第2話 通じてはいけないもの
青い光は、思っていたよりも静かだった。
爆発するわけでも、誰かを弾き飛ばすわけでもない。ただ、俺の指先からじわりと滲んで、空気の輪郭を少しだけ歪ませる。
それなのに、場のすべてが止まった。
レグナスの剣が、ほんのわずかに止まる。
魔狼たちの唸りが、揺らぐ。
そして俺は、はっきりと理解してしまった。
――今、この瞬間だけ、言葉の“前”に触れている。
「アーヴェル、それ……」
フェルナンの声が震えている。珍しい。こいつがこんな声を出すのは、よほどの時だ。
「分からない」
正直に答えるしかない。
本当に分からない。ただ、分かることが一つだけある。
今なら、届く。
言葉じゃなくても。
俺はゆっくりと、両手を広げた。武器を持っていないことを示す、単純で、誰にでも通じる動作だ。
そして、一歩だけ前に出る。
「待て」
声にしたのはそれだけだった。
けれど、それ以上の何かが、確かに伝わった。
魔狼たちの視線が変わる。
敵意でも、恐怖でもない。戸惑いに近いもの。
『……なに、だ』
頭に落ちてくる声が、さっきよりもはっきりしている。
荒い発音ではなく、意味として。
俺は黒石を指し示した。
「これは、お前たちのものだろ」
『……そうだ』
「返す。争う理由はない」
言葉にするたびに、意味がそのまま流れ込んでいく感覚がある。翻訳しているというより、最初から共通の何かを使っているみたいだ。
魔狼の一頭が、傷ついた肩を引きずりながら前に出る。
その動きに、レグナスが剣を構え直す。
「動くな」
短い声だった。
だが、今はそれすらも遠く感じる。
「レグナス、下がれ」
「状況が分かっているのか、お前」
「分かってる。だから言ってる」
振り返らずに言う。
視線を外した瞬間、全部が崩れる気がした。
「こいつらは戦いたくない」
「敵がそう言ったのか?」
「そうだ」
一拍。
風が止まる。
レグナスの沈黙は、いつも判断の前触れだ。
「……証明できるか」
「できる」
できる、と思った。
確信じゃない。直感に近い。でも、それで十分だった。
俺は魔狼たちに向き直る。
「一つだけ、確認させてくれ」
『……なんだ』
「お前たちは、これを取り戻したいだけか」
黒石を軽く持ち上げる。
群れが一斉に反応する。警戒と、強い執着。
『巣を、守る』
『それが、すべてだ』
「なら――」
俺はゆっくりと膝をつき、黒石を地面に置いた。
「ここに置く。持っていけ」
空気が凍る。
フェルナンが何か言おうとして、飲み込む。
レグナスは動かない。
魔狼たちは、動けない。
その膠着を破ったのは、さっき傷を負った個体だった。
ゆっくりと、慎重に近づき、黒石を咥える。
そして、後ろに下がる。
誰も攻撃しない。
何も起きない。
ただ、それだけで。
戦いは終わった。
「……嘘だろ」
フェルナンが呟いた。
信じられない、という顔だ。分かる。俺も少し前までそっち側だった。
魔狼たちは、石を中心に円を作るように集まり、やがてゆっくりと森の奥へと消えていった。
最後に一頭だけ振り返る。
黄色い目が、俺を見た。
『……理解するな』
そう聞こえた気がした。
次の瞬間には、もういない。
◇
「……説明しろ」
沈黙を破ったのはレグナスだった。
剣はまだ抜かれたままだが、切っ先は下がっている。
つまり、話を聞く気はある。
「俺にも分からないことが多い」
「分かる範囲でいい」
短い言葉。逃げ道はない。
俺は一度息を整えた。
「まず、あいつらは最初から敵じゃなかった」
「それは見た」
「黒い石を取り戻したかった。それだけだ」
「……なぜそれを知っている」
「聞こえたからだ」
フェルナンが顔をしかめる。
「またそれかよ」
「さっきは、前よりはっきりしてた」
指先を見る。
青い光はもう消えている。まるで最初からなかったみたいに。
「さっきのは何だ」
「分からない。ただ――」
言葉を選ぶ。
これは、うまく説明できる気がしない。
「翻訳してる感じじゃなかった」
「は?」
「言葉を変換してるんじゃなくて、最初から同じ意味で繋がってた、みたいな」
自分で言っていても、意味が分からない。
レグナスは黙ったまま、俺の言葉を噛み砕くように視線を落とす。
ミレイアが一歩前に出た。
「……それは、“原語”に近いかもしれませんね」
「原語?」
「すべての言語の元になった、という仮説上の言葉です」
初めて聞く話だ。
だが、不思議と違和感はなかった。
「そんなものがあるのか」
「理論上は。ただし、誰も観測したことはありません」
ミレイアはそこで言葉を切り、俺を見た。
「少なくとも、今までは」
嫌な予感がした。
フェルナンも同じことを思ったらしく、露骨に顔をしかめる。
「待て待て、それってつまり――」
「まだ断定はできません」
ミレイアが遮る。
けれど、その目ははっきりと俺を見ていた。
「ただ一つ、確かなことがあります」
「何だ」
レグナスが短く問う。
「アーヴェルの能力は、私たちが思っていたものとは別物です」
静かな断言だった。
否定でも、肯定でもない。
ただ、線が引き直された。
俺は、ただの通訳じゃない。
じゃあ何だ。
答えは出ない。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
このまま町に戻って、言葉の仲介をして終わる人生ではない。
たぶん、もう戻れない。
「……どうする」
レグナスが言った。
それは俺への問いだった。
追放したはずの相手に、進路を委ねるような言い方。
少しだけ、笑いそうになる。
「どうするって」
「お前はここを出ていく予定だったはずだ」
「そうだな」
俺は空になった森を見た。
さっきまで、あそこには確かに“敵”がいた。
今はもういない。
ただ、違うものが残っている。
――違和感だ。
「……一つ、確かめたいことがある」
「何だ」
「昨日の洞窟。あそこに、まだ何か残ってるはずだ」
黒石があった場所。
あれが“巣の核”だとしたら、あそこにはまだ――
「証拠がある」
俺はそう言った。
レグナスは数秒だけ考え、そして頷く。
「戻るぞ」
即断だった。
フェルナンが頭を抱える。
「マジかよ……」
「文句は後で聞く」
「いや、言うけどさ……言うけどさ!」
そのやり取りを聞きながら、俺は一歩だけ前に出た。
進む方向は、もう決まっている。
ただ一つ、分からないことがある。
あの魔狼が最後に言った言葉。
――理解するな。
それは警告だったのか。
それとも。
祈りだったのか。
◇
通じたことで、少しだけ世界の形が変わりました。
けれど、分かるほどに増えていく違和感もあります。
次は「なぜそれが起きたのか」を確かめにいきます。
もし少しでも気になってもらえたら、続きを覗いてみてください。
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