には一体何が残るのか。
勿論、転職できよう。
しかし、生活を賭けた大博打に易々と手が出せるほど彼は馬鹿ではない。
子供がするような二元論の結果、生活すら危ぶまれる可能性をどうしても除外し切れない現実は彼を会社に縛り、そして生活そのものが隘路となってしまう。
だから彼は、悩みはするものの決心がつかず、惰性で会社勤めを間断なく継続する。
世界を社会と置き換えれば、どれもこれも似たようなものなのかもしれない。
理不尽と隣り合わせの生活に不満は尽きないし、それを解消しようにもリスクは必ず伴う。
学校にしてもそうだ。
学校という内側に閉鎖された社会も同じようなことが言えるだろう。
退学することもできない、クラスメートに嫌いな子がいても我慢しなければいけない――結果、上辺の付き合いが蔓延り、友情だとか恋愛だとか、大人以上にややこしい関係性が生じてしまう。
そう考えると、私たちは幼くして社会の厳しさを学ばされているのかもしれない。
だから、というのもおかしいかもしれないが。
世界や社会に不服を感じるからこそ、私はこうして筆を執っているのかもしれない。
私のようなおよそ底辺に位置づけられている人間でも、こうして筆を執れば、自分の理想や思想を作品下に反映することができる。
少なくとも、世界を思うがままに変えることができる。
三人称で描かれる作品がある――それが神の視点と言われる所以は、もしかしたらそこにあるのかもしれない。
歪みに歪んだ、歪だらけの私でも神になれてしまうのだから小説は面白い。
現実がどれほど過酷で残酷だろうが、私は少なくとも、私の世界だけにおいては、それこそ『綺麗な』世界でありたいと願うばかりである。
善良に優しく、良心に優しい世界を願うばかりである。
とは言っても、小説によくありがちな――善良な主人公が事件や事故に巻き込まれたり、それこそ今でよくある転生するべく早々に死んでしまったりと、災難な役割を担当しているということはまるで現実世界を表現しているようではないだろうか?
やはり、現実も小説も何一つ変わらないのかもしれない。
世界は端からそういう風にできているのだろう。
最後に、やはり現実世界同様、小説にも事件や事故、災難に巻き込まれるなど前途多難な道のりが必須で、それこそ面白いと感じるのでしょう。
平淡な物語など面白いはずがありませんからね。
しかし、それをそのまま『人生』にスライドさせると身の毛が立ちます。
人の不幸を喜ぶというわけではありませんが、やはり小説内の登場人物には少なからず過酷であって欲しいものです。