五 野狐の影
夜更けの参道を、香月重三郎は一人歩いていた。
弟に頼まれた手伝いを終え、煙草をくゆらせながら帰路につく。
闇は濃く、木立の間を風が抜けている。
――しゃりっ。
雪駄の音に混じり、何かが落ち葉を払うような足音がついてくる。
振り返ると、木の根元に影が揺らいでいた。
「……誰だ」
次の瞬間、空気を裂くように冷たい風が足元を走り抜けた。
鋭い痛み。
脛にざっくりと傷が走り、重三郎は地面に膝をついた。
「いっ……!」
血がどくどくと流れ出す。
見えたのは、ぼんやりと霞んだ小さな獣の影。
イタチのようだが、毛並みは墨を流したように滲んでいる。
「いたい? ねぇ、いたい?」
甲高い子どもの声が、夜気ににじんだ。
影は複数。ぞろぞろと現れ、笑い声のような鳴き声を上げて跳ね回る。
「こりゃ……野狐の眷属か……」
重三郎が呻くと、背後から風が強く吹き抜けた。
「下がれ!」
鋭い声。振り返ると、銀狐が境内から駆けてきた。
袖を払うと、眷属たちは一斉に後退する。
「……何をしている。足が裂けた程度で大げさだ」
冷ややかに言う銀狐に、重三郎は歯を食いしばった。
「足がなけりゃ、人間は歩けないんだ……!」
「歩けぬなら這えばいい。命があるだけ感謝すべきだろう」
狐と人間の視線がぶつかる。
痛みよりも、言葉の冷たさに重三郎の胸はかき乱されていた。
眷属たちは、まだ木陰から甲高い声を投げかけている。
「ころんだ? ねぇ、ころんだ? しんじゃう?」
その無邪気な悪意に、重三郎はぞっとした。
一歩間違えば、命を奪われていたかもしれない。
◇◇◇
帰り道、銀狐は相変わらず澄ました顔で歩いていた。
「……お前には、人間の足の重みが分からないらしいな」
「分かる必要があるのか? 足が一本なくとも、生きていれば同じだ」
「いや、違う。歩けるかどうかで、生き方が変わる」
銀狐は鼻を鳴らし、夜空を仰いだ。
瞳が黒から銀へ、わずかに揺れていた。
境内に戻る頃には、重三郎の脛からの血は布で押さえられ、なんとか止まっていた。
だが足を引きずるたび、痛みが骨にまで響く。
「人間は脆いな。ほんの掠り傷で歩みを止める」
銀狐は淡々と呟いた。
「まぁ、そうだな。でもな、歩けなければ、稼ぐことも、暮らすこともできない。足一本で人生が狂うんだ」
重三郎の声は低く、怒気を含んでいた。
だが、銀狐は一歩も引かない。
「生きている。それで十分だ。命があれば、まだ次の朝を迎えられる」
「…………」
「それ以上を求めるのは、人間の傲慢だ」
重三郎は言葉を飲み込み、小さくため息をついた。
冷たい月光が池に落ち、銀狐の瞳を銀色に照らす。
その光は、美しくも恐ろしく、まるで人間の痛みなど微塵も映していないようだった。




