四 狸の客
昼下がり、神社に一人の女将が訪れた。
四十ばかりの年恰好、きちんと結った髪に疲れが見える。
神前に深々と頭を下げると、祈る声は震えていた。
「どうか……どうか、うちの宿に客が戻ってきますように」
香月重三郎は少し離れた柱に凭れ、煙草をくわえたままその様子を眺めていた。
「ふむ、宿屋か。人の出入りが商売の命だからな」
隣で水干姿の者――銀狐が鼻を鳴らす。
「客を呼べばよいのだろう。造作もない」
「おいおい、また加減を知らんことを言い出すなよ」
「吾は神だ。人間ごときの匙加減に従う道理などあるものか」
袖がふわりと揺れ、境内をかすかな風が抜けた。
◇◇◇
その夜。
旅館の戸口に、ぞろぞろと客が押しかけた。
声は賑やかだが、妙に甲高く、笑い声はひどく耳につく。
夜が更けても帰らず、酒を浴びるように飲み、畳を転げ回り、太鼓のように腹を叩いては笑っている。
女将は最初、涙を浮かべて喜んだ。
「ありがたい……ありがたい……!」
だが、翌朝――帳場に並んだ札はすべて、黄ばんだ葉っぱに変わっていた。
「な、なんてこと……!」
女将は膝をつき、声を震わせた。
◇◇◇
境内に戻った重三郎は、腕を組んで銀狐を見た。
「……なあ。あれは客って呼べるのか?」
「宿に人影が満ちたのだろう。願いは叶えた」
「金を落とさない客は客じゃない。しかも狸だぞ」
「ふん、人間は欲深い。……しかしお前、また来たのか」
重三郎は煙草に火を点け、肩をすくめる。
「折り合いの悪かった親父が死んで、弟が宮司になったんだ。
ちょっと手伝ってやろうと思ってな。作家業も安定してきたし、東京にいる必要もないと思った」
銀狐は目を細める。
「ふん、奇妙なものだ。祈りを捨てた愚者が、また祠に戻ってくるとは」
「まあ、俺は愚者で結構さ。面白い話が拾えればね」
そこに天狗が降り立ち、肩を震わせて笑った。
「ははっ! さぶちゃん、今度は狸宿か。面白え記事になるな」
重三郎は煙草に火を点け、薄く笑った。
「そのつもりだよ。『狸の客足、怪奇旅館に押し寄せる』……雑誌が飛びつくぞ」
銀狐はむすっと顔を背ける。
「吾は真面目に願いを叶えただけだ」
「そういうのを世間じゃ“化かされた”って言うんだよ」
重三郎が煙を吐くと、天狗が腹を抱えて笑った。
こうして記事はまた話題となり、旅館は怪談好きや好事家たちで賑わうようになった。
女将は困惑しながらも笑顔を見せ、村人たちも次第に「これもまた福かもしれぬ」と噂するようになる。
だが境内で銀狐は腕を組み、まだ納得がいかぬように唇を尖らせていた。




